1. 幼少期と初期の経歴
ルディ・バタの幼少期と初期のサッカーキャリアは、当時のアルバニアの政治情勢と密接に関連している。
1.1. シュコドラでの幼少期と政治亡命
バタは、アルバニア北部の都市シュコドラで1969年2月13日に生まれた。幼少期に地元のサッカークラブであるKFヴラズニア・シュコドラに入団し、1988年にトップチームでデビューを果たした。
1991年、バタはアルバニア代表の一員としてフランスに遠征中、亡命を申請した。これは1991年3月30日にパリで行われたEURO 92予選のフランス代表戦でアルバニアが0-5と大敗した後に行われた。当時のアルバニアは共産主義体制下の恐怖政治下にあり、バタは政治的抑圧に絶望していたとされる。彼はこの亡命によって、不安定な祖国から脱出する道を選んだ。
亡命後、UEFAから1年間の公式戦出場停止処分を受けたものの、翌1992年3月にアルバニアで共産主義体制が崩壊した後は、再びアルバニア代表に招集されるようになった。1992年6月には1994 FIFAワールドカップ予選に参加する代表の一員として、故郷への凱旋を果たしている。この亡命は、彼の人生とサッカーキャリアに決定的な影響を与えた。
1.2. アルバニアおよびフランスでの初期クラブ活動
バタは、アルバニアのKFヴラズニア・シュコドラでキャリアをスタートさせ、その後FKディナモ・ティラナに所属した。ディナモ・ティラナ在籍中の1991年にフランスに亡命し、フランスのクラブでの活動を開始した。
フランスでは、最初にル・マンUCでプレーし、その後トゥールFCに移籍した。これらのクラブでの経験は、彼が西欧サッカーに順応するための重要な期間となった。1992年から1993年の間には、再びFKディナモ・ティラナに戻り、短期間プレーしている。
2. 選手経歴
ルディ・バタは、アルバニアおよびフランスでの初期キャリアを経て、ヨーロッパ各地のクラブでプレーし、アルバニア代表としても活躍した。
2.1. クラブ経歴
バタのクラブキャリアは、アルバニア、フランス、スコットランド、キプロス、ドイツ、日本と多岐にわたる。
2.1.1. セルティックおよび欧州主要リーグでの活動
1993年1月、バタはスコットランドの強豪セルティックFCに移籍した。セルティックでは1995-96シーズンまでプレーし、1995年にスコティッシュカップを獲得した。このタイトルは、アルバニア人選手が主要な欧州国で獲得した初の栄誉とされている。セルティックでは公式戦60試合に出場し、4得点を記録した。
セルティックを退団後、バタはキプロスのアポロン・リマソール(1996年-1998年)、ドイツのエネルギー・コットブス(1998年-2001年)、LRアーレン(2002年1月-6月)と、ヨーロッパ各地のクラブを渡り歩いた。これらのクラブでは、それぞれキプロスリーグ1部、ドイツ2. ブンデスリーガ、ブンデスリーガ1部で経験を積んだ。
2.1.2. アジア(日本)およびアルバニア復帰
2002年から2003年にかけて、バタは再びアルバニアに戻り、SKティラナでプレーした。その後、2003年には日本のJ2リーグに所属する横浜FCに移籍。当時の監督であったピエール・リトバルスキーの誘いを受けての加入だった。横浜FCでは24試合に出場し、3得点を挙げた。
日本でのプレー後、バタはスコットランドのセント・ジョンストンFC(2004年)で短期間プレーした。そして2005年、アルバニアのKFパルティザニ・ティラナでの短い期間を最後に、プロサッカー選手としてのキャリアを引退した。
2.2. 国家代表経歴
ルディ・バタは、1990年から2001年までアルバニアサッカー国家代表チームで活躍した。
1990年5月の欧州選手権予選のアイスランド戦で代表デビュー。その後、アルバニア代表の主将も務め、国際Aマッチ通算59試合に出場し、5得点を記録した。
代表キャリアのハイライトの一つとして、2000年にマルタ国際トーナメントで優勝を経験している。彼の最後の国際試合は、2001年9月1日のFIFAワールドカップ予選のフィンランド戦だった。
3. 監督経歴
選手引退後、ルディ・バタは短期間ではあるが、指導者としての経験も積んだ。2011年から2012年にかけて、自身のユース時代からの古巣であるKFヴラズニア・シュコドラの監督を務めた。
4. 引退後の活動
プロサッカー選手としてのキャリアを引退した後、ルディ・バタはスポーツエージェントへと転身した。彼は特に東ヨーロッパのサッカー選手の移籍を専門としており、数多くの移籍を支援している。例えば、スコットランドの選手であるガリー・オコナーやエイダン・マクギーディの移籍に関わったことでも知られている。彼のこの活動は、東欧諸国と西欧のサッカー界との橋渡し役として評価されている。
5. 個人生活
ルディ・バタは、セルティックFCでのプレー中にスコットランドのウィショー出身のアン・フランシスと出会い結婚した。彼らにはルアンとロッコという2人の息子がおり、2人ともスコットランドで生まれた。家族は現在、スコットランドのハミルトンに住んでいる。
息子の一人であるロッコ・バタもサッカーの道を歩んでおり、父親の古巣であるセルティックのユース部門で成長した。ロッコは2019年11月にアイルランド共和国U-15代表としてポーランド戦でデビューし、2021年7月にはセルティックとプロ契約を結んでいる。
6. 栄誉とタイトル
ルディ・バタは選手として以下の主要なタイトルを獲得している。
- FKディナモ・ティラナ**
- アルバニア・スーペルリーガ: 1989-90
- セルティックFC**
- スコティッシュカップ: 1994-95
- SKティラナ**
- アルバニア・スーペルリーガ: 2002-03
- アルバニア・スーパーカップ: 2002
- アルバニア代表**
- マルタ国際トーナメント: 2000
7. 統計
7.1. クラブ統計
| クラブ | シーズン | リーグ | 合計 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
| ヴラズニア・シュコドラ | 1988-89 | スーペルリーガ | ||||
| 1989-90 | ||||||
| 合計 | 40 | 5 | 40 | 5 | ||
| ディナモ・ティラナ | 1990-91 | スーペルリーガ | 6 | 0 | 6 | 0 |
| ル・マン | 1991-92 | ディヴィジョン・ドゥ | 18 | 0 | 18 | 0 |
| トゥール | 1991-92 | ディヴィジョン・ドゥ | 0 | 0 | 0 | 0 |
| ディナモ・ティラナ | 1992-93 | スーペルリーガ | 22 | 3 | 22 | 3 |
| セルティック | 1992-93 | プレミア | 22 | 2 | 22 | 2 |
| 1993-94 | 10 | 1 | 10 | 1 | ||
| 1994-95 | 7 | 1 | 7 | 1 | ||
| 1995-96 | 6 | 0 | 6 | 0 | ||
| 合計 | 60 | 4 | 60 | 4 | ||
| アポロン・リマソール | 1996-97 | 1部 | 25 | 4 | 25 | 4 |
| 1997-98 | 24 | 5 | 24 | 5 | ||
| 合計 | 49 | 9 | 49 | 9 | ||
| エネルギー・コットブス | 1998-99 | ブンデスリーガ2部 | 25 | 0 | 25 | 0 |
| 1999-2000 | 25 | 1 | 25 | 1 | ||
| 2000-01 | ブンデスリーガ | 30 | 1 | 30 | 1 | |
| 2001-02 | 1 | 0 | 1 | 0 | ||
| 合計 | 81 | 2 | 81 | 2 | ||
| LRアーレン | 2001-02 | ブンデスリーガ2部 | 8 | 0 | 8 | 0 |
| SKティラナ | 2002-03 | スーペルリーガ | 13 | 4 | 13 | 4 |
| 横浜FC | 2003 | J2 | 24 | 3 | 24 | 3 |
| セント・ジョンストン | 2003-04 | 1部 | 15 | 0 | 15 | 0 |
| KFパルティザニ・ティラナ | 2004-05 | スーペルリーガ | 20 | 1 | 20 | 1 |
| キャリア通算 | 356 | 31 | 356 | 31 | ||
7.2. 国家代表統計
| 国家代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
|---|---|---|---|
| アルバニア | 1990 | 1 | 0 |
| 1991 | 1 | 0 | |
| 1992 | 5 | 0 | |
| 1993 | 6 | 0 | |
| 1994 | 3 | 0 | |
| 1995 | 5 | 1 | |
| 1996 | 4 | 0 | |
| 1997 | 7 | 1 | |
| 1998 | 8 | 0 | |
| 1999 | 8 | 1 | |
| 2000 | 7 | 2 | |
| 2001 | 4 | 0 | |
| 合計 | 59 | 5 | |
8. 評価と遺産
ルディ・バタは、アルバニアサッカー史において重要な先駆者の一人として評価されている。特に、共産主義体制下のアルバニアから政治亡命し、その後ヨーロッパの主要リーグで成功を収め、スコットランドのセルティックFCでスコティッシュカップを獲得した最初のアルバニア人選手となった功績は大きい。これは、彼がサッカー選手としてだけでなく、社会情勢に翻弄されながらも自身の道を切り開いた人物として、多くの人々に記憶される理由となっている。
現役引退後はスポーツエージェントとして、特に東ヨーロッパの若手選手が国際的な舞台で活躍するのを支援しており、自身の経験を次世代の選手たちに還元している。この活動は、アルバニアを含む東欧諸国のサッカー界が国際的なネットワークを築く上で、重要な役割を果たしている。彼のキャリア全体は、逆境を乗り越え、自身の才能と努力で道を切り開いた模範的な例として、後進に大きな影響を与え続けている。
9. 関連項目
- Jリーグの外国籍選手一覧
- 横浜FCの選手一覧
10. 外部リンク
- [http://www.national-football-teams.com/player/507/Rudi_Vata.html Rudi Vata - National Football Teams]
- [http://www.rsssf.com/miscellaneous/vata-intl.html Rudi Vata - International Appearances (RSSSF)]
- [https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=6966 ルディ・バタ - Jリーグ]