1. Overview
モーリス・マレシャルは、20世紀前半のフランスを代表するクラシックチェリストの一人です。彼は、ディジョンとパリ音楽院で専門的な教育を受け、若くしてその才能を認められました。第一次世界大戦中には兵士として従軍しながらも、弾薬箱から作られた「戦時のチェロ」を用いて負傷兵の慰問演奏を行うなど、困難な状況下でも音楽への情熱を失わない人間性を示しました。戦後は、世界各地での演奏活動を通じて国際的な名声を得るとともに、モーリス・ラヴェルやダリウス・ミヨーといった同時代の著名な作曲家の作品の初演に携わり、現代作品の普及に大きく貢献しました。また、パリ音楽院の教授として後進の指導にも尽力し、多くの優れたチェリストを育成しました。第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下においては、ドイツでの演奏やドイツが支配するフランスのラジオ番組への出演を拒否するなど、抵抗の意思を明確に示しました。彼の生涯は、芸術への献身と同時に、祖国への深い愛国心と、民主主義や人道主義といった普遍的価値に対する揺るぎない信念に貫かれていました。
2. 生涯
モーリス・マレシャルの人生は、二度の世界大戦という激動の時代を背景に、チェリストとしての輝かしいキャリアと、祖国への深い愛国心、そして芸術への絶え間ない情熱が織りなされています。
2.1. 生誕から学生時代
モーリス・マレシャルは、1892年10月3日、フランスのディジョンで誕生しました。父親のジュール・ジャック・マレシャルは郵便・電信局の職員であり、母親のマルタ・ジュスティーヌ・モリールは音楽愛好家の校長でした。マレシャルは6歳からピアノを始め、熱心に練習を重ねましたが、すぐにチェロへと転向し、アニュイエ教授に師事しました。10歳の時には、ディジョン市立劇場の公開演奏会に出演し、その才能で聴衆を驚かせました。

1907年5月、15歳でカルル・ダヴィドフのチェロ協奏曲第2番で一等賞を獲得し、ディジョン音楽院を卒業しました。その後、パリに移り、初めにルイ・フィヤールに師事しました。優秀な成績でパリ音楽院に入学したマレシャルは、チェロをジュール・ローブに、室内楽をルフェーブルに、理論とオーケストレーションをポール・デュカスに師事しました。また、当時パリに住んでいた著名なチェリスト、パブロ・カザルスからも大きな影響を受けました。1911年、19歳でパリ音楽院をチェロ部門の一等賞を得て卒業しました。
2.2. 第一次世界大戦中の活動
1914年、フランスが第一次世界大戦に参戦すると、マレシャルは徴兵され、約4年間の軍隊生活を送ることになりました。彼は1914年8月から1919年2月までの日々の体験を日記に記録しており、その内容は戦地の厳しい現実と、芸術家としての彼の精神的な強さを物語っています。戦地ではチェロを弾くことができませんでしたが、2人の戦友である大工の兵士たちが、弾薬箱から素朴な木製のチェロを製作してくれました。この即席の楽器を用いて、マレシャルは礼拝や士官、そして負傷兵たちのために慰問演奏を行いました。この「戦時のチェロ」には、フェルディナン・フォッシュ、アンリ・ゴーロー、シャルル・マンジャン、フィリップ・ペタンといった連合国の将軍たちのサインが刻まれており、困難な状況下でも音楽が持つ力、そして兵士たちとの連帯の象徴となりました。
軍務中に彼は、ギュスターヴ・クロエ、リュシアン・デュロゾワール、アンドレ・カプレ、アンリ・ルモワーヌといった他の音楽家たちと出会い、彼らと共に小規模なアンサンブルを結成し、士官たちの前で演奏しました。マレシャルは、その功績により1916年にクロア・ド・ゲール勲章を授与され、さらに後にレジオンドヌール勲章のオフィシエに叙されました。
2.3. 戦間期の活躍と音楽的名声
第一次世界大戦終結後、マレシャルは再び音楽活動を精力的に再開しました。彼は1919年にコンセール・ラムルー管弦楽団に1年間加わった後、ニューヨーク・オーケストラでも活動しました。その後、彼はソロチェリストとしてのキャリアを本格的にスタートさせ、批評家たちから圧倒的な支持を得ました。
1922年には、彼が尊敬するパブロ・カザルスが主宰するパブロ・カザルス・オーケストラと共演し、コンサートマスターであったパブロの兄弟エンリック・カザルスとともにヨハネス・ブラームスの『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』を演奏しました。同年4月6日には、ヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン=モルアンジュとともにモーリス・ラヴェルの『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』の歴史的な世界初演を行いました。この作品はマレシャルに献呈されています。また、友人であったアンドレ・カプレの作品『エピファニ』を初演したことで、指揮者レオポルド・ストコフスキーの注目を集め、1926年にはストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団と共演し、アメリカデビューを果たしました。
ピアニストのエミール・ポワヨを伴奏に迎え、1925年と1926年にはスペイン、1928年にはフランス国内、1933年にはシンガポールとオランダ領東インド(現在のインドネシア)で成功を収めたツアーを行いました。また、ピアニストのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリニストのジャック・ティボーと共にピアノ三重奏団としても活躍し、フランスの第一級のチェリストとしての地位を確立しました。

1935年には来日を果たし、10月30日に名古屋市と東京市でコンサートを開催しました。同年11月3日にはラジオ放送で彼の演奏が流され、日本の聴衆にもその才能を披露しました。
2.4. 第二次世界大戦と抵抗活動
1939年の長期にわたるアメリカツアーは、第二次世界大戦勃発以前の最後の海外演奏旅行となりました。1940年にナチス・ドイツがパリを占領すると、マレシャルはパリを逃れ、故郷のディジョン、そこからマルセイユへと避難しました。彼は家族をアメリカへと避難させましたが、マレシャル自身はフランス国内に留まり、南フランスの諸都市で演奏活動を続け、ラジオ放送にも出演しました。
この時期、マレシャルはレジスタンス運動に深く共感し、ナチス・ドイツの支配に対する明確な抵抗の意思を示しました。彼はドイツ国内での演奏や、ドイツの支配下にあったフランスのラジオ番組への出演の誘いを固く拒否しました。このような彼の行動は、芸術家としての尊厳と、祖国フランスへの揺るぎない愛国心、そして反ナチスの姿勢を強く示すものでした。1942年、彼は死去したジェラール・エッキングの後任としてパリ音楽院の教授に就任し、逝去前年の1963年までその職を務めました。
2.5. 戦後から晩年
第二次世界大戦終結後、マレシャルは再びヨーロッパ全土での演奏活動を展開しましたが、右腕の進行性の筋疾患により、演奏活動は制限されるようになりました。1950年にコンセール・ラムルー管弦楽団との最後の共演を行った後、彼は演奏家としてのキャリアを終えました。同年、彼は再びレジオンドヌール勲章を授けられ、1957年には文化勲章が授与されました。
彼の生涯最後の演奏は、1963年にチェロ製作者マルク・ラベルトの追悼ミサにおいて行われました。演奏活動を終えた後は、パリ音楽院での教育活動に専念し、また国際的なチェロコンクールの審査員としても活躍しました。特に1962年に開催された第2回チャイコフスキー国際コンクールでは、審査委員長を務めたムスティスラフ・ロストロポーヴィチをはじめ、グレゴール・ピアティゴルスキー、ガスパール・カサド、ピエール・フルニエ、スヴャトスラフ・クヌシェヴィツキー、ダニイル・シャフランといった当時の著名なチェリストたちと共に、チェロ部門の審査員を務めました。
マレシャルは、1964年4月19日、腎臓の手術後にパリの自宅で逝去しました。彼の葬儀はディジョン大聖堂で4月22日に行われ、故郷ディジョンのペジョス墓地に埋葬されました。72歳でした。
3. 音楽的業績
モーリス・マレシャルは、その類稀な演奏技術と音楽性により、20世紀の音楽史に多大な貢献をしました。彼は特に同時代の作品の紹介と普及に力を注ぎ、また教育者としても後進の育成に尽力しました。
3.1. 主要レパートリーと初演
マレシャルは、伝統的なクラシック作品の演奏にも長けていましたが、特に同時代の作曲家による作品を積極的にレパートリーに取り入れ、その初演を多く手掛けました。
彼が世界初演した作品の中で最も有名なものの一つは、モーリス・ラヴェルの『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』です。この作品は1922年にヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン=モルアンジュとの共演で初演され、ラヴェル自身によってマレシャルに献呈されました。また、友人であったアンドレ・カプレの『エピファニ』の初演も手掛け、指揮者レオポルド・ストコフスキーの注目を集めるきっかけとなりました。
さらに、彼はアルテュール・オネゲルのチェロ協奏曲の初演を、1930年2月17日にボストンで行いました。この協奏曲のカデンツァ部分は、マレシャル自身が作曲したものです。ダリウス・ミヨーのチェロ協奏曲(1934年パリで初演)もマレシャルに献呈されており、彼はその初演も担当しました。他にも、エルネスト・ブロッホの『ラプソディ』やエドゥアール・ラロのチェロ協奏曲など、幅広い作品を積極的に演奏しました。
演奏旅行で世界各地を訪れる中で、マレシャルは現地の民族音楽にも強い興味を抱くようになりました。彼は日本の作曲家たちの作品を研究し、アジアの音楽家たちとの交流も深めました。1935年の来日時には、「日本のメロディ」というアルバムを録音し、日本の音楽への敬意を示しました。
3.2. 教育活動
1942年、モーリス・マレシャルはパリ音楽院の教授に就任し、1963年まで20年以上にわたり後進の指導にあたりました。彼の指導者としての哲学は、生徒が自身の音楽的直感を信じ、自由に表現することを重視するものでした。
彼の教え子には、クリスティーヌ・ワレフスカや倉田高、アラン・ランバート、ジャン・ムーヴス、アラン・ムニエなどがいます。クリスティーヌ・ワレフスカは、マレシャルから「自分の感じるままに弾きなさい。たとえピアノと書いてあるパッセージでもフォルテで弾きたいと思ったら、ためらわず自分の直感の命じるままに弾きなさい。演奏している音楽に完全に身をゆだねて、自由な気持ちで弾きなさい」と教えられたと回想しています。これは、技術的な正確さだけでなく、音楽に対する感情的な献身と自由な創造性を重視する彼の教育方針をよく表しています。
マレシャルのクラスでは、チェリストのポール・トルトゥリエが作曲した作品を取り上げることもあり、時にはトルトゥリエ自身を招いて生徒への指導を依頼することもありました。このクラスでトルトゥリエは、後に彼の配偶者となるチェリストのモード・マルタンと出会いました。また、マレシャルは国際的なチェロコンクールの審査員も務め、音楽界の将来を担う若手演奏家の育成と評価にも貢献しました。
3.3. 「戦時のチェロ」の象徴的意義
第一次世界大戦中にモーリス・マレシャルの戦友である2人の大工の兵士によって弾薬箱から製作された「戦時のチェロ」は、単なる楽器以上の象徴的な意味を持っています。この素朴なチェロは、戦地の過酷な状況下にあっても、マレシャルの芸術への情熱が失われなかったこと、そして彼が音楽を通じて兵士たちの心を慰め、希望を与えようとした強い意志を示すものです。
このチェロの表面には、フェルディナン・フォッシュ、アンリ・ゴーロー、シャルル・マンジャン、フィリップ・ペタンといった連合国の著名な将軍たちのサインが刻まれています。これは、当時の軍部がマレシャルの慰問活動や音楽の力を評価していた証しであり、また戦場における兵士たちの連帯感を象徴するものです。
戦後、この「戦時のチェロ」はマレシャル一家によって大切に保管され、1969年にパリ音楽院の博物館へと寄贈されました。現在も同博物館に展示されており、マレシャルの人間性、困難な状況下での芸術への揺るぎない献身、そして戦争の悲劇の中で音楽が果たしうる役割を今に伝えています。
4. 人物
モーリス・マレシャルは、1920年にフランスで、アメリカ人女優のロイス・パーキンス(旧姓)と出会いました。ロイス・パーキンスは当時、アメリカ外征軍のボランティアの食堂員として働いていました。二人は結婚し、パリに居を構えました。彼らには娘のドゥニーズと一人の息子がいました。
5. 評価と遺産
モーリス・マレシャルは、20世紀を代表するフランスのチェリストとして、その音楽的、歴史的貢献が高く評価されています。同時代の音楽家や批評家たちは、彼の演奏の温かさと表現の深さを称賛しました。
マレシャルの指導者の一人であったルイ・フィヤールは、チェロの生徒により温かい演奏を指導する際に、しばしばマレシャルの名前を例に出しました。これは、マレシャルが単なる技術的な名手であるだけでなく、音楽に深い感情と人間性を吹き込む能力を持っていたことを示します。
彼は、モーリス・ラヴェル、アルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨーといった同時代の主要な作曲家たちの作品の世界初演を多く手掛け、現代作品の普及に尽力しました。これにより、彼は新しい音楽が聴衆に受け入れられる上で重要な役割を果たしました。また、パリ音楽院での長年の教育活動を通じて、彼は次世代のチェリストたちに大きな影響を与え、多くの才能ある音楽家を育成しました。
第一次世界大戦中の「戦時のチェロ」のエピソードや、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツへの抵抗姿勢は、マレシャルが単なる芸術家にとどまらず、祖国と自由を深く愛する愛国者であったことを示しています。彼の生涯と業績は、困難な時代においても芸術が持つ力、そして人間精神の不屈の象徴として、後世に語り継がれています。