1. 生涯と背景
ミゲル・ムニョスはマドリードで生まれた。少年時代にはマドリード近郊の複数のジュニアチームでプレーしたが、当初は地元の強豪クラブであるレアル・マドリードの注目を引くことはなかった。
2. 選手経歴
ムニョスは選手として、レアル・マドリードに加入する前に複数のクラブで経験を積み、その後レアル・マドリードの黄金期を支える重要な選手となった。
2.1. 初期クラブでの経歴
レアル・マドリード入団前には、CDログロニェス、ラシン・サンタンデール、セルタ・デ・ビーゴなどでプレーした。特に1948年には、パヒニョらと共にセルタをラ・リーガ4位に導き、コパ・デル・ヘネラリシモ(現コパ・デル・レイ)決勝に進出した。決勝ではセビージャFCに1-4で敗れたものの、ムニョスはセルタの唯一の得点を挙げた。
2.2. レアル・マドリードでの選手時代
1948年、ムニョスはパヒニョと共にレアル・マドリードと契約し、その後10年間にわたって同クラブでプレーした。彼はレアル・マドリードで公式戦347試合に出場し、ラ・リーガで4回、ラテンカップで2回、そしてヨーロピアンカップで3回の優勝を経験した。
1955年9月8日、ムニョスはセルヴェットFCとのヨーロピアンカップアウェイ戦で、レアル・マドリードにとって同大会史上初となるゴールを決め、2-0の勝利に貢献した。その後、彼はキャプテンとして1955-56シーズンと1956-57シーズンのヨーロピアンカップ連覇をチームに導いた。約36歳となった翌年に現役を引退した。
2.3. スペイン代表での選手時代
ムニョスはスペイン代表として7試合に出場したが、選手として主要な国際大会(FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権)に出場する機会はなかった。
3. 指導者経歴
選手引退後、ムニョスは指導者の道に進み、レアル・マドリードの監督としてクラブ史上最も輝かしい時代を築き上げた。
3.1. レアル・マドリード・カスティージャ(Bチーム)監督
ムニョスは、レアル・マドリードのBチームであるレアル・マドリード・カスティージャ(当時の名称はPlus Ultra CFスペイン語)で短期間の指導者としての修行を積んだ。最初はアシスタントコーチとして、その後監督として指揮を執り、トップチームの監督に就任する足がかりを築いた。
3.2. レアル・マドリード監督時代
1959年にレアル・マドリードのトップチームの監督に就任した。彼の指揮下で、クラブは最も成功した時代の一つを迎え、1974年までの16シーズンにわたりチームを率いた。これはクラブ史上最長の在任期間であり、カルロ・アンチェロッティが2024年にタイトル数で彼を上回るまで、最も成功した監督として記録されていた。
ムニョス監督時代のレアル・マドリードは、ラ・リーガで9回の優勝を果たした。これには1961年から1965年までの5連覇と、1967年から1969年までの3連覇が含まれる。ヨーロッパの舞台では、1959-60シーズンと1965-66シーズンにヨーロピアンカップで2度の優勝を飾った。この結果、彼は選手と監督の両方でヨーロピアンカップを制覇した史上初の人物となり、この偉業は後にジョバンニ・トラパットーニ、ヨハン・クライフ、カルロ・アンチェロッティ、フランク・ライカールト、ペップ・グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダンによっても達成された。

また、コパ・デル・レイでは1961-62シーズン、1969-70シーズン、1973-74シーズンに3回優勝し、インターコンチネンタルカップでも1960年に1回優勝している。さらに、1970-71シーズンにはUEFAカップウィナーズカップで準優勝の成績を収めた。
3.3. その他のクラブでの指導歴
レアル・マドリードを退団した後も、ムニョスは7年間スペインリーグで監督としての経験を積んだ。彼はグラナダCF(1975-1976)、UDラス・パルマス(1977-1979)、そしてセビージャFC(1979-1981)で指揮を執った。また、日本の情報源によればエルクレスCFでも監督を務めたことがある。
3.4. スペイン代表監督時代
1960年代後半には、スペイン代表の暫定監督として4試合を指揮した経験がある。その後、1982年のワールドカップでスペインがグループステージ敗退という不本意な結果に終わった後、ムニョスは1982年から1988年まで正式にスペイン代表監督に就任した。

彼の指導の下、スペイン代表はUEFA欧州選手権1984で準優勝という素晴らしい成績を収め、1986年ワールドカップではベスト8に進出した。
4. 指導者としての統計
以下の表は、ミゲル・ムニョスの選手および監督としてのキャリアにおける各チームでの統計を示している。
チーム | 就任 | 退任 | 記録 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合数 | 勝利 | 引き分け | 敗北 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 勝率 % | |||
レアル・マドリード | 1959年2月21日 | 1959年4月13日 | 9 | 5 | 2 | 2 | 31 | 9 | +22 | 55.56 |
プルス・ウルトラ | 1959年4月20日 | 1960年4月10日 | 31 | 13 | 11 | 7 | 61 | 44 | +17 | 41.94 |
レアル・マドリード | 1960年4月13日 | 1974年1月15日 | 595 | 352 | 126 | 117 | 1194 | 533 | +661 | 59.16 |
スペイン | 1960年5月15日 | 1961年12月10日 | 14 | 9 | 2 | 3 | 28 | 16 | +12 | 64.29 |
グラナダ | 1975年7月1日 | 1976年5月20日 | 38 | 9 | 12 | 17 | 36 | 58 | -22 | 23.68 |
ラス・パルマス | 1977年7月1日 | 1979年6月1日 | 72 | 27 | 21 | 24 | 103 | 92 | +11 | 37.50 |
セビージャ | 1979年7月5日 | 1981年12月6日 | 82 | 32 | 18 | 32 | 100 | 111 | -11 | 39.02 |
スペイン | 1982年10月27日 | 1988年6月17日 | 59 | 30 | 15 | 14 | 101 | 57 | +44 | 50.85 |
キャリア合計 | 900 | 477 | 207 | 216 | 1654 | 920 | +734 | 53.00 |
5. 受賞歴と功績
ミゲル・ムニョスは選手としても監督としても数々の栄誉に輝き、その功績はスペインサッカー史に深く刻まれている。
5.1. 選手としての受賞歴
レアル・マドリード
- ラ・リーガ: 1953-54、1954-55、1956-57、1957-58
- ラテンカップ: 1955、1957
- ヨーロピアンカップ: 1955-56、1956-57、1957-58
5.2. 監督としての受賞歴
レアル・マドリード
- ラ・リーガ: 1960-61、1961-62、1962-63、1963-64、1964-65、1966-67、1967-68、1968-69、1971-72
- コパ・デル・レイ: 1961-62、1969-70、1973-74
- ヨーロピアンカップ: 1959-60、1965-66
- インターコンチネンタルカップ: 1960
- UEFAカップウィナーズカップ: 1970-71 準優勝
スペイン代表
- UEFA欧州選手権1984: 準優勝
5.3. 個人としての受賞歴と評価
ミゲル・ムニョスは、ヨーロピアンカップを選手としても監督としても優勝した史上初の人物である。この偉業は、彼のサッカー界における多才さと影響力を示すものとして高く評価されている。
2019年には、フランスのサッカー専門誌『フランス・フットボール』が選定した「歴代の偉大な監督50人」において、14位にランクインした。
6. 死去
ミゲル・ムニョスは1990年7月16日、マドリードで食道静脈瘤による出血のため68歳で死去した。
7. 功績と評価
ミゲル・ムニョスは、レアル・マドリードの歴史において最も重要な人物の一人として記憶されている。選手としてはクラブの黎明期のヨーロピアンカップ制覇に貢献し、キャプテンとしてチームを牽引した。監督としては、レアル・マドリードを16シーズンにわたって率い、9回のラ・リーガ優勝と2回のヨーロピアンカップ優勝という圧倒的な成績を収め、クラブの「黄金時代」を築き上げた。彼の指導は、レアル・マドリードが国内外で支配的な存在となる基盤を確立し、その後の成功にも大きな影響を与えた。
また、選手と監督の両方でヨーロピアンカップを制覇した初の人物であるという彼の功績は、サッカー界における彼の多面的な才能と伝説的な地位を象徴している。スペイン代表監督としても、主要国際大会でチームを上位に導くなど、その手腕は国際的にも高く評価されている。ムニョスは、その戦術的洞察力とリーダーシップによって、現代サッカーの発展に貢献した偉大な指導者の一人として、その足跡をサッカー界に深く残している。