1. 概要
ロス・ミドルブルック・"ペップ"・ヤングス(Ross Middlebrook "Pep" Youngsロス・ミドルブルック・"ペップ"・ヤングス英語、1897年4月10日 - 1927年10月22日)は、アメリカ合衆国テキサス州シャイナー出身のプロ野球選手。主に右翼手として活躍し、1917年から1926年までMLBのニューヨーク・ジャイアンツで10シーズンにわたりプレーした。ヤングスは、ジャイアンツが4年連続でナショナルリーグのペナントを獲得し、さらに1921年と1922年にワールドシリーズを制覇したチームの一員であった。
現役期間中に生涯打率.322という優れた成績を残し、9シーズンで打率3割以上を記録(そのうち8シーズンは連続)するなど、打者としての才能を遺憾なく発揮した。しかし、彼の輝かしいキャリアは、ブライト病という腎臓疾患によりわずか30歳で幕を閉じることとなった。彼の死後、1972年にアメリカ野球殿堂に選出されたが、この選考過程は彼の元チームメイトで構成されたベテランズ委員会によるものであったため、情実や縁故主義であるとの批判を浴び、その選出の正当性について現在に至るまで論争が続いている。
2. 幼少期とアマチュア時代
ヤングスは1897年4月10日、アメリカ合衆国テキサス州シャイナーで3人兄弟の次男として誕生した。彼の父親は鉄道員であったが、後に障害を負ったため、一家はサンアントニオに移住し、父親は牧場経営者として生計を立てた。ヤングスの母親はサンアントニオで小さなホテルを営み、ヤングス自身も新聞配達の仕事を手伝っていた。
彼はウェスト・テキサス・ミリタリー・インスティテュートで教育を受け、野球とアメリカンフットボールの両方で優れた才能を発揮した。複数の大学からカレッジフットボールの奨学金の申し出があったものの、彼は野球への情熱を優先し、プロ野球選手への道を選択した。
1914年、ヤングスはテキサスリーグ(クラスB)のオースティン・セネターズでプロデビューを果たした。しかし、このシーズンは17試合に出場し打率.145と振るわなかった。翌1915年には、さらに下位のクラスDリーグであるミドル・テキサスリーグのブレナムとセントラル・テキサスリーグのワックスハッチ・アスレチックスでプレーしたが、両リーグともにシーズン中に解散する事態となった。
1916年には、クラスDのウェスタン・アソシエーションに所属するシャーマン・ライオンズに内野手として加入し、スイッチヒッターとして打率.362という好成績を収めた。この活躍がニューヨーク・ジャイアンツのスカウトの目に留まり、同年8月には2000 USDで契約を交わし、ジャイアンツの一員となった。
3. マイナーリーグ時代
1917年、ヤングスはテキサス州マーリンで行われたジャイアンツのスプリングトレーニングに合流した。当初、彼はジャイアンツと提携関係にあったインターナショナルリーグのロチェスター・ハスラーズに配属された。当時のジャイアンツの監督であるジョン・マグローは、ロチェスターの監督ミッキー・ドゥーランに「私がこれまで見てきた中で最も偉大な選手の一人だ。彼を外野手として起用しろ。もし彼に何かあったら、私が責任を負わせる」と述べ、ヤングスへの並々ならぬ期待を表明した。
ロチェスターでは140試合に出場し、打率.356という非常に優れた成績を記録し、その年のシーズン終盤にはメジャーリーグへの昇格を勝ち取った。マグロー監督は、そのハッスルプレーから彼に「ペップ(Pep)」というニックネームを与え、さらに将来的には自身が引退した後任監督として彼を育成しようと考えていた。
4. メジャーリーグ時代:ニューヨーク・ジャイアンツ
ヤングスのニューヨーク・ジャイアンツでのキャリアは、彼の類まれな才能と、若くして病に倒れるまでの短いながらも輝かしい期間で特徴づけられる。彼はチームの黄金時代を築き、数々の記録を残し、八百長疑惑に巻き込まれながらもその潔白を証明した。
4.1. 初期活躍とデビュー
1917年9月25日にメジャーリーグデビューを果たしたヤングスは、当時ナショナルリーグのペナントを制覇したジャイアンツのシーズン終盤の9試合中7試合に出場した。その内訳は、中堅手として6試合、右翼手として1試合であった。このわずかな期間で、彼は26打数9安打(打率.346)、2本の二塁打、3本の三塁打を記録し、その才能の片鱗を見せつけた。
1918年シーズン、ジャイアンツのレギュラー右翼手であったデーブ・ロバートソンが地元の軍人野球チームの監督を務めるためチームを去ったことで、ヤングスはスプリングトレーニングから正右翼手の座を獲得した。このシーズン、彼は左打席に専念し、121試合に出場して打率.302を記録し、リーグ6位の成績を収めた。この年は、彼がレギュラーとして7年連続で打率3割以上を記録する期間の最初の年であり、1917年の短い出場期間を含めると、全体で8シーズンにわたる3割打者としてのキャリアの2年目にあたる。また、出塁率.368を記録し、これもリーグ6位であった。
翌1919年、ロバートソンが投手フィル・ダグラスとのトレードでシカゴ・カブスに移籍したことにより、ヤングスは名実ともにジャイアンツの右翼に不動の地位を確立した。この年、彼は打率.311でリーグ3位の成績を残した。1920年シーズンには、打率.351を記録し、ロジャース・ホーンズビーに次ぐリーグ2位の成績を収めた。
4.2. 全盛期とワールドシリーズ出場
1921年、ヤングスは打率.327を記録し、リーグ9位にランクインした。同年行われた1921年のワールドシリーズの第3戦では、ワールドシリーズの1イニングで2本の安打を記録した史上初の選手となった。このシリーズでヤングスは打率.280を記録し、ジャイアンツはニューヨーク・ヤンキースを破って優勝を飾った。
1922年4月29日には、サイクル安打を達成。レギュラーシーズンでは出塁率.398(リーグ9位)と17盗塁(リーグ9位タイ)を記録した。同年の1922年のワールドシリーズでは打率.375を記録する活躍を見せ、ジャイアンツは再びヤンキースを破り、2年連続で世界一に輝いた。

1923年、ヤングスは121得点を記録し、ナショナルリーグの最多得点者となった。打率も.348でリーグ8位の好成績を収めた。しかし、同年の1923年のワールドシリーズでは打率.356と奮闘したものの、ジャイアンツはヤンキースに敗れ、優勝を逃した。
1924年シーズン、ヤングスは打率.356を記録し、リーグ3位の成績を残した。彼のジャイアンツでの在籍期間中、チームは1921年から1924年まで4年連続でワールドシリーズに進出し、そのうち1921年と1922年の2回で世界一に輝いた。
4.3. 八百長疑惑
1924年シーズンの最終シリーズでは、ジャイアンツはブルックリン・ドジャースとペナントを争う中、ポロ・グラウンズでフィラデルフィア・フィリーズと対戦していた。この時、ジャイアンツの外野手ジミー・オコネルは、フィリーズの遊撃手ハイニー・サンドに対し、500 USDを渡して故意に試合に負けるよう持ちかけた。
しかし、サンドはこの賄賂を拒否し、フィリーズの監督アート・フレッチャーに報告した。この事件は、コミッショナーケネソー・マウンテン・ランディスによるオコネルとジャイアンツのコーチクレイジー・ドーランの永久追放処分へと発展した。オコネルは、ヤングス、ジョージ・ケリー、フランキー・フリッシュのチームメイト3人も共謀者であると示唆したが、ランディスは後にこの3名に対する容疑を晴らし、潔白を証明した。
4.4. 晩年のキャリア
1924年のワールドシリーズにおいて、ヤングスは打率.185と不調に陥り、ジャイアンツはワシントン・セネタースに敗れた。1925年も苦戦が続き、打率.264と、彼のキャリアで唯一3割を下回るシーズンとなった。しかし、1926年シーズンには95試合に出場し、打率.306に回復を見せた。
キャリアの晩年には、後に彼の後継者となるメル・オットに対し、ポロ・グラウンズでの右翼手の守り方を教えた。
5. 闘病と死去
ヤングスの選手キャリアは、1926年に当時ブライト病と呼ばれていた腎臓の疾患と診断されたことで突然に終わりを告げた。彼はすでに1924年に連鎖球菌感染症にさらされていたという。
病状が悪化したため、ヤングスは1926年8月10日以降は試合に出場できなくなり、マグロー監督の強い勧めで故郷へ帰ることになった。翌1927年3月には輸血を受けるなど、病との闘いを続けた。
しかし、1927年10月22日、ヤングスはブライト病のため、わずか30歳でこの世を去った。現役時代の体重が77 kgであったのに対し、亡くなる頃には45 kgまで減少していた。
ニューヨーク・タイムズに掲載されたヤングスの死亡記事において、ジャイアンツの監督であるジョン・マグローは、彼を「私が球場で見た中で最高の外野手」と称賛した。ジャイアンツ球団は、ポロ・グラウンズの右翼の壁に彼の栄誉をたたえる青銅の銘板を設置した。当初、球団がその費用を負担する予定であったが、ファンが寄付を希望し、1人あたり1 USDの制限があったにもかかわらず、その費用は全てファンの寄付によって賄われた。
6. 遺産と評価
ロス・ヤングスの短いながらも輝かしいキャリアは、野球界に大きな影響を与え、その評価は多岐にわたる。彼の殿堂入りを巡る論争は、野球界における選考の公平性に関する議論の的となった。
6.1. 選手としてのキャリア評価と記録
ヤングスは10年間のキャリアで、812得点、42本塁打、592打点、153盗塁を記録した。生涯打率は.322、出塁率は.399、長打率は.441という優れた成績を残した。1925年シーズンを除き、すべてのシーズンで打率3割以上を記録し、2度打率.350以上を達成した。彼は3度シーズン100得点以上を記録し、1921年にはキャリアハイの102打点、1924年にはキャリアハイの10本塁打を記録している。
彼がジャイアンツに在籍していた間、チームは1921年から1924年まで4年連続でワールドシリーズに進出し、1921年と1922年の2回で世界一に輝いた。
ジョン・マグロー監督はヤングスを非常に高く評価しており、彼の執務室にはクリスティ・マシューソンとヤングスの写真の2枚しか飾られていなかったという。また、チームメイトであったロージー・ライアンや、ブルックリン・ドジャースで対戦したバーリー・グライムスも、ヤングスを「これまで見た中で最高の選手」と評価していた。
年度 | 球団 | 打撃成績 | 長打率 | 出塁率 | その他 | ||||||||||||||||||
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試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | ||||
1917 | NYG | 7 | 29 | 26 | 9 | 2 | 3 | 0 | 17 | 1 | 1 | - | 2 | - | 1 | - | 0 | 5 | - | .346 | .370 | .654 | 1.024 |
1918 | 121 | 532 | 474 | 143 | 16 | 8 | 1 | 178 | 25 | 10 | - | 8 | - | 44 | - | 6 | 49 | - | .302 | .368 | .376 | .744 | |
1919 | 130 | 561 | 489 | 152 | 31 | 7 | 2 | 203 | 43 | 24 | - | 13 | - | 51 | - | 7 | 47 | - | .311 | .384 | .415 | .799 | |
1920 | 153 | 671 | 581 | 204 | 27 | 14 | 6 | 277 | 78 | 18 | 18 | 13 | - | 75 | - | 2 | 55 | - | .351 | .427 | .477 | .904 | |
1921 | 141 | 594 | 504 | 165 | 24 | 16 | 3 | 230 | 102 | 21 | 17 | 18 | - | 71 | - | 1 | 47 | - | .327 | .411 | .456 | .868 | |
1922 | 149 | 643 | 559 | 185 | 34 | 10 | 7 | 260 | 86 | 17 | 9 | 21 | - | 55 | - | 7 | 50 | - | .331 | .398 | .465 | .863 | |
1923 | 152 | 689 | 596 | 200 | 33 | 12 | 3 | 266 | 87 | 13 | 19 | 14 | - | 73 | - | 5 | 36 | - | .336 | .412 | .446 | .859 | |
1924 | 133 | 612 | 526 | 187 | 33 | 12 | 10 | 274 | 74 | 11 | 9 | 6 | - | 77 | - | 3 | 31 | - | .356 | .441 | .521 | .962 | |
1925 | 130 | 584 | 500 | 132 | 24 | 6 | 6 | 186 | 53 | 17 | 11 | 14 | - | 66 | - | 4 | 51 | - | .264 | .354 | .372 | .726 | |
1926 | 95 | 421 | 372 | 114 | 12 | 5 | 4 | 148 | 43 | 21 | - | 10 | - | 37 | - | 2 | 19 | - | .306 | .372 | .398 | .770 | |
通算:10年 | 1211 | 5336 | 4627 | 1491 | 236 | 93 | 42 | 2039 | 592 | 153 | 83 | 119 | - | 550 | - | 37 | 390 | - | .322 | .399 | .441 | .839 |
6.2. 殿堂入りを巡る論争
ヤングスは1936年にアメリカ野球殿堂の最初の投票対象者の一人として名を連ねたが、BBWAAからの得票率は5%未満に留まった。その後、1956年まで毎年投票対象となり、1947年に22%の最高得票率を記録した。当時、野球コミッショナーフォード・C・フリックと元チームメイトのビル・テリーは、ヤングスの殿堂入りを積極的に支持した。
1967年、元ジャイアンツのチームメイトであったビル・テリーとフランキー・フリッシュがベテランズ委員会に加わり、1972年のヤングスを含む複数の元チームメイトの殿堂入りを後押しした。彼らが後押しした他の殿堂入り選手には、1970年のジェシー・ヘインズ、1971年のデーブ・バンクロフトとチック・ヘイフィー、1973年のジョージ・ケリー、1974年のジム・ボトムリー、1976年のフレディ・リンドストロムなどがいる。
ヤングスは、現存する殿堂入り選手の中で最も若くして亡くなった人物である。また、サンアントニオ出身の殿堂入り選手としては唯一の存在であり、1998年にはサンアントニオ・スポーツ殿堂にも献額された。
テリーとフリッシュによって選出されたヤングスを含む一部の殿堂入り選手は、一部の批評家から「最も選考基準が甘い」と見なされてきた。BBWAAは、ベテランズ委員会が選手の選考において十分な厳選を行っておらず、縁故主義であるとの批判が上がった。この批判は、その後のベテランズ委員会の権限縮小につながった。
野球統計家ビル・ジェームズは、これらの状況を認識し、ヤングスは殿堂入りに値しないと著述している。しかし、1981年にローレンス・リッターとドナルド・ホーニグが共著した『歴代最高の野球選手100人』にはヤングスが選ばれている。彼らは、スモーキー・ジョー・ウッドのように、真に並外れた才能を持ちながらも負傷や病気によってキャリアが短縮された選手は、定量的な統計がオールタイムの偉人たちに匹敵しなくても、殿堂入りリストに含めるべきだとする「スモーキー・ジョー・ウッド症候群」という概念を提唱し、ヤングスの選出を擁護した。
6.3. 追悼と影響
マグロー監督はヤングスを「最高の外野手」と称賛した。彼の死後、ポロ・グラウンズの右翼の壁にはヤングスを称える青銅の銘板が設置された。
ヤングスの故郷であるシャイナーでは、2001年から2003年にかけて、クリッパー・フィールドで彼を記念する野球トーナメントが開催された。
7. 私生活
ヤングスは1924年10月にバークシャーで休暇中に知り合ったブルックリン出身の女性、ドロシー・ピエネケと結婚した。1925年12月には娘のキャロラインが誕生した。しかし、ドロシーがヤングスの母親と不仲になったため、夫婦はキャロラインの誕生前に別居しており、ヤングスは自身の娘に会うことはなかった。
ヤングスは友好的で寛大な性格で知られ、常に他人にお金を貸していた。伝えられるところによると、彼の死の時点では、貸し付けたお金のうち1.60 万 USDが返済されずに残っていたという。趣味はゴルフで、メジャーリーグの中で最もゴルフが上手い選手とされていた。