1. 概要
ピーテル・シュールズ・ヘルブランディー(Pieter Sjoerds Gerbrandyオランダ語、出生時はPieter Gerbrandijピーテル・ヘルブランダイオランダ語、1885年4月13日 - 1961年9月7日)は、オランダの政治家であり法律家である。彼は第二次世界大戦中の1940年9月3日から1945年6月25日までオランダの首相を務め、ドイツ占領下においてロンドンに拠点を置くネーデルラント亡命政府を、ウィルヘルミナ女王の下で率いた。この期間、彼はオランダ国家の主権と抵抗の象徴としての役割を果たし、戦時下の困難な状況において指導力を発揮した。戦後、彼はインドネシア政策を巡って政府と対立し、王国の統一維持を主張したが、これは当時の脱植民地化の潮流の中で議論を呼ぶ立場であった。彼は反革命党(ARP)のメンバーでもあった。
2. 生い立ちと経歴
ピーテル・シュールズ・ヘルブランディーの生涯は、フリースラントの伝統的な背景と法学教育に深く根ざし、地方政治から国家の危機における指導者へと至る彼の政治的キャリアの基礎を築いた。
2.1. 出生地と教育
ヘルブランディーは1885年4月13日、オランダのフリースラント州にあるスネーク近郊の村、Goënga(Goaiïngeaホーアイインヘーア西フリジア語)で生まれた。彼は民族的にフリジア人であり、その名前は伝統的なフリジアの形式に従っている。すなわち、「ピーテル」が名、「シュールズ」が「シュールトの息子」を意味する父称、「ヘルブランディー」が姓である。興味深いことに、ヘルブランディーという姓も父称に由来しており、彼の高祖父であるヨウケ・ヘルブレンス(1769年 - 1840年)が1811年12月30日にこの姓を採用したことに始まる。
ピーテルは1904年6月にアムステルダム自由大学に入学し、法学を専攻した。1911年1月に法学の博士号を取得し、同年から1920年まで弁護士および検事として活動した。
2.2. 初期政治活動
ヘルブランディーは、法曹としてのキャリアと並行して、初期から政治活動に積極的に関与した。彼は1916年4月から1930年1月までスネーク市議会議員を務めた。また、1919年7月から1920年8月まではフリースラント州議会議員、そして1920年8月から1930年1月まではフリースラントの地方行政委員を務めた。
1920年から1930年にかけては、反革命党(ARP)に所属し、フリースラント州議会議員を務めた。1939年には、党の意向に反して法務大臣に就任した。この行動は、彼の強い個人的信念と、党の路線に必ずしも従わない独立した政治姿勢を示唆している。
3. 主要な活動と業績
ヘルブランディーの政治キャリアは、第二次世界大戦中の亡命政府の指導者としての役割、戦後の国内政治への復帰、そして植民地政策を巡る議論への関与によって特徴づけられる。
3.1. 第二次世界大戦と亡命政府での活動
1940年のオランダにおける戦いでドイツ軍が勝利を収めた後、オランダ王室と多くの主要な政治家はロンドンへ避難し、亡命政府を樹立した。同年、ディルク・ヤン・デ・ヘールが首相を辞任すると、ウィルヘルミナ女王はヘルブランディーをオランダ亡命政府の首相に任命した。この任命は、国家の危機における彼の指導力と女王からの信頼の深さを示すものであった。彼は首相職と並行して、法務大臣および植民地大臣も兼務し、戦時下のオランダの主権と抵抗を維持するために尽力した。彼の指導の下、亡命政府は連合国との連携を強化し、占領下のオランダ国民に希望を与え続けた。
3.2. 戦後活動と政治経歴
1945年にオランダ南部が解放された後、ヘルブランディーは新内閣を組織したが、国土全体の解放が達成されると辞任した。戦後、彼は政府のインドネシア政策に強く異を唱えた。1946年から1950年にかけては、「王国の結束を守るための国家委員会」の議長を務め、インドネシアの独立に反対し、南モルッカ共和国の独立を擁護した。この立場は、当時の国際的な脱植民地化の潮流に逆行するものであり、オランダ国内でも大きな議論を呼んだ。
1948年、ヘルブランディーはオランダ議会の議員として復帰したが、彼の激しい気性は所属する反革命党の他の議員との関係を悪化させた。1956年には、グリート・ホフマンスを巡る事件を調査する委員会のメンバーに任命された。その3年後の1959年、彼は議員を辞任した。
3.3. 著作活動
ヘルブランディーは、1950年に『Indonesia』と題する著書を出版した。この著作は、1600年代から1948年に至るまでのオランダとオランダ領東インド(現在のインドネシア)の関係史について、彼の見解を交えながら説明している。本書は、「オランダ統治下の東インド」「法の支配」「日本の占領」「混沌」の各章で構成され、それぞれのセクションでヘルブランディー自身の観察と分析が述べられている。この著作は、彼が植民地問題に対して抱いていた深い関心と、その歴史的背景に対する彼なりの理解を示すものである。
4. 思想と信条
ヘルブランディーの思想と信条は、彼が所属した反革命党の原則と、彼自身の強い個性、そして国家の危機における経験によって形成された。
4.1. 思想形成の背景
ヘルブランディーは、キリスト教民主主義の系譜に連なる反革命党(ARP)のメンバーであった。この党は、伝統的に保守的な価値観を重んじ、社会の秩序と安定を重視する傾向があった。彼の政治的信念は、こうした党の思想的背景に加えて、弁護士および検事としての法曹経験、そして地方政治から国家の最高位に至るまでの多様な政治的経験によって形成された。特に、1939年に党の意向に反して法務大臣に就任したことは、彼が自身の信念に基づいて行動する強い意志を持っていたことを示している。
4.2. 思想の特徴と内容
ヘルブランディーの思想は、その強い信念と妥協を許さない姿勢に特徴があった。彼は、国家の主権と統一を極めて重視し、第二次世界大戦中の亡命政府の指導者として、オランダの独立と抵抗を断固として守り抜いた。戦後、彼がインドネシアの独立に強く反対し、「王国の結束を守るための国家委員会」を率いて南モルッカ共和国を擁護したことは、彼の植民地に対する保守的かつ伝統的な見方を明確に示している。彼は、オランダと植民地の歴史的関係を重視し、その法的・道義的な側面から統一維持の必要性を主張した。
彼の「激しい気性」は、政治的議論において彼が自身の信念を強く主張する一方で、時には周囲との摩擦を生む原因ともなった。しかし、この一貫した姿勢は、特に戦時下においては、国家を導く上で不可欠なリーダーシップとして機能した。彼の著書『Indonesia』における「法の支配」への言及は、彼の法曹としての背景が、彼の政治的・思想的基盤に深く影響を与えていたことを示唆している。
5. 私生活
ピーテル・シュールズ・ヘルブランディーは1911年5月18日にヘンドリナ・エリザベス・シッケル(1886年2月26日 - 1980年5月4日)と結婚した。彼らには2人の息子と1人の娘がいた。
6. 死去
ピーテル・シュールズ・ヘルブランディーは1961年9月7日、デン・ハーグで76歳で死去した。
7. 評価と受容
ヘルブランディーに対する歴史的評価は、彼の戦時中の指導力と戦後の植民地政策における姿勢という二つの側面から多角的に行われている。
7.1. 肯定的な評価
ヘルブランディーは、第二次世界大戦中、ドイツの占領下にあったオランダのネーデルラント亡命政府の首相として、国家的な危機において卓越した指導力を発揮したことで高く評価されている。彼はロンドンでウィルヘルミナ女王の信任を得て、オランダの主権と正統性を国際社会に示し続けた。彼の揺るぎない決意と断固とした姿勢は、占領下の国民に希望を与え、抵抗運動を精神的に支える上で極めて重要な役割を果たした。戦時中、彼は法務大臣や植民地大臣を兼務しながら、亡命政府の機能を維持し、戦後の国家再建に向けた基盤を準備した。
7.2. 批判と論争
一方で、ヘルブランディーの政治キャリアには批判的な側面も存在する。特に、戦後のインドネシア政策に対する彼の強硬な立場は、大きな論争の的となった。彼はインドネシアの独立に強く反対し、「王国の結束を守るための国家委員会」を率いて旧植民地の維持を主張した。これは、当時の国際的な脱植民地化の潮流に逆行するものであり、インドネシア独立戦争の激化を招いた一因とも見なされ、その後のオランダとインドネシアの関係に長期的な影響を与えた。
また、彼の「激しい気性」は、戦後の議会政治において、所属する反革命党の他の議員との関係を悪化させ、政治的な連携を困難にしたとされる。1956年のグリート・ホフマンス事件調査委員会への関与も、彼の政治的影響力を巡る議論の一部であった。これらの側面は、彼の強い信念が、時には政治的な柔軟性を欠く結果につながったことを示唆している。
8. 影響
ヘルブランディーの活動、思想、業績は、オランダの政治、法制度、そして歴史認識に多大な影響を与えた。
8.1. 後世への影響
ヘルブランディーの第二次世界大戦中のネーデルラント亡命政府首相としての指導力は、その後のオランダの政治家にとって、国家的な危機におけるリーダーシップの模範の一つとして記憶されている。彼の強い意志と国家への献身は、後世の政治家たちに影響を与え、困難な時代における国家の方向性を定める上での教訓となった。
しかし、彼のインドネシア政策に対する強硬な立場は、戦後のオランダにおける脱植民地化の議論に大きな影響を与えた。彼の主張は、旧植民地に対する保守的な見方を代表するものであり、オランダとインドネシアの関係史を巡る複雑な議論の一部として、現在も研究の対象となっている。彼が著した『Indonesia』は、この時期のオランダの視点を示す貴重な史料として、歴史研究に貢献している。
8.2. 特定分野への貢献
ヘルブランディーは、法学の分野で博士号を取得し、弁護士および検事として活動した初期のキャリアを通じて、オランダの法制度に貢献した。彼の法曹としての経験は、その後の政治家としての活動、特に法務大臣としての役割に深く影響を与えた。
政治家としては、スネーク市議会議員、フリースラント州議会議員、フリースラントの地方行政委員、そしてオランダ議会議員を務め、地方から国政に至るまで幅広いレベルで活動した。特にオランダの首相、法務大臣、植民地大臣といった要職を歴任したことは、彼がオランダの政治史において重要な役割を果たしたことを示している。彼の政治的活動は、戦時体制の維持、戦後の国家再建、そして植民地政策の方向性を巡る議論に直接的に貢献した。
9. 勲章と栄典
ピーテル・シュールズ・ヘルブランディーには、その生涯における功績に対し、以下の国家勲章および栄典が授与された。