1. Overview
ヴィクトル・ワシリエヴィチ・チェルケソフ(Виктор Васильевич Черкесовヴィクトル・ワシリエヴィチ・チェルケソフロシア語、1950年7月13日 - 2022年11月8日)は、ロシアの情報機関職員であり、シロヴィキの一員として知られる政治家です。彼はソビエト連邦国家保安委員会(KGB)での初期キャリアにおいて政治的異論派を弾圧し、その後もロシア連邦保安庁(FSB)や連邦麻薬統制庁の要職を歴任しました。特に2007年のコメルサント紙への寄稿では、ロシアの統治モデルが「治安機関が統治する企業国家」へと進化していると主張し、国内のシロヴィキ間の権力闘争を公に示唆しました。チェルケソフの活動は、彼の治安機関における役割や反体制派への弾圧、そして国家の方向性に関する見解を通じて、ロシアの民主主義と人権の状況に重大な影響を与えたと評価されています。
2. 生涯
ヴィクトル・チェルケソフの人生は、ソビエト連邦時代からロシア連邦の要職に至るまで、ロシアの安全保障政策と密接に関わってきました。
2.1. 幼少期と教育
チェルケソフは1950年7月13日、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で生まれました。彼は1973年にレニングラード国立大学法学部を卒業しました。
2.2. 初期キャリア:KGB活動と反体制派抑圧
チェルケソフは1975年からソビエト連邦の崩壊までの1991年まで、レニングラードおよびレニングラード州のKGB機関に勤務しました。この期間中、彼は民主同盟のメンバーを含む多くの政治的異論派を弾圧する活動に従事しました。この弾圧は、ソ連時代の人権侵害の一環として、チェルケソフのキャリアにおける批判的な側面として特筆されます。
2.3. ロシア連邦保安庁(FSB)での昇進
1992年から1998年8月まで、チェルケソフはKGBの後継機関である共和国間保安庁(MSB)、連邦防諜庁(FSK)、そして連邦保安庁(FSB)のサンクトペテルブルク支部の本部長を務めました。1998年8月から2000年5月にかけては、当時のFSB長官であったウラジーミル・プーチンとニコライ・パトルシェフの下でFSBの第一副長官を務め、ロシアの主要な情報機関における彼の地位を確立しました。
2.4. 大統領全権代表および連邦麻薬統制庁長官
2000年5月18日、ウラジーミル・プーチンが大統領に就任すると、チェルケソフは北西連邦管区の大統領全権代表に任命され、2003年3月11日までその職を務めました。その後、彼はロシア連邦麻薬・向精神剤流通統制国家委員会(2004年3月からは連邦麻薬統制庁)の長官に就任し、2008年までこの職を務めました。
長官在任中の2006年7月6日には日本を訪れ、当時の麻生太郎外務大臣を表敬訪問し、麻薬対策などに関する会談を行いました。

3. シロヴィキ権力闘争と政治的見解
チェルケソフのキャリア後期は、ロシアの治安機関内部で激化した権力闘争、すなわち「シロヴィキ戦争」と、彼が公に表明した政治的見解によって特徴づけられます。
3.1. 「シロヴィキ戦争」と内部対立
2007年10月初旬、チェルケソフが率いる連邦麻薬統制庁の複数の上級将校が、FSBのエージェントによって逮捕される事件が発生しました。これは分析家によって、チェルケソフとイーゴリ・セーチンなど、ウラジーミル・プーチン大統領の側近を含むシロヴィキ(治安機関出身者)間の長年にわたる権力闘争の一環と見なされました。
この権力闘争は「シロヴィキ戦争」と呼ばれ、ロシアの政治システム全体が、プーチンが各々のシナリオに従って権力を維持するための様々なクランやグループの闘争によって動いているという見解が示されました。この闘争の激化は、2007年10月下旬には麻薬統制庁の将校2名が毒殺される事件にまで発展しました。
3.2. コメルサント紙への寄稿とその影響
2007年10月9日、チェルケソフは有力紙『コメルサント』に署名記事を発表しました。この記事の中で彼は、先に逮捕された麻薬統制庁の職員は例外であり、治安機関間の縄張り争いが国家の安定を損なう可能性があると主張しました。さらに、ロシアにとって現実的で比較的良好な唯一のシナリオは、「治安機関の職員によって統治される企業国家」へと進化を続けることであると述べました。
この寄稿は大きな論争を巻き起こし、ウラジーミル・プーチン大統領はテレビ番組「プーチン大統領との対話」でこの件に言及し、「情報機関の戦争について主張する者は、まず自分自身が非の打ちどころのない人物でなければならない」と述べ、チェルケソフを間接的に批判しました。この出来事は、ロシアにおける言論の自由と情報機関の独立性の限界を示すものと見なされました。
4. 晩年と死
チェルケソフの公職キャリアは、コメルサント紙への寄稿による論争の後、大きな転換点を迎えました。
4.1. 解任とその後
2008年5月12日、チェルケソフは当時のドミートリー・メドヴェージェフ大統領によって連邦麻薬統制庁長官を解任されました。この解任は、コメルサント紙への寄稿でプーチン大統領の側近間の内紛について言及したことへの報復措置と広く認識されました。彼の後任にはヴィクトル・イワノフが就任しました。
長官解任後、チェルケソフはウラジーミル・プーチンが首相として任命したロシア連邦軍事・特殊装備調達庁長官の職に就きました。この人事は、彼にとって事実上の降格であると観測されました。
4.2. 死去
ヴィクトル・チェルケソフは2022年11月8日にサンクトペテルブルクで死去しました。享年72歳でした。
5. 評価と遺産
ヴィクトル・チェルケソフの生涯とキャリアは、ソビエト連邦末期から現代ロシアに至るまでの権力構造と情報機関の役割を象徴しています。彼の初期のKGB職員としての反体制派弾圧は、ソビエト連邦における人権抑圧の歴史にその名を刻みました。
特に注目されるのは、彼が提唱した「治安機関が統治する企業国家」という概念です。これは、シロヴィキがロシアの政治、経済、社会において支配的な役割を担っている現状を公に認めるものであり、法治主義と民主主義の原則からの逸脱を示唆するものでした。2007年の「シロヴィキ戦争」における彼の行動は、権力内部の不透明な闘争と、ロシア連邦における言論の自由の限界を浮き彫りにしました。
チェルケソフの遺産は、ロシアの国家と社会における安全保障機関の永続的な影響力、そして政治的多元性と市民的自由に対するその挑戦という点で、複雑かつ批判的な評価がなされています。
6. 関連項目
- シロヴィキ
- KGB
- FSB
- ロシアの政治
- Three Whales Corruption Scandal