1. 概要
エーリヒ・バウアー(Hermann Erich Bauerヘルマン・エーリヒ・バウアードイツ語、1900年3月26日 - 1980年2月4日)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)隊員であり、ホロコーストの加害者の一人である。彼はT4作戦(安楽死プログラム)やラインハルト作戦に参加し、特にソビボル絶滅収容所ではガス室の責任者(通称「ガスマイスター」)を務めた。第二次世界大戦後、人道に対する罪で有罪判決を受け、死刑を宣告されたものの、後に終身刑に減刑され、収監中に死去した。この記事は、エーリヒ・バウアーの生涯を通じてのナチスの残虐行為における主要な役割に焦点を当て、その後の法的措置と歴史的評価を詳述する。
2. 初期生い立ちと活動
エーリヒ・バウアーは、その初期の生い立ちから第一次世界大戦への従軍、戦後の民間での職業、そしてナチス党およびSSへの入党に至るまで、後の残虐行為へと繋がる経歴を辿った。
2.1. 生い立ちと初期の経歴
エーリヒ・バウアーは1900年3月26日にベルリンで生まれた。第一次世界大戦に従軍し、フランス軍の捕虜となった。ドイツに帰還後、彼は一時鉄兜団(Stahlhelm, Bund der Frontsoldatenシュタールヘルム、戦線兵士同盟ドイツ語)という右翼の退役軍人組織で活動した。その後、路面電車の車掌として職を得た。
2.2. ナチ党およびSSへの入党
バウアーは車掌の仕事を1940年まで続けたが、その間にナチス体制下での活動を開始した。1933年にはナチス党(NSDAP国家社会主義ドイツ労働者党ドイツ語)に入党し、突撃隊(SA突撃隊ドイツ語)の隊員となった。その後、親衛隊(SS親衛隊ドイツ語)にも入隊した。
3. ナチスの残虐行為への加担
エーリヒ・バウアーは、ナチス・ドイツによる組織的な絶滅プログラムにおいて、T4作戦およびソビボル絶滅収容所での残虐行為に直接的に加担した。彼の行動は、ホロコーストにおける個人の責任と残虐性を如実に示している。
3.1. T4作戦(安楽死プログラム)
1940年、バウアーは「T4安楽死プログラム」に配属された。このプログラムは、身体的・精神的に障害を持つ人々を、施設内でガス殺や薬物注入によって組織的に殺害するものであった。当初、彼は運転手として、病院や自宅から対象者を収集・輸送する業務に従事していたが、その職務を通じて速やかに昇進していった。
バウアー自身は、自身の関与した初期の大量殺害の一つについて以下のように証言している。
「自動車の排気管が、施設内の煉瓦で封鎖された研究室に接続されていた。数人の患者がその部屋に閉じ込められ、私が車のエンジンをかけた。これにより8分で患者は死亡した。」
3.2. ソビボル絶滅収容所での役割
1942年初頭、バウアーはポーランドのルブリンに拠点を置く親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの事務所に転属となった。彼はSS制服を与えられ、親衛隊曹長(SS-Oberscharführer親衛隊曹長ドイツ語)に昇進した。同年4月、彼はソビボル絶滅収容所に派遣され、1943年10月の囚人による蜂起とその後の同年12月の収容所解体までそこで勤務した。

ソビボルにおいて、バウアーは収容所のガス室運営を任された。当時、ユダヤ人囚人たちは彼を「風呂のマイスター」(Badmeisterバードマイスタードイツ語)と呼んでいた。第二次世界大戦後、生存者たちからは「ガスのマイスター」(Gasmeisterガスマイスタードイツ語)として言及されるようになった。
彼は背が低くずんぐりとした体格で、重度の飲酒家であり、常に酒に溺れていたと描写されている。自分の部屋には個人的なバーを置いていた。他のSS警備員がきちんと身なりを整えているのに対し、バウアーは常に汚れて身だしなみが悪く、彼からはアルコールと塩素の悪臭が漂っていたという。彼の部屋の壁には、彼自身と彼の家族全員が総統と共に写る写真が飾られていた。
犠牲者が死亡するまでには最大で30分かかったとされており、SSは死にゆく人々の悲鳴をかき消すためにガチョウの群れを飼っていた。
3.3. ソビボル強制収容所蜂起との関連
1943年10月14日のソビボル強制収容所蜂起当日、バウアーは物資調達のためヘウムへ不意に出かけていた。蜂起のリーダーであるアレクサンドル・ペチェルスキーによって作成された、脱走前に暗殺されるべきSS警備員の「死亡リスト」の筆頭にバウアーがいたため、抵抗勢力は蜂起を延期する寸前であった。しかし、バウアーが予想よりも早くヘウムから帰還したため、蜂起は計画より早く開始されなければならなかった。
彼が親衛隊曹長ルドルフ・ベックマンの死体を発見した際、バウアーは自分のトラックから荷物を降ろしていた2人のユダヤ人囚人に向けて発砲した。この銃声がペチェルスキーに蜂起を早めるきっかけを与えた。
4. 戦後の逮捕と法的措置
第二次世界大戦終結後、エーリヒ・バウアーは一時的に釈放されるものの、生存者によって再識別され、最終的にその残虐行為に対する法的措置が取られることとなった。
4.1. 逮捕と再拘留
第二次世界大戦終結時、バウアーはオーストリアでアメリカ軍によって逮捕され、1946年まで捕虜収容所に収容された。その後すぐにベルリンに戻り、第二次世界大戦による瓦礫の片付け作業員として職を得た。
しかし1949年、彼はクロイツベルクの移動遊園地で偶然出会った元ソビボル囚人のサミュエル・レーラーとエスター・ラープによって識別され、逮捕された。ラープが遊園地でバウアーに問い詰めた際、元SS隊員のバウアーは「お前はまだ生きていたのか?」と言い放ったとされる。彼は直ちに逮捕され、翌年には裁判が始まった。
4.2. 裁判と有罪判決
裁判中、バウアーはソビボルでは単にトラック運転手として勤務しており、収容所の囚人やドイツ人およびウクライナ人警備員のための必要な物資を収集していただけだと主張した。彼はソビボルでの大量殺害を認識していたことは認めたものの、それらに一切関与しておらず、いかなる残虐行為にも従事していないと述べた。彼の主な証人である元ソビボル警備員である親衛隊曹長フーベルト・ゴメルスキーと親衛隊少尉ヨハン・クリーアーが彼の弁護のために証言した。
しかし裁判所は、ソビボルから脱走に成功した4人のユダヤ人証人の証言に基づいてバウアーを有罪とした。彼らはバウアーを元ソビボルの「ガスマイスター」であると特定し、彼が収容所のガス室を運営しただけでなく、銃殺による大量処刑にも関与していたと証言した。さらに、彼らはバウアーが収容所囚人やガス室へ向かう犠牲者に対して、特に悪質で無差別な様々な残虐行為を行ったと述べた。
1950年5月8日、モアビットのシュヴェルゲリヒト(刑事事件を扱う裁判所)は、バウアーに人道に対する罪で死刑を宣告した。当時西ドイツでは死刑が廃止されていたため、バウアーの刑は終身刑に減刑された。
5. 投獄と死去
バウアーはベルリンのアルト・モアビット刑務所で21年間服役した後、テーゲル刑務所に移送された。服役中、彼はソビボルでの大量殺害への自身の関与を認め、ソビボル裁判などの際には元SS同僚に対して証言を行うこともあった。1980年2月4日、バウアーはテーゲル刑務所で死去した。
6. 歴史的評価とメディアでの描写
エーリヒ・バウアーは、ホロコーストにおける主要な加害者の一人として歴史的に評価されており、その残虐行為は一部のメディア作品でも描写されている。
6.1. 加害者としての役割
エーリヒ・バウアーは、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅政策の中核を担う人物の一人として、歴史上明確なホロコーストの加害者であると評価されている。T4作戦における殺害手段の実行への直接的な関与、そして特にソビボル絶滅収容所におけるガス室の責任者としての役割は、彼が数多の無辜の人々の死に直接的に責任を負うことを示している。彼の行動は、ナチズム体制下における個人の倫理的堕落と、人道に対する罪の極限を象徴している。
6.2. メディアでの描写
ホロコーストを題材とした作品において、エーリヒ・バウアーは描写されることがある。特に、ソビボル強制収容所蜂起を描いた1987年のイギリス映画『脱走戦線 ソビボーからの脱出』(Escape from Sobiborエスケープ・フロム・ソビボー英語)では、クラウス・ギュルンベルク(Klaus Grünbergクラウス・ギュルンベルクドイツ語)がバウアーを演じた。