1. 概要

ホルスト・ルベッシュ(Horst Hrubesch、Horst Hrubeschホルスト・ルーベシュドイツ語、1951年4月17日 - )は、ドイツの元サッカー選手であり、現在はサッカー指導者として活動しています。彼は特に卓越したヘディング能力で知られ、「ダス・コップバル=ウンゲホイヤー(ヘディング・モンスター)」という愛称で親しまれました。
選手としては、ハンブルガーSVで3度のブンデスリーガ優勝と1983年のヨーロピアンカップ優勝に貢献しました。また、西ドイツの一員としてUEFA欧州選手権1980で優勝し、1982 FIFAワールドカップでは準優勝を経験しました。指導者としては、ドイツのユース代表チーム(U-19、U-21、U-23)を率いて数々の成功を収め、特に2008年のUEFA U-19欧州選手権と2009年のUEFA U-21欧州選手権で優勝、2016年の夏季オリンピックでは銀メダルを獲得しました。その後はドイツ女子代表の暫定監督や正規監督としても活躍し、2024年の夏季オリンピックでは銅メダルに導いています。
2. 幼少期とアマチュア経歴
ホルスト・ルベッシュは、プロサッカー選手としてキャリアを始める前、少年期から青年期にかけて多岐にわたるスポーツ活動に取り組み、職業人としての経験も積みました。
2.1. 幼少期と教育
ホルスト・ルベッシュは1951年4月17日にハムで生まれました。幼少時代からFCペルクムでサッカーを学びましたが、同時にハンドボール選手としてもプレーしていました。彼は学業を修了した後、タイル職人としての職業訓練を受け、プロサッカー選手となる前はタイル職人として生計を立てていました。
2.2. アマチュア時代
ルベッシュは24歳でプロキャリアを開始するまで、ゲルマニア・ハム(1971年)、ハマーSpVg(1971年-1972年)、SCヴェステューネン(1972年-1975年、1987年-1988年)といった小規模なアマチュアクラブでプレーを続けていました。彼のキャリアは遅咲きであり、プロ契約を結んだのは24歳になってからでした。
3. 選手経歴
ホルスト・ルベッシュのプロサッカー選手としてのキャリアは、遅咲きながらもドイツサッカー界に大きな足跡を残しました。その卓越したヘディング能力は特に有名です。
3.1. クラブキャリア
ホルスト・ルベッシュは、24歳でロートヴァイス・エッセンと契約し、ブンデスリーガでプロデビューを果たしました。ロートヴァイス・エッセンでは目覚ましい活躍を見せ、クラブがブンデスリーガ2部に降格した1977-78シーズンには42得点を挙げました。
この活躍が評価され、1978年にアイントラハト・フランクフルトも獲得に動く中、最終的に約100.00 万 DEMの移籍金でハンブルガーSVへ移籍しました。ハンブルガーSVでは、彼はブンデスリーガ屈指の得点源へと成長し、すぐに西ドイツ代表に招集されるほどになりました。特に、右サイドバックのマンフレート・カルツとの連携は有名で、カルツの正確なクロスからルベッシュは数多くのヘディングシュートを決め、または決定的なチャンスを演出しました。このコンビは「カルツがクロスを上げ、俺がヘディングでゴールを決める!」という言葉で表現されるほど、ハンブルガーSVの強力な攻撃の核となりました。
ハンブルガーSVでは、1978-79、1981-82、1982-83シーズンにブンデスリーガで3度の優勝を経験し、1979-80、1981-82シーズンにはリーグ戦で2位となりました。1979-80シーズンのヨーロピアンカップでは、決勝でノッティンガム・フォレストFCに敗れ準優勝に終わりましたが、準決勝のレアル・マドリード戦では5-1の大勝に貢献し、2得点を挙げる活躍を見せました。この決勝では試合直前の負傷により、ハーフタイムからの途中出場となりました。また、1982年のUEFAカップ決勝ではIFKヨーテボリに敗れました。キャリア最大の成功は1982-83シーズンで、ユヴェントスを1-0で破り、キャプテンとしてヨーロピアンカップ初優勝に貢献しました。ハンブルガーSVでは、ブンデスリーガで159試合に出場し96得点を記録しました。全公式戦では212試合で134得点を挙げました。
ヨーロピアンカップ優勝後、年齢的な問題を理由にハンブルガーSVを退団したルベッシュは、1983年にスタンダール・リエージュ(ベルギー)と2年契約を結びました。その後、1985年に再びブンデスリーガのボルシア・ドルトムントへ移籍し、17試合に出場しましたが、ヘルニアを患ったことが影響し、プロ選手としてのキャリアを終えました。ブンデスリーガ全体では、224試合に出場し136得点を記録しました。
3.2. 代表キャリア

ホルスト・ルベッシュは、29歳になった1980年4月2日に行われたオーストリア戦で西ドイツ代表として国際舞台にデビューしました。これは、当時の正センターフォワードであったクラウス・フィッシャーが同年3月に脚を骨折したことに伴う緊急招集でした。
その年6月にイタリアで開催されたUEFA欧州選手権1980の西ドイツ代表メンバーに選出されると、決勝のベルギー戦では2得点を挙げ、特に89分の2点目は彼の代名詞である弾丸のようなヘディングシュートでした。この活躍により、西ドイツは2大会ぶり2度目の優勝を果たし、ルベッシュ自身もこの試合が国際Aマッチ5試合目の出場ながら、一躍チームのヒーローとなりました。また、大会終了後には欧州選手権の優秀選手チームにも選出されました。
1982年スペインで開催された1982 FIFAワールドカップでは、1次リーグ最終戦のオーストリア戦で決勝点を記録しましたが、この試合は、両チームが2次リーグ進出のために特定のスコアで試合を終えることを事実上合意していたとされる「ヒホンの恥」として知られる論争の的となる試合でした。2次リーグ以降はフィッシャーにレギュラーの座を譲ったものの、準決勝のフランス戦では延長後半18分に途中出場すると、ピエール・リトバルスキーの左からのクロスをヘディングで折り返し、フィッシャーの同点ゴールをアシストしました。試合は延長戦を終えて3-3の同点となりPK戦に突入しましたが、ルベッシュは西ドイツの5人目のキッカーとして登場し、冷静にゴールを決めてチームを決勝へと導きました。
1982年7月11日に行われた決勝のイタリア戦が彼の最後の代表出場となりました。彼は約3年間の代表キャリアで国際Aマッチ21試合に出場し、6得点を記録しました。
3.3. プレースタイルと特徴
ホルスト・ルベッシュは、その独特なプレースタイル、特に圧倒的なヘディング能力で知られました。彼のニックネームは「ダス・コップバル=ウンゲホイヤー」(Das Kopfball-Ungeheuerドイツ語、ヘディング・モンスター)とされ、これは彼のヘディングの強さと正確さに由来しています。彼は試合中、常にペナルティエリア内で相手ディフェンスにとって脅威であり、特にマンフレート・カルツが供給する正確なクロスボールを、その類稀なヘディング能力で多くのゴールに結びつけました。アイルランドのテレビ解説者ジミー・マギーは、1982年ワールドカップのPK戦でルベッシュが決定的なゴールを決めた際に彼を「『怪物』と呼ばれる男」と称し、これが英語圏における彼の有名な愛称となりました。
4. 指導者経歴
ホルスト・ルベッシュは選手引退後、クラブでの指導者経験を経て、ドイツサッカー連盟(DFB)のユース代表指導者として長年にわたり成功を収め、その後はトップ代表チームの指導にも携わりました。
4.1. クラブ指導者
ホルスト・ルベッシュは1986年7月1日に、かつて選手として在籍したロートヴァイス・エッセンの監督に就任しました。彼は1987年9月14日まで指揮を執り、2部リーグで47試合中16勝を挙げましたが、1986-87シーズンを10位で終えました。
その後もVfLヴォルフスブルク(1988年7月1日 - 1989年6月30日)、FCスヴァロフスキ・チロル(1992年1月1日 - 1992年6月30日)、ハンザ・ロストック(1993年1月4日 - 1993年6月26日)、ディナモ・ドレスデン(1994年11月22日 - 1995年3月1日)、FKアウストリア・ウィーン(1995年7月1日 - 1996年6月1日)、サムスンスポル(1997年6月21日 - 1998年6月30日)といったクラブで監督を務めました。ハンザ・ロストックでは2部降格を阻止できず、ディナモ・ドレスデンではクラブの破産を経験しました。スイスやトルコでのクラブ指導者としてのキャリアも、大きな成功を収めることはできませんでした。
2020年7月31日には、ハンブルガーSVに復帰し、ユースアカデミーのディレクターに就任しました。2021年5月3日には、当時のトップチーム監督であったダニエル・ティウーヌの解任に伴い、ブンデスリーガ2部に所属するハンブルガーSVの暫定監督に就任しました。彼が率いたチームは最後の3試合で2勝1敗の成績を収めましたが、第33節のVfLオスナブリュック戦での敗戦が響き、プレーオフ圏内の3位に入る可能性を逸し、1部昇格を逃しました。最終的にチームは4位でシーズンを終えました。
4.2. ユース代表指導者
1999年、ホルスト・ルベッシュはドイツサッカー連盟(DFB)のコーチングスタッフに加わり、キャリアの新たな段階をスタートさせました。1999年3月22日からはドイツB代表の監督を務め、2000年5月8日にはドイツA代表のアシスタントコーチに就任しました。
特にユース年代の代表チームで大きな成功を収め、2008年にはUEFA U-19欧州選手権2008でチームを優勝に導きました。2009年1月9日にはドイツU-21代表の暫定監督に就任し、同年6月に行われたUEFA U-21欧州選手権2009では、メスト・エジル、マッツ・フンメルス、マヌエル・ノイアーらを擁するチームを率いてイングランドU-21を4-0で破り、初の優勝を果たしました。
2009年11月11日、彼はDFBのU-19代表監督に就任することが発表されました。その後、2013年6月21日にはライナー・アドリオンの後任として再びドイツU-21代表監督に復帰しました。2015年6月に行われたUEFA U-21欧州選手権2015では、チームを1988年大会以来となるオリンピック出場権獲得に導きましたが、準決勝でポルトガルU-21に0-5と大敗を喫しました。
2016年夏季オリンピックでは、ドイツU-23代表を率いて銀メダルを獲得しました。この大会では、DFBやブンデスリーガ各クラブの事情によりベストメンバーの招集が難しい状況でしたが、チームを決勝に進出させ、地元ブラジルU-23代表にPK戦の末に惜敗しました。この大会後、ルベッシュはU-21代表監督からの引退を表明し、長年のユース指導者キャリアに区切りをつけました。
4.3. トップ代表チーム指導者
ユース代表指導者としての輝かしい実績を経て、ホルスト・ルベッシュはトップレベルの代表チームでもその手腕を発揮しました。2017年1月には、ハンス=ディーター・フリックの後任としてDFBのスポーツディレクターに就任しました。
2018年3月13日、ステフィ・ジョーンズの退任に伴い、ドイツ女子代表の暫定監督に就任しました。彼はチームを2019 FIFA女子ワールドカップ本大会出場に導いた後、同年11月30日付で退任しました。
2023年10月7日には、病気療養中のマルティナ・フォス=テックレンブルク監督の代役として、再びドイツ女子代表の暫定監督を務めることになりました。その後、フォス=テックレンブルクが解任されたことで正規監督を務めました。彼のもと、ドイツ女子代表は2023-24 UEFA女子ネーションズリーグで3位となり、2024年夏季オリンピックでは銅メダルを獲得しました。
5. 統計
ホルスト・ルベッシュの選手および指導者としてのキャリアに関する詳細な統計を以下に示します。
5.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | DFBポカール | ヨーロッパ | 合計 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ロートヴァイス・エッセン | 1975-76 | ブンデスリーガ | 22 | 18 | - | 22 | 18 | |||||
1976-77 | ブンデスリーガ | 26 | 20 | - | 26 | 20 | ||||||
1977-78 | 2. ブンデスリーガ | 35 | 42 | - | 35 | 42 | ||||||
合計 | 83 | 80 | - | 83 | 80 | |||||||
ハンブルガーSV | 1978-79 | ブンデスリーガ | 34 | 13 | 1 | 0 | - | 35 | 13 | |||
1979-80 | ブンデスリーガ | 34 | 21 | 3 | 3 | 9 | 7 | 46 | 31 | |||
1980-81 | ブンデスリーガ | 29 | 17 | 5 | 7 | 6 | 7 | 40 | 31 | |||
1981-82 | ブンデスリーガ | 32 | 27 | 6 | 5 | 11 | 5 | 49 | 37 | |||
1982-83 | ブンデスリーガ | 30 | 18 | 4 | 2 | 8 | 2 | 42 | 22 | |||
合計 | 159 | 96 | 19 | 17 | 34 | 21 | 212 | 134 | ||||
スタンダール・リエージュ | 1983-84 | ベルギー・ファーストディビジョン | 23 | 9 | 2 | 1 | 25 | 10 | ||||
1984-85 | ベルギー・ファーストディビジョン | 20 | 8 | 0 | 0 | 20 | 8 | |||||
合計 | 43 | 17 | 2 | 1 | 45 | 18 | ||||||
ボルシア・ドルトムント | 1985-86 | ブンデスリーガ | 17 | 2 | - | 17 | 2 | |||||
キャリア通算 | 302 | 195 | 19 | 17 | 36 | 22 | 357 | 234 |
5.2. 代表統計
西ドイツ代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1980 | 9 | 4 |
1981 | 3 | 1 |
1982 | 9 | 1 |
通算 | 21 | 6 |
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1980年6月22日 | スタディオ・オリンピコ, ローマ, イタリア | ベルギー | 1-0 | 2-1 | UEFA欧州選手権1980 |
2 | 2-1 | |||||
3 | 1980年10月11日 | アイントホーフェン, オランダ | オランダ | 1-0 | 1-1 | 親善試合 |
4 | 1980年11月19日 | ニーダーザクセンシュタディオン, ハノーファー, 西ドイツ | フランス | 3-1 | 4-1 | 親善試合 |
5 | 1981年1月1日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ, ウルグアイ | アルゼンチン | 1-0 | 1-2 | 1980 ムンディアリート |
6 | 1982年6月25日 | エル・モリノン, ヒホン, スペイン | オーストリア | 1-0 | 1-0 | 1982 FIFAワールドカップ |
5.3. 監督統計
チーム | 着任 | 退任 | 記録 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合数 | 勝利 | 引き分け | 敗戦 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 勝率 | ||||
ロートヴァイス・エッセン | 1986年7月1日 | 1987年9月14日 | 48 | 16 | 12 | 20 | 77 | 84 | -7 | 33.3% | |
VfLヴォルフスブルク | 1988年7月1日 | 1989年6月30日 | 2 | 0 | 1 | 1 | 2 | 7 | -5 | 0.0% | |
FCスヴァロフスキ・チロル | 1992年1月1日 | 1992年6月30日 | 14 | 9 | 0 | 5 | 21 | 15 | +6 | 64.3% | |
ハンザ・ロストック | 1993年1月4日 | 1993年6月26日 | 21 | 7 | 4 | 10 | 21 | 29 | -8 | 33.3% | |
ディナモ・ドレスデン | 1994年11月22日 | 1995年3月1日 | 5 | 0 | 2 | 3 | 3 | 7 | -4 | 0.0% | |
FKアウストリア・ウィーン | 1995年7月1日 | 1996年6月1日 | 41 | 16 | 9 | 16 | 52 | 40 | +12 | 39.0% | |
サムスンスポル | 1997年6月21日 | 1998年6月30日 | 38 | 17 | 7 | 14 | 49 | 45 | +4 | 44.7% | |
ドイツ女子代表(暫定) | 2018年3月13日 | 2018年11月30日 | 8 | 7 | 1 | 0 | 29 | 5 | +24 | 87.5% | |
ハンブルガーSV | 2021年5月3日 | 2021年6月30日 | 3 | 2 | 0 | 1 | 11 | 5 | +6 | 66.7% | |
ドイツ女子代表(暫定) | 2023年10月7日 | 現任 | 17 | 11 | 2 | 4 | 38 | 17 | +21 | 64.7% | |
合計 | 197 | 85 | 38 | 74 | 303 | 255 | +48 | 43.1% |
6. 獲得タイトル
ホルスト・ルベッシュは選手および指導者として、数々の主要なタイトルと個人栄誉を獲得しています。
6.1. 選手として
- クラブタイトル
- ハンブルガーSV
- ブンデスリーガ: 1978-79、1981-82、1982-83
- ヨーロピアンカップ: 1982-83
- ハンブルガーSV
- 国際タイトル
- 西ドイツ
- UEFA欧州選手権: 1980
- FIFAワールドカップ準優勝: 1982
- 西ドイツ
- 個人栄誉
- スポーツ・イデアル・ヨーロピアンイレブン: 1980
- UEFA欧州選手権大会優秀選手: 1980
- オンズ・ド・ブロンズ: 1980
- オンズ・モンディアル: 1980、1983
- ブンデスリーガ得点王: 1981-82
- ヴァルター=ベンゼマン賞: 2018
6.2. 指導者として
- ユース代表チーム
- U-19ドイツ代表
- UEFA U-19欧州選手権: 2008
- U-21ドイツ代表
- UEFA U-21欧州選手権: 2009
- U-23ドイツ代表
- 夏季オリンピック銀メダル: 2016
- U-19ドイツ代表
- 女子代表チーム
- ドイツ女子代表
- UEFA女子ネーションズリーグ3位: 2023-24
- 夏季オリンピック銅メダル: 2024
- ドイツ女子代表
7. 評価と影響
ホルスト・ルベッシュは、その選手としてのキャリア、特に特徴的なヘディング能力でドイツサッカー界に大きな影響を与え、「ヘディング・モンスター」として記憶されています。また、引退後の指導者としての功績も高く評価されています。
7.1. 肯定的評価
選手としてのホルスト・ルベッシュは、その卓越したヘディング能力と、マンフレート・カルツとの強力な連携を通じて、ハンブルガーSVに数々の栄光をもたらしました。彼のリーダーシップと決定力は、ブンデスリーガ3度の優勝やヨーロピアンカップ優勝といったクラブの歴史的成功に不可欠でした。西ドイツ代表としても、UEFA欧州選手権1980での優勝に決定的な役割を果たし、1982 FIFAワールドカップでの準優勝にも貢献しました。彼のプレースタイルは、彼の時代においてフォワードのあるべき姿を象徴するものとして、多くのファンに愛されました。
指導者としては、ドイツサッカー連盟(DFB)のユース育成において非常に重要な役割を果たしました。彼の指導のもと、ドイツU-19、U-21代表チームは欧州選手権で優勝し、多くの若手才能が育成されました。特に、2009年のU-21欧州選手権でメスト・エジルやマヌエル・ノイアーといった後のトップ選手を指導し、彼らが国際舞台で活躍する基盤を築いた功績は計り知れません。また、リオデジャネイロオリンピックでの銀メダル獲得や、ドイツ女子代表をパリオリンピックでの銅メダルに導くなど、その手腕は国際的にも高く評価されています。彼は選手たちのモチベーションを高め、チームを団結させることに長けた指導者として尊敬を集めています。
7.2. 批判と論争
ホルスト・ルベッシュのキャリアには、いくつかの批判的側面や論争もありました。選手としては、プロとしてのキャリアが24歳と遅咲きであり、またボルシア・ドルトムントでのプレー中にヘルニアを患い、プロ選手としてのキャリアを終えざるを得なかったことは、彼の選手生命における課題でした。
指導者としての初期のクラブキャリアは、成功とは言えませんでした。ロートヴァイス・エッセン、VfLヴォルフスブルク、ハンザ・ロストック、ディナモ・ドレスデンなど、複数のクラブで監督を務めましたが、安定した結果を残すことはできず、ハンザ・ロストックでは2部降格を阻止できず、ディナモ・ドレスデンではクラブの破産という厳しい状況を経験しました。スイスやトルコのクラブでの経験も、大きな成功を収めることはありませんでした。また、彼が関わった1982 FIFAワールドカップのオーストリア戦(「ヒホンの恥」)は、両チームが談合して試合を消化したとされ、スポーツマンシップに反する行為として現在でも批判の対象となっています。ルベッシュ自身は決勝点を挙げましたが、この試合は彼のキャリアにおける数少ない論争的な出来事の一つとして語られています。