1. 生い立ちと教育
エイドリアン・マーティン・ニューウェイは、1958年12月26日にイングランドのエセックス州コルチェスターで生まれた。彼の父親は獣医師で、母親は第二次世界大戦中に救急車の運転手として働いていた。父親はロータス・エランのキットカーを自作するほどの車好きであり、細部まで追求するニューウェイの気質は父親譲りであると言われている。
1.1. 幼少期と学業
幼少期から「オートスポーツ」誌を愛読し、12歳でレーシングカーの設計者になることを志した。14歳の時には中古のカートを手に入れ、自分でエンジンを分解・再構築し、フレームを溶接するなど、幼い頃から機械いじりに熱中した。
学業面では、名門寄宿学校レプトン・スクールに入学したが、16歳の時に問題行動を起こし退学処分となった。具体的には、学校の19世紀のピアーズ校舎で開催されたグリーンスレイドのコンサートで、バンドのミキサーの音量を上げすぎ、建物のステンドグラスの窓にひびを入れてしまったためである。その後、ポリテクニックに進学し、1977年にエンジニアリングの学位(D3)を取得した。
1977年、サウサンプトン大学に進学し、航空宇宙工学を専攻した。F1チームも使用する風洞施設があったため、将来レース界で働くためにこの分野を選んだ。彼は「グラウンド・エフェクト空気力学のスポーツカーへの適用」というテーマで学士論文を執筆し、1980年に一級優等学位(First Class Honours Degree)を取得して卒業した。
2. 経歴
ニューウェイのモータースポーツエンジニアとしてのキャリアは、アメリカでの成功から始まり、その後F1の世界で数々の伝説を築き上げた。
2.1. アメリカでのキャリア
1980年に大学を卒業した後、ニューウェイはすぐにF1に参戦していた小規模チームのフィッティパルディに加入し、ハーベイ・ポスルスウェイトの下でキャリアをスタートさせた。ここでは、新マシン「F8」の空力部門チーフとして貢献したが、チームの財政問題によりF1参戦が休止され、短期間で離職することになった。
1981年、ニューウェイは名門コンストラクターのマーチ・エンジニアリングに移籍した。ここでは、ヨーロッパF2選手権でジョニー・チェコットのレースエンジニアを務めながら、スポーツカーのデザインも手掛けた。
2.1.1. IMSAおよびCARTでの活躍
アメリカでのキャリアにおいて、ニューウェイはIMSA GT選手権とCARTインディカーで大きな成功を収めた。
ニューウェイが最初に設計したスポーツカーであるマーチ・83Gは、1983年のIMSA GTPクラスでアル・ホルバートのドライブによりチャンピオンを獲得した。翌1984年には、その後継機であるMarch 84Gマーチ・84G英語をドライブするRandy Lanierランディ・ラニエ英語が再びチャンピオンシップを制覇した。この時期、ニューウェイはマーチの代表であるロビン・ハードと共に、横浜ゴム(ASPEC)のテレビCMにも出演している。
1984年、ニューウェイはマーチのインディカープロジェクトに異動し、デザイナーとして、またTruesportsトゥルースポーツ英語チームではボビー・レイホールのレースエンジニアを担当した。この時期にレイホールとは深い信頼関係を築き、後に彼のキャリアに大きな影響を与えることになる。ニューウェイがデザインしたMarch 84Cマーチ・84C英語は、リック・メアーズ(ペンスキー)のドライブにより伝統のインディ500を制覇した。この頃、ニューウェイはイギリスのデザインオフィスとアメリカのレース現場を掛け持ちし、大西洋を往復する多忙な日々を送っていた。
1985年、ニューウェイの設計したMarch 85Cマーチ・85C英語シャシーは、ダニー・サリバン(ペンスキー)のドライブで再びインディ500を制覇し、アル・アンサー(ペンスキー)によってインディカー年間タイトルを獲得した。
1986年には、40.00 万 USDという破格のオファーを受け、Kraco Enterprisesクラコ英語チームに移籍し、マイケル・アンドレッティのレースエンジニアを担当した。同年、ニューウェイが去ったトゥルースポーツのレイホールが、ニューウェイが設計したMarch 86Cマーチ・86C英語でインディ500とインディカー年間タイトルを制覇した。シーズン途中、ニューウェイはテディ・メイヤーの誘いを受けてF1のチーム・ハースに加入し、パトリック・タンベイのレースエンジニアを担当した(アンドレッティのレースエンジニアも継続)。しかし、翌年のマシン開発に着手する間もなく、チームは1986年シーズン限りで解散し、ニューウェイは再びマーチに復帰した。
1987年、ニューウェイはインディカーのニューマン・ハースチームでマリオ・アンドレッティのレースエンジニアを務めながら、レイトンハウスのスポンサーシップを受けてF1に復帰したマーチの翌年用マシンの設計に取り組んだ。この年のインディ500は、アル・アンサー(ペンスキー)がMarch 86Cマーチ・86C英語で制覇した。結果的にニューウェイが設計したインディカーはインディ500を4連覇し、2年連続でシリーズチャンピオンを生み出したが、ニューウェイ自身がレースエンジニアとしてそれら全てに関わることはできなかった。
2.2. フォーミュラ1でのキャリア
ニューウェイはF1において、その革新的なデザインと空力への深い理解により、数々のチームを成功に導いてきた。
2.2.1. マーチ/レイトンハウス時代 (1988-1990)

1988年、ニューウェイのF1復帰作となる881は、その優れた空力デザインにより高いコーナリング性能を発揮した。自然吸気エンジン搭載車でありながらターボエンジン勢に匹敵する速さを見せ、ポルトガルGPではイヴァン・カペリがアイルトン・セナを抜いて2位表彰台を獲得した。さらに日本GPでは、カペリがマクラーレンのアラン・プロストを一時的に抜き、トップを走行する場面もあった。この活躍により、ニューウェイはベネトンのロリー・バーンと共に「空力派のデザイナー」として注目される存在となった。
1989年、マーチがレイトンハウスに改名すると、ニューウェイはテクニカルディレクターに昇進した。日本の資金を背景に完成した自社風洞で、より先鋭的な空力デザインを研究したが、設計したCG891は車体の姿勢変化によってダウンフォース量が急激に変化するという、扱いにくいマシンとなってしまった。この時期、ニューウェイはイルモアの共同創設者であるマリオ・イリエンと親密な関係を築き、これが数年後に彼を助けることになる。

1990年には、レイトンハウスがイルモアに資金提供を行い、翌年に向けてF1用エンジンの開発が進められた。しかし、チームの成績は低迷し続け、成績不振の責任を取らされ、フランスGP直前にニューウェイは解雇された。皮肉にも、ニューウェイ離脱直後のフランスGPでカペリが2位を獲得するという好成績を収めた。ニューウェイは後に「解雇されたが、チームが会計士によって運営され始めたら、それは去るべき時だと既に決めていた。ウィリアムズが私にアプローチしていたからだ」と語っている。
2.2.2. ウィリアムズ時代 (1991-1996)

ニューウェイの引き抜きを1989年から画策していたウィリアムズは、彼が解雇されたと聞くとすぐに契約を結び、チーフデザイナーとして招聘した。テクニカルディレクターのパトリック・ヘッドが駆動系やサスペンションを担当し、ニューウェイがシャシーや空力を担当するという共同開発体制がスタートした。ニューウェイはヘッドの下で多くのことを学び、両者の個性がうまく噛み合うことで、ウィリアムズのマシンは飛躍的に戦闘力を高めた。
1991年、ニューウェイが手掛けたFW14は、新たに投入したセミオートマチックトランスミッションにトラブルが多発し、シーズン序盤はマクラーレンのMP4/6をドライブするアイルトン・セナに4連勝を許すなど劣勢であった。しかし、シーズン中盤から信頼性と戦闘力が共に向上したことにより、ナイジェル・マンセルが追い上げを見せたものの、序盤の出遅れが響きタイトル獲得には至らなかった。

1992年に投入されたFW14Bは、FW14にアクティブサスペンション(商標登録上「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれた)とトラクションコントロールシステムを搭載したマイナーチェンジマシンであったが、車高を任意の状態で維持できるようになったことで、その性能は圧倒的であった。全16戦中10勝、ポールポジションを15回獲得し、マンセルは初のワールドチャンピオンを獲得。ウィリアムズは1987年以来のコンストラクターズタイトルを手にした。この年が、ニューウェイが手掛けたマシンが初めてタイトルを獲得した年となった。1993年には、FW15Cを駆るアラン・プロストとデイモン・ヒルによって、2度目の両タイトルを獲得した。

1994年、FW16は、前年まで最大の武器であったアクティブサスペンションなどのハイテク装備がレギュレーションで禁止された上に、リアサスペンションの設計が裏目に出て、再び空力的な不安定さを抱えることになった。この年、新加入したセナは第3戦サンマリノGPで事故死し、事故を知ったニューウェイはピットで号泣した。イタリア検察当局はセナ車のステアリングコラムの改造が事故原因として、ヘッドとニューウェイを過失致死罪の疑いで追訴し、ニューウェイは2005年に無罪が確定するまで長く裁判を続けることになった(詳細はアイルトン・セナの死を参照)。ウィリアムズは3年連続のコンストラクターズタイトルを獲得したが、1994年のドライバーズタイトルはベネトンのミハエル・シューマッハに奪われた。1995年のFW17では、それまで採用してこなかったベネトン風のハイノーズを初めて採用したが、レース中のピット戦略の拙さもあり、ベネトンにダブルタイトルを奪われた。
1996年にはヒルのレースエンジニアも担当し、彼のチャンピオン獲得をサポートした。しかし、翌シーズンのFW19の設計を終えた後、シーズン終了後の11月8日、ニューウェイは「ウィリアムズは契約不履行をしている」と主張し、出社を停止した(実質的なガーデニング休暇)。これに対し、ウィリアムズは高等法院に申し立て、裁判闘争となった。この頃、ニューウェイは既にマクラーレンと契約を結んだという話もあるが、いつからマクラーレンで働くことができるかは不明であった。ヘッドは「裁判へと向かっているものの、その前に我々とマクラーレンとの間で、何らかの話し合いが行なわれる可能性がある」と語っていた。
ニューウェイがウィリアムズを離脱した理由については、年俸200.00 万 USDの提示とテクニカルディレクターとしての仕事ができることという報道もあったが、後年のインタビューでは、チーム首脳のフランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドがドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。1992年にチャンピオンを獲得したマンセルがチームを去り、プロストが加入した件で彼らと口論し、以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でも、テスト走行の結果で見切るはずだったジャック・ヴィルヌーヴを起用し、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はハインツ=ハラルド・フレンツェンを獲得すると事後報告されたため、フランクとヘッドの個人商店的なチームにはもう留まらないことを選択した。そんな時期にメルセデスエンジンの開発を担当するイルモアの代表者マリオ・イリエン(マーチ時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われたと語っている。ウィリアムズ、マクラーレンの他、フェラーリからもテクニカルディレクターとしてのオファーがあった。
後年、フランク・ウィリアムズはニューウェイの離脱の原因として、ニューウェイがチームの株式保有を望んだことについて意見の不一致があったと語り、結果的には自分のミスだったと認めている。ヘッドはニューウェイがロン・デニスと交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明したため、半ば諦めたと語っている。ニューウェイがウィリアムズ時代に手掛けたマシンは、通算51勝を挙げた。
2.2.3. マクラーレン時代 (1997-2005)

1997年に入り、ニューウェイは実質的に休暇の身であったが、ウィリアムズとマクラーレンとの間で示談が成立し、8月からマクラーレンの現場で働き始めた。合流後はニール・オートレイによってデザインされたMP4-12の改良を行いながら、1998年に投入するMP4-13の開発にも関わった。ニューウェイ曰く、「MP4-13の設計は進んでいたため、細かい箇所に自分のアイデアを入れた。自分で一から設計したのはMP4-14以降のマシンである」と語っている。

その後、ミカ・ハッキネンが1998年と1999年に2年連続でワールドチャンピオンとなり、マクラーレンも1998年のコンストラクターズタイトルを獲得した。2000年はハッキネンがミハエル・シューマッハとドライバーズタイトルを争ったが、惜しくも3年連続タイトルは逃した。コンストラクターズタイトルも信頼性の低さに泣かされ、1999年と2000年と2年連続でフェラーリから奪還できなかった。
2001年、MP4-16は開幕当初からメカニカルトラブルが頻発した。その改善に集中しなくてはいけない時期の5月に、ニューウェイがジャガーへ移籍するという話が持ち上がった。ジャガーのマネージャーであるボビー・レイホールに対し、ニューウェイは一旦契約にサインしたものの、ロン・デニス代表の説得で移籍を止めた。デニスがどのようにニューウェイを説得したのかという詳細はその後も明らかにはされなかったが、ニューウェイにヨットをデザインすることを認めるという取引をしたのではないかという報道があった。ニューウェイはかねてより「F1からリタイアしたらアメリカスカップ用のヨットをデザインしたい」と希望していると知られていたが、その後(マクラーレン在籍中に)ニューウェイがヨットをデザインしたという記録は残っていない。この問題が解決するまでシーズン中のマシン開発が停止することとなり、結果的にフェラーリに両タイトルを奪われることになり、マクラーレンは4勝に留まった。ニューウェイの心変わりは、ジャガーのオーナーであったフォードに対するレイホールの面目を事実上潰してしまい、数ヵ月後にレイホールはジャガーから解雇された。
2003年には、MP4-18がテスト時に周回を重ねられず、クラッシュテストにも合格できなかったため、投入を断念した。結局、前シーズンのMP4-17を改良したMP4-17Dを使い続けた。同マシンの信頼性は高かったため、キミ・ライコネンがタイトル争いに加わったが、最終戦で惜しくもフェラーリに両タイトルを奪われた。
ニューウェイはマクラーレンに残留していたものの、チームから離れたがっているという噂は依然として残り、2004年終盤には彼がウィリアムズに戻る、あるいは完全にF1の仕事から手を引くのではないかという噂が流れていた。デニスが繰り返し否定したものの、2004年から2005年のオフシーズンにはニューウェイの離脱が間近であるという話が広まることとなった。2005年、それまでフェラーリ一辺倒であったシーズンの流れを、マクラーレンはルノーとともに主導権を奪い返すことに成功し、終盤戦までタイトル争いを繰り広げた。こうした中、2005年4月には彼の契約が6ヶ月延長されて2005年12月31日までとなったことが発表された。
後年、ニューウェイはマクラーレンについて「チーム内の政治的な動きがどんどん厄介になっていった」として「マクラーレンからもう少し早く離れるべきだったのかもしれない」「マクラーレン時代の後半は、私がこの世界で過ごした中で最も困難な日々だった」と語っており、2000年以降モチベーションが大きく低下していたとしている。また、当時チームマネージャーだったマーティン・ウィットマーシュは、マクラーレンのマネジメント体制にも一因があるとして、「マクラーレンでは(突然のアクシデント等に備えて)人事にマトリックスシステムを導入していたが、その結果ニコラス・トンバジスやニール・オートレイらとニューウェイが対立することになった」「私はニールを擁護する立場に立ったが、(ニューウェイは)私がスパイを送り込み彼が何をしようとしているかを告げ口させていると思っていた」などと、当時のチーム内の対立を後に明らかにしている。ニューウェイがマクラーレン時代に手掛けたマシンは、通算43勝を挙げた。
2.2.4. レッドブル・レーシング時代 (2006-2024)
マクラーレンから離れたニューウェイは、長期休暇をとるか、または完全にF1のデザイン業務から引退すると予想されていた。しかし、2005年11月9日、それまでの大方の予想を覆し、レッドブルチームのスポーティングディレクターのクリスチャン・ホーナーから、ニューウェイがマクラーレンとの契約終了後の2006年2月に同チームに移籍するということが発表された。彼のポジションは最高技術責任者(CTO)で、マシン開発を行う「レッドブル・レーシング・ホールディングス社」(同年末に「レッドブル・テクノロジー」に改称)からレッドブル・レーシングへ派遣される形となった。2009年までは、姉妹チームのトロ・ロッソにもレッドブル・テクノロジーからマシンが供給された。
レッドブルではすぐには結果が出なかったが、ニューウェイはデザインに関する裁量権を与えられ、自身を中心とするエンジニアリングチームの構築を行った。2008年のイタリアGPでは、レッドブルよりも先にセバスチャン・ベッテルがSTR3によってトロ・ロッソに初勝利をもたらした(ベッテル自身もF1初優勝だった)。

2009年、空力規定の大幅な改訂に合わせてRB5を開発。レッドブルは中国GPで初優勝し(ドライバーはベッテル)、優勝を争うトップチームの一つに躍進した。同年にはマーク・ウェバーがブラジルGPで優勝し、ニューウェイが手掛けたマシンが通算100勝目を達成した。

2010年以降はRB5をベースに進化型のマシンを投入。プルロッドの採用やブロウンディフューザーの開発など、車体のリアエンドの空力設計において独創性を発揮した。同年にはRB6を擁してレッドブルがダブルタイトルを制覇し、ニューウェイがデザインしたマシンでのコンストラクターズチャンピオン獲得は1998年のマクラーレン時代以来となった。2011年もRB7が年間19戦中18ポールポジションを獲得し、ダブルタイトルを連覇した。


翌2012年、マクラーレン MP4-27やフェラーリのフェルナンド・アロンソからの厳しい挑戦にもかかわらず、レッドブルとセバスチャン・ベッテルは、劇的なブラジルGPで再びチャンピオンシップを獲得した。
2013年、RB9とセバスチャン・ベッテルは、サマーブレイク後にフィールドを支配し、インドGPでドライバーズおよびコンストラクターズチャンピオンシップを華麗に防衛した。ベッテルはベルギーGPからシーズン最終戦のブラジルGPまで、記録破りの9連勝を達成した。
2014年6月8日、レッドブル・レーシングは、ニューウェイが今後数シーズンにわたって契約を延長し、「新しいレッドブル・テクノロジー・プロジェクト」を含むより広範な責任を負うことを発表した。伝えられるところによると、レッドブルはフェラーリからの2000.00 万 GBPの契約オファーを退けたという。ニューウェイは後に、当時レッドブルが使用していたルノー製パワーユニット(PU)の競争力が乏しく、それによってモチベーションが大きく低下していたと語っている。

2014年にV6ターボハイブリッドパワーユニットが導入されて以降、ニューウェイの設計したマシンはルノー製PUの性能に足かせをかけられたが、2019年にホンダ製PUに切り替えたことで、ついにチームはタイトル獲得可能なパワーユニットを手に入れた。ニューウェイは、ホンダからのPU供給が決まった当時を振り返って、「やっと(ライバルと同等の)戦えるエンジンが手に入った」「これで我々が戦闘力のあるシャシーを作れればタイトルも狙える」としてモチベーションが復活したと後に語っている。2014年から2020年の間、彼の設計したマシンはRB11(2015年)を除いてすべて少なくとも2つのグランプリで勝利を収め、RB10、RB12、RB16は2014年、2016年、2020年のコンストラクターズチャンピオンシップで2位を獲得した。
2021年シーズンには、RB16Bのデザインがマックス・フェルスタッペンと共にドライバーズチャンピオンシップを獲得し、チームは再びタイトル争いに復帰した。2022年には、RB18が強力な競争相手であることを証明し、日本GPでフェルスタッペンに2度目のドライバーズチャンピオンシップをもたらしただけでなく、レッドブルに2013年以来となるコンストラクターズチャンピオンシップをもたらした。それに続くRB19は、F1史上最も支配的なマシンの一つとなり、95.45%という勝率で1988年のマクラーレン MP4/4が樹立した93.8%の記録を更新した。
2023年カナダGPでは、フェルスタッペンがレッドブルにとって100回目の勝利を挙げ、これはニューウェイにとってF1での200回目の勝利でもあった。同年後半、レッドブルはハンガリーGPで11連勝というマクラーレンの伝説的な記録を破り、イタリアGPではフェルスタッペンがベッテルの9連勝記録を破った。この勝利はレッドブル・レーシングにとって15連勝目でもあり、2つの新記録を樹立した。
2024年4月25日、モータースポーツメディアはニューウェイがレッドブル・レーシングを離れることに興味を持っていると報じ始めた。レッドブル・レーシングの広報担当者はPlanetF1.comに対し、「エイドリアンは少なくとも2025年末まで契約している...彼が他のチームに加入するという情報は把握していない」と回答した。しかし5日後には、ニューウェイの離脱が完了し、マイアミGP前に正式な発表が行われると報じられた。
ニューウェイは2025年の第1四半期中にレッドブル・レーシングを離れ、F1の日常業務からは退くが、彼らの最初のハイパーカーであるRB17の開発には引き続き携わる予定である。ニューウェイがレッドブル時代に手掛けたマシン(2007年のRB3から2015年のRB11、および2019年のRB15から2024年のRB20)は、通算113勝を挙げた。
2.2.5. アストンマーティン時代 (2025年~)
ニューウェイはアストンマーティンと契約し、同チームの株主兼マネージングテクニカルパートナーに就任する。彼は2025年3月1日にチームに合流し、2026年のレギュレーション変更に間に合うように活動を開始する予定である。アストンマーティンへの移籍後も、例外としてRB17の開発には引き続き関与する方針であり、2025年夏以降に計画されているRB17のトラックテストにも参加する予定である。
3. モータースポーツ以外の活動
ニューウェイは、F1の世界だけでなく、多様なモータースポーツ活動や技術・エンターテイメント分野での貢献も行っている。
3.1. ビデオゲームおよびその他のプロジェクト
2010年6月15日、ソニーのE3エレクトロニック・エンターテイメント・エキスポの記者会見で、ニューウェイがPlayStation 3用ビデオゲーム『グランツーリスモ5』のチーフテクニカルオフィサーとして協力したことが発表された。ゲームのトレーラーでは、ニューウェイがレーシングドライバーのセバスチャン・ベッテルと共にイギリスのレッドブル・テクノロジーの建物で、ポリフォニー・デジタルのCEOであり『グランツーリスモ』シリーズのクリエイター兼プロデューサーである山内一典と議論する様子が映し出された。この3人の協力は、後にゲームに登場するコンセプトカーであるレッドブル X2010およびレッドブル X2011の完成につながった。
2018年10月10日、ニューウェイは、女性限定のフォーミュラカーレースであるWシリーズのアドバイザリーボードメンバーに就任することが発表された。Wシリーズは、フォーミュラ3のホモロゲーションを受けたタトゥースT-318シャシーをベースとしたレース選手権である。また、ニューウェイは2021年開催予定の電動SUVによる新シリーズ「エクストリームE」参戦に向けて、ジャン=エリック・ベルニュらと共同で新チーム「ヴェロース・レーシング」を設立した。
3.2. 個人のレース活動と車両収集
ニューウェイは熱心なスポーツカーのコレクターでありドライバーでもある。彼は数年間ル・マン・レジェンドレースに参加しており、2006年にはフォードGT40で競っている最中にクラッシュさせてしまったが、指を切る軽傷で済んだ。その後、グッドウッド・リバイバル・ミーティングではジャガーEタイプを破損させている。

2007年には現代のレースに挑戦し、ル・マン24時間レースでAFコルセのフェラーリF430のドライバーラインナップの一員となった。ニューウェイと共同ドライバーのベン・オーコット、ジョー・マカリは総合22位、クラス4位で完走した。
2010年7月2日、ニューウェイは2007年にレッドブル・レーシングに加入して以来の功績を称えられ、自身のRB5を贈呈された。ニューウェイは2010年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードで初めてその車をヒルクライムで運転した。
2010年8月8日、ニューウェイはゲストドライバーとしてスネッタートン・モーターレーシング・サーキットで開催されたジネッタG50カップに参加中、事故に巻き込まれた。彼はトニー・ヒューズの進路にスピンし、彼の車は側面から大きな衝撃を受けた。念のため病院に搬送されたが、重傷は負わなかった。レッドブル代表のホーナーは「エイドリアンは独特な男だし、自由を必要としている。マクラーレンではそれはなかった」と述べ、ニューウェイのレース活動を禁止しないと語った。
2019年には日本のスーパー耐久へのスポット参戦が発表されたこともあるが、スケジュールの都合で参戦が延期となり、その後参戦母体となる予定だった「TAIROKU Racing」がシーズン途中で活動休止を発表したため、参戦は中止となった。
ニューウェイはヒストリックカーも何台か所有しており、そのうちの1台にロータス・49Bがある。2024年5月にはその49BでHistoric Grand Prix of Monacoモナコ・ヒストリック・グランプリ英語に参戦し、セリエDクラスで4位となった。
4. 私生活
ニューウェイは生涯で3度結婚し、4人の子供がいる。
4.1. 家族構成と結婚
最初の妻は看護師のAmandaアマンダ英語で、2人の娘をもうけた。彼らは1983年に結婚し、1989年に離婚した。
2番目の妻はMarigoldマリゴールド英語で、1992年に結婚し、2010年に離婚した。彼らの間には娘が1人と、レーシングドライバーとなった息子のハリソン・ニューウェイがいる。ハリソンは2016年から2017年のMRFチャレンジ・フォーミュラ2000チャンピオンシップと、2017年から2018年のアジア・ル・マン・シリーズで優勝している。
ニューウェイは2017年8月からAmanda Smerczakアマンダ・スメルチャク英語(愛称マンディ)と結婚している。彼女は南アフリカの俳優ロン・スメルチャクの娘である。アマンダは現在、イングランドの水泳競技を統括する「スイム・イングランド」の「インサイト・オフィサー」を務めている。
息子のハリソン・ニューウェイはレーシングドライバーの道に進んでおり、2015年にはBRDC F4でシリーズランキング2位に入った。2019年からはスーパーフォーミュラに参戦している。2018年12月にはハリソンのスーパーフォーミュラのルーキーテスト参加に合わせて来日し、息子の乗ったB-MAXのSFマシンのスケッチに励み、息子がホテルに先に帰った後にもB-MAXのチームスタッフとミーティングを重ねるといった行動を取り話題となった。その後ハリソンが同チームからのSF参戦が正式に決まり、開幕戦の鈴鹿、2019年F1ロシアGPと日程が重なっている中、第6戦岡山にも姿を見せた。岡山ではハリソンの3位表彰台獲得を見届け、親子そろってのツーショット画像も公開された。シーズン終盤のB-MAXチームのアップグレードパーツはニューウェイの助言によるものとされ、同年にはハリソンとルーカス・アウアーが表彰台をそれぞれ1回ずつ獲得する活躍を見せた。
5. 受賞歴と栄誉
ニューウェイは、その卓越した技術的貢献により、数々の栄誉と賞を受けている。
5.1. フォーミュラ1世界選手権
ニューウェイが設計したシャシーは、F1において12のコンストラクターズチャンピオンシップと14のドライバーズチャンピオンシップを獲得している。特に、ウィリアムズ時代には革新的な設計で数々のタイトルをもたらした。

マクラーレン時代には、ミカ・ハッキネンと共に2度のドライバーズチャンピオンシップと1度のコンストラクターズチャンピオンシップを獲得し、チームの黄金期を築いた。

レッドブル・レーシングでは、2010年から2013年まで連続してドライバーズおよびコンストラクターズチャンピオンシップを制覇し、その後も2021年、2022年、2023年にタイトルを獲得するなど、F1史上最も支配的なマシンを生み出し続けている。

彼の最新の設計の一つであるRB20は、2024年シーズンにおいてマックス・フェルスタッペンに4度目のドライバーズチャンピオンシップをもたらした。

これには、2010年から2013年までのレッドブルでの4年連続コンストラクターズタイトルが含まれる。ニューウェイはF1で31のグランプリと15のワールドチャンピオンシップで勝利を収め、チーフデザイナーとして40回出場している(2007年から2009年までのトロ・ロッソでの3回を含む)。
シーズン | 世界選手権 | シャシー | エンジン | 統計 | ||||||
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コンストラクターズ | ドライバーズ | レース数 | 優勝回数 | ポールポジション | ファステストラップ | 表彰台 | コンストラクターズチャンピオンシップ順位 | |||
1988 | ニューウェイ、マーチのチーフデザイナーに就任 | |||||||||
- | 881 | ジャッド | 18 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6位 | ||
1989 | CG891 | 14 | 0 | 0 | 1 | 0 | 12位 | |||
1990 | マーチがレイトンハウスに改名、ニューウェイがテクニカルディレクターに昇進 | |||||||||
- | CG901 | ジャッド | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 7位 | ||
1991 | ニューウェイ、ウィリアムズにチーフデザイナーとして移籍 | |||||||||
- | FW14 | ルノー | 16 | 7 | 6 | 8 | 17 | 2位 | ||
1992 | ウィリアムズ | ナイジェル・マンセル | FW14B | 16 | 10 | 15 | 11 | 21 | 1位 | |
1993 | ウィリアムズ (2) | アラン・プロスト | FW15C | 16 | 10 | 15 | 10 | 22 | 1位 | |
1994 | ウィリアムズ (3) | - | FW16 | 16 | 7 | 6 | 8 | 13 | 1位 | |
1995 | - | FW17 | 17 | 5 | 12 | 6 | 17 | 2位 | ||
1996 | ウィリアムズ (4) | デイモン・ヒル | FW18 | 16 | 12 | 12 | 11 | 21 | 1位 | |
1997 | ウィリアムズ (5) | ジャック・ヴィルヌーヴ | FW19 | 17 | 8 | 11 | 9 | 15 | 1位 | |
1998 | ニューウェイ、マクラーレンにテクニカルディレクターとして移籍 | |||||||||
マクラーレン | ミカ・ハッキネン | MP4/13 | メルセデス | 16 | 9 | 12 | 9 | 20 | 1位 | |
1999 | - | ミカ・ハッキネン (2) | MP4/14 | 16 | 7 | 11 | 9 | 16 | 2位 | |
2000 | - | MP4/15 | 17 | 7 | 7 | 12 | 22 | 2位 | ||
2001 | MP4-16 | 17 | 4 | 2 | 6 | 13 | 2位 | |||
2002 | MP4-17 | 17 | 1 | 0 | 2 | 10 | 3位 | |||
2003 | MP4-17D | 16 | 2 | 2 | 3 | 13 | 3位 | |||
2004 | MP4-19 | 18 | 1 | 1 | 2 | 4 | 5位 | |||
2005 | MP4-20 | 19 | 10 | 7 | 12 | 18 | 2位 | |||
2006 | MP4-21 | 18 | 0 | 3 | 3 | 9 | 3位 | |||
2007 | ニューウェイ、レッドブルにCTOとして移籍 | |||||||||
- | RB3 STR2 | ルノー フェラーリ | 17 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5位 | ||
2008 | RB4 STR3 | 18 | 1 | 1 | 0 | 2 | 6位 | |||
2009 | RB5 STR4 | 17 | 6 | 5 | 6 | 16 | 2位 | |||
2010 | レッドブル | セバスチャン・ベッテル | RB6 | ルノー | 19 | 9 | 15 | 6 | 20 | 1位 |
2011 | レッドブル (2) | セバスチャン・ベッテル (2) | RB7 | 19 | 12 | 18 | 10 | 27 | 1位 | |
2012 | レッドブル (3) | セバスチャン・ベッテル (3) | RB8 | 20 | 7 | 8 | 7 | 14 | 1位 | |
2013 | レッドブル (4) | セバスチャン・ベッテル (4) | RB9 | 19 | 13 | 11 | 12 | 24 | 1位 | |
2014 | - | RB10 | 19 | 3 | 0 | 3 | 12 | 2位 | ||
2015 | RB11 | 19 | 0 | 0 | 3 | 3 | 4位 | |||
2016 | RB12 | タグ・ホイヤー | 21 | 2 | 1 | 5 | 16 | 2位 | ||
2017 | RB13 | 20 | 3 | 0 | 2 | 13 | 3位 | |||
2018 | RB14 | 21 | 4 | 2 | 6 | 13 | 3位 | |||
2019 | RB15 | ホンダ | 21 | 3 | 2 | 5 | 9 | 3位 | ||
2020 | RB16 | 17 | 2 | 1 | 3 | 13 | 2位 | |||
2021 | - | マックス・フェルスタッペン | RB16B | 22 | 11 | 10 | 8 | 23 | 2位 | |
2022 | レッドブル (5) | マックス・フェルスタッペン (2) | RB18 | RBPT | 22 | 17 | 8 | 8 | 28 | 1位 |
2023 | レッドブル (6) | マックス・フェルスタッペン (3) | RB19 | ホンダ RBPT | 22 | 21 | 14 | 11 | 30 | 1位 |
2024 | - | マックス・フェルスタッペン (4) | RB20 | 24 | 9 | 8 | 4 | 18 | 3位 | |
2025 | ニューウェイ、レッドブルを離脱しガーデニング休暇に入る | |||||||||
5.2. その他の受賞歴
ニューウェイはF1以外でも数々のモータースポーツ選手権で成功を収めている。
- IMSA GT選手権**
- IMSA GT選手権: 1983年、1984年(デザイナーとして)
- 24時間デイトナ: 1984年(デザイナーとして)
- CARTインディカー**
- CARTインディカー・ワールドシリーズ: 1985年、1986年(デザイナーとして)
- インディ500: 1985年、1986年(デザイナーとして)
また、個人的な功績に対しては以下の栄誉が授与されている。
- 大英帝国勲章オフィサー(OBE)(2012年)
- 名誉学位
- サセックス大学科学博士(2013年)
- オックスフォード・ブルックス大学工学博士(2013年)
ル・マン24時間レースの成績は以下の通りである。
年 チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位 2007年 AFコルセ
アウコット レーシングジョー・マカリ
ベン・アウコットフェラーリ・F430 GT2 GT2 308 22位 4位
6. 著書
ニューウェイは執筆活動には積極的ではなかったが、2017年に初めての著書を出版した。
- 『How to Build a Car: The Autobiography of the World's Greatest Formula 1 Designer』(HarperCollinsハーパーコリンズ英語、2017年)
- 日本語訳: 『エイドリアン・ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR』(三栄、2020年)
本人曰く、「出版社から『特に誇りに思う10台をチョイスして、その設計思想や発想を語る』という企画が持ち込まれて興味を持った」ことがきっかけで、同時に「自叙伝的な内容も盛り込みたかった」として執筆に踏み切ったという。実際には「専門家でなくても理解できる内容にしたい」との理由から、あえて自動車業界の経験がないライターを起用して共同で執筆を行ったが、共著の結果として「いくつかの領域で不正確な理解に陥った」ため「全体の3分の1ほどを自分でリライトした」という。
7. 影響と評価
エイドリアン・ニューウェイは、モータースポーツ業界、特にF1における最も偉大なエンジニアの一人として広く認識されている。
7.1. 技術的貢献と革新
ニューウェイは、CADが常識となった後も、製図板と鉛筆、定規を使って図面を描く方法を貫いている。彼が製図板を使い続ける理由として、継続性の維持(CADを基礎から学ぶには時間がかかる)と、モニターの画面サイズに制限されず、あらゆる要素を同じスケールで目の前に並べて見ることができる点、そしてフリーハンドですぐに線を引いたり書き直したりできる点を挙げている。
彼は空力的な追求において一切の妥協を許さず、マーチ時代にはリアウィングの裏面にスポンサーのステッカーを貼ることを嫌った。これは、ウィングの表面に凹凸があると気流の流れを乱し、ダウンフォース発生効率が悪くなるためである。また、レーシングスーツの肩に付いている緊急救助用のストラップでさえ気にするほどであった。イヴァン・カペリが「コクピットが狭すぎてシフト操作ができない」と不平を漏らすと、シフトレバーを曲げて対処した。カペリはコクピットの狭さについて、「レースが終わると青あざだらけだった」「自分より大柄なマウリシオ・グージェルミンは気の毒だった」と語っている。また、レイトンハウス時代にはエンジンカウルをタイトにデザインするため、ジャッドにバンク角を75度に狭めたEVエンジンを開発してもらった。
1998年にマクラーレンがブリヂストンタイヤにスイッチした際、新開発のワイドフロントタイヤが空力の障害になると断固反対した。彼はブリヂストンの浜島裕英と議論を戦わせたが、テストの結果、最終的にニューウェイが折れた。マクラーレンとブリヂストン陣営は開幕から速さを発揮し、グッドイヤーも急遽ワイドフロントタイヤを投入することになった。
レース開始前には、ダミーグリッド上を歩き回り、他チームのマシンをつぶさに観察することで知られている。これを嫌って、視界を遮ろうとするチームもある。
7.1.1. 特徴的なデザイン
ニューウェイの設計哲学と革新的なアイデアは、F1マシンのデザインに大きな影響を与えてきた。その特徴的なデザインの一部を以下に示す。

- フロントウィングの3D翼端板**: フロントウィングの翼端板をフロントタイヤの内側まで延長し、タイヤ周辺の乱れた気流を制御するデザイン。1988年のマーチ・881に始まり、その後ボーテックス・ジェネレーターを追加するなど開発競争が過熱した。
- 五角形のコクピット開口部**: モノコック開口部を斜めに切り下げ、ドライバーの両肩が露出するデザイン。上方から見ると野球のホームベース状の五角形に見える。マーチ・881からウィリアムズ・FW16(1994年)までの特徴だったが、1995年のコクピットサイドプロテクター装着義務化により見られなくなった。
- トンネル型ディフューザー**: リアエンドの開放部が半円形に湾曲した大型ディフューザー。マーチ(レイトンハウス)時代のマシンの特徴で、1990年のマクラーレン・MP4/5B(通称「バットマン・ディフューザー」)や1991年のジョーダン・191にも同様のデザインが見られた。
- チムニーダクト**: サイドポンツーン上部に煙突(チムニー)のようなダクトを設け、カウル内部からの排熱を促す。2000年のMP4-15に始まり、2009年の空力レギュレーション改訂まで定番の空力アイテムとなった。

- ゼロキール**: フロントのロワウィッシュボーンのモノコック側の接合部に突起(キール)を設けず、モノコック下部に直付けするデザイン。2005年のMP4-20より採用し、現在のF1マシンでは一般化している。
- Vノーズ**: モノコック上面の両肩部分が盛り上がり、下側に向けて細く絞り込まれていき、モノコック断面が"V"に見えるデザイン。2009年のRB5の特徴の一つ。フロントノーズ下面を湾曲させるためのデザインで、両肩部分に「こぶ」があるのは最小断面積規定をクリアするためである。マクラーレン時代も両肩部分にレギュレーションフィンを立てるデザインを用いている。

- リアのプルロッドサスペンション**: リアサスペンションを定番のプッシュロッド式からプルロッド式に変更し、ダンパーユニットを下側へ移すことでリアエンドの高さを抑え、エアロ効率を高める。RB5以降、F1マシンの定番デザインとなっている。
- ブロウン・ディフューザー**: 2010年のRB6より導入。高速のエンジン排気をリアタイヤ付近へ排出し、ディフューザーの効率を高める。2011年のRB7ではルノーと協力しエンジンの「オフスロットル・ブローイング」も開発し、使用禁止を巡り論争となった。
- ハイレーキ・コンセプト**: 1996年のFW18以降、マシンのフロントの車高を低く、リアの車高を比較的高く取り、マシン全体が前傾姿勢になる「高レーキ角(ハイレーキ)」をコンセプトとして取り入れている。ニューウェイは、高レーキ角を採用することでマシンのダウンフォースが増大することをメリットとしているが、一方で2020年現在のレギュレーションではマシンバランスを取るのが難しいことも指摘されている。
7.2. 批判と論争
1994年サンマリノGPでアイルトン・セナが事故死した際、ニューウェイが設計に携わったマシンであったため、彼はウィリアムズチームの複数のメンバーと共に過失致死罪で起訴された。1997年12月の最初の判決ではニューウェイは無罪となった。この無罪判決は1999年11月の控訴審でも維持された。しかし、2003年1月、イタリア最高裁判所は「重大な誤り」を理由にこの事件を再審理し、2005年5月にニューウェイは完全な無罪判決を受けた。
フェラーリからは3度オファーを受けたことがある。最初はマーチ時代のインディカープロジェクトに関与していた頃で、2度目は子供がまだ小さかったためイギリスに残りたい意向が強かったため断った。3度目は2014年にレッドブルチームが不振の時期に、当時フェラーリ会長だったルカ・ディ・モンテゼーモロ直々に「ありえないほど巨額」でのオファーを受けたが、クリスチャン・ホーナーとの二人三脚で築き上げたチームを「不振だからと言って去りたくはない、だが同じくらい、エンジン部門に片手を縛られているような状況にもいたくなかった」と悩んだ末、辞退した。
メルセデス非常勤会長のニキ・ラウダからも、ロス・ブラウンの後任としてオファーを受けた。しかしこのオファーを受けてしまうとブラウンの手柄を横取りする「トロフィーハンター」になってしまうと感じたことで辞退した。
これまで数多くのドライバーと共に仕事をしているが、一番の友人はボビー・レイホールだと述べたことがある。
8. 人物・エピソード

マシンデザインだけでなく、自らドライバーとして本格的なレースにも出場する。2007年にはル・マン24時間レースでフェラーリ・F430 GT2をドライブし、総合22位(クラス4位)の成績を収めた。2010年にはジネッタ・G50カップでクラッシュし、ケガはなかったものの病院に搬送された。レッドブル代表のホーナーは「エイドリアンは独特な男だし、自由を必要としている。マクラーレンではそれはなかった」と述べ、ニューウェイのレース活動を禁止しないと語った。2019年には日本のスーパー耐久へのスポット参戦が発表されたこともあるが、スケジュールの都合で参戦が延期となり、その後参戦母体となる予定だった「TAIROKU Racing」がシーズン途中で活動休止を発表したため、参戦は中止となった。
ニューウェイはヒストリックカーも何台か所有しており、そのうちの1台にロータス・49Bがある。2024年5月にはその49BでHistoric Grand Prix of Monacoモナコ・ヒストリック・グランプリ英語に参戦し、セリエDクラスで4位となった。
F1ドライバーの中では、デビッド・クルサードと一緒にF1マシンをドライブすることもあるなど、関係が深い。クルサードは1994年にウィリアムズに加入し、1996年からマクラーレンへと移籍したが、翌1997年にニューウェイもウィリアムズからマクラーレンへ移籍することになった。また、8年が経った2005年にクルサードがレッドブルへと移籍したが、翌2006年にニューウェイもレッドブルへ移籍と、クルサードの移籍した翌年にニューウェイが同チームに加入するケースが続いた。クルサードが2010年にレッドブルのリザーブドライバーを務め終えるまで、ニューウェイとクルサードのF1での同一チーム在籍は、ウィリアムズで約2年、マクラーレンで約8年、レッドブルで約5年の延べ15年にも及ぶ。2018年にはニューウェイとクルサードは新たに女性限定のフォーミュラカーレース「Wシリーズ」を立ち上げて共に運営責任者に就任するなど、仕事面での関係の深い2人として認識されている。