1. 生涯と選手経歴
選手から指導者への転身に至るまでのヴァルデイル・ヴィエイラの人生とキャリアを概観する。
1.1. 出生と初期の人生
ヴァルデイル・ヴィエイラは1944年7月11日、ブラジルのサンパウロ州に位置するマリーリアで生まれた。彼の愛称である「バドゥ (Badúポルトガル語)」は、彼がサッカーを始めたきっかけでもあるフットサルに由来する。このニックネームは、フットサルにおける特定の得点方法を指す言葉であるという。
1.2. 選手としてのキャリア
ヴィエイラは17歳でセカンドディビジョンのドラセナFCとプロ契約を結び、選手としてのキャリアをスタートさせた。その2年後には、後にブラジル代表監督となるルイス・フェリペ・スコラーリがユースチームのディフェンダーとしてキャリアを始めたばかりだったファーストディビジョンのCEアイモーレ - サンレオポルドでフォワードとしてプレーした。彼はまた、ウルグアイのセントラル・エスパニョールFC、マルタのヒバーニアンズFC、アルジェリアのクロワッサン・クラブ・シゴワでそれぞれ初めてプレーしたブラジル人選手となった。
選手時代は怪我に悩まされることが多く、スポーツ科学への関心を深めるにつれて、彼はドイツで非リーグのサッカーをプレーする形で選手キャリアを終えた。
1.3. 指導者への転身
選手引退後、ヴァルデイル・ヴィエイラはサッカー指導者の道を歩み始めた。彼は1970年代後半にドイツ体育大学ケルンで指導理論を学び、その際に後にJリーグのジェフユナイテッド市原・千葉や京都サンガF.C.で強化部長などを務めた祖母井秀隆と共に学んだという。この学究的な背景が、彼の後の指導者としてのキャリアの基礎となった。
2. 指導者経歴
ヴァルデイル・ヴィエイラが監督として歩んだ道のりと、国内外の様々なクラブや代表チームでの重要な実績について詳述する。
2.1. 初期クラブでの指導
ヴィエイラの監督としてのキャリアは、母国ブラジルや中南米のクラブから始まった。彼はベネズエラのカラカスFC(1987年から1988年)、デポルティーボ・イタリア(1989年から1990年)で指揮を執った後、ブラジルのブルメナウEC(1991年から1992年)やブルスケFC(1992年から1994年)を率いた。その後、コスタリカのLDアラフエレンセ(1994年から1996年)、デポルティーボ・サプリサ(2000年から2001年)、モロッコのラジャ・カサブランカ(2000年)、サウジアラビアのアル・タエー(1999年)やアル・ハリージュ(2000年)、オマーンのドファール・クラブ(2003年から2005年)など、多くのクラブで経験を積んだ。
2.2. 代表チームでの指導
クラブチームでの経験を積んだ後、ヴィエイラは各国代表チームの監督も歴任した。彼はコスタリカ代表を1996年から1997年まで、イラン代表を1997年から1998年まで、そしてオマーン代表を1998年から1999年まで率いた。
2.2.1. イラン代表のW杯出場導出
1997年、ヴィエイラはイラン代表の監督に就任し、1998 FIFAワールドカップ・アジア予選を戦った。彼はチームをアジア第3代表決定戦まで導いたが、マレーシアのジョホールバルで行われたこの試合で日本代表に延長戦の末、2対3で惜敗した。しかし、イラン代表は続くAFC-OFCプレーオフでオーストラリア代表と対戦。アウェーでの第一戦を1対1の引き分けで終え、ホームでの第二戦は2対2の引き分けに終わったものの、アウェーゴールルールにより勝利し、1998 FIFAワールドカップ本大会への出場権を獲得した。この功績は、ヴィエイラの指導者キャリアにおける重要なハイライトの一つとされている。
2.3. アジアのクラブでの指導
アジア地域でも、ヴィエイラは複数のクラブチームで監督を務めた。
彼は2001年7月からクウェート・プレミアリーグのアル・アラビ・クウェートの監督に就任し、2001-2002シーズンにはリーグ優勝を果たした。さらに同シーズンにはアル・クラフィ・カップも獲得。2002-2003シーズン終了後に一度退団するも、2005年11月から再び同クラブの指揮を執り、2006年にはエミールカップを獲得し、クラブの2連覇に貢献した。また、この期間にはAFCチャンピオンズリーグ2006にも出場している。
2006年6月には日本のAC長野パルセイロ(当時の長野エルザサッカークラブ)の監督に就任し、2009年シーズンまでチームを率いた。長野では2008年に北信越フットボールリーグ1部で優勝し、全国社会人サッカー選手権大会でも優勝を達成した。2009年には北信越地域リーグ1部で準優勝の成績を収めている。
その後、バーレーンのアル・バーレーンSC(2010年から2013年)を率いて2010-2011シーズンにバーレーン2部リーグで優勝を果たす。2013年にはヨルダンのアル・ラムサSCの監督を務め、AFCカップ2013にも出場した。
2.3.1. 京都サンガF.C.での任期と退任
2013年12月、ヴィエイラは日本のJ2リーグに所属する京都サンガF.C.の監督に就任した。この際、彼は自身のフルネーム「ヴァルデイル・ヴィエイラ」ではなく、幼少期からの愛称である「バドゥ」を公式な氏名表記として使用することを希望した。しかし、2014年シーズンのJ2リーグにおいて、チームは成績不振に陥り、2014年6月18日に監督を解任された。京都サンガF.C.での彼の監督成績は、リーグ戦18試合で7勝5引き分け6敗であった。
3. 所属クラブと指導歴のリスト
ヴァルデイル・ヴィエイラが選手および指導者として関わったチームの全リストを網羅的に示す。
3.1. 所属クラブ
期間 | クラブ |
---|---|
1958年 - 1963年 | Tupi Paulista |
1963年 - 1965年 | ドラセナFC |
1966年 | CE Aymore G.E.R Passo Fundo |
1966年 - 1967年 | セントラル・エスパニョールFC |
1967年 | サークル・ブルッヘ |
1967年 - 1968年 | ヒバーニアンズFC |
1968年 - 1970年 | クロワッサン・クラブ・シゴワ |
3.2. 指導歴
期間 | チーム |
---|---|
1987年 - 1988年 | カラカスFC |
1989年 - 1990年 | デポルティーボ・イタリア |
1991年 - 1992年 | ブルメナウEC |
1992年 - 1994年 | ブルスケFC |
1994年 - 1996年 | LDアラフエレンセ |
1996年4月 - 1997年1月 | コスタリカ代表 |
1997年10月 - 1998年2月 | イラン代表 |
1998年3月 - 1999年7月 | オマーン代表 |
1999年 | アル・タエー |
2000年 | アル・ハリージュ |
2000年 | ラジャ・カサブランカ |
2000年 - 2001年 | デポルティーボ・サプリサ |
2001年7月 - 2003年8月 | アル・アラビ・クウェート |
2003年 - 2005年 | ドファール・クラブ |
2005年11月 - 2006年6月 | アル・アラビ・クウェート |
2006年7月 - 2009年12月 | 長野エルザサッカークラブ / AC長野パルセイロ |
2010年 - 2013年 | アル・バーレーンSC |
2013年 | アル・ラムサSC |
2014年 - 2014年6月 | 京都サンガF.C. |
4. 監督成績
チーム | 就任 | 退任 | 成績 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試合数 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 勝率 | |||
イラン代表 | 1997年 | 1997年 | 3 | 0 | 2 | 1 | 0.0% |
京都サンガF.C. | 2014年 | 2014年 | 18 | 7 | 5 | 6 | 38.9% |
合計 | 21 | 7 | 7 | 7 | 33.3% |
5. タイトルと栄誉
ヴァルデイル・ヴィエイラは、選手および指導者として以下のタイトルと栄誉を獲得している。
- 1987年: ベネズエラ年間最優秀監督
- 1988年: コパ・ベネゼーラ 優勝 (カラカスFC)
- 1992年: カンピオナート・カタリンエンセ 新人監督賞
- 1995年: コスタリカ最優秀外国人監督
- 1995-1996年: コスタリカ・プリメーラ・ディビシオン 優勝 (LDアラフエレンセ)
- 1996年: UNCAFクラブカップ 優勝 (LDアラフエレンセ)
- 1996-1997年: コスタリカ・プリメーラ・ディビシオン 優勝 (LDアラフエレンセ)
- 2001-2002年: クウェート・プレミアリーグ 優勝 (アル・アラビ・クウェート)
- 2001-2002年: アル・クラフィ・カップ 優勝 (アル・アラビ・クウェート)
- 2003年: ガルフ・クラブ・チャンピオンズカップ 優勝 (アル・アラビ・クウェート)
- 2006年: エミールカップ 優勝 (アル・アラビ・クウェート)
- 2008年: 北信越フットボールリーグ1部 優勝 (AC長野パルセイロ)
- 2008年: 全国社会人サッカー選手権大会 優勝 (AC長野パルセイロ)
- 2009年: 北信越地域リーグ1部 準優勝 (AC長野パルセイロ)
- 2010-2011年: バーレーン2部リーグ 優勝 (アル・バーレーンSC)
6. 評価と遺産
ヴァルデイル・ヴィエイラの長きにわたるサッカーキャリアは、選手としての経験と指導者としての手腕の両面で特筆すべき点がある。
6.1. 主な功績と肯定的な評価
ヴィエイラの最も顕著な功績は、1998 FIFAワールドカップにおいてイラン代表を本大会出場に導いたことである。これはイランサッカー界にとって歴史的な快挙であり、彼の国際的な評価を不動のものとした。彼はまた、コスタリカのLDアラフエレンセでリーグ優勝を複数回達成し、クウェートのアル・アラビ・クウェートではリーグ、カップ、地域クラブ選手権など複数のタイトルを獲得するなど、各国でクラブチームを成功に導いた実績を持つ。日本のAC長野パルセイロ時代には、地域リーグと全国社会人サッカー選手権大会で優勝を果たすなど、その手腕は国や地域のレベルを問わず発揮された。
選手時代に怪我でキャリアを終えながらも、ドイツ体育大学ケルンでスポーツ科学を専門的に学んだことは、彼の指導法に理論的な深みと革新性をもたらしたと評価されている。彼の経歴は、南米から欧州、中東、そして東アジアに至るまで、多様な文化圏で適応し、成功を収めることができたその柔軟性と専門性を示している。
6.2. 批判と論争
ヴィエイラのキャリアは成功に満ちていた一方で、いくつかの課題にも直面した。特に、2014年に日本の京都サンガF.C.の監督を務めた際には、期待された成績を残せず、シーズン途中で解任されることとなった。これは、長年の経験を持つベテラン指導者であっても、特定のリーグやチームの状況に適合できず、結果が出ない場合の厳しさを浮き彫りにする事例となった。しかし、このような経験もまた、彼の国際的な指導者としての多様な経験の一部として捉えることができる。