1. 概要

レジーナ・ビアンキ(Regina Bianchiレジーナ・ビアンキイタリア語、1921年1月1日 - 2013年4月5日)は、イタリアの著名な舞台および映画女優である。本名はレジーナ・ダンティーニ(Regina D'Antignyレジーナ・ダンティーニイタリア語)。ファシズム体制下での改名を余儀なくされ、父方の祖母の姓であるビアンキを名乗った。16歳で演劇キャリアをスタートさせ、ラッファエレ・ヴィヴィアーニの劇団でデビュー。初期には映画監督ゴッフレード・アレッサンドリーニとの長年のパートナーシップも築いた。
1944年に一度引退を発表するも、1959年にエドゥアルド・デ・フィリッポの代表作『フィルメーナ・マルトゥラーノ』のタイトルロールで華々しく復帰。その後も数々の重要な舞台や映画に出演し、特に『ナポリ四日間』や『Camerieriカメリエーリイタリア語』での演技は高く評価され、ナストロ・ディ・アルジェント賞助演女優賞を2度受賞した。また、テレビミニシリーズ『ナザレのイエス』ではアンナ役を演じ、国際的な知名度も得た。1996年には芸術的功績が認められ、イタリア共和国功労勲章グランデ・ウッフィチャーレを授与された。2013年に92歳でローマの自宅で死去するまで、イタリア演劇界に多大な貢献をした人物として記憶されている。
2. 生涯とキャリア
レジーナ・ビアンキの生涯は、イタリアの激動の時代と深く結びつき、彼女の演技キャリアはその中で大きく展開していった。
2.1. 子供時代と背景
レジーナ・ビアンキは1921年1月1日、イタリアのレッチェで、本名レジーナ・ダンティーニとして生まれた。彼女の両親は共に劇場俳優であり、幼い頃から演劇に囲まれた環境で育った。当時のイタリアはベニート・ムッソリーニ率いるファシズム体制下にあり、外国文化に対する強い排斥の動きがあった。この「外国文化恐怖症」により、彼女は姓の変更を余儀なくされ、父方の祖母の姓である「ビアンキ」を名乗るようになった。この改名は、彼女のキャリアの初期において、政治的な背景が個人的なアイデンティティに影響を与えた一例である。
2.2. 初期キャリア
16歳になったビアンキは、著名な劇作家であり俳優でもあったラッファエレ・ヴィヴィアーニの劇団に入団し、その才能を開花させた。同年、彼女は喜劇『Campagna napoletanaカンパーニャ・ナポレターナイタリア語』で主人公レジネッラ役を演じ、鮮烈な舞台デビューを飾った。この初期の経験が、彼女の演技の基礎を築いたと言える。
1939年には、ドラマ映画『Il ponte di vetroイル・ポンテ・ディ・ヴェトロイタリア語』に出演し、映画界にも進出した。この映画の撮影現場で、彼女は監督のゴッフレード・アレッサンドリーニと出会い、婚約に至った。二人はその後20年以上にわたり公私にわたるパートナー関係を築き、ビアンキのキャリアに大きな影響を与えた。
2.3. 後期キャリアと主要作品
1944年、ビアンキは一度引退を発表し、一時的に表舞台から姿を消した。しかし、1959年にエドゥアルド・デ・フィリッポの不朽の傑作戯曲『フィルメーナ・マルトゥラーノ』のタイトルロールで復帰し、その演技力で観客を魅了した。この復帰作は彼女のキャリアの転換点となり、再びイタリア演劇界の第一線で活躍するきっかけとなった。
彼女の映画キャリアにおいても、数々の重要な作品に出演した。1963年にはナンニ・ロイ監督の戦争ドラマ『ナポリ四日間』に出演し、その年のナストロ・ディ・アルジェント賞助演女優賞を受賞した。この作品は、第二次世界大戦中のナポリにおける市民の抵抗を描いたもので、ビアンキの演技は高い評価を得た。
1977年には、フランコ・ゼフィレッリ監督による国際的なテレビミニシリーズ『ナザレのイエス』に出演。この作品で彼女はマリアの母であるアンナ役を演じ、その存在感を示した。この役は、彼女のキャリアにおいて最も広く知られた国際的な役割の一つとなった。
さらに、1996年にはレオーネ・ポンプーチ監督の映画『Camerieriカメリエーリイタリア語』に出演し、再びナストロ・ディ・アルジェント賞助演女優賞を獲得した。これは、彼女が長年にわたり第一線で活躍し続けた証となった。
レジーナ・ビアンキの最後の映画出演は、2008年の『Ci sta un francese, un inglese e un napoletanoチ・スタ・ウン・フランチェーゼ、ウン・イングレーゼ・エ・ウン・ナポレターノイタリア語』であった。彼女は90歳近くまで精力的に活動を続け、その演技は多くの人々に影響を与え続けた。
3. 受賞と評価
レジーナ・ビアンキは、その卓越した演技力と長年のキャリアを通じて、数々の栄誉と評価を受けてきた。
彼女はイタリアで最も権威ある映画賞の一つであるナストロ・ディ・アルジェント賞の助演女優賞を2度受賞している。
- 1963年:『ナポリ四日間』での演技に対して。
- 1996年:『Camerieriカメリエーリイタリア語』での演技に対して。
これらの受賞は、彼女が長年にわたりイタリア映画界で重要な役割を担ってきたことの証である。
さらに、1996年にはイタリア共和国からその芸術的功績が認められ、イタリア共和国功労勲章のグランデ・ウッフィチャーレ(大将校)を授与された。これは、彼女がイタリアの文化と芸術に多大な貢献をしたことに対する国家的な表彰であり、そのキャリアの集大成とも言える栄誉であった。
4. フィルモグラフィー
レジーナ・ビアンキは、生涯にわたり数多くの映画やテレビ作品に出演した。以下に主要な作品を挙げる。
年 | タイトル | 役柄 | 注記 |
---|---|---|---|
1939 | 『Rosa de Sangueローザ・デ・サングエイタリア語』 | ||
1939 | 『サイレント・パートナー』 | ||
1940 | 『ガラスの橋』 | アンナ | |
1940 | 『Then We'll Get a Divorceゼン・ウィール・ゲット・ア・ディヴォース英語』 | マーガレット | |
1942 | 『I due Foscariイ・ドゥエ・フォスカリイタリア語』 | ルクレツィア・コンタリーニ | |
1961 | 『最後の審判』 | ||
1961 | 『A Day for Lionheartsア・デイ・フォー・ライオンハーツ英語』 | エドアルドの妻 | |
1962 | 『ザ・デイズ・アー・ナンバーズ』 | ジュリア | |
1962 | 『A Milanese Storyア・ミラネーゼ・ストーリー英語』 | ヴァレリアの母 | |
1962 | 『ナポリ四日間』 | コンチェッタ・カプオッツォ | クレジットなし |
1966 | 『Shoot Loud, Louder... I Don't Understandシュート・ラウド、ラウダー...アイ・ドント・アンダースタンド英語』 | ローザ・アミトラーノ | |
1966 | 『Il neroイル・ネーロイタリア語』 | ||
1968 | 『Operazione ricchezzaオペラツィオーネ・リッケッツァイタリア語』 | ||
1969 | 『Temptationテンプテーション英語』 | ||
1977 | 『ナザレのイエス』 | アンナ | テレビミニシリーズ、1エピソード |
1977 | 『Dove volano i corvi d'argentoドーヴェ・ヴォラーノ・イ・コルヴィ・ダルジェントイタリア語』 | イステヴェーネの母 | |
1980 | 『Zappatoreザッパトーレイタリア語』 | マッダレーナ・エスポージト | |
1981 | 『Carceratoカルチェラートイタリア語』 | ドンナ・アッスンタ | |
1981 | 『Celebritàチェレブリタイタリア語』 | ローザ | |
1982 | 『Giuramentoジュラメントイタリア語』 | 彼の母 | |
1983 | 『Stangata napoletanaスタンガータ・ナポレターナイタリア語』 | パルミラ | |
1984 | 『カオス』 | ピランデッロの母 | (「母との対話」セグメント) |
1985 | 『L'amara scienzaラマーラ・シエンツァイタリア語』 | ||
1994 | 『法の勇気』 | リヴァティーノ夫人 | |
1994 | 『テディベア』 | ノンナ・クラウディア | |
1995 | 『Camerieriカメリエーリイタリア語』 | サルヴァトーレ・アッツァーロの妻 | |
1999 | 『Il manoscritto di Van Heckenイル・マノスクリット・ディ・ヴァン・ヘッケンイタリア語』 | ||
1999 | 『Not registeredノット・レジスタード英語』 | トニア | |
2001 | 『E adesso sessoエ・アデッソ・セッソイタリア語』 | ノンナ・アッスンタ | |
2002 | 『Sotto gli occhi di tuttiソット・リ・オッキ・ディ・トゥッティイタリア語』 | トニア | |
2008 | 『Ci sta un francese, un inglese e un napoletanoチ・スタ・ウン・フランチェーゼ、ウン・イングレーゼ・エ・ウン・ナポレターノイタリア語』 | ノエミの母 | (最終映画出演) |
5. 死去
レジーナ・ビアンキは、2013年4月5日にローマの自宅で、92歳でその生涯を閉じた。彼女の死は、イタリアの演劇界および映画界に大きな喪失感をもたらした。