1. Overview
マリー・ピエルス(Mary Pierceマリー・ピエルスフランス語、1975年1月15日生まれ)は、フランスの元プロテニス選手です。シングルスとダブルスで世界ランキング3位を記録し、そのキャリアを通じて合計28のタイトル(シングルス18、ダブルス10)を獲得しました。特に、1995年の全豪オープンと2000年の全仏オープンの女子シングルスで優勝し、グランドスラムで2つの主要タイトルを獲得しています。彼女はカナダで生まれ、フランス人の母とアメリカ人の父を持つため、フランス、カナダ、アメリカの三つの国籍を保持していますが、国際大会では一貫してフランス代表として出場しました。
ピエルスのキャリアは、父親との関係に起因する困難や度重なる怪我によるスランプなど、多くの挑戦に直面しましたが、その都度、驚異的な回復力と精神的な強さを見せ、カムバックを果たしてきました。2000年の全仏オープン女子シングルスでの優勝は、1967年のフランソワーズ・デュール以来33年ぶりにフランス人女子選手が地元大会を制した歴史的な快挙であり、現在も彼女が最後のフランス人優勝者です。2019年にはその功績が認められ、国際テニス殿堂入りを果たしました。彼女の物語は、単なるスポーツの成功だけでなく、逆境を乗り越える個人の力と、スポーツ界における選手と家族の関係性の変遷をも象徴しています。
2. Personal Life
ピエルスの個人的な背景には、多文化的なルーツと、キャリアに大きな影響を与えた家族関係の複雑さが存在します。
2.1. Early Life and Background
マリー・ピエルスは1975年1月15日にカナダのモントリオールで生まれました。彼女の母はフランス人、父のジム・ピエルスはアメリカ人であり、このためマリーはフランス、カナダ、アメリカの三つの国籍を有しています。幼少期はアメリカで過ごしましたが、国際テニス大会ではフランス代表としてプレーしました。テニスを始めたのは10歳と、他のプロ選手に比べて遅いスタートでしたが、わずか2年後には12歳以下の国内ランキングで2位になるほどの才能を見せました。
しかし、彼女のテニスキャリアは、父親のジム・ピエルスとの関係に大きな影響を受けました。父親は娘に厳格なスパルタ教育を施し、その指導は時に言葉による虐待や、本人および周囲への脅迫、攻撃に至ることもありました。このような問題行動が原因で、1993年にはマリーが父親に対する接近禁止命令を申請する事態に発展し、WTAは父親のトーナメントへの入場を禁止する「ジム・ピエルス規則」を導入せざるを得ませんでした。これにより、ピエルスはしばらくの間、父親との会話を拒否し、警護員を雇って父親の接近を阻止するまでになりました。この時期、彼女はコーチをニック・ボロテリーや兄のデイビッドに依頼することになります。後に現役引退後、二人は和解しました。
2.2. Adult Life and Beliefs
マリー・ピエルスは公私ともに注目を集める存在でした。1999年には野球選手のロベルト・アロマーと、その後はエールフランスのパイロットであるデイビッド・エマニュエル・アデスと婚約しましたが、いずれも破談となりました。
彼女の人生における重要な転機の一つは、2000年初頭の全仏オープンで優勝する前に経験した宗教的な改宗です。敗戦後に「空虚で惨めな気分」を感じた彼女は、その後に「イエスに人生を捧げ、新たに生まれ変わった」と語っています。この経験をきっかけに彼女は熱心な新生キリスト教徒となり、その精神的な変化は友人であるテニス選手のリンダ・ワイルドとの交流からも影響を受けたとされています。この改宗は、彼女のキャリア後期の精神的な安定と回復力に大きく寄与したと考えられています。2019年5月現在、彼女はモーリシャスに居住しており、テニスを教えています。
3. Professional Career
マリー・ピエルスは、そのキャリアを通じて数々の浮沈を経験しながらも、テニス界に確固たる足跡を残しました。
3.1. Early Years (1985-1993)
ピエルスは10歳でテニスを始め、そのわずか2年後には12歳以下の国内ランキングで2位となる才能を示しました。1989年4月、14歳2ヶ月でヒルトンヘッドアイランドのWTAトーナメントでプロデビューを果たし、当時としてはジェニファー・カプリアティ(1990年)以前で最も若いアメリカ人選手としてプロツアーに参加しました。その体格とアグレッシブなプレースタイルから、彼女のボールの打撃はカプリアティと比較され、すぐに女子サーキットで最も強力なヒットを放つ選手の一人として名声を得ました。初期のコーチは父親のジムでしたが、1988年には一時的にニック・ボロテリーのテニスアカデミーにも短期間在籍していました。1991年7月にはパレルモ国際でサンドラ・チェッキーニを破り、初のWTAツアーシングルスタイトルを獲得しました。しかし、父親との関係が悪化し、1993年7月には父親に対する接近禁止命令を申請し、WTAは父親のトーナメントへの入場を禁止する「ジム・ピエルス規則」を制定しました。その後、彼女は兄のデイビッドを正規のコーチとし、2006年までその関係が続きました。
3.2. Breakthrough and Grand Slam Success (1994-2000)
1994年、ピエルスは全仏オープンで初のグランドスラムシングルス決勝に進出しました。準決勝では世界ランキング1位のシュテフィ・グラフを6-2, 6-2で圧倒する快挙を成し遂げましたが、決勝ではアランチャ・サンチェス・ビカリオにストレートで敗れ、準優勝に終わりました。
翌1995年、ピエルスは全豪オープン決勝でそのサンチェス・ビカリオに雪辱を果たし、6-3, 6-2で勝利。自身初のグランドスラムタイトルを獲得しました。この大会で彼女はわずか30ゲームしか落とさず、カナダ生まれのテニス選手として初のシングルスグランドスラム優勝者となりました(ただし、フランス代表として出場)。同年にはキャリア最高のシングルス世界ランキング3位に到達し、ジャパン・オープンでもサンチェス・ビカリオを破って優勝しました。
1996年には全豪オープンでタイトル防衛に失敗し、ニック・ボロテリーとの関係も解消するなど、一時的な停滞期を経験しました。しかし、アメリアアイランド選手権で準優勝、ハンブルクで準決勝に進出し、ウィンブルドンでは初の準々決勝進出を果たしました。
1997年、ピエルスは再び全豪オープンシングルス決勝に進出しましたが、当時16歳3ヶ月のマルチナ・ヒンギスに2-6, 2-6で完敗しました。しかし、この年はフェドカップでフランスチームを初の優勝に導き、イタリアン・オープンでも優勝しました。シーズン終了時のランキングを21位から7位に上げたことで、年間カムバック選手賞を受賞しました。
1998年には4つのタイトル(パリ・インドア、アメリアアイランド選手権、クレムリン・カップ、ルクセンブルク・オープン)を獲得し、好調を維持しました。
2000年、ピエルスはキャリアの頂点とも言える活躍を見せました。全仏オープンシングルス決勝でコンチタ・マルティネスを破り、2度目のグランドスラムシングルスタイトルを獲得しました。これは1967年のフランソワーズ・デュール以来33年ぶりにフランス人女子選手が地元の全仏オープンを制覇した快挙でした。この大会では、ヒンギスと組んだ女子ダブルスでも優勝し、単複2冠を達成しました。しかし、この全仏優勝後、ピエルスは再び大きな怪我に悩まされ、2001年末には世界ランキングが130位に、2002年4月には300位近くまで下降しました。
3.3. Resurgence and Final Years (2001-2006)
数年間の低迷期を経て、ピエルスは2003年に再び活躍の場を見つけました。フェドカップ決勝でアメリカを破り、フランスチームを2度目の優勝に導きました。2004年にはロスマーレン・グラスコート選手権で2000年の全仏オープン以来となるタイトルを獲得しました。同年、アテネオリンピックでは3回戦で第6シードのビーナス・ウィリアムズを破る番狂わせを演じましたが、準々決勝で金メダルを獲得することになるジュスティーヌ・エナンに敗れました。また、同年の全米オープンでは、ウィンブルドンチャンピオンのマリア・シャラポワを破りましたが、4回戦で優勝者となるスベトラーナ・クズネツォワに敗れました。
2005年、ピエルスは女子テニス界のトップランクに返り咲き、キャリアで最も印象的なカムバックの一つを成し遂げました。全仏オープンでは3度目のシングルス決勝に進出しましたが、エナンに1-6, 1-6で完敗し、2度目の準優勝となりました。ウィンブルドンでも1996年以来となる準々決勝に進出し、ビーナス・ウィリアムズと対戦しましたが、22ポイントに及ぶタイブレークの末に惜敗しました。しかし、このウィンブルドンではマヘシュ・ブパシと組んだ混合ダブルスで優勝を果たしました。8月にはサンディエゴのアキュラ・クラシックで杉山愛を破り、この年最初のシングルスタイトルを獲得しました。
2005年の全米オープン4回戦では、それまで一度も勝てなかったエナンを初めて破る快挙を達成しました。準々決勝では第3シードのアメリ・モレスモを破り、自身初の全米オープン準決勝に進出しました。この勝利後、ピエルスは「30歳でツアー生活17年目になるが、まだ初めての経験があるなんて本当にすごいことだ」と語りました。準決勝ではエレーナ・デメンチェワを3セットで破り決勝進出を果たしましたが、この試合では第1セット後にメディカルタイムアウトを取ったことで、デメンチェワのリズムと集中力を乱したとの批判も一部で起こりました。決勝ではキム・クライシュテルスにストレートで敗れ、準優勝に終わりました。しかし、その後モスクワで開催されたクレムリン・カップで、エレーナ・リホフツェワとの準々決勝で第3セットのタイブレークでマッチポイントを6本凌ぎ、8連続ポイントで逆転勝利を収め、この年2つ目のタイトルを獲得しました。このモスクワでの勝利により、年間最終戦であるWTAツアー選手権への出場権を獲得し、ロサンゼルスで行われた同大会では、ラウンドロビンでクライシュテルス、モレスモ、デメンチェワに全勝し、準決勝ではトップシードのリンゼイ・ダベンポートを破りました。決勝ではモレスモに惜敗しましたが、この年間最終戦での準優勝により、ピエルスの年末ランキングは29位から5位へと躍進し、1994年、1995年、1999年のキャリアハイに匹敵する成績となりました。この2005年の活躍は、かつての世界ランキング1位であるマルチナ・ヒンギスがツアー復帰を決意するきっかけにもなりました。
2006年、ピエルスは主要タイトル獲得を目指し、オフシーズンにハードなトレーニングを積みました。しかし、全豪オープンでは2回戦で敗退し、続くパリ大会決勝では同胞のモレスモに敗れました。その後、足と股関節の怪我により全仏オープンとウィンブルドンを欠場し、約6ヶ月間の長期離脱を余儀なくされました。8月にツアー復帰を果たしましたが、全米オープンでは3回戦で李娜に敗れるなど、以前のような結果は出せず、同年10月のリンツ女子オープンの2回戦、ベラ・ズボナレワとの試合中に左膝の前十字靱帯を断裂し、そのまま現役生活を終えることになりました。彼女は試合中に3つのマッチポイントを握っていましたが、この重傷により公式戦出場は不可能となりました。
3.4. Retirement and Post-Playing Career
2006年12月に膝の手術は成功しましたが、ピエルスは2007年のシーズンを全て欠場しました。2008年の復帰も期待されましたが、年末時点でも復帰の目途は立たず、彼女自身はまだ引退するつもりはないと表明していました。しかし、この膝の怪我以降、公式戦に復帰することはありませんでした。
2007年の全仏オープンでは、彼女の功績を称えてローラン・ギャロスの敷地内に「マリー・ピエルス通り」(Allée Mary Pierce)と名付けられたアベニューが誕生し、彼女は女子シングルス決勝後の表彰式に登場し、大会3連覇を達成したジュスティーヌ・エナンに優勝カップを授与しました。2008年の北京オリンピックではフランス代表に選出されましたが、怪我のため欠場を余儀なくされました。
2019年、ピエルスはテニス界への多大な貢献が認められ、国際テニス殿堂入りを果たしました。また、彼女はグランドスラム大会で優勝と「ウッデン・スプーン」(最初のラウンドで敗退した選手に与えられる不名誉な賞)の両方を獲得した唯一の選手の一人です。彼女は1995年の全豪オープンで優勝し、2002年の全豪オープンでは1回戦でジル・クレイバスに敗れ、ウッデン・スプーンを獲得しました。これは、同じグランドスラム大会で優勝とウッデン・スプーンの両方を獲得した初の選手という珍しい記録です。現在、彼女はモーリシャスに住み、テニスを教えています。
4. Playing Style and Equipment
マリー・ピエルスは、そのパワフルで攻撃的なプレースタイルと、使用する用具でも知られていました。
4.1. Playing Style
ピエルスは、WTAツアーで最も強力なヒッターの一人として知られる、アグレッシブなベースラインプレーヤーでした。試合の最初から主導権を握ることを得意とし、その最大の強みは強力なフォアハンドでした。このフォアハンドは非常に強くフラットに打たれ、コート上のどの位置からでもウィナーを放つことができました。彼女の両手打ちバックハンドも同様にフラットに打たれ、相手の弱いセカンドサーブを攻撃したり、鋭い角度をつけたりするのに用いられました。
彼女のファーストサーブは強力で、通常は104 km/hを記録し、最高速度は116 km/hにも達し、これにより多くのエースを奪いました。セカンドサーブとして頻繁に用いられた効果的なキックサーブも持ち合わせており、通常は86 km/hの平均速度を記録しました。また、彼女は最もアグレッシブなリターンプレーヤーの一人であり、意のままにリターンウィナーを放つことができました。ツアーの中でも最も守備的でない選手の一人であり、そのゲームは純粋なパワーと攻撃性に立脚していました。
ピエルスの主な弱点は、その一貫性の欠如でした。好調な時には、ウィナーの数が多く、アンフォーストエラーが少ないため、ツアーで最も危険な選手の一人でしたが、不調な時には、そのアグレッシブなゲームが大量のアンフォーストエラーにつながることがありました。また、彼女のプレーは精神状態に大きく左右され、緊張するとポイント間の準備に時間がかかる傾向がありました。ピエルスが好んだサーフェスはクレーコートとハードコートでした。
4.2. Equipment
2000年代初頭、マリー・ピエルスはナイキのウェアを着用し、ヨネックスのラケットを使用していました。これらの用具は、彼女のパワフルで攻撃的なプレースタイルを支える上で重要な役割を果たしました。
5. Accolades and Honors
マリー・ピエルスは、その輝かしいキャリアの中で数々の栄誉と賞を受賞しました。
- 全豪オープン 女子シングルス優勝(1995年)
- 全仏オープン 女子シングルス優勝(2000年)
- 全仏オープン 女子ダブルス優勝(2000年、パートナー:マルチナ・ヒンギス)
- ウィンブルドン 混合ダブルス優勝(2005年、パートナー:マヘシュ・ブパシ)
- フェドカップ優勝(1997年、2003年) - フランス代表として
- 年間カムバック選手賞(1997年) - 21位から7位へのランキング上昇が評価された。
- 国際テニス殿堂入り(2019年) - その功績を称えられて殿堂入りした。
また、2007年にはローラン・ギャロスの敷地内に彼女の功績を称える「マリー・ピエルス通り」(Allée Mary Pierce)が命名されました。
6. Legacy and Evaluation
マリー・ピエルスは、そのキャリアを通じてテニス界に強い印象を残し、彼女の物語は単なるスポーツの成功に留まらない深い影響を与えました。
6.1. Achievements and Impact
ピエルスの最大の功績の一つは、1995年の全豪オープンと2000年の全仏オープンでグランドスラムシングルスタイトルを獲得したことです。特に2000年の全仏オープンでの優勝は、1967年のフランソワーズ・デュール以来33年ぶりにフランス人女子選手が地元大会を制した歴史的な快挙であり、現在に至るまで最後のフランス人優勝者であるという点で、その影響力は計り知れません。彼女のプレーは、その強力なフォアハンドとアグレッシブなベースラインプレーで、女子テニスのパワーテニスへの移行を象徴するものでした。
度重なる怪我やスランプからの再起、特に2005年の目覚ましいカムバックは、彼女の強靭な精神力と不屈の闘志を示し、多くの人々に感動を与えました。彼女の活躍は、当時引退を考えていたマルチナ・ヒンギスがツアー復帰を決意するきっかけとなったほどです。また、1997年と2003年のフェドカップ優勝にフランス代表として貢献したことは、チームスポーツにおける彼女のリーダーシップと貢献度を示しています。
さらに、彼女はグランドスラム大会で優勝と「ウッデン・スプーン」(初戦敗退選手に贈られる不名誉な賞)の両方を獲得した数少ない選手の一人というユニークな記録も持っています。これは、1995年の全豪オープン優勝後、2002年の全豪オープンで1回戦敗退を喫したことで達成されたもので、キャリアの浮き沈みを象徴する側面でもあります。
6.2. Controversies and Challenges
ピエルスのキャリアは、輝かしい功績の裏で、いくつかの論争と個人的な困難に直面しました。最も顕著なのは、父親のジム・ピエルスとの関係に起因する問題です。父親の過剰な支配と暴力的な振る舞いは、1993年に彼女が接近禁止命令を申請する事態に発展し、WTAが「ジム・ピエルス規則」(親やコーチのトーナメントへの入場を禁止できる規則)を導入する直接の原因となりました。この出来事は、スポーツ界における親子関係の健全性や、若手選手の保護の必要性について、大きな議論を呼びました。
彼女はまた、度重なる怪我との戦いにも直面しました。特にキャリア終盤の2006年に左膝の前十字靱帯を断裂したことは、彼女の現役引退につながる決定的な要因となりました。これらの肉体的、精神的な困難は、彼女のキャリアの一貫性を妨げる要因となりましたが、同時に、それらを乗り越えようとする彼女の不屈の精神を際立たせることにもなりました。
7. Career Statistics
マリー・ピエルスのプロテニスキャリアにおける主要な統計データは以下の通りです。彼女の生涯通算成績はシングルス511勝237敗、ダブルス197勝116敗、生涯獲得賞金は約979.00 万 USDに上ります。シングルスとダブルスでそれぞれ自己最高世界ランキング3位を記録しました。
7.1. Grand Slam Singles Performance Timeline
大会 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | SR | 通算成績 (勝-敗) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
全豪オープン | A | A | A | QF | 4R | W | 2R | F | QF | QF | 4R | 3R | 1R | 2R | A | 1R | 2R | 1 / 13 | 36-12 |
全仏オープン | 2R | 3R | 4R | 4R | F | 4R | 3R | 4R | 2R | 2R | W | A | QF | 1R | 3R | F | A | 1 / 15 | 44-14 |
ウィンブルドン | A | A | A | A | A | 2R | QF | 4R | 1R | 4R | 2R | A | 3R | 4R | 1R | QF | A | 0 / 10 | 21-10 |
全米オープン | Q3 | 3R | 4R | 4R | QF | 3R | A | 4R | 4R | QF | 4R | A | 1R | 4R | 4R | F | 3R | 0 / 14 | 41-14 |
通算勝-敗 | 1-1 | 4-2 | 6-2 | 10-3 | 13-3 | 13-3 | 7-3 | 15-4 | 8-4 | 12-4 | 14-3 | 2-1 | 6-4 | 7-4 | 5-3 | 16-4 | 3-2 | 2 / 52 | 142-50 |
略語の説明: W (優勝), F (準優勝), SF (準決勝), QF (準々決勝), #R (ラウンド), RR (ラウンドロビン), Q# (予選ラウンド), A (欠場), NH (開催なし).
7.2. Grand Slam Finals
マリー・ピエルスはグランドスラムの決勝にシングルスで6回、ダブルスで2回、混合ダブルスで1回進出し、計4つのタイトルを獲得しました。
7.2.1. Singles: 6 (2 titles, 4 runner-ups)
結果 | 年 | 大会 | サーフェス | 対戦相手 | スコア |
---|---|---|---|---|---|
準優勝 | 1994 | 全仏オープン | クレー | Arantxa Sánchez Vicarioアランチャ・サンチェス・ビカリオスペイン語 | 4-6, 4-6 |
優勝 | 1995 | 全豪オープン | ハード | Arantxa Sánchez Vicarioアランチャ・サンチェス・ビカリオスペイン語 | 6-3, 6-2 |
準優勝 | 1997 | 全豪オープン | ハード | Martina Hingisマルチナ・ヒンギスドイツ語 | 2-6, 2-6 |
優勝 | 2000 | 全仏オープン | クレー | Conchita Martínezコンチタ・マルティネススペイン語 | 6-2, 7-5 |
準優勝 | 2005 | 全仏オープン | クレー | Justine Heninジュスティーヌ・エナンフランス語 | 1-6, 1-6 |
準優勝 | 2005 | 全米オープン | ハード | Kim Clijstersキム・クライシュテルスオランダ語 | 3-6, 1-6 |
7.2.2. Doubles: 2 (1 title, 1 runner-up)
結果 | 年 | 大会 | サーフェス | パートナー | 対戦相手 | スコア |
---|---|---|---|---|---|---|
準優勝 | 2000 | 全豪オープン | ハード | Martina Hingisマルチナ・ヒンギスドイツ語 | Lisa Raymondリサ・レイモンド英語 | |
優勝 | 2000 | 全仏オープン | クレー | Martina Hingisマルチナ・ヒンギスドイツ語 | Virginia Ruano Pascualビルヒニア・ルアノ・パスクアルスペイン語 Paola Suárezパオラ・スアレススペイン語 | 6-2, 6-4 |
7.2.3. Mixed doubles: 1 (1 title)
結果 | 年 | 大会 | サーフェス | パートナー | 対戦相手 | スコア |
---|---|---|---|---|---|---|
優勝 | 2005 | ウィンブルドン | 芝 | Mahesh Bhupathiマヘシュ・ブパシヒンディー語 | Tatiana Perebiynisタチアナ・ペレビイニスウクライナ語 |
7.3. Other WTA Tour Finals
マリー・ピエルスのグランドスラム以外のWTAツアー決勝成績は、シングルスで16勝19敗、ダブルスで9勝5敗です。彼女のWTAツアー決勝成績は、グランドスラムで2勝4敗、ツアー選手権で0勝2敗、ティアI大会で5勝4敗、ティアII大会で5勝11敗、ティアIII大会で2勝1敗、ティアIV・V大会で4勝1敗でした。
7.3.1. Singles: 41 (18 titles, 23 runner-ups)
結果 | No. | 決勝日 | 大会 | サーフェス | 対戦相手 | スコア |
---|---|---|---|---|---|---|
優勝 | 1. | 1991年7月14日 | パレルモ | クレー | Sandra Cecchiniサンドラ・チェッキーニイタリア語 | 6-0, 6-3 |
優勝 | 2. | 1992年2月23日 | チェゼーナ | カーペット (室内) | Catherine Tanvierカトリーヌ・タンビエフランス語 | 6-1, 6-1 |
優勝 | 3. | 1992年7月12日 | パレルモ | クレー | Brenda Schultz-McCarthyブレンダ・シュルツオランダ語 | 6-1, 6-7(3-7), 6-1 |
優勝 | 4. | 1992年11月1日 | プエルトリコ | ハード | Gigi Fernándezジジ・フェルナンデススペイン語 | 6-1, 7-5 |
準優勝 | 1. | 1993年7月11日 | パレルモ | クレー | Radka Bobkováラトカ・バブコバチェコ語 | 3-6, 2-6 |
優勝 | 5. | 1993年10月17日 | フィルダーシュタット | ハード (室内) | Natasha Zverevaナターシャ・ズベレワベラルーシ語 | 6-3, 6-3 |
準優勝 | 2. | 1994年3月27日 | ヒューストン | クレー | Sabine Hackザビーネ・ハックドイツ語 | 5-7, 4-6 |
準優勝 | 4. | 1994年10月2日 | ライプツィヒ | カーペット (室内) | Jana Novotnáヤナ・ノボトナチェコ語 | 5-7, 1-6 |
準優勝 | 5. | 1994年10月16日 | フィルダーシュタット | ハード (室内) | Anke Huberアンケ・フーバードイツ語 | 4-6, 2-6 |
準優勝 | 6. | 1994年11月13日 | フィラデルフィア | カーペット (室内) | Anke Huberアンケ・フーバードイツ語 | 0-6, 7-6(7-4), 5-7 |
準優勝 | 7. | 1995年2月19日 | パリ | カーペット (室内) | Steffi Grafシュテフィ・グラフドイツ語 | 2-6, 2-6 |
優勝 | 7. | 1995年9月14日 | 東京 | ハード | Arantxa Sánchez Vicarioアランチャ・サンチェス・ビカリオスペイン語 | 6-3, 6-3 |
準優勝 | 8. | 1995年10月8日 | チューリッヒ | カーペット (室内) | Iva Majoliイバ・マヨリクロアチア語 | 4-6, 4-6 |
準優勝 | 9. | 1996年4月14日 | アメリアアイランド | クレー | Irina Spîrleaイリナ・スピールリアルーマニア語/モルドバ語 | 7-6(9-7), 4-6, 3-6 |
準優勝 | 11. | 1997年4月13日 | アメリアアイランド | クレー | Lindsay Davenportリンゼイ・ダベンポート英語 | 2-6, 3-6 |
優勝 | 8. | 1997年5月11日 | ローマ | クレー | Conchita Martínezコンチタ・マルティネススペイン語 | 6-4, 6-0 |
準優勝 | 12. | 1997年5月18日 | ベルリン | クレー | Mary Joe Fernandezメアリー・ジョー・フェルナンデス英語 | 4-6, 2-6 |
準優勝 | 13. | 1997年11月23日 | ニューヨーク | カーペット (室内) | Jana Novotnáヤナ・ノボトナチェコ語 | 6-7(4), 2-6, 3-6 |
優勝 | 9. | 1998年2月15日 | パリ | カーペット (室内) | Dominique Monamiドミニク・ファン・ルーストオランダ語 | 6-3, 7-5 |
優勝 | 10. | 1998年4月12日 | アメリアアイランド | クレー | Conchita Martínezコンチタ・マルティネススペイン語 | 6-7(8-10), 6-0, 6-2 |
準優勝 | 14. | 1998年8月9日 | サンディエゴ | ハード | Lindsay Davenportリンゼイ・ダベンポート英語 | 3-6, 1-6 |
優勝 | 11. | 1998年10月25日 | モスクワ | カーペット (室内) | Monica Selesモニカ・セレシュ英語 | 7-6(7-2), 6-3 |
優勝 | 12. | 1998年10月13日 | ルクセンブルク | カーペット (室内) | Silvia Farina Eliaシルビア・ファリナイタリア語 | 6-0, 2-0 途中棄権 |
準優勝 | 15. | 1999年1月10日 | ゴールドコースト | ハード | Patty Schnyderパティ・シュナイダードイツ語 | 6-4, 6-7(5-7), 2-6 |
準優勝 | 16. | 1999年5月2日 | ハンブルク | クレー | Venus Williamsビーナス・ウィリアムズ英語 | 0-6, 3-6 |
準優勝 | 17. | 1999年5月9日 | ローマ | クレー | Venus Williamsビーナス・ウィリアムズ英語 | 4-6, 2-6 |
準優勝 | 18. | 1999年10月10日 | フィルダーシュタット | ハード (室内) | Martina Hingisマルチナ・ヒンギスドイツ語 | 4-6, 1-6 |
優勝 | 13. | 1999年10月31日 | リンツ | カーペット (室内) | Sandrine Testudサンドリーヌ・テスチュフランス語 | 7-6(7-2), 6-1 |
優勝 | 14. | 2000年4月23日 | ヒルトン・ヘッド | クレー | Arantxa Sánchez Vicarioアランチャ・サンチェス・ビカリオスペイン語 | 6-1, 6-0 |
準優勝 | 19. | 2004年2月15日 | パリ | カーペット (室内) | Kim Clijstersキム・クライシュテルスオランダ語 | 2-6, 1-6 |
優勝 | 16. | 2004年6月19日 | スヘルトーヘンボス | 芝 | Klára Koukalováクララ・クーカロバチェコ語 | 7-6(8-6), 6-2 |
優勝 | 17. | 2005年8月7日 | サンディエゴ | ハード | Ai Sugiyama杉山愛日本語 | 6-0, 6-3 |
優勝 | 18. | 2005年10月16日 | モスクワ | カーペット (室内) | Francesca Schiavoneフランチェスカ・スキアボーネイタリア語 | 6-4, 6-3 |
準優勝 | 22. | 2005年11月13日 | ロサンゼルス | ハード (室内) | Amélie Mauresmoアメリ・モレスモフランス語 | 7-5, 6-7(3), 4-6 |
準優勝 | 23. | 2006年2月12日 | パリ | カーペット (室内) | Amélie Mauresmoアメリ・モレスモフランス語 | 1-6, 6-7(2) |
7.3.2. Doubles: 16 (10 titles, 6 runner-ups)
結果 | No. | 決勝日 | 大会 | サーフェス | パートナー | 対戦相手 | スコア |
---|---|---|---|---|---|---|---|
準優勝 | 1. | 1990年12月2日 | サンパウロ | クレー | Luanne Spadeaルアン・スピーデア英語 | Bettina Fulcoベッティーナ・フルコスペイン語 | |
優勝 | 1. | 1991年7月14日 | パレルモ | クレー | Petra Langrováペトラ・ラングロバチェコ語 | Laura Garroneローラ・ガロンイタリア語 | |
準優勝 | 2. | 1992年11月15日 | フィラデルフィア | カーペット (室内) | Conchita Martínezコンチタ・マルティネススペイン語 | Gigi Fernándezジジ・フェルナンデススペイン語 | |
準優勝 | 3. | 1994年2月20日 | パリ | カーペット (室内) | Andrea Temesváriアンドレア・テメシュバリハンガリー語 | Sabine Appelmansサビーネ・アペルマンスオランダ語 | |
優勝 | 2. | 1996年9月22日 | 東京 | ハード | Amanda Coetzerアマンダ・クッツァーアフリカーンス語 | Park Sung-hee朴晟希韓国語 | |
優勝 | 3. | 1997年5月4日 | ハンブルク | クレー | Anke Huberアンケ・フーバードイツ語 | Ruxandra Dragomirルクサンドラ・ドラゴミルルーマニア語/モルドバ語 | |
優勝 | 4. | 1998年4月12日 | アメリアアイランド | クレー | Sandra Cacicサンドラ・カシック英語 | Barbara Schettバルバラ・シェットドイツ語 | |
優勝 | 5. | 1998年10月25日 | モスクワ | カーペット (室内) | Natasha Zverevaナターシャ・ズベレワベラルーシ語 | Lisa Raymondリサ・レイモンド英語 | |
優勝 | 6. | 1999年8月22日 | トロント | ハード | Jana Novotnáヤナ・ノボトナチェコ語 | Larisa Neilandラリサ・ネーランドラトビア語 | |
優勝 | 7. | 1999年11月7日 | ライプツィヒ | カーペット (室内) | Larisa Neilandラリサ・ネーランドラトビア語 | Elena Likhovtsevaエレーナ・リホフツェワロシア語 | |
準優勝 | 4. | 2000年1月15日 | シドニー | ハード | Martina Hingisマルチナ・ヒンギスドイツ語 | Julie Halard-Decugisジュリー・アラール=デキュジスフランス語 | |
優勝 | 8. | 2000年2月6日 | 東京 | カーペット (室内) | Martina Hingisマルチナ・ヒンギスドイツ語 | Alexandra Fusaiアレクサンドラ・フセフランス語 | |
準優勝 | 6. | 2003年6月21日 | スヘルトーヘンボス | 芝 | Nadia Petrovaナディア・ペトロワロシア語 | Elena Dementievaエレーナ・デメンチェワロシア語 | |
優勝 | 10. | 2003年8月10日 | ロサンゼルス | ハード | Rennae Stubbsレネ・スタブス英語 | Elena Bovinaエレーナ・ボビナロシア語 |