1. 生涯とキャリア
マックス・モーロックは、その才能と情熱をサッカーに捧げ、ドイツサッカー界に大きな足跡を残した。彼のキャリアは、幼少期から始まり、国内トップクラブや代表チームでの輝かしい活躍を経て、ドイツのサッカー史にその名を刻んだ。
1.1. 幼少期と初期キャリア
マックス・モーロックは、ニュルンベルクに生まれた。少年時代に地元のサッカークラブであるアイントラハト・ニュルンベルクでサッカーを学び、基礎を築いた。1940年、彼は当時著名であった1.FCニュルンベルクへ入団し、本格的なキャリアをスタートさせた。1941年11月30日には、早くもトップチームでデビューを果たしている。
1.2. クラブキャリア
モーロックは1.FCニュルンベルクで1940年から1964年までの長きにわたりプレーし、クラブの象徴的な存在となった。彼はトップチームで900試合以上に出場し、約700得点を記録したことから、「Der Club」と称される1.FCニュルンベルクそのものであるとまで言われた。彼の活躍により、クラブはドイツ選手権で1948年と1961年に優勝、さらにドイツカップでは1962年に優勝を達成した。
また、モーロックはブンデスリーガ創設以前の地域リーグであるオーバーリーガ・ズートにおいて、1950-51シーズンと1951-52シーズンに得点王に輝いている。1963年には38歳になっていたが、新設されたブンデスリーガの初シーズンでも21試合に出場し、そのキャリアの晩年まで第一線で活躍し続けた。
1.3. 代表キャリア
モーロックの西ドイツ代表としてのキャリアは、1950年に負傷したフリッツ・ヴァルターの代わりにデビューを果たしたことから始まった。彼の代表デビューは、1950年11月22日のスイスとの親善試合であった。
彼は1954年FIFAワールドカップ・スイス大会の西ドイツ代表メンバーとして選出され、同大会の優勝に大きく貢献した。特に、決勝のハンガリー戦では、西ドイツが2-0とリードを許す苦しい展開の中、反撃の口火を切る最初のゴールを決め、逆転優勝の「ベルンの奇跡」を呼び込む立役者となった。
モーロックは1958年12月28日に行われたエジプトとの親善試合を最後に代表から退くまで、国際Aマッチ通算26試合に出場し、21得点を記録した。
1.4. プレースタイルと特徴
モーロックは選手として、その堅実なテクニックと強い闘争心が特徴であった。彼は攻守の繋ぎ役であるリンクマンとしてグラウンド全体をカバーし、中盤と攻撃陣の間に位置することでチームに安定と推進力をもたらした。同時に、彼はゴール前での決定力も高く、対戦相手にとって常に危険な存在であり続けた。
2. 受賞と功績
マックス・モーロックは、その卓越したプレーとリーダーシップにより、個人としてもチームの一員としても数々の栄誉に輝いた。
2.1. 個人タイトル
- ドイツ年間最優秀サッカー選手賞:1961年
2.2. クラブおよび国際大会での優勝
- ドイツ・サッカー選手権:1948年、1961年
- ドイツカップ:1962年
- FIFAワールドカップ:1954年
- オーバーリーガ・ズート得点王:1950-51シーズン、1951-52シーズン
3. キャリア統計
マックス・モーロックの代表チームにおける出場記録と得点記録は以下の通りである。
3.1. 代表出場および得点記録
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
西ドイツ | 1950 | 1 | 0 |
1951 | 3 | 4 | |
1952 | 3 | 2 | |
1953 | 4 | 4 | |
1954 | 8 | 9 | |
1955 | 3 | 1 | |
1956 | 2 | 0 | |
1958 | 2 | 1 | |
合計 | 26 | 21 |
3.2. 国際試合での得点リスト
西ドイツ代表としてのモーロックの国際Aマッチでの得点リストを以下に示す。スコア欄は、モーロックが得点した時点での得点状況を示す。
No. | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1951年9月23日 | プラーターシュターディオン、ウィーン、オーストリア | オーストリア | - | 2-0 | 親善試合 |
2 | 1951年10月17日 | ダリーマウント・パーク、ダブリン、アイルランド共和国 | アイルランド共和国 | 1-2 | 2-3 | 親善試合 |
3 | 1951年11月21日 | イスタンブール、トルコ | トルコ | 1-0 | 2-0 | 親善試合 |
4 | 2-0 | |||||
5 | 1952年11月9日 | ローゼナウシュターディオン、アウクスブルク、ドイツ | スイス | - | 5-1 | 親善試合 |
6 | 1952年12月21日 | ズートヴェストシュターディオン、ルートヴィヒスハーフェン、ドイツ | ユーゴスラビア | - | 3-2 | 親善試合 |
7 | 1953年10月11日 | ネッカーシュタディオン、シュトゥットガルト、ドイツ | ザール | 1-0 | 3-0 | 1954 FIFAワールドカップ・予選 |
8 | 2-0 | |||||
9 | 1953年11月22日 | フォルクスパルクシュターディオン、ハンブルク、ドイツ | ノルウェー | 1-1 | 5-1 | 1954 FIFAワールドカップ・予選 |
10 | 2-1 | |||||
11 | 1954年3月28日 | ルートヴィヒスパルクシュターディオン、ザールブリュッケン、ザール保護領 | ザール | 1-0 | 3-1 | 1954 FIFAワールドカップ・予選 |
12 | 2-0 | |||||
13 | 1954年4月25日 | ザンクト・ヤコブ・シュタディオン、バーゼル、スイス | スイス | - | 5-3 | 親善試合 |
14 | 1954年6月17日 | ヴァンクドルフシュターディオン、ベルン、スイス | トルコ | 4-1 | 4-1 | 1954 FIFAワールドカップ |
15 | 1954年6月23日 | レツィグルント・シュタディオン、チューリッヒ、スイス | トルコ | 3-1 | 7-2 | 1954 FIFAワールドカップ |
16 | 4-1 | |||||
17 | 5-1 | |||||
18 | 1954年6月30日 | ザンクト・ヤコブ・シュタディオン、バーゼル、スイス | オーストリア | 2-0 | 6-1 | 1954 FIFAワールドカップ |
19 | 1954年7月4日 | ヴァンクドルフシュターディオン、ベルン、スイス | ハンガリー | - | 3-2 | 1954 FIFAワールドカップ |
20 | 1955年9月25日 | JNAスタジアム、ベオグラード、ユーゴスラビア | ユーゴスラビア | 1-3 | 1-3 | 親善試合 |
21 | 1958年12月28日 | カイロ、エジプト | エジプト | - | 1-2 | 親善試合 |
4. 評価と遺産
マックス・モーロックは、その死後もドイツサッカー界における伝説的人物として記憶され、多くのファンに敬愛されている。彼の功績は、様々な形で現代に伝えられている。
4.1. 死後の追悼と名誉
モーロックの死から1年も経たない1995年、フランケンシュターディオン(現在のマックス・モルロック・シュタディオン)前の広場は、彼の功績を称えて「マックス=モーロック=プラッツ」(Max-Morlock-Platz)と改称された。さらに、スタジアムの郵便住所も「マックス=モーロック=プラッツ1」となっている。
2006年には、多数のファンがフランケンシュターディオン自体を「マックス=モーロック=シュタディオン」と改称することを支持する投票を行った。しかし、ニュルンベルク市は地元の銀行とのスポンサー契約を締結し、その銀行の金融商品にちなんでスタジアムを「イージークレディット=シュタディオン」と命名した。しかし、その後もモーロックの名前を冠するスタジアムへの改称を求める声は根強く、最終的に2017年7月、スタジアムは正式に「マックス=モーロック=シュタディオン」へとその名を変更し、彼の功績を永く後世に伝えることとなった。

5. 死去
マックス・モーロックは、1994年9月10日に癌のため死去した。享年69歳であった。
6. 外部リンク
- [http://www.glubberer.de/m/morlock__max/morlock__max.html Kurzbiographie bei glubberer.de]