1. 初期人生と教育
1.1. 出生と背景
マイケル・コフランは1959年2月17日にイギリスで生まれた。10歳の時、父親に連れられて観戦したブランズハッチでのレースをきっかけに、モータースポーツへの情熱を抱くようになった。この幼少期の経験が、後に彼がレーシングチームで働くことを志す原点となった。
1.2. 学歴
コフランはモータースポーツの世界で働く夢を追い、ブルネル大学で機械工学を専攻した。1981年に同大学を卒業し、機械工学の学位を取得した。この専門的な学歴が、彼の後のキャリアにおける車両設計とエンジニアリングの基礎を築いた。
2. モータースポーツエンジニアリングキャリア
コフランのキャリアは、ジュニアフォーミュラの車両設計から始まり、その後フォーミュラ1の世界へと進出した。
2.1. 初期キャリア(ティガ、ロータス)
大学卒業後すぐに、レーシングカーコンストラクターであるティガに入社し、そこで数多くのジュニア・フォーミュラ車両の設計を手がけた。ティガでの経験は1984年まで続いた。
1984年、コフランはロータスのF1チームに加入した。当初はCARTのインディカーデザインに携わったが、その後97Tの開発を通じてF1に初めて関与した。1985年のポルトガルグランプリでは、アイルトン・セナが97Tをドライブし、コフランにとってF1での初勝利をチームにもたらした。しかし、1988年の100Tの失敗により、チームの技術部門は大幅な再編を余儀なくされた。ジェラール・ドゥカルージュがロータスを去った後、フランク・ダーニーがテクニカルディレクターに就任し、コフランはチーフデザイナーに任命された。この時期、チームはホンダV6ターボエンジンを失い、その後もジャッドV8やランボルギーニV12といったエンジンの変更を繰り返した。設計部門の舵取りは困難を極め、チームの競争力は急速に低下していった。コフランは1990年末までロータスに在籍した。
2.2. ジョン・バーナードとの協力およびFDD/B3テクノロジーズ
1990年末、コフランはダーニーを含むロータスの技術部門の大部分が去ったのと同時期に、ゴダルマイニングに拠点を置くジョン・バーナードのデザイン事務所に移籍した。
q=Godalming|position=right
そこで彼はベネトンのチーフデザイナーとしてB191の開発に貢献した。しかし、バーナードがフラビオ・ブリアトーレとの確執によりベネトンでの職を失うと、コフランは1992年初めにティレルに移籍し、ジョージ・ライトンと合流した。ティレルでは、1992年シーズンにレースエンジニアとしてティレル 020Bの仕上げに携わり、ティレル 020Cの設計にも関与した。1993年シーズン後半には、チームを去るライトンに代わってティレル 021の設計で中心的な役割を果たした。
1993年8月、コフランは再びジョン・バーナードが1992年8月に設立したデザイン事務所、FDD(Ferrari Design and Developmentフェラーリ・デザイン・アンド・デベロップメント英語)に戻り、フェラーリの車両開発に携わった。FDDは1997年4月にB3テクノロジーズと改称された後も、コフランはバーナードと一貫して協力関係を続けた。
2.3. アロウズ・フォーミュラ1チーム
1998年にB3テクノロジーズがアロウズと関わり始めると、コフランは同チームのチーフデザイナーに就任した。バーナードがチーム代表のトム・ウォーキンショーとの確執からアロウズを離れた後も、コフランはチームに残留し、1999年8月にはエグバル・ハミディの後任としてテクニカルディレクターに昇格し、チームのデザイン部門を統括した。2000年に彼が開発したA21は、プルロッド式フロントサスペンションを復活させたことで注目を集めた。アロウズは2002年にチームが崩壊したが、コフランが2002年にアロウズのために開発したA23は、4年後にスーパーアグリチームのSA05としてF1に参戦することになった。
3. マクラーレン・レーシング
アロウズの崩壊後、コフランはF1のトップチームの一つであるマクラーレンに招かれた。

3.1. チーフデザイナーとしての役割
2002年8月、コフランはマクラーレンにチーフデザイナーとして加入し、2007年までその職を務めた。彼はテクニカルディレクターのエイドリアン・ニューウェイと共に車両の設計と開発を担い、設計チームの運営責任者としてマクラーレンの競争力維持に貢献した。
3.2. 2007年フォーミュラ1スパイゲート事件
2007年、コフランのキャリアはフォーミュラ1スパイゲート事件によって大きく揺さぶられることになった。
この事件は、コフランがフェラーリF2007に関する知的所有権に触れる内容が記載された780ページにも及ぶ機密書類を印刷業者に持ち込んだことから発覚した。この印刷業者がフェラーリ社に通報したことで、産業スパイ疑惑が浮上した。この書類は、フェラーリの元メカニックであるナイジェル・ステップニーから提供されたものとされた(ステップニーはチーム体制の変革に伴い冷遇を受けていたとされる)。
事件がメディアを騒がせると同時に、マクラーレンは2007年7月3日にコフランを停職処分とした。イギリスとイタリアの当局による捜査が行われる一方で、FIAも独自に調査を進めた。コフランの自宅への捜索令状が執行され、フェラーリのマラネロ工場から流出したとされる書類が発見されたと報じられた。ステップニーも同日にフェラーリを解雇された。さらに、ホンダF1は2007年6月にステップニーとコフランが「就職の機会」についてチームに接触してきたことを確認する声明を発表した。マクラーレンは、コフランの関与が明らかになった後、事件発生時(4月末)以降にシャシーに加えられた全ての更新の詳細を示す図面と開発文書一式をFIAに提出した。
2007年7月26日、パリで世界モータースポーツ評議会(World Motor Sport CouncilWMSC英語)の臨時会議が開催された。この会議では、マクラーレンがフェラーリの機密情報を所持していたことが国際競技コードの第151c条に違反すると認定されたものの、その情報がマクラーレンのMP4-22に使用された証拠が不十分であるとして、当初は処分が科されないことが決定された。コフランとステップニーの両名には、長期間にわたり国際モータースポーツから追放されるべきではない理由を弁明する機会が与えられ、この裁定の権限はFIA法務部に委託された。
しかし、2007年9月13日、新たな証拠が提出されたとしてWMSCが再招集された。新たな証拠とは、コフランとマクラーレンのテストドライバーであるペドロ・デ・ラ・ロサとの電子メールでのやり取り、およびコフランとステップニーとの間の通信記録であった。この再裁定の結果、マクラーレンに対しては、2007年度のコンストラクターズポイント剥奪、国連加盟国である米国の通貨で1.00 億 USDの罰金、そして2008年度のマシンに関して車検を行うという厳罰が下された。ただし、ドライバーに対しては、証拠提出への協力の見返りとしてペナルティは科されないことが決定された。マクラーレンは2007年9月22日、この裁定に対して控訴しないことを発表した。
この事件を受け、コフランは2007年8月にマクラーレンから正式に解雇され、2008年には退職した。事件直後には、BBCラジオのチャンネル5でF1のコメンテーターを務めるという噂も流れた。このスパイゲート事件は、彼のキャリアに決定的な影響を与え、F1業界における知的所有権の重要性と公正な競争の原則を強く意識させることとなった。
4. マクラーレン退社後のキャリア
マクラーレンを去った後も、コフランはモータースポーツおよび関連分野でのエンジニアリングキャリアを続けた。
4.1. ステファンGPおよびその他の設計プロジェクト
2009年後半、コフランは2010年のF1世界選手権への参戦を目指していたステファンGPにテクニカルディレクターとして就任した。チームは撤退したトヨタのTF110をベースに自社製マシン「S-01」を完成させ、US F1の参戦枠獲得を目指したが、最終的に参戦は叶わなかった。この参戦失敗の要因の一つとして、マクラーレンでのスパイゲート事件の中心人物であったコフランの存在が挙げられ、彼が再びF1に戻ってくることに反対する関係者がいたと言われている。ステファンGPは2011年のF1世界選手権への参戦も目指し、新体制を整えたが、そのチーム写真にコフランの姿はなく、チームからの公式発表はないものの、彼は離脱したと見られた。
F1から離れていた期間には、コフランはオセロットと呼ばれる装甲車両の複合材製ボディの設計を主導した。
4.2. NASCARキャリア
2011年3月31日、コフランがNASCARのマイケル・ウォルトリップ・レーシング(Michael Waltrip RacingMWR英語)に車両デザインディレクターとして在籍していることが報じられた。MWRでは、車両の設計、製造、エンジニアリング、品質管理プログラム全体を監督する責任を負った。しかし、彼は契約期間満了前にMWRを離れ、ウィリアムズF1チームに加入した。これに対し、MWRはコフランとウィリアムズF1チームを相手取り、シャーロットの連邦地方裁判所に提訴した。訴訟では、コフランが契約期間満了前にチームを離れたことによる契約違反、およびウィリアムズF1がコフランを雇用したことによる契約妨害が主張された。MWRは、コフランの離脱がチームのパフォーマンスに影響を与え、賞金や潜在的なスポンサーシップの損失につながったと主張した。この訴訟は、2011年10月18日にMWR、コフラン、ウィリアムズF1チームの間で和解が成立し、和解条件は非公開とされたが、訴訟は取り下げられた。
2013年11月9日には、コフランがリチャード・チルドレス・レーシングの新たなテクニカルディレクターに即時就任することが発表された。彼は2017年4月に同チームを離れた。
5. ウィリアムズF1チーム
コフランはNASCARでの経験を経て、再びF1の世界に戻ることになった。

5.1. チーフエンジニアおよびテクニカルディレクター
2011年5月3日、コフランがウィリアムズチームのチーフエンジニアとして採用されることが発表された。これは、当時のテクニカルディレクターであったサム・マイケルとチーフエアロダイナミシストのジョン・トムリンソンの後任の一部を担う形であった。同年10月にはテクニカルディレクターに昇格した。2012年シーズンにはウィリアムズが大きく躍進したが、2013年シーズンは一転して不振に陥り、FW35ではポイントを獲得できない苦しいスタートとなった。
5.2. 退社
2013年7月16日、ウィリアムズはコフランの即時離脱と、パット・シモンズのチーフテクニカルオフィサー就任を発表した。コフランがチーフエンジニアを務めた期間は、排気ガス駆動ディフューザーの研究に重点が置かれたが、これは「悲惨な技術的試み」と評された。
6. 評価と影響力
マイケル・コフランは、モータースポーツエンジニアリングの分野で長年にわたり重要な役割を果たしてきた。ティガでの初期設計から始まり、ロータスでのF1初勝利、ジョン・バーナードとの協力、アロウズでのテクニカルディレクターとしての貢献、そしてマクラーレンやウィリアムズでの主要な設計職に至るまで、彼のキャリアは多岐にわたる。特にアロウズ A21におけるプルロッド式フロントサスペンションの復活など、彼の革新的な設計は注目された。
しかし、彼のキャリアは2007年のスパイゲート事件によって決定的な影響を受けた。この事件は、知的所有権の侵害と公正な競争の原則に反する行為として、F1業界全体に大きな衝撃を与えた。マクラーレンに科された巨額の罰金とコンストラクターズポイント剥奪は、F1史上最も厳しい制裁の一つであり、コフラン自身もその責任を問われ、キャリアの一時的な中断を余儀なくされた。この事件は、F1チーム間の競争が激化する中で、情報管理と倫理の重要性を浮き彫りにした。
スパイゲート事件後も、ステファンGP、オセロット装甲車両の設計、NASCAR、そしてウィリアムズへの復帰と、彼はエンジニアリングの専門知識を発揮し続けた。特にウィリアムズでの期間は、2012年のチームの躍進に貢献したものの、その後の技術的な課題に直面し、最終的にチームを去ることになった。
コフランのキャリアは、F1における高度な技術設計の専門知識と、その裏に潜む競争の厳しさ、そして倫理的な問題が複雑に絡み合うモータースポーツの世界を象徴するものである。彼の設計者としての貢献は評価される一方で、スパイゲート事件は彼の名に影を落とし、業界における情報セキュリティの重要性を再認識させる出来事として記憶されている。