1. 概要
ラウル・ゴンサレス・ブランコは、レアル・マドリードの歴史において最も影響力のある選手の一人として広く認識されており、そのキャリアはスペインサッカー史に名を刻んでいます。彼はレアル・マドリードで歴代最多出場記録を保持し、長年にわたりクラブとスペイン代表の象徴的存在でした。現役引退後は指導者として、古巣レアル・マドリードのユースチームやBチームを率いています。その卓越した技術、戦術的理解度、そして揺るぎないリーダーシップは、サッカー界全体から高く評価されています。
ラウルは1977年6月27日にマドリードのサン・クリストバル・デ・ロス・アンヘレス地区に生まれ、地元のユースチームでサッカーを始めました。その後、アトレティコ・マドリードのユースアカデミーを経てレアル・マドリードに加入し、1994年に17歳でトップチームデビューを果たしました。彼はレアル・マドリードで16年間プレーし、6度のラ・リーガ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝など、数々のタイトルを獲得しました。特に、UEFAチャンピオンズリーグでは、史上初めて異なる2つの決勝で得点した選手となりました。
スペイン代表としても102試合に出場して44得点を記録し、当時の最多得点記録を保持していました。彼は3度のFIFAワールドカップと2度のUEFA欧州選手権に出場し、2002年からはスペイン代表の主将を務めました。彼の特筆すべき点は、プロキャリア17年間で一度もレッドカードを受けたことがないという驚異的な規律の高さです。このフェアプレー精神は、彼が「紳士」と称される所以でもあります。
選手引退後は、2018年からレアル・マドリードのユースチームで指導者としての道を歩み始め、2019年にはレアル・マドリード・カスティージャの監督に就任しました。2020年にはUEFAユースリーグでレアル・マドリードU-19を史上初の優勝に導くなど、監督としてもその才能を発揮しています。彼のキャリアは、個人の卓越した能力と、チームを勝利に導くリーダーシップが融合した模範的なものとして、後進の選手や指導者たちに多大な影響を与え続けています。
2. 幼少期およびユースキャリア
ラウル・ゴンサレス・ブランコのサッカーキャリアは、彼の生まれ故郷であるマドリードの地元のクラブから始まりました。
2.1. 幼少期
ラウルは1977年6月27日にスペインのマドリードで誕生しました。父親のペドロはエンジニアであり、職場がアトレティコ・マドリードの本拠地の近くにあったため、ラウルは幼少期からサッカーが身近にある環境で育ちました。彼は10歳でカランサスという学校のクラブチームに入団し、その並外れたゴール感覚は当時から際立っていました。
2.2. ユースクラブキャリア
ラウルの才能に目をつけた当時のアトレティコ・マドリードのユースチーム監督、フランシスコ・デ・パウラから入団を打診され、アトレティコのファンであった父親ペドロの承諾を得て、ラウルは1990年にアトレティコ・マドリードのユースアカデミーに加入しました。彼はインファンティル(U-14)チームに所属し、翌年にはカデーテ(U-16)チームで国内タイトルを獲得するなど、順調な成長を見せました。
しかし、当時のアトレティコ・マドリード会長ヘスス・ヒルがコスト削減のためユースアカデミーの閉鎖を決定したことにより、ラウルは放出されることになります。その後、1992年にレアル・マドリードのユースアカデミー「ラ・ファブリカ」に移籍。彼はカデーテチームからスタートし、翌シーズンにはフベニールC、そしてフベニールB、フベニールAと各世代のユースチームを駆け上がり、才能を磨きました。レアル・マドリードのユース在籍中、ラウルは1993年と1994年にダラス・カップで優勝を経験しています。
3. クラブキャリア
ラウルのクラブキャリアは、主にスペインのレアル・マドリードでの輝かしい時期に加え、ドイツのシャルケ04、カタールのアル・サッド、アメリカのニューヨーク・コスモスでの経験に分けることができます。
3.1. レアル・マドリード

ラウルは1994-95シーズンにレアル・マドリードCでプロキャリアをスタートさせました。彼はわずか9試合で16ゴール(うち1試合で5ゴールを記録)という驚異的な成績を残し、当時の監督ホルヘ・バルダーノによってトップチームに昇格。1994年10月29日、レアル・サラゴサ戦で17歳124日というクラブ史上最年少(当時)でトップチームデビューを果たしました。このデビューは、クラブの象徴的存在だったエミリオ・ブトラゲーニョに代わっての出場であり、「王座の継承」と称されるほどでした。デビュー戦ではアシストを記録したもののチームは敗れ、ラウルとバルダーノは批判を浴びましたが、翌週のダービーマッチ、古巣アトレティコ・マドリード戦では、ミカエル・ラウドルップのアシストからプロ初ゴールを決め、強烈な印象を与えました。このシーズン、ラウルはリーグ戦28試合に出場し9ゴールを記録し、レアル・マドリードのリーグ優勝に貢献しました。
1995-96シーズンには、UEFAチャンピオンズリーグのグループステージでハットトリックを達成し、大会史上最年少ハットトリック記録を樹立しました。1996-97シーズンからは背番号7を着用し、ファビオ・カペッロ監督のもとで21ゴールを記録し、2度目のリーグ優勝に大きく貢献しました。
1998年にはユヴェントスを破り、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験。同年開催されたトヨタカップでは、CRヴァスコ・ダ・ガマを相手に決勝ゴールを決め、大会MVPに輝きました。1998-99シーズンにはラ・リーガ得点王に輝き、1999-2000シーズンには決勝でバレンシア相手に得点するなど、11ゴールを挙げ大会得点王となりました。1999年10月には、カンプ・ノウで行われたFCバルセロナとのエル・クラシコでゴールを決めた後、敵地の大観衆に向かって人差し指を口にあて「静かに」と促すジェスチャーを見せ、その勇気ある行動は語り草となっています。
2000-01シーズンには、自身2度目のラ・リーガ得点王となり、UEFAチャンピオンズリーグでも得点王に輝きました。この活躍が評価され、2001年にはバロンドールで2位、FIFA最優秀選手賞で3位に選出されました。さらに、1999-2000シーズンから2001-02シーズンまでの3年連続でUEFA年間最優秀FW賞を受賞しました。
2003年にはフェルナンド・イエロの移籍に伴い、レアル・マドリードの主将に就任。この重責を2010年にクラブを離れるまで務め上げ、「エル・カピタン」(キャプテン)の愛称で親しまれました。ラウルはコパ・デル・レイの決勝に2度出場(2002年、2004年)し、2002年の決勝では得点も挙げましたが、タイトル獲得には至りませんでした。彼は2005年9月28日のオリンピアコス戦で、UEFAチャンピオンズリーグ史上初めて50ゴールを達成した選手となり、同大会で100試合出場を達成した最初の選手でもあります。また、UEFAチャンピオンズリーグ決勝で複数回得点した初の選手でもあり、2000年と2002年の決勝でそれぞれゴールを記録しました。
ラウルは17年間のプロキャリアで一度もレッドカードを受けたことがないという、驚異的なフェアプレー記録を誇っています。2008年11月11日、レアル・ウニオン戦でハットトリックを達成し、レアル・マドリードでの通算300ゴールを記録しました。2009年2月15日のスポルティング・ヒホン戦で、アルフレッド・ディ・ステファノのクラブ歴代最多得点記録(307ゴール)を更新する通算309ゴール目を記録しました。最終的に、レアル・マドリードでは323ゴールを挙げ、クラブ歴代2位の得点記録保持者となりました(後にクリスティアーノ・ロナウドに更新される)。彼はラ・リーガの歴代得点ランキングでも、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウド、テルモ・サラ、ウーゴ・サンチェスに次ぐ5位に位置しています。

2008年、ラウルと長年チームメイトだったイケル・カシージャスは、毎年30試合以上に出場する限り自動更新される「終身契約」をレアル・マドリードと結びました。2009年9月23日、ラウルはレアル・マドリードでのリーグ戦出場記録においてマヌエル・サンチスの記録と並び、ラ・リーガ全体ではアンドニ・スビサレッタに次ぐ歴代2位の出場記録を保持しています。
2010年4月24日、レアル・サラゴサとのアウェイゲームが、ラウルにとってレアル・マドリードの選手としての最後の試合となりました。この試合は、彼がプロデビューしたエスタディオ・デ・ラ・ロマレーダで行われ、ラウルは負傷を抱えながらも先制点を記録しました。このゴールは、彼のレアル・マドリードでの最後の得点となりました。怪我の回復にシーズン残りの期間を費やした後、2010年7月25日、クラブはラウルが長年の盟友グティに続き、レアル・マドリードを退団することを発表しました。
3.2. シャルケ04

2010年7月28日、ラウルはドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04と2年契約を結びました。当時のシャルケ監督フェリックス・マガトは、「シャルケ04にとって素晴らしいニュースだ。並外れた選手であり、ワールドクラスのストライカーがブンデスリーガのシャルケ04に移籍してくれたことを喜んでいる」と、彼の獲得を歓迎しました。ラウルはシャルケがUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得していたことが、移籍を決めた理由の一つだと語っています。
シャルケでの初ゴールは、2010年8月1日にバイエルン・ミュンヘンとのプレシーズンマッチ「LIGA total! Cup」決勝で記録した2ゴールでした。その1週間後、8月7日の2010 DFLスーパーカップで公式戦デビューを果たしましたが、この試合では得点できず、チームも0-2で敗れました。8月21日のハンブルガーSV戦でブンデスリーガデビューを飾り、9月25日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦でブンデスリーガ初ゴールを記録しました。その後、11月20日のヴェルダー・ブレーメン戦、12月18日の1.FCケルン戦でそれぞれハットトリックを達成し、ブンデスリーガでの得点感覚を取り戻しました。
2011年3月2日、ラウルはDFBポカール準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦で決勝ゴールを挙げ、1-0の勝利に貢献。シャルケは2005年以来となるカップ戦決勝進出を果たしました。同年5月21日に行われた決勝では、MSVデュースブルクを5-0で破り、レアル・マドリード時代に獲得できなかった国内カップ戦タイトルを、シャルケ加入1年目でついに手にしました。この成功に続き、2ヶ月後の7月23日にはリーグ王者のボルシア・ドルトムントとの2011 DFLスーパーカップでも勝利を収めました。
ヨーロッパの舞台では、ラウルはUEFA主催大会で通算73ゴールを記録し、ACミランのベテランフィリッポ・インザーギの70ゴールを上回り、歴代最多得点者となりました。UEFAチャンピオンズリーグでは通算71ゴール(レアル・マドリードで66ゴール、シャルケ04で5ゴール)を記録したほか、2000 UEFAスーパーカップで1ゴール、1998インターコンチネンタルカップで1ゴールを加えています。2010年10月22日のハポエル・テルアビブ戦で2ゴールを挙げ、ドイツの伝説的選手ゲルト・ミュラーとヨーロッパにおける最多ゴール記録で並びました。2011年2月15日には、古巣スペインでのバレンシアとのチャンピオンズリーグラウンド16第1戦で貴重なアウェイゴールを決め、この記録を完全に更新しました。
チャンピオンズリーグ準々決勝ではインテル・ミラノを相手に2ゴールを記録し、シャルケをクラブ史上初のチャンピオンズリーグ準決勝進出に導きました。準決勝ではマンチェスター・ユナイテッドに敗れましたが、ラウルはライアン・ギグスとユニフォームを交換したことを光栄だと語っています。2011年11月19日には、負傷したベネディクト・ヘーヴェデスに代わって1.FCニュルンベルク戦でシャルケの主将として初めてプレーし、この試合でゴールも記録しました。
2011年12月17日のヴェルダー・ブレーメン戦では再びハットトリックを達成し、5-0の勝利に貢献し、チームを冬のリーグ中断期間前に3位に定着させました。2012年2月19日には、キャリア通算400ゴール目を記録しました(レアル・マドリードで323ゴール、スペイン代表で44ゴール、シャルケで33ゴール)。2012年4月5日のUEFAヨーロッパリーグアスレティック・ビルバオ戦の第2戦では、ヨーロッパの大会で通算77ゴール目を記録しました。
2012年4月19日、ラウルは契約満了に伴い6月にシャルケを退団し、「自分の未来はヨーロッパにはない」と発表しました。ラウルがシャルケに与えた影響は大きく、彼の退団に際し、クラブは背番号7を無期限欠番とすることを検討しました。しかし、2013年には若手有望株のマックス・マイヤーに背番号7が与えられました。
3.3. アル・サッド

2012年5月12日、ラウルはカタールのサッカークラブアル・サッドと契約し、2012-13シーズンからプレーすることが発表されました。アル・サッドでの最初の公式戦は、2012年8月5日のシェイク・ジャシムカップのメサイミール戦で、この試合でペナルティキックから得点を挙げ、2-0の勝利に貢献しました。この試合で、彼は途中交代でキャプテンマークを受け取り、キャプテンとしての役割も果たしました。
2013年4月13日、ラウルは主将としてアル・サッドを2012-13シーズンのカタール・スターズリーグ優勝に導きました。彼は22試合に出場して9ゴールを挙げ、アル・サッドが5年ぶりにリーグタイトルを獲得する上で重要な役割を果たしました。また、2013年5月にはカタールサッカー協会からフェアプレー賞を受賞しました。2014年のエミールカップでは、決勝でアル・ラーヤンに敗れましたが、ラウルも得点を記録しました。
2013年8月22日、ラウルはトロフェオ・サンティアゴ・ベルナベウでレアル・マドリードの選手として前半に出場し、先制ゴールを挙げました。その後、後半はアル・サッドの選手としてプレーし、レアル・マドリードが5-0で勝利を収めました。2014年3月5日、ラウルはカタールのサッカーシーズン終了をもってプロサッカー選手としての引退を表明しました。
3.4. ニューヨーク・コスモス
2014年10月30日、ラウルはアメリカのニューヨーク・コスモスと契約し、プロサッカーに復帰することを発表しました。彼はユースアカデミーのテクニカルアドバイザーも兼任することになりました。
2015年4月4日、彼は北米サッカーリーグ(NASL)でデビュー戦を飾りました。対戦相手はかつてのレアル・マドリードのチームメイトであるロナウドが共同オーナーを務めるフォートローダーデール・ストライカーズでした。この試合は1-0で勝利しましたが、ラウルは後半にハムストリングの負傷で途中退場しました。翌週のインディ・イレブン戦では、1-1の引き分けに持ち込む同点ゴールを記録し、コスモスが5勝5引き分けで春季シーズンを無敗で制する中で4ゴールを挙げました。
2015年10月16日、ラウルは再びシーズン終了後の現役引退を発表しました。コスモスはレギュラーシーズンを最高の成績で終え、北米サポーターズトロフィーを獲得しました。11月7日、彼は準決勝のストライカーズ戦で、逆転となる決勝ゴールを挙げ、チームをサッカーボウル2015へと導きました。8日後の決勝ではオタワ・フューリーを3-2で破り優勝し、ラウルはガストン・セッレリーノのハットトリックをアシストしました。彼はサッカーボウルでの勝利後、改めて引退の意思を表明し、現役キャリアに有終の美を飾りました。
4. 代表キャリア
ラウルはユース世代からスペイン代表で活躍し、その輝かしいキャリアはA代表にまで及びました。
4.1. ユース代表チーム
ラウルは1995年、FIFA U-20ワールドカップにスペイン代表として出場し、5試合で3ゴールを記録しました。また、1996年に自国開催されたUEFA U-21欧州選手権では決勝に進出し、イタリアとの決勝では一時同点となるゴールを挙げましたが、その後のPK戦でPKを外し、惜しくも準優勝に終わりました。しかし、彼はこの大会で9試合8ゴールという活躍を見せ、得点王に輝きました。ラウルはスペインの各世代のユース代表チームで合計17ゴールを記録しました。
4.2. A代表チーム
ラウルは1996年10月9日、1998 FIFAワールドカップ予選のチェコ戦でスペインA代表デビューを果たしました。同年12月14日には、同予選のユーゴスラビア戦でA代表初ゴールを記録しました。彼はA代表で通算102試合に出場し44ゴールを記録し、当時のスペイン代表最多得点記録を保持していました(後にダビド・ビジャに更新される)。彼の44の国際ゴール中、32ゴールは公式戦で、うち6ゴールは主要国際大会の本大会で記録されました。ラウルはスペイン史上最高の選手の一人として認識されています。彼は2002年からはスペイン代表の主将を務め、2006年の代表引退までその役割を全うしました。
4.2.1. 1998 FIFAワールドカップ
1998年FIFAワールドカップフランス大会では、ラウルはスペイン代表の全試合に出場しました。グループリーグ初戦のナイジェリア戦では先制ゴールを記録しましたが、チームは2-3で敗れました。最終的にスペインはグループDで敗退し、決勝トーナメントには進出できませんでした。
4.2.2. UEFAユーロ2000
UEFAユーロ2000予選では、1999年3月27日のオーストリア戦で4ゴールを挙げる活躍を見せ、そのわずか4日後のサンマリノ戦でもハットトリックを達成しました。本大会では、グループリーグのスロベニア戦でゴールを決め、チームの勝利に貢献しました。スペインは準々決勝で後に優勝するフランスと対戦し、ラウルは試合終了間際に同点に持ち込むPKを外してしまい、チームは延長戦に突入することなく敗退しました。
4.2.3. 2002 FIFAワールドカップ
2002年FIFAワールドカップ日韓大会では、ラウルはグループリーグのスロベニア戦で先制ゴールを、南アフリカ戦で2ゴールを記録するなど、グループリーグで3ゴールを挙げチームを牽引しました。しかし、アイルランドとのラウンド16で股関節を負傷し、大会残りの試合を欠場することになりました。スペインは彼の不在の中、準々決勝で共催国の韓国にPK戦の末敗れ、大会を去りました。
4.2.4. UEFAユーロ2004
2002年9月7日、ラウルはユーロ2004予選のギリシャ戦で得点し、56国際試合で29ゴールを記録。これは当時、引退したばかりのフェルナンド・イエロが保持していたスペイン代表の最多得点記録に並ぶものでした。そして2003年2月12日、ドイツとの親善試合で2ゴールを挙げ、30ゴール目を記録し、この記録を更新しました。UEFAユーロ2004本大会では全試合に先発出場しましたが、スペインはグループリーグで敗退しました。
4.2.5. 2006 FIFAワールドカップ
2005年10月8日、ラウルは2006 FIFAワールドカップ予選のベルギー戦で89キャップ目を記録し、イエロと並びフィールドプレーヤーとしてスペイン代表最多出場記録を樹立しました。しかし、ルイス・アラゴネス新監督がダビド・ビジャとフェルナンド・トーレスのコンビを好んだため、この大会での出場機会は減少しました。
ドイツで開催された2006年FIFAワールドカップ本大会では、グループリーグ第2戦のチュニジア戦で後半からルイス・ガルシアに代わって途中出場。チームが0-1でリードされている状況で、セスク・ファブレガスのシュートを相手ゴールキーパーがこぼしたところを押し込み、同点ゴールを挙げ、チームの3-1の勝利に貢献しました。2006年8月15日には、アイスランドとの親善試合でスペイン代表として100試合出場を達成しました。彼の最後の代表戦は、2006年9月6日の北アイルランド戦で、この試合で彼はポストを直撃するシュートを放つもゴールには繋がりませんでした。
5. 監督キャリア
選手引退後、ラウルは指導者の道へ進み、古巣レアル・マドリードで経験を積んでいます。
5.1. レアル・マドリード・ユースチーム
2018年8月17日、ラウルはレアル・マドリードのユースコーチに就任し、U-15チーム(カデーテB)の指揮を執ることになりました。2019年3月には、トップチームの選手を批判したことで解任されたU-18チーム(フベニールB)の監督アルバロ・ベニトの後任として昇格しました。
2020年7月には、U-19チーム(フベニールA)の監督がパナシナイコスFCの監督に就任したため、ラウルが暫定的にU-19チームの指揮を執ることになりました。彼はこのU-19チームをUEFAユースリーグでクラブ史上初の決勝進出に導き、さらに決勝ではSLベンフィカU-19を3-2で破り、クラブ史上初のユースリーグ優勝を成し遂げました。
5.2. レアル・マドリード・カスティージャ
2019年6月20日、ラウルはレアル・マドリード・カスティージャ(レアル・マドリードBチーム)の監督に就任することが発表されました。同年8月25日のラス・ロサスとのセグンダ・ディビシオンBでのデビュー戦は1-1の引き分けでした。
2021年には、チームを昇格プレーオフに進出させましたが、準決勝でUDイビサとスコアレスドローに終わり、シード権によりイビサに昇格を譲ることになりました。この際、彼はジネディーヌ・ジダンの後任としてトップチームの監督になるという噂を否定し、「ここが自分の家であり、いたい場所だ」と述べました。
その2年後、カスティージャは新たなカテゴリーであるプリメーラ・フェデラシオンで再び昇格プレーオフに進出しました。決勝ではCDエルデンセと対戦し、第2戦では3-3の引き分けに終わりましたが、レギュラーシーズンでの成績が優れていたエルデンセが昇格を決めました。試合後、ラウルの記者会見は、ホームチームの祝うファンによるピッチおよび施設への侵入のため、安全上の理由で中止されました。
6. 選手プロファイル
ラウル・ゴンサレス・ブランコは、その卓越したプレースタイルとサッカー界からの高い評価により、伝説的な選手として記憶されています。
6.1. プレースタイル

ラウルは史上最高のフォワードの一人として広く認められています。キャリアの大半を背番号7を背負い、主にセンターフォワードとしてプレーしましたが、セカンドストライカーやトップ下、さらには左ウイングとしてもプレー可能な戦術的柔軟性を持っていました(特にファビオ・カペッロ監督の下では)。彼は左利きでありながら、どの距離からでも正確かつ力強いシュートを放つことができ、特にループシュートを得意としていました。優れたボールコントロール、広い視野、高い技術力を持ち、空中戦にも強さを発揮しました。
ラウルは単なる得点源にとどまらず、非常に創造的で勤勉な選手であり、チームメイトへのアシストやチャンスメイクにも長けていました。キャリア後半では、攻撃的ミッドフィールダーとして起用されることもありました。彼のプレースタイルのもう一つの特徴は、その模範的なリーダーシップと規律の高さです。彼は17年間のプロキャリアで一度もレッドカードを受けたことがなく、イエローカードを受けることも稀でした。そのスピード、優雅さ、そして得点能力から、レアル・マドリードの象徴的存在であるフェルナンド・イエロからは「エル・フェラーリ」(フェラーリ)と称賛されました。また、彼は正確なPKキッカーでもありました。2013年には、元イングランド代表DFのリオ・ファーディナンドが、ラウルのオフ・ザ・ボールでの巧妙な動きや、相手守備の隙を突く能力を高く評価し、「今まで対戦した中で最もインテリジェントな選手」と評しています。
6.2. 評価とレガシー
ラウルは史上最も偉大なフォワードの一人、そしてスペイン史上最高の選手の一人として広く評価されています。彼はサッカー界全体に多大な功績と遺産を残しました。
彼の主な業績には、1999年のIFFHS年間世界得点王、1999-2000、2000-01、2001-02シーズンの3年連続UEFA年間最優秀FW賞受賞があります。UEFAチャンピオンズリーグでは1999-2000、2000-01シーズンに得点王に輝き、2002-03シーズンには最多アシストを記録しました。2001年にはバロンドールで2位、FIFA最優秀選手賞で3位に選出されました。2004年にはFIFA 100に選ばれ、UEFAが選定した1954年から2004年までの欧州ベスト50選手にも名を連ねました。また、ヨーロッパ・スポーツ・メディア選定の欧州年間ベストイレブンに1997年、1999年、2000年に選出されています。
国内では、ラ・リーガ得点王に1998-99、2000-01シーズンに2度輝き、ドン・バロン・アワードの最優秀スペイン人選手には最多となる5度(1996-97、1998-99、1999-2000、2000-01、2001-02)選ばれています。1998年のインターコンチネンタルカップでは最優秀選手に選ばれ、2007-08シーズンに創設されたトロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノの初代受賞者となりました。2009年にはマルカ・レジェンダを受賞し、ドイツでは2011年と2013年に年間最優秀ゴールに選出されました。2013年にはカタール・スターズリーグでフェアプレー賞も受賞しています。
彼のリーダーシップは、レアル・マドリードとスペイン代表の両方で主将を務めたことから「エル・カピタン」として広く知られています。ファビオ・カペッロは彼を「勝者」、ハビエル・クレメンテは「現在の世界最高のストライカー」と評しました。ドイツの伝説フランツ・ベッケンバウアーは「彼はヨーロッパで最も優れた選手の一人であり、レアル・マドリードの魂だ。我々にとってのマテウスのようだ」と称賛しました。ティエリ・アンリは「彼がプレーするとき、彼の頭の中にはただゴールしかない。それがサッカーの本質だ。彼が何かをすると、人々は席を立ち上がるだろう」と語りました。アレックス・ファーガソン監督は、「レアルはフィーゴ、ジダン、ロナウドといった多くの偉大な選手を獲得したが、私にとって世界最高の選手はラウルだった」と述べました。オットマー・ヒッツフェルトは「もし可能なら今すぐにでもラウルを獲得したい。彼は試合の流れを変えることができる選手であり、彼の全てを気に入っている」と語りました。フランチェスコ・トッティは「ラウルのような選手がバロンドールを受賞した経験がないなんておかしな話だ」と述べ、ロナウドも彼をバロンドールを受賞すべきだった選手の一人に挙げています。
ラウルは、そのキャリアを通じて一度もレッドカードを受けたことがなく、めったに警告も受けませんでした。これは彼の並外れた規律とスポーツマンシップの証であり、「フェアプレーの紳士」として称えられています。試合中に彼に対して激高したり、演技を指摘する選手はほとんどおらず、彼が倒れると多くの選手が手を差し伸べると言われています。
彼のゴールパフォーマンスは、結婚指輪にキスをするのが有名で、これは妻への愛情を示すものでした。このパフォーマンスから、彼は「指輪の主」という愛称も得ています。
6.3. 批判と論争
ラウルはレアル・マドリードの象徴的存在であり、広く尊敬を集めていましたが、彼の影響力やチーム内での役割に関して、一部で批判や論争が提起されたこともあります。
例えば、かつてレアル・マドリードに所属していたハビエル・ポルティージョの父親は、息子が放出されたのはラウルのせいだと報じられたことがあります。また、ブラジル人DFのシシーニョはレアル・マドリード退団から3年後、「(レアル・マドリードの)ロッカールームの中は『ラウル・マドリード』だった」と発言し、「ロベルト・カルロスやロナウドがいなくなった後、ブラジル人の立場は悪くなり迫害された」と批判的な見解を示しました。これは、ラウルのチーム内での絶大な影響力が、一部の選手にとっては必ずしもポジティブに作用しなかった可能性を示唆するものです。
7. 私生活
ラウル・ゴンサレス・ブランコの私生活は、彼のプロフェッショナルなキャリアと同様に安定しており、家族との絆を大切にする人物として知られています。
1999年、ラウルはモデルのマメン・サンスと結婚しました。夫婦の間には4男1女の合計5人の子供がいます。長男のホルヘは、ラウルをトップチームに昇格させた当時の監督ホルヘ・バルダーノにちなんで名付けられました。次男のウーゴは、ラウルのアイドルであり、レアル・マドリードのストライカーだったウーゴ・サンチェスにちなんで名付けられました。双子のヘクターとマテオは、それぞれレアル・マドリードに所属したエクトル・リアルとドイツの名手ローター・マテウスにちなんで名付けられました。そして、長女はマリアと名付けられました。2016年には、長男ホルヘと次男ウーゴがそれぞれニューヨークでサッカー選手として活動しており、ホルヘはフォーダム大学付属高校で、ウーゴはニューヨーク・シティFCのユースアカデミーでプレーしていました。2022年には、娘のマリアもレアル・マドリードのU-15女子チームに加入しました。
ラウルは読書家であり、特にスペインの作家アルトゥーロ・ペレス=レベルテの作品を愛読しています。また、趣味は狩猟、スペイン音楽、そして闘牛です。レアル・マドリードがリーグ優勝を果たした際には、クラブのエンブレムが入ったカポーテ(闘牛士が使うマント)を使って闘牛のパフォーマンスを披露することもありました。このパフォーマンスは、ラウルがレアル・マドリードを退団した後、セルヒオ・ラモスに受け継がれています。
フェルナンド・モリエンテスとは長年の親友であり、レアル・マドリードとスペイン代表の両方で息の合った2トップを形成していました。2005-06シーズンにラウルが負傷していた際には、モリエンテスが所属していたリヴァプールのホームスタジアムアンフィールドに何度か観戦に訪れています。2002年8月30日のUEFAスーパーカップのフェイエノールト戦では、ロナウドの加入により出場機会が減少していたモリエンテスのユニフォームを自身のユニフォームの下に着用して試合に臨んだエピソードもあります。ラウルはその試合でゴールを決めることはできませんでしたが、チームは3-1で勝利し、クラブ史上初のスーパーカップ制覇を成し遂げました。
ラウルは試合中に激高したり、演技を指摘されることがほとんどない、紳士的なプレーヤーとして知られています。彼が倒れた場合や接触があった場合でも、ほとんどの選手が手を差し伸べるほどです。また、彼はキャリアを通じて一度もシミュレーション(意図的な倒れ込み)の判定を受けたことがありません。シャルケでチームメイトだった内田篤人は、ラウルを「献身的で守備もするが、それでいて点も取る。ああいう選手がいると後ろが楽」「ラウルはスターだが意見も聞いてくれる、そういう人間性が凄い」と評価しています。内田が負傷で走れない時に、ラウルが内田のボールを奪い「お前は止まっておけ」と気遣った話も残っています。
8. メディアとパブリックイメージ
ラウル・ゴンサレス・ブランコは、その卓越したサッカーキャリアを通じて、メディアや広告業界でも大きな存在感を示し、大衆に広く認知されるパブリックイメージを確立しました。
彼はドイツのスポーツ用品メーカーであるアディダスと長年にわたりスポンサー契約を結んでいました。アディダス製サッカーブーツ「アディダス・プレデター」の広告塔を務め、2004年にはジネディーヌ・ジダン、ミヒャエル・バラック、アレッサンドロ・デル・ピエーロ、ダヴィド・トレゼゲといった当時のスター選手たちと共にモペッドに乗って登場するアディダスのCMに出演しました。
また、ラウルはペプシのCMにも出演しており、2002年の日韓ワールドカップに先立って制作された広告では、デビッド・ベッカム、ロベルト・カルロス、ジャンルイジ・ブッフォンらと共に相撲選手と対決するユニークな設定のCMに登場しました。
彼はEAスポーツのビデオゲームシリーズ「FIFA」にも登場しています。彼の象徴的なゴールセレブレーションである、結婚指輪にキスをする仕草は「FIFA 18」にも再現されており、このセレブレーションから彼は「指輪の主」という愛称でも親しまれています。
9. 獲得タイトルと業績
ラウル・ゴンサレス・ブランコは、選手としてだけでなく監督としても、数々のタイトルと個人賞を獲得し、輝かしいキャリアを築き上げました。
9.1. 選手としての獲得タイトル
レアル・マドリード・ユース
- ダラス・カップ: 1993, 1994
レアル・マドリード
- ラ・リーガ: 1994-95, 1996-97, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ: 1997, 2001, 2003, 2008
- UEFAチャンピオンズリーグ: 1997-98, 1999-2000, 2001-02
- UEFAスーパーカップ: 2002
- インターコンチネンタルカップ: 1998, 2002
シャルケ04
- DFBポカール: 2010-11
- DFLスーパーカップ: 2011
アル・サッド
- カタール・スターズリーグ: 2012-13
- アミールカップ: 2014
ニューヨーク・コスモス
- 北米サッカーリーグ 春季シーズン: 2015
- 北米サポーターズトロフィー: 2015
- サッカーボウル: 2015
スペインU-21
- UEFA U-21欧州選手権 準優勝: 1996
9.2. 監督としての獲得タイトル
レアル・マドリードU-19
- UEFAユースリーグ: 2019-20
9.3. 個人賞と記録
- UEFA U-21欧州選手権 得点王: 1996
- ラ・リーガ最優秀新人選手: 1994-95
- ラ・リーガ国内最多得点者: 1995-96, 1998-99, 2000-01, 2002-03
- ラ・リーガ最優秀スペイン人選手: 1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2001-02(歴代最多)
- ESM年間ベストイレブン: 1996-97, 1998-99, 1999-2000
- ラ・リーガ得点王: 1998-99, 2000-01
- UEFAチャンピオンズリーグ 得点王: 1999-2000, 2000-01
- UEFAチャンピオンズリーグ 最多アシスト: 2002-03
- UEFA年間最優秀FW: 1999-2000, 2000-01, 2001-02
- UEFA欧州選手権2000 大会ベストイレブン: 2000
- IFFHS 世界得点王: 1999
- バロンドール 2位: 2001
- FIFA最優秀選手賞 3位: 2001
- FIFA 100
- トロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノ: 2007-08
- マルカ・レジェンダ: 2009
- ドイツ月間最優秀ゴール: 2011年8月, 2012年3月, 2012年4月, 2013年7月
- ドイツ年間最優秀ゴール: 2011, 2013(ユリアン・ドラクスラーと共同受賞)
- カタール・スターズリーグ フェアプレー賞: 2013
- NASL月間最優秀選手: 2015年5月
記録
- レアル・マドリード 歴代最多出場記録: 741試合
- レアル・マドリード ラ・リーガ歴代最多出場記録: 550試合
- 欧州カップ戦 歴代最多出場記録: 150試合*
- IFFHS統計による世界の歴代得点者3位: 125ゴール^^
- *UEFAカップウィナーズカップ、UEFAインタートトカップ、UEFAヨーロッパリーグ、UEFAスーパーカップなど、その他の欧州カップ戦出場記録を含む。
- ^^その他の欧州カップ戦およびインターコンチネンタルカップ出場記録を含む。
- キャリアを通じてレッドカードを受けたことがない。
9.4. 勲章
- スペイン政府 王立スポーツ功労勲章 金メダル: 2006
- マドリード市 金メダル: 2009
10. キャリア統計
ラウル・ゴンサレス・ブランコの選手および監督としてのキャリア統計は以下の通りです。
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ1 | 大陸2 | その他3 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | ||
レアル・マドリードC | 1994-95 | セグンダ・ディビシオンB | 9 | 16 | - | - | - | 9 | 16 | |||
レアル・マドリードB | 1994-95 | セグンダ・ディビシオン | 1 | 0 | - | - | - | 1 | 0 | |||
レアル・マドリード | 1994-95 | ラ・リーガ | 28 | 9 | 2 | 1 | 0 | 0 | - | 30 | 10 | |
1995-96 | ラ・リーガ | 40 | 19 | 2 | 1 | 8 | 6 | 2 | 0 | 52 | 26 | |
1996-97 | ラ・リーガ | 42 | 21 | 5 | 1 | - | - | 47 | 22 | |||
1997-98 | ラ・リーガ | 35 | 10 | 1 | 0 | 11 | 2 | 3 | 0 | 49 | 13 | |
1998-99 | ラ・リーガ | 37 | 25 | 2 | 0 | 8 | 3 | 2 | 1 | 49 | 29 | |
1999-2000 | ラ・リーガ | 34 | 17 | 4 | 0 | 15 | 10 | 4 | 2 | 57 | 29 | |
2000-01 | ラ・リーガ | 36 | 24 | 0 | 0 | 12 | 7 | 2 | 1 | 50 | 32 | |
2001-02 | ラ・リーガ | 35 | 14 | 6 | 6 | 12 | 6 | 2 | 3 | 55 | 29 | |
2002-03 | ラ・リーガ | 31 | 16 | 2 | 0 | 12 | 9 | 2 | 0 | 47 | 25 | |
2003-04 | ラ・リーガ | 35 | 11 | 7 | 6 | 9 | 2 | 2 | 1 | 53 | 20 | |
2004-05 | ラ・リーガ | 32 | 9 | 1 | 0 | 10 | 4 | - | 43 | 13 | ||
2005-06 | ラ・リーガ | 26 | 5 | 0 | 0 | 6 | 2 | - | 32 | 7 | ||
2006-07 | ラ・リーガ | 35 | 7 | 1 | 0 | 7 | 5 | - | 43 | 12 | ||
2007-08 | ラ・リーガ | 37 | 18 | 1 | 0 | 8 | 5 | 2 | 0 | 48 | 23 | |
2008-09 | ラ・リーガ | 37 | 18 | 1 | 3 | 7 | 3 | 2 | 0 | 47 | 24 | |
2009-10 | ラ・リーガ | 30 | 5 | 2 | 0 | 7 | 2 | - | 39 | 7 | ||
合計 | 550 | 228 | 37 | 18 | 132 | 66 | 22 | 11 | 741 | 323 | ||
シャルケ04 | 2010-11 | ブンデスリーガ | 34 | 13 | 4 | 1 | 12 | 5 | 1 | 0 | 51 | 19 |
2011-12 | ブンデスリーガ | 32 | 15 | 3 | 2 | 11 | 4 | 1 | 0 | 47 | 21 | |
合計 | 66 | 28 | 7 | 3 | 23 | 9 | 2 | 0 | 98 | 40 | ||
アル・サッド | 2012-13 | カタール・スターズリーグ | 22 | 9 | 12 | 3 | 0 | 0 | - | 34 | 12 | |
2013-14 | カタール・スターズリーグ | 17 | 2 | 5 | 2 | 5 | 0 | - | 27 | 4 | ||
合計 | 39 | 11 | 17 | 5 | 5 | 0 | - | 61 | 16 | |||
ニューヨーク・コスモス | 2015 | NASL | 28 | 8 | 2 | 0 | - | 2 | 1 | 32 | 9 | |
キャリア合計 | 693 | 291 | 63 | 26 | 160 | 75 | 26 | 12 | 942 | 404 |
- 1コパ・デル・レイ、DFBポカール、エミールカップ、USオープンカップを含む。
- 2UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグ、AFCチャンピオンズリーグを含む。
- 3スーペルコパ・デ・エスパーニャ、DFLスーパーカップ、UEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップ、FIFAクラブワールドカップを含む。
代表チーム | 年 | 出場 | ゴール |
---|---|---|---|
スペイン | 1996 | 4 | 1 |
1997 | 6 | 0 | |
1998 | 10 | 4 | |
1999 | 9 | 10 | |
2000 | 11 | 3 | |
2001 | 9 | 5 | |
2002 | 9 | 6 | |
2003 | 10 | 8 | |
2004 | 13 | 3 | |
2005 | 12 | 2 | |
2006 | 9 | 2 | |
合計 | 102 | 44 |
チーム | 開始 | 終了 | 記録 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝利 | 引き分け | 敗北 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 勝率 | |||
レアル・マドリード・カスティージャ | 2019年6月20日 | 現在 | 190 | 75 | 59 | 56 | 288 | 224 | 40.00% | |
レアル・マドリードU-19(暫定) | 2020年7月1日 | 2020年8月31日 | 4 | 4 | 0 | 0 | 11 | 4 | 100.00% | |
合計 | 194 | 79 | 59 | 56 | 299 | 228 | 40.72% |