1. 概要
リチャード・ダグラス・レイン(Richard Douglas Lane英語、1926年 - 2002年)は、アメリカ合衆国出身の著名な美術評論家、美術収集家、美術商、歴史家、そして作家です。特に日本美術、とりわけ浮世絵と春画の研究にその生涯を捧げ、その大半を日本で過ごしました。長年にわたりホノルル美術館と密接な関係を築き、現在、彼の膨大な日本美術コレクションは同美術館に収蔵されています。
レインは、その学術的な知識と商業的な手腕を兼ね備え、東西の文化交流の橋渡し役として、日本美術の魅力を世界に広めることに貢献しました。特に、当時タブー視されがちだった春画の文化的・歴史的価値を学術的に確立しようと尽力し、その研究は日本の美術史における重要な一歩となりました。
2. 生涯とキャリア
リチャード・ダグラス・レインは、その人生の道のりを通じて、学者、評論家、そして美術商という多角的な側面から日本美術に貢献しました。
2.1. 幼少期と兵役
レインは1926年にフロリダ州キシミーで生まれ、ニューヨークで育ちました。高校・大学時代には作家を志し、短編小説で二度受賞するほどの文才を持っていました。
第二次世界大戦が激化する中、1944年に高校を卒業すると、18歳でアメリカ海兵隊に入隊。情報部専門学校で日本語通訳としての訓練を受けました。卒業後、南九州上陸部隊に配属されましたが、終戦を迎えました。終戦直後の1945年から1946年にかけて、通訳として長崎市、鹿児島市、佐世保市などで勤務し、日本の文化や社会に深く触れることとなりました。
2.2. 高等教育と学術活動
帰国後、レインはハワイ大学で日本文学および中国文学を学び、1948年に学士号を取得しました。その後、コロンビア大学に進学し、18世紀の日本文学、特に井原西鶴の研究に没頭し、修士号を取得しました。
1950年から1952年にかけては、奨学金を得て日本に留学し、東京大学、早稲田大学、京都大学の大学院でさらに日本文学の研鑽を積みました。この日本滞在中に、彼は江戸川乱歩や伊藤晴雨といった日本の著名な文化人、そして浮世絵研究の師となる渋井清と出会い、その後の研究活動に大きな影響を受けました。
1958年にはコロンビア大学で日本古典に関する博士号を取得。その後、母校であるコロンビア大学やメリーランド大学で、日本語、日本文学、比較文学、日本美術史の教鞭を執り、またホノルル美術館の学芸員も務めました。彼は生涯を通じて大学の専任教員となることはありませんでしたが、作家、美術商、そしてコンサルタントとして自活しました。
2.3. 日本移住と専門家としての確立
1957年(または1960年代に再び)に日本へ移住して以降、レインは残りの生涯を日本で過ごすこととなります。彼は著述家、美術商、コンサルタントとして専門的なキャリアを確立していきました。1957年から1971年まで、彼はホノルル美術館の客員研究員を務め、この期間中にジェームズ・A・ミッチェナーの日本版画コレクションの目録作成を支援するなど、美術館との長期的な協力関係を築きました。
2.4. 日本美術研究への貢献
レインは、ホノルル美術館との長年の協力関係を通じて、日本美術の研究と保存に多大な貢献をしました。特に、同美術館が所蔵するジェームズ・A・ミッチェナーの日本版画コレクションの目録作成において中心的な役割を担い、その学術的価値を高めました。この目録作成は、ミッチェナーの著書『日本の版画:初期の巨匠から近代まで』(1959年)に、レインによる版画の解説が付記される形で結実しています。
2.4.1. 春画研究とその影響
レインの業績の中で特筆すべきは、彼の春画研究です。彼は暉峻康隆らと共に春画研究に携わりましたが、1960年代の日本では、春画は芸術として認識されず、その研究は容易ではありませんでした。彼は当時の検閲や社会的な論争に果敢に立ち向かいました。
特に、春画作品を巡る「国貞裁判」では、文化財としての春画の価値を擁護し、また自身が刊行した著作も3回発禁処分を受けるなど、困難な状況に直面しました。しかし、1990年代前後から日本の社会状況が改善するにつれて、春画の文化的・美術史的価値が再評価されるようになります。1995年には、林美一との共同監修で、未修正版の『定本・浮世絵春画名品集成』を刊行しました。これは1995年から2000年にかけて全26巻が刊行された大著であり、春画を単なる猥褻物ではなく、文化史の文脈の中に位置づけることに大きく貢献しました。彼の先駆的な研究は、春画の学術的地位を確立し、現代における春画研究の基礎を築いたと言えます。
3. 著書
リチャード・ダグラス・レインの主要な著書と出版物は以下の通りです。彼の著作は、浮世絵、特に春画に関する研究が中心であり、日本美術史におけるその重要性を広く知らしめました。
- 『A study of Japanese novels and illustrated books of the 17th and 18th centuries in British collections Tokyo』、1953年
- ジェームズ・A・ミッチェナー著『日本の版画:初期の巨匠から近代まで』(リチャード・レインによる版画解説付き)、Rutland, Vermont, Charles E. Tuttle Company、1959年
- 『Masters of the Japanese print.London』Thames and Hudson、1962年
- 『Masters of the Japanese Print, Their World and Their Work』、Garden City, N.Y., Doubleday、1962年
- 『L'Estampe Japonaise』、Paris, Aimery Somogy、1962年 (フランス語)
- 『Japanische Holzschnitte』、München Zürich, Droemersche、1964年 (ドイツ語)
- 『元禄のエロス』全5巻、画文堂、1973-79年
- 『北斎と広重』画文堂、1976年
- 『Hokusai and Hiroshige』、Tokyo : Gakubundō、1976年 (英語・日本語)
- 『Hokusai to Hiroshige』、Köln, Galerie Eike Moog、1977年 (英語・日本語・ドイツ語版小冊子)
- 『Ukiyo-e Holschnitte. Künstler und Werke』、Zürich、1978年
- 『Images from the Floating World: The Japanese Print, Including an Illustrated Dictionary of Ukiyo-e』、New York, Putnam、1978年
- 『Erotica Japonica: Masterworks of Shunga Painting』、New York, Japan Publications、1986年
- 『Hokusai, Life and Work』、New York, Dutton、1989年
- 日本語版:『北斎 伝記画集』竹内泰之訳、河出書房新社、1995年
- 『Masterpieces of Japanese Prints: The European Collections Ukiyo-e from the Victoria and Albert Museum』、New York, Kodansha America Inc、1991年
- 「消された春画を暴く」、新潮社『芸術新潮』第45巻第6号、pp.4-40、1994年6月
- 『新篇初期版画枕絵』、学習研究社、1995年
- 『定本・浮世絵春画名品集成』全26巻(林美一との共同監修)、東京, 河出書房新社、1995年 - 2000年。以下の巻が含まれる。
- 『縁結出雲杉』葛飾北斎、1995年 (第1巻)
- 『絵本小町引』喜多川歌麿、1996年 (第2巻)
- 『色道取組十二番』礒田湖龍斎、1996年 (第3巻 愛蔵版)
- 『春の薄雪』渓斎英泉、1996年 (第5巻 愛蔵版)
- 『東にしき』葛飾北斎、1996年 (第7巻)
- 『婦美の清書』鳥橋斎栄里、1996年 (第9巻 愛蔵版)
- 『閨の雛形』奥村政信、1996年 (第11巻 愛蔵版)
- 『つひの雛形』葛飾北斎、1997年 (第13巻)
- 『ねがひの糸ぐち』喜多川歌麿、1997年 (第15巻)
- 『小柴垣草子』(秘画絵巻)、1997年 (第17巻)
- 『恋の極み』菱川師宣、1998年 (第20巻)
- 『風流江戸八景 他』鈴木春信、1998年 (第21巻)
- 『好色花盛り 他』杉村次兵衛、1998年 (第22巻)
- 『富久寿楚宇』葛飾北齊、1998年 (第23巻)
- 『絵本小町引』喜多川歌麿、1998年 (第2巻 愛蔵版)
- 『縁結出雲杉』葛飾北斎、1998年 (第1巻 愛蔵版)
- 『江戸の春・異邦人満開 エトランジェ・エロティック』、1998年 (別巻)
- 『袖の巻 他』鳥居清長、1999年 (第24巻)
- 『あづま男に京おんな 春川五七 會本手事之發名』、2000年 (別巻2)
- 『初春色ごよみ 葛飾北斎』、2000年 (別巻3)
- 『浮世絵 消された春画』、新潮社「とんぼの本」、2002年
- 『歌麿の謎 美人画と春画』(林美一との共著)、新潮社「とんぼの本」、2005年
4. 私生活
リチャード・ダグラス・レインは1960年に医師のチエコ・オオカワ(Chiyeko Okawa)と結婚し、彼女が1999年に亡くなるまで夫婦関係を続けました。
また、作家の真杉静枝と恋人関係にあったとする説も存在します。この説は、作家の林真理子の著書『女文士』の中で言及されています。
5. 受賞歴
リチャード・ダグラス・レインは、その日本美術研究における多大な貢献に対し、数々の栄誉ある賞を受賞しました。
- 紺綬褒章(文部省):菱川師宣記念館の創立を援助した功績により受章しました。
- 日本浮世絵協会賞
- 京都大学人文科学研究所奨励賞
6. 死去と遺産
リチャード・ダグラス・レインの死後、彼が生涯をかけて築き上げた膨大な美術コレクションは、日本美術研究における貴重な遺産となりました。
6.1. 死去
レインは2002年、京都で76歳で亡くなりました。彼は遺言を残さず、法定相続人もいなかったため、その死後、彼の個人コレクションは日本の司法当局によって管理されることとなりました。
6.2. リチャード・レイン・コレクション
レインの死去後、彼のコレクションは日本の司法当局からホノルル美術館によって購入されました。このコレクションは、絵画、版画、書籍など、およそ2万点近くに及ぶ膨大な規模であり、日本美術研究において非常に重要な資料となっています。このコレクションは、ホノルル美術館の日本美術コレクションを飛躍的に充実させ、その後の研究および展示活動に多大な影響を与えました。
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6.3. 没後の展示と学術的評価
ホノルル美術館では、リチャード・レイン・コレクションを記念し、彼の功績を称える複数の展覧会が開催されました。
- 2008年10月から2009年2月にかけては、「リチャード・レインと浮世の版画」(Richard Lane and the Floating World英語)と題された展覧会が開催され、コレクションの一部が一般公開されました。
- 2010年3月から6月には、「リチャード・レイン・コレクション名品選」(Masterpieces from the Richard Lane Collection英語)と題する第2弾の展覧会も開催されました。
- また、50点以上の春画の絵画、版画、木版画本を含む「寝室の芸術:日本の春画」(Arts of the Bedchamber: Japanese Shunga英語)も開催され、彼の春画研究の重要性が改めて示されました。
レインの死後も、彼のコレクションと研究は学術界から高い評価を受けています。中野三敏は彼の著作『師恩 忘れえぬ江戸文学研究者』(2016年)や『江戸の版本 - 書誌学談義』(2015年)、『十八世紀の江戸文芸:雅と俗の成熟』(2015年)の中で、レインの業績を高く評価しています。また、九州大学の調査グループは、ホノルル美術館所蔵の和本コレクションに関する調査報告書を2014年に発表しており、木村八重子と中野三敏による『黒本・青本:ホノルル美術館所蔵』や、山下則子による『在外絵入り本:研究と目録』(2019年)なども、彼の残したコレクションの学術的価値と重要性を示しています。これらの研究活動は、レインが日本美術史に残した遺産の大きさを物語っています。