1. 概要
ヘンリー・アレクサンダー・マックレイ(Henry Alexander MacRae英語、1876年8月29日 - 1944年10月2日)は、カナダ出身の映画監督、映画プロデューサー、脚本家である。特にサイレント映画時代にユニバーサル・ピクチャーズで数多くの連続活劇に携わり、初期ハリウッドにおけるカナダ人の先駆者の一人として知られる。
彼は、映画制作において人工照明、風力機、多重露光、夜間撮影といった革新的な技術を導入し、その功績は映画産業全体に大きな影響を与えた。マックレイは1912年から1933年にかけて130本を超える映画を監督し、特にタイとハリウッドによる初の共同制作映画『ミス・スワンナ・オブ・サイアム』(1923年)や、初のトーキー版ターザン映画『猛虎ターザン』(1929年)を手がけた。1933年以降はプロデューサー業に専念し、『グリーン・ホーネット』や『フラッシュ・ゴードン宇宙征服』などの著名な連続活劇を世に送り出した。本稿では、マックレイの生涯、主要な映画キャリア、そして彼が映画技術と産業の発展に果たした貢献について詳細に記述する。
2. 生涯と背景
ヘンリー・マックレイは、映画業界に足を踏み入れるまでの幼少期や、キャリアの始まりにおいて重要な基盤を築いた。
2.1. 出生と私生活
ヘンリー・マックレイは、1876年8月29日にカナダオンタリオ州トロントで生まれた。本名はヘンリー・アレクサンダー・マックレイという。
彼の私生活については、生涯において二度の結婚を経験している。最初の結婚はマーガレット・オズワルドとの間であったが、後に離婚に至った。その後、メアリー・オニールと再婚したが、彼女とは死別している。彼には2人の子供がいたとされている。マックレイの私生活に関する公の情報は少ないが、家庭を持っていたことが知られている。

マックレイは、68歳となる1944年10月2日にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズでその生涯を終えた。彼は映画業界に長年にわたり貢献し、その死は初期ハリウッドの一時代を築いた重要な人物の喪失であった。
2.2. 映画界への進出
マックレイが映画界に参入したのは、カナダからアメリカ合衆国へ移住してからのことであった。彼はまずセリグ・ポリスコープ・カンパニーに入社し、1912年に短編映画『A Heart in Rags』で監督デビューを果たした。同年、バイソン・モーション・ピクチャーズに移籍し、引き続き短編映画を数多く製作。これらの作品は、当時のユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)によって配給された。1915年にはユニバーサル傘下のインディペンデント・ムーヴィング・ピクチャーズに移籍し、1916年にユニバーサル傘下に設立されたブルーバード映画でも、イーディス・ジョンソン主演の『戦陣』を監督し、この作品は日本でも公開された。
3. 映画キャリア
ヘンリー・マックレイの映画キャリアは、監督としての多作な活動から始まり、やがて革新的な制作技術の導入、さらにはプロデューサーとしての重要な役割へと拡大していった。
3.1. 監督としての活動
マックレイは1912年から1933年まで監督として活動し、その間に130本を超える映画を制作した。これらの作品のほとんどはサイレント映画であったが、彼の監督作品は多岐にわたり、数多くの西部劇や冒険映画を手がけた。
特筆すべきは、1923年に監督した『ミス・スワンナ・オブ・サイアム』(Miss Suwanna of Siam英語、นางสาวสุวรรณタイ語)である。これはタイとハリウッドによる初の共同制作映画であり、国際的な映画製作の先駆けとなった。また、1929年には初のトーキー版となるターザン映画、『猛虎ターザン』(Tarzan the Tiger英語)を監督し、サイレント映画からトーキーへの移行期における重要な作品として知られる。
彼はフート・ギブソン主演の複数の西部劇、トム・ミックス主演の西部劇、そして「驚異の馬レックス・ザ・ワンダーホース」をフィーチャーした映画も監督した。彼の最後の監督作品は1933年に製作・公開された『Rustlers' Roundup』である。

3.2. 映画制作における革新
ヘンリー・マックレイは、初期の映画制作技術において多くの革新をもたらしたことで知られている。彼は、スタジオ内部での撮影のために人工照明を導入し、自然光に依存しない撮影を可能にした。また、風力機を使用して自然な風の動きを再現したり、多重露光(double exposure英語)技術を駆使して幻想的な映像効果を生み出したりした。さらに、彼は当時としては珍しかった夜間撮影にも積極的に取り組み、映画の表現の幅を大きく広げた。これらの技術的な貢献は、その後の映画制作の標準を確立する上で極めて重要な役割を果たした。
3.3. プロデューサーとしての活動
マックレイは1920年代からプロデューサー業も兼ねるようになり、1933年に監督業から引退して以降は、完全にプロデューサーとしての活動に専念した。
1940年代には、ユニバーサル・ピクチャーズの主要なプロデューサーとして数多くの連続活劇を手がけた。代表的なプロデュース作品には、『グリーン・ホーネット』(The Green Hornet英語)、『フラッシュ・ゴードン宇宙征服』(Flash Gordon Conquers the Universe英語、1940年)、『フラッシュ・ゴードン』(Flash Gordon英語、1936年)、『ファントム・クリープス ゾルカ博士の野望』(The Phantom Creeps英語、1939年)などがある。
また、1931年の『Danger Island』では原作とプロデューサーを兼任し、1934年の『魔海』(Pirate Treasure英語)ではアソシエイト・プロデューサーを、1935年の『天空快走王』(Tailspin Tommy in The Great Air Mystery英語)ではプロデューサーを務めた。彼のプロデューサーとしての手腕は、特に連続活劇の黄金期において、その制作を支える重要な柱となった。
4. 主な作品
ヘンリー・マックレイが監督または製作に携わった主要な映画作品を以下に示す。
- 『A Heart in Rags』(1912年、監督)
- 『In the Coils of the Python』(1913年、監督)
- 『The Girl and the Tiger』(1913年、監督)
- 『生?死?肉』(In the Midst of the Jungle英語、1913年、監督)
- 『秘密勤務』(In the Secret Service英語、1913年、監督)
- 『狼男』(The Werewolf英語、1913年、監督)
- 『ハートの3』(The Trey o' Hearts英語、1914年、ウィルフレッド・ルーカスと共同監督)
- 『Coral』(1915年、監督)
- 『大陰謀』(The Conspiracy英語、1916年、監督)
- 『戦陣』(Behind the Lines英語、1916年、監督)
- 『快漢ロロー』(Liberty英語、1916年、ジャック・ジャッカードと共同監督)
- 『Guilty』(1916年、監督)
- 『幽霊船』(The Mystery Ship英語、1917年、監督)
- 『Man and Beast』(1917年、監督)
- 『The Bronze Bride』(1917年、監督)
- 『Money Madness』(1917年、監督)
- 『的の黒星』(Bull's Eye英語、1917年、監督)
- 『幽霊騎手』(The Phantom Riders英語、1918年、原作)
- 『強力エルモ』(Elmo the Mighty英語、1919年、監督)
- 『龍の網』(The Dragon's Net英語、1920年、監督・脚本)
- 『乗馬警官』(Cameron of the Royal Mounted英語、1921年、監督)
- 『マン・フロム・グレンガリー』(The Man from Glengarry英語、1922年、監督)
- 『ミス・スワンナ・オブ・サイアム』(Miss Suwanna of Siam英語、1923年、監督)
- 『グレンガリー・スクール・デイズ』(Glengarry School Days英語、1923年、監督)
- 『必勝の意気』(Racing for Life英語、1924年、監督)
- 『A Fight for Honor』(1924年、監督)
- 『彼女の払った償』(The Price She Paid英語、1924年、監督)
- 『Tainted Money』(1924年、監督)
- 『スペードの一』(Ace of Spades英語、1925年、監督)
- 『深紅の光線』(The Scarlet Streak英語、1925年、監督)
- 『The Fearless Lover』(1925年、監督)
- 『電話の秘密』(Strings of Steel英語、1926年、監督)
- 『The Trail of the Tiger』(1927年、監督)
- 『ワイルド・ビューティー』(Wild Beauty英語、1927年、監督)
- 『Two Outlaws』(1928年、監督)
- 『Wild Blood』(1928年、監督)
- 『Burning the Wind』(1929年、監督)
- 『猛虎ターザン』(Tarzan the Tiger英語、1929年、監督)
- 『スコットランドヤードのエース』(The Ace of Scotland Yard英語、1929年、監督)
- 『The Harvest of Hate』(1929年、監督)
- 『Smilin' Guns』(1929年、監督)
- 『Plunging Hoofs』(1929年、監督)
- 『インデァン来る』(The Indians Are Coming英語、1930年、監督)
- 『The Jade Box』(1930年、監督)
- 『冒険島』(Danger Island英語、1931年、原作・プロデューサー)
- 『ロスト・スペシャル』(The Lost Special英語、1932年、原作)
- 『Rustlers' Roundup』(1932年、監督)
- 『魔海』(Pirate Treasure英語、1934年、アソシエイト・プロデューサー)
- 『天空快走王』(Tailspin Tommy in The Great Air Mystery英語、1935年、プロデューサー)
- 『フラッシュ・ゴードン』(Flash Gordon英語、1936年、プロデューサー)
- 『ファントム・クリープス ゾルカ博士の野望』(The Phantom Creeps英語、1939年、アソシエイト・プロデューサー)
- 『フラッシュ・ゴードン宇宙征服』(Flash Gordon Conquers the Universe英語、1940年、プロデューサー)
5. 遺産と影響
ヘンリー・マックレイは、初期ハリウッドにおけるカナダ人映画製作者の先駆者として重要な位置を占めている。彼の多作な監督活動、特に130本を超えるサイレント映画の製作は、当時の映画産業の隆盛を支えた。また、タイとの共同制作映画『ミス・スワンナ・オブ・サイアム』や、初のトーキー版ターザン映画『猛虎ターザン』の監督といった国際的・技術的な挑戦は、映画の可能性を広げる上で画期的なものであった。
さらに、彼が導入した人工照明、風力機、多重露光、夜間撮影といった革新的な映画制作技術は、後の映画製作における標準的な手法として定着し、現代の映画技術の基盤を築く上で不可欠なものであった。1933年以降に専念したプロデューサーとしての活動、特に1940年代に手がけた数々の連続活劇は、映画製作の商業的成功と大衆文化への浸透に大きく貢献した。マックレイの業績は、単なる作品の量に留まらず、映画製作の芸術的・技術的な発展に深く寄与し、映画産業全体の発展に永続的な影響を与えたと言える。