1. 初期人生と教育
上祐史浩は、福岡県での出生から東京への転居、両親の別居・離婚といった家庭環境や、幼少期からの関心事、そして早稲田大学での人工知能専攻や英語ディベート活動といった教育的背景を経て、オウム真理教入信以前の人生を歩んだ。
1.1. 出生と家族背景
上祐史浩は1962年12月17日、福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)で生まれた。父親は九州大学出身で福岡銀行に勤務した後、東京でライターを扱う貿易会社に転職し、後に脱サラしてライター分野で起業した。母親は福岡学芸大学(現:福岡教育大学)出身の教員であった。上祐が4歳まで福岡で生活し、父親の東京勤務に伴い一家で上京した。その後、父親の女性問題により両親が別居し、上祐は母親との2人暮らしとなった。両親が正式に離婚したのは、上祐が出家した頃である。上祐は後に、父親が離婚後も養育費をきちんと支払っていたことを確認している。「上祐」という苗字は福岡県を中心に約20名ほどしか存在しないとされる。
1.2. 学歴
上祐は早稲田大学高等学院を卒業後、早稲田大学理工学部電子通信学科に進学し、1985年に卒業した。その後、早稲田大学大学院理工学研究科に進み、人工知能を専攻して1987年に工学修士の学位を取得した。大学時代には英語会のサークル(WESA)に所属し、英語ディベート活動の大会で入賞するなど活躍した。後に日本の英語ディベートを統括する日本ディベート協会の創設理事の一人となった。このディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があったが、大学が異なるためディベートの試合やコーチを受けた経験はないという。
1.3. 初期活動と関心
大学時代から超常現象、チベット仏教、ヨーガなどに強い興味を抱いていた。1986年、オカルト雑誌『月刊ムー』に掲載された麻原彰晃のアーサナ解説記事をきっかけに、同年8月に麻原彰晃が主催する「オウム神仙の会」(後のオウム真理教)に入会した。当時は超能力や健康、神秘的な事柄に関心があったが、ヨガ自体には興味がなかったという。入会後、泊りがけで参加した丹沢セミナーで、1日10時間にも及ぶ厳しい行法やヨガの呼吸法といったストイックで過激な修行に強い印象を受け、数回の修行で神秘体験を経験した。瞑想中に体の感覚がなくなる不思議な感覚や、不思議な色や光を見たり、最終的にはクンダリニーまで体験したことで、麻原を正しいヨガの指導者として認識するに至った。
1987年4月には特殊法人宇宙開発事業団(現:JAXA)に就職した。これは、当時の宇宙開発事業団会長がNHK教育テレビジョンで「これからの地球を救うのは宇宙である」と話しているのを聞いて感銘を受けたこと、またアポロの月着陸を見た世代であり、宇宙が子供時代からの憧れであったためである。しかし、就職直前に始めたオウム神仙の会が面白くなったため、わずか1ヶ月で退職し、同年5月1日付でオウムの出家信者となった。上祐が退職した5月は、オウム真理教が7月から出家制度を基本とする宗教団体へと移行していった時期と重なる。出家や退職については母親から反対されたが、押し切ったという。
2. オウム真理教への入信と活動
上祐史浩は、オウム真理教に入信した後、教団内で急速に昇進し、スポークスマンとしてメディア対応を担った。しかし、教団の犯罪行為との関わりやそれに伴う法的問題に直面し、服役するに至った。
2.1. 入信の経緯
上祐は1986年8月、オカルト雑誌『月刊ムー』に掲載された麻原彰晃の記事をきっかけに、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」に入会した。入会後、丹沢セミナーでの厳しい修行やヨガの呼吸法に強い印象を受け、数回の修行で神秘体験を経験した。瞑想中に体の感覚がなくなる感覚や、不思議な色や光を見る体験、そして最終的にはクンダリニーを体験したことで、麻原をヨガの正しい指導者として認識し、帰依するに至った。
2.2. 教団内での昇進と役割
上祐はオウム真理教で早くから認められ、1987年には数百人の会員の中でわずか10人ほどしかいなかった「大師」の位階を授けられた。彼は男性信者の中では佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった。1987年10月頃にはニューヨークに開設されたオウム真理教支部の支部長を務め、1989年には大阪支部長を務めた。
1992年12月には、「尊師」「皇子(こうし)」に次ぐ位階である「正大師」に昇進し、「マイトレーヤ正大師」として活動した。1990年の武装化開始後は生物兵器開発に関与し、亀戸異臭事件(ただし刑事犯罪ではなく誰も訴追されていない)にも参加した。1993年9月にはロシア支部長に就任した。上祐自身はなぜ自分が指名されたのか分からなかったというが、麻原に対して信者の中で唯一異論を述べる存在であったため、煙たがられての「左遷説」や、逆に麻原の「擁護説」などがメディアで飛び交った。ロシア語はほとんど話せなかったが、片言のロシア語か、英語とロシア語の通訳を介して英語で話していた。
2.3. スポークスマンとしての活動
1995年の地下鉄サリン事件発生後、麻原にロシアから日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。外報部長・緊急対策本部長などの役職で教団のスポークスマンとしての役割を果たした。得意とする話術や堪能な英語力を駆使して教団の疑惑や犯罪容疑に反論することから、ジャーナリストの二木啓孝に「ああ言えばこう言う」をもじった「ああいえば上祐」と命名され、揶揄された。
彼は連日朝から晩までテレビのワイドショーやニュース番組、ラジオに出演し、麻原や教団の指示に従って、無理があると思いながらも、オウムに批判的なあらゆる意見に対して徹底的に反論した。数々の疑惑事件は創価学会や米軍、自衛隊を初めとする国家権力の陰謀であり、サリン被害を受けているのはオウムであるとの見解を示し続けた。海外メディアに対しても堪能な英語で反論し、外国人記者から「あなたは嘘つきだ」と非難されることもあった。記者会見の場では、いわゆる微罪逮捕や別件逮捕が横行した際に怒りをあらわにし、机に拳を叩きつけながら警察や報道機関を非難した。逮捕容疑の一覧を記したフリップボードを公表し、「馬鹿らしいですよこんなの!」と言いながらフリップを投げたり、村井秀夫刺殺事件直後の会見では、記者が麻原彰晃代表が会見を開くのかと質問したところ、「麻原を殺す気ですか今度は?」と激昂した。
2.4. 犯罪行為への関与と法的問題
1989年に坂本弁護士一家殺害事件が発生する直前、上祐は麻原に反対する発言をしたため、石井久子と共に共謀の場から外され、この事件には関わっていない。この事件の前に、坂本弁護士を殺害したメンバーが中心となり2件の内部事件(オウム真理教男性信者殺害事件)が既に起きていたが、上祐はこれら3つの事件の全容を知らずに教団のスポークスマンとして「もみ消し役」を麻原に命じられた。その際の発言が「ああいえば上祐」と言われるきっかけとなる。
1990年の第39回衆議院議員総選挙では、真理党から東京5区で立候補したが最下位で落選した。この選挙の惨敗後、麻原が「国家権力によって票のすり替えが行われた」という陰謀論を唱えた際、上祐はただ一人異議を唱え、「自分独自の電話調査では麻原彰晃に投票すると言った有権者は100名中誰もいなかった」と発言し、麻原の考えに反駁を続けた。
オウム真理教の兵器開発にも携わっており、生物兵器風船爆弾開発、ホスゲン爆弾計画、第7サティアンサリンプラント計画、亀戸異臭事件に関わっていた。サリンプラントについては構想段階を知るだけで、その後ロシアに行くことになった。ホスゲンや亀戸での炭疽菌の製造は、有毒なものを製造する技術や意図がなかったとして起訴などはされていない。特に1993年6月から7月の亀戸異臭事件では炭疽菌培養のまとめ役を担当した。
1995年10月6日、熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市波野地区)の土地取得をめぐる国土利用計画法違反事件で逮捕された。同年10月28日には偽証と有印私文書偽造・同行使の罪で起訴された。麻原の側近と目された教団幹部であったが、一連のオウム真理教事件では1992年以降はロシア支部にいたこともあり、教団本部の共謀や実行の場にいなかったことや、サリンプラント建設事件では建設が始まる前にロシアに出張したことなどから、他の多くの事件では訴追されなかった。上祐は、サリンの製造技術について、当時アメリカの学者がサリンに関する情報をインターネット上に公開しており、それをネット検索で見付けた土谷正実らが探し出し、試行錯誤の末、製造に成功したということをマスコミ関係者から聞いたと証言している。
2.5. 服役
上祐は懲役3年の実刑判決を受け、広島刑務所に収監された。勾留中の1997年頃から、麻原が不規則発言を始めたことや、1999年に起こると麻原が予言したハルマゲドンが起こらなかったことなどから、勾留・受刑中に麻原に対する疑問が強くなり、それが2007年のアレフ(旧オウム)からの脱会につながっていった。上祐の出所2日前の1999年12月27日には「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法、いわゆる「オウム新法」)」が施行された。これは上祐の復帰によって教団が過激化することを恐れての措置であったと言われている。上祐は1999年12月29日に広島刑務所を出所した。
3. アレフの指導と分裂
上祐史浩は、服役後、オウム真理教がアレフに改称した後、代表として組織運営に携わった。しかし、改革の試みは内部対立を激化させ、最終的に教団からの排除と脱退に至った。
3.1. アレフ設立と代表就任
1999年12月29日に広島刑務所を出所した上祐は、麻原の子女らと教団幹部らが内部対立していた教団に復帰した。出所から2ヶ月後の2000年2月には「アレフ」(現Aleph)が発足し、2002年には上祐がアレフの代表に就任した。アレフは、それまで教団最高幹部であった麻原の子女ら2名が逮捕されたことで、麻原の家族が教団運営から外れることとなり、「正悟師」の位階の村岡達子が代表に就任していたが、実質的には上祐が主導権を握った。上祐の出所後、2000年7月6日には教団が賠償契約を締結し、これは実質的に上祐が主導したものであった。
3.2. 改革の試みと内部対立
上祐はアレフの代表として、「オウム真理教事件を反省し、麻原彰晃の影響を排除する」という社会に融和する改革を打ち出した。しかし、麻原の妻である松本知子が出所した2003年以降、秘密裏に教団運営に関与するようになった麻原の子女ら(三女・松本麗華と次女)が教団の主導権を握るようになり、上祐の改革を「グル外し」(=グルである麻原の否定)や「上祐は悪魔に取りつかれたため麻原を批判している」などと批判した。
これにより、上祐はアレフの教団運営から突然排除され、事実上失脚し、「修行」と称して自室に軟禁されるようになった(いわゆる「上祐幽閉」)。上祐が「正大師」という最高位の位階であったにもかかわらず、麻原の子女らの指示で排除・軟禁されたのは、麻原が子女らを上祐より上の「皇子(こうし:すべての弟子の上の位階)」と位置づけていたため、教団幹部らが麻原の子女らに従った事実があったからである。この期間に、オウムの分派であるケロヨンクラブで傷害致死事件が発生し、グループ内部から上祐らアレフ幹部に告発があった際、麻原家族の反応が鈍い中で、上祐は告発した信者に警視庁に告発するように促した。
当時の教団信者によると、上祐への反発は激化し、幹部の会合では上祐を呼び捨てにし、嫌悪を露わにして罵倒する者もいたという。上祐が軟禁されている間、麻原家を後ろ盾にした「お話会」という名の会合が少なくとも20回以上行われ、上祐が麻原を否定する悪業を積んだことで魔境に墜ち、教団に災いをもたらしたと説明する年表が配布された。
3.3. 教団からの排除と脱退
しかし上祐は、2004年1月、麻原家やその意向に従う信者らの強い反対を押し切り教団に復帰し、いわゆる「上祐派」が形成された。その結果、内部対立が激化し、上祐に反対する反上祐派と、上祐を支持する上祐派、そしてどちらにもよらない中間派という三つに分裂した。元アレフ会長の村岡達子の証言によれば、2004年に上祐は監禁されていたマンションを脱出し、自分を慕う信者を集めて各地の道場を支配下に置き始めたという。
2006年4月30日、TBSの「報道特集」が、上祐が新教団立ち上げ計画を明言していたことを報道した。この時期、千葉県習志野市のマンションを「上祐派」の道場として使用していたが、管理者から立ち退きを要求され、同年9月には立ち退きを完了し、東京都世田谷区南烏山のマンションを拠点とした。
その後も内部分裂が進み、2007年3月8日にアレフを正式に脱退した。翌3月9日にはmixiのアカウントを取得したことを公式ウェブサイトのブログで公表し、わずか2日でマイミクシィ(申請含む)が上限の1,000人に達した。
4. ひかりの輪の設立と活動
アレフ脱退後、上祐史浩は新たな宗教団体「ひかりの輪」を設立した。この団体は独自の理念に基づき活動しており、公安調査庁との関係や法的な争いも抱えている。
4.1. 新団体設立の経緯
上祐はアレフからの脱退理由として、麻原の妻である松本知子や麻原の子女らによる教団運営への介入、そして麻原の影響を排除しようとする上祐の改革への強い反対を挙げている。こうした対立を経て、2007年5月7日に麻原の教義を完全排除したとする新団体「ひかりの輪」を設立し、代表の座についた。東京地方裁判所の判決(2017年9月25日)でも、「原告(ひかりの輪)が設立されるに至った背景には、知子(松本の妻)が平成14年10月に刑務所を出所し、麗華(松本の三女)と共にAlephの組織運営に介入するようになり、一方上祐が平成15年6月頃からAlephの運営に実質的に関与しなくなって、上祐派と反上祐派が対立するに至るという経緯が存在した」と事実認定されており、ひかりの輪とAlephは対立関係にあると評価されている。
4.2. ひかりの輪の理念と活動内容
上祐はひかりの輪を「宗教ではなく宗教哲学として」と説明しており、仏教の思想や心理学を学んだり、ヨガの体操や呼吸法を実習したり、聖地巡り(パワースポット、全国各地の神社仏閣、それに付随する自然など)を行っている。その活動状況は、インターネット上のサイトやYouTubeチャンネルで公開されている。
ひかりの輪では、「理性で宗教を解釈し活用する」「心理学・物理学も学び、東西の思想哲学の融合を目指す」などとして、「盲信・強制を排除した思想・哲学・宗教への姿勢」を強調している。探究する思想については、「古今東西のさまざまな思想・哲学・精神科学・医学などを土台として、『古きを温め新しきを知る』精神で学びつつも、非合理的なもの、妄信・迷信・狂信にあたるものは、努めて排除しています」と述べている。「神」などの崇拝対象は、その神聖な意識を引き出すシンボルであり、それ自体が唯一絶対ではないと考えており、個人に必要でなければ持つ必要はなく、有益であれば自分に合ったものを尊重すればよいとしている。これは、宗教を信じる自由も信じない自由も認め、宗教間の対立を越えて融和をもたらす新たな思想であると説明している。そのため、教室の中でも、日本人に合うと思われる仏像・仏画や自然のシンボルを紹介することがあるが、それも強制ではなく、楽しんでもらえればよいとしている。ひかりの輪の学習・実践は「信じれば救われる」というものではなく、各自がよく考えながら学び、納得したものを取捨選択するものであると強調している。
4.3. 公安調査庁との関係
公安調査庁は、ひかりの輪をオウム真理教の後継団体であり、麻原の影響力を払拭したかのように装う「隠蔽工作」として別団体を作ったのではないかという見方をしており、麻原の死刑が執行された2018年7月以降も依然として麻原の影響下にあるなど、危険な体質との認識を変えていない。
一方、公安調査庁に35年間務めた元公安調査官は、ひかりの輪への監査の結果、ひかりの輪は麻原の影響下になく、危険性はないと2020年9月30日付けでコメントしている。また、アメリカ合衆国国務省も、オウム真理教そのものについてテロの危険はないとして、1997年以来25年間続けてきた「外国テロ組織(FTO)」指定を2022年5月20日に解除している。東京地方裁判所は、「原告(ひかりの輪)の設立は、別団体を組織して、別団体との間で役割分担しながら活動することを求めていた松本(麻原)の意思に従ってされたものであるとまでは認めることはできない」と事実認定し(2017年9月25日の判決)、麻原の意思に基づいて設立された団体ではないとしている。
5. 思想と哲学
上祐史浩の思想は、オウム真理教入信前から現在に至るまで、様々な変遷を遂げてきた。彼は宗教と科学の融合を模索し、オウム真理教事件から得た教訓を社会に提言している。
5.1. 思想の変遷
上祐の思想は、その人生の時期によって大きく変遷している。
- 入信以前:幼少期からSFやオカルト、超常現象に強い関心を持ち、ヨガや神秘的な事柄を探求していた。
- オウム真理教時代:麻原彰晃を絶対的なグルとして帰依し、厳しい修行を通じて神秘体験を経験。教団の教義を深く信じ、マイトレーヤのホーリーネームを与えられ、教団の武装化や兵器開発にも関与した。この時期には、麻原が提唱する「6つの極限」(布施や奉仕、戒律、忍耐、精進、瞑想、知恵を磨くことの極限)を実践した。また、地中に埋められ密閉された3メートル四方の木製の箱の中で、飲食を断って5日間過ごす「アンダーグラウンドサマディ」を教団幹部の中で初めて完遂した。
- アレフ時代:服役中に麻原への疑問が強まり、出所後はアレフの代表として麻原の影響排除や社会との融和を目指す改革を試みた。しかし、麻原の家族との対立により、改革は頓挫し、軟禁状態に置かれた。
- ひかりの輪設立後:アレフ脱退後、「宗教ではなく宗教哲学として」という理念を掲げ、仏教、心理学、科学などを統合する学習教室としての活動を開始。盲信や強制を排除し、理性で宗教を解釈し活用する姿勢を強調している。万物が一体であるという「一元思想」を提唱し、オウムのように社会を善悪の二元に分けることを否定している。
5.2. 宗教、科学、社会への見解
上祐は、「2000年以降は水瓶座の時代で、宗教と科学が融合した霊的科学文明が到来する」といった趣旨の発言をアレフ時代に行っていた。ひかりの輪設立後は、虹を「宗教的にも神聖な意味を持つ」と表現している。彼は、「神」などの崇拝対象は、その神聖な意識を引き出すシンボルであり、それ自体が唯一絶対ではないと考えている。また、現代社会の課題に対し、個人の自由な選択と理性を重視する立場から、他宗教との融和や対立の克服を目指している。
5.3. オウム真理教の教訓
上祐は、オウム真理教の犯罪や思想について、自身の経験に基づいた深い反省と分析を行っている。彼は麻原彰晃を「誇大妄想と被害妄想の精神病理的な人物」と評し、識者の見解を借りながら、麻原に「空想虚言症」や「誇大自己症候群」といった問題があったと指摘している。
- 空想虚言症:空想力が異常に旺盛で、空想を現実より優先する。博学に見えるが知識は断片の寄せ集め。弁舌が巧みで、難しい言葉を並べ立てる。人の心に取り入り操るのがうまい。自己中心の空想に陶酔し、他人の批判を許さない。万能感と支配幻想、責任転嫁、実利的な利益の重視が見られる。
- 誇大自己症候群:万能感という誇大妄想、自己顕示欲、「自分こそが世界の中心である」という誇大妄想を持つ。他者に対する共感性の未発達、喪失。権威への反抗と服従。強い支配欲求。罪悪感・自己反省の乏しさ、責任転嫁と自己正当化。現実よりもファンタジー(幻想)や操作可能な環境に親しむ。被害妄想。目先の利益や快楽のために他人に害を与えても平気である。規範意識の欠如。内に秘める攻撃性。
上祐は、このような人物に傾倒しないための方策を、自らの経験に基づいて明らかにしている。彼は、サリンを研究していた事実をロシアに行く前から承知していたが、当時反対しきれなかったのは、それが信者にとって、一般人と同様に麻原に「ポア」(殺害)されることを意味したからだと述べている。また、「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だと嘘をつき続けていた。自分は嘘吐きだった」と告白している。サリン事件は教団が起こしたものだと麻原から伝えられたのは帰国して1ヶ月後(村井秀夫刺殺事件の後)で、一連の事件の全貌を知ったのもその頃だったと語っている。
6. 著作およびメディア活動
上祐史浩は、オウム真理教事件に関する回想録や、宗教・社会問題に関する書籍を執筆している。また、テレビ番組、新聞、雑誌、インターネットメディアに頻繁に出演し、講演活動や自身のYouTubeチャンネルを通じた情報発信など、広範なアウトリーチ活動を行っている。
6.1. 書籍と出版物
上祐史浩は、オウム真理教事件に関する自身の経験や反省、そして宗教や社会問題に関する考察をまとめた複数の書籍を執筆・出版している。主な著書には以下のものがある。
- 『覚醒新世紀』(東山出版、2002年)
- 『上祐史浩が語る-苦悩からの解放』(東山出版、2002年)
- 『上祐史浩が語る〈2〉心の解放と神秘の世界』(東山出版、2003年)
- 『オウム事件 17年目の告白』(扶桑社、2012年) - 有田芳生が検証。
- 『終わらないオウム』(鹿砦社、2013年) - 鈴木邦男、徐裕行との共著、田原総一朗監修。
- 『危険な宗教の見分け方』(ポプラ社、2013年) - 田原総一朗との共著。
- 『地下鉄サリン事件20年被害者の僕がききます』(dZERO、2015年) - さかはらあつしとの共著。
6.2. メディア出演とインタビュー
上祐は、地下鉄サリン事件後、オウム真理教のスポークスマンとして連日メディアに登場し、その弁舌で注目を集めた。その後も、オウム真理教事件に関する自身の見解や反省、そして現在の活動について語るため、様々なメディアに出演している。
テレビ番組では、『池上彰の選挙ライブ』(テレビ東京)、『NHKスペシャル「未解決事件 File.02 オウム真理教~オウムvs警察知られざる攻防~」』(NHK)、『独占スクープ!池上彰VSオウム6人の証言者』(テレビ東京)、『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日)、『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)、『報道1930』(BS-TBS)など、多くの報道番組や特別番組に出演している。
インターネットメディアでは、自身のYouTubeチャンネル「上祐史浩・ひかりの輪チャンネル」を通じて、2012年9月13日から思想・哲学・心理をテーマに活動しており、総再生回数は374万回を超え、登録者数は1.39万人に達している。また、「街録ch~あなたの人生、教えて下さい~」で発表されたインタビューが大きな反響を呼び、その後も「丸山ゴンザレスの裏社会ジャーニー」、「ニューズ・オプエド」、「新日本文化チャンネル桜」、「カンニング竹山の土曜The NIGHT」(AbemaTV)、JBpressのウェブ記事やYouTubeチャンネルなど、多数の番組に出演している。
6.3. 公開討論と講演
上祐は、様々な分野の専門家や著名人との公開対談や講演会を積極的に行っている。自身のYouTubeチャンネルでのライブ配信も定期的に行い、情報発信を続けている。
主な公開対談の相手には、作家の家田荘子、市会議員で元創価二世の長井秀和、僧侶で事業家の酒生文弥、女優でジャーナリストの深月ユリア、オカルトライターの角由紀子、事故物件公示サイト代表の大島てる、作家・オカルト研究者の中山市朗、元幸福の科学教祖後継者で映画監督の宏洋、キリスト教会牧師でカルト研究者の中川晴久、創価学会「被害者の会」代表の安藤よしひで、『宗教問題』編集長の小川寛大、元週刊プロレス編集長のターザン山本、落語家の立川こしら、お笑いタレントで元参院議員の水道橋博士、ロフトグループ創始者の平野悠、社会学者の宮台真司、ミュージシャンのニポポ、UFO研究家の竹本良などがいる。これらの対談では、宗教問題、カルト、陰謀論、政治、社会問題など多岐にわたるテーマが議論されている。
7. 人物像とエピソード
上祐史浩は、その特異な経歴とメディアでの言動から、様々なエピソードや評価が生まれている。
7.1. 幼少期の関心事
上祐は幼少期に宇宙戦艦ヤマト、バビル2世、ウルトラマンシリーズ、機動戦士ガンダムといった作品を好んでいた。特にSFやオカルトへの関心が高く、これらが後の思想形成に影響を与えた可能性が指摘されている。オウム時代とは対照的に、成人前の上祐はあまり目立たない少年であったという。父親が事業に失敗し、家に帰らなくなったことで母子家庭状態となり、上祐が駅や公園で呆然としていた姿も目撃されている。
7.2. 人間関係と私生活
上祐には、都沢和子という恋人がいた。彼女も上祐と共にオウム真理教の出家信者となった。入会後、都沢は麻原に惹かれて上祐から離れる面もあったが、上祐はこれを「尊師のマハームドラー(試練)」と認識し、乗り越えられたと述べている。1995年には岩上安身のインタビューに対し、「尊師は煩悩を遮断する力が強いので誰とセックスしてもいい」「彼女(都沢)は麻原尊師と融合するならば、それはあの、精神的ステージが高くなるんで、私と融合するよりいいと思うんで、私は恋人を麻原尊師に捧げたいと思います。私はそういうのは負担ですので」と語っている。
7.3. 世間的評価と「ああいえば上祐」
上祐のメディアでの言動から、ジャーナリストの二木啓孝によって「ああ言えばこう言う」をもじった「ああいえば上祐」という愛称が命名された。この言葉は流行語となり、上祐は一躍話題の人となった。彼には「上祐ギャル」と呼ばれる熱狂的な追っかけの女性ファンも登場し、ファンクラブができるほどであった。上祐ギャルからは「母性本能をくすぐる」「愛人になってもいい」「オウムを出てきちんとした宗教団体をつくったら、誘われて入っちゃう」「(神秘性を保つために)村井さんみたいに殺されたほうがいいのかも」といった声が聞かれた。
上祐と都沢和子が共に早稲田大学英語部(ESA)で教育ディベートの経験者であったことが報じられ、ディベートが相手を言い負かす技術として注目を集めるきっかけとなった。上祐はディベートの達人として、通常なら到底弁護不可能な無理のあることも言い込める技量があったとされる。また、上祐の女性運転手も美人で話題となり、元六本木のホステスであった彼女は、1995年に元信者への逮捕監禁致傷の疑いで逮捕され、懲役2年、執行猶予4年の判決を受けている。
7.4. 文化的な参照
しげの秀一の漫画作品『頭文字D』の登場人物である「史浩」(ふみひろ)は、名前や容姿から上祐をモデルとしているという説が存在する。また、同作の後継作である『MFゴースト』においても「上有 史浩(じょうゆう ふみひろ)」という人物が登場しており、『頭文字D』の史浩と同一人物であることが示唆されている。上祐自身も自身のFacebookでこの件に触れており、「文字の違いはあるが、そもそもこの発音の氏名を持つ人間は日本に一人しかいない」とした上で、劇中での史浩の役職がチームの「外報部長」であり、上祐のオウム真理教における役職名と同じであることを挙げている。その上で「当時の社会状況を考えると、このキャラが一切炎上を経験しなかったことは非常に不思議」とコメントしている。なお、上祐自身は『頭文字D』自体を知らず、AE86を愛車としていた知人から聞いて初めて知り、知人からは上祐本人が25年間この事実を知らなかったことを驚かれたという。
8. オウム真理教事件への反省と責任
上祐史浩は、オウム真理教事件における自身の役割を深く反省し、被害者への思いを表明している。また、麻原彰晃や教団の遺産に対する見解を明確に示している。
8.1. 事件に対する個人的な総括
上祐は、オウム真理教事件全体に対し、自身の行動や判断について深く反省している。彼は、服役中に麻原彰晃に対する疑問が強まり、それが後のアレフからの脱会につながったと述べている。麻原が不規則発言を始めたことや、1999年に予言されたハルマゲドンが起こらなかったことなどが、麻原への信仰を揺るがすきっかけとなった。上祐は、麻原やその側近が事件の詳しい事情を話さず、上祐を「後処理係」のように扱っていたと元幹部の富田隆は指摘している。上祐は、事件後に麻原から「広報活動をしてほしい」との電話を受け、ロシアから日本へ帰国したが、その時点では事件の全貌を知らされていなかった。彼は、サリン事件は教団が起こしたものだと麻原から伝えられたのは帰国して1ヶ月後(村井秀夫刺殺事件の後)で、一連の事件の全貌を知ったのもその頃だったと語っている。
8.2. 自身の責任と被害者への言及
上祐は、教団の犯罪行為に対する自身の責任を重大であると認識しており、被害者や遺族に対し深くお詫びしている。彼は1999年12月の出所後、2000年7月6日に教団が被害者への賠償契約を締結した際、実質的にその交渉を主導した。2009年には、ひかりの輪として、オウム真理教事件の被害者団体(オウム真理教犯罪被害者支援機構)と賠償契約を締結し、現在もその履行を続けている。
8.3. 麻原彰晃および教団遺産への見解
上祐は麻原彰晃について、カリスマ的な能力はあったものの、それが人格と一致せず、誇大妄想と被害妄想の精神病理的な人物であったと評している。彼は麻原の人格の根源が、幼い頃からの親や社会に対する反感・逆恨みではないかと分析している。上祐は、麻原の死刑執行について賛成を表明しており、2018年7月6日に麻原の死刑が執行されると、同日中に記者会見を開き、「私も教団で重大な責任があった。被害者遺族に深くおわびしたい」と述べるとともに、麻原に対しては「かつてのような思いはない」とした。彼は、麻原の遺骨が麻原への崇拝に悪用されないよう、「海への散骨」にも賛同している。上祐は、麻原の死刑執行を遅延させないため、また自身の離反を知った麻原が信者らに指示して身に危険を及ぼす心配があったため、麻原の死刑執行後になってから、これまで語らなかった事件の目撃証言を公表したと述べている。
8.4. 犯罪行為の目撃証言
2018年7月11日、新潮社の週刊新潮は、上祐が女性信者殺害事件(立件なし)の場に同席し、殺害の光景を目撃していたことを報じた。上祐もこれを認めている。麻原の死刑後になって上祐が証言した理由について、上祐は、麻原の死刑執行を遅延させないためだったこと、上祐の離反を知った麻原が信者らに指示して、上祐の身に危険を及ぼす心配があったことを挙げ、インターネット上で公表している。宗教学者の大田俊寛は、麻原に異を唱えることが多かった上祐に対して、麻原に逆らうと殺される恐れがあることを上祐に見せつけることを麻原が意図していた(意図的に殺人現場を上祐に目撃させた)のではないかと分析している。
9. 社会的影響と評価
上祐史浩の活動は、社会、宗教、そしてオウム真理教事件の理解に多角的な影響を与えてきた。彼を取り巻く批判や論争も存在する一方で、専門家や世間からは様々な評価が寄せられている。
9.1. 活動の社会的影響
上祐史浩のメディア露出や「ひかりの輪」の活動は、オウム真理教事件の記憶を風化させないことに貢献している。彼は、2021年7月にはYouTubeチャンネルの「街録ch~あなたの人生、教えて下さい~」で発表されたインタビューが前後編双方とも200万回近くの再生回数を記録し、大きな反響を呼んだ。2022年に統一教会問題が発生した際には、自身のブログや様々なメディアで、オウムの経験に基づいて情報発信を行い、注目を集めた。2023年に幸福の科学の大川隆法や創価学会の池田大作が死去した際には、哀悼とお詫びの表明とともに、オウムの経験に基づいて今後の新しい宗教のあり方について論じ、話題となった。これらの活動は、社会が宗教問題やカルトについて考えるきっかけを提供している。
9.2. 批判と論争
上祐は、オウム真理教の犯罪行為への関与や責任問題、そしてその後の活動に対して、様々な批判や論争に直面している。例えば、戸塚宏は上祐を「修行が足りない」「仲間を警察に売った裏切り者」「ただの偏差値秀才」と批判している。
2012年6月19日号の『SPA!』のインタビュー記事で、上祐が「菊地直子はサリン生成に関与し、刑事責任を負った」と語ったことに関し、菊地は事実ではないと東京拘置所内から手紙で上祐宛に撤回を要請したが、返事はなかった。菊地は、上祐が遠藤誠一や土谷正実らに確認せず捜査機関の情報(メディアの報道)を鵜呑みにして話したり、ほとんど話したことがない菊地の性格についても触れたりしている態度を批判している。一方、上祐は自身のブログで、週刊誌の記事はインタビューを編集したもので誤解が生じる文章となっていると説明し、「刑事責任を負った」とした主体は菊地を指したものではないと釈明した。また、菊地が指名手配されて以降は、遠藤や土谷らと連絡できない状況であったと述べ、長年逃走を続けた菊地が、結果的に無罪であったとしても、彼女を匿った男性が犯人蔵匿罪で有罪となった責任は免れられず、自身の逃走行為の問題を認識すべきだと指摘している。
9.3. 専門家および世間の評価
上祐史浩に対する評価は多岐にわたる。
- 元信者からは、「ディベートはうまいが、相手を言い負かそうとばかりするので、交渉は下手」と評されている。
- 有田芳生は、上祐と対決した際に「すごいヤツと聞いていたのに、対決すると存在感、威圧感がまるで感じられない」と述べた一方で、上祐の著作について「自分の父親とか母親のことについてですね、彼が普通なら語らないようなことまで書いているんですよ。その心境の変化っていうのは、やはり変化として認めておかなければいけないというふう思う」と評価している。
- 田原総一朗は、「上祐さんは、(宗教)じゃない(宗教を抜け出て)宗教の怖さを、身をもってよーく知ってる」と述べている。
- 下條信輔は、上祐の著作を「オウム事件関係の類書の中で『もっともよく整理され』『もっとも深く突き詰めている』と評価が高い。...何と言っても麻原と若い信者たちの心理を、内側から分析したのが出色だ」「優れた知性が全力を挙げて解明せんとした痕跡を、少なくとも筆者は認める」と高く評価している。
- 宗教学者の大田俊寛は、「上祐氏は現在、その立場ゆえに批判や非難を受けることも多いが、それはすなわち、氏がオウム事件の責任に応答する主体として、誰よりも正面に立ち続けているということを意味するものだろう。私は少なくともこうした点において、現在の上祐氏を評価したいと考える。しかし、オウム事件に対する応答という責務は、上祐氏一人が背負いきれるものではないし、背負わせて良いものでもない」と述べている。
- ロフトグループ代表の平野悠は、上祐と初めて会った際に「とてもキラキラしていて、そこから出てくる波動というかオーラが、私を打ちのめすというか圧倒する感じになった」と語り、「上祐史浩氏のあの波動はなんなのか?」と問いかけている。
- 思想家・著述家の鈴木邦男は、「上祐さんは、あれだけの事件に遭遇し、その後も贖罪を背負いながら必死に生きている。その姿には心打たれるものがある」「完全に麻原色は脱却している。逮捕され、苦しみ、地獄を見たのだろう。大きく脱皮していた。実にバランス感覚のある人になっていた。誠実だと思った。そこまで自分を責めなくてもいいだろう、と私などは思った。もしかしたら、一般の宗教という概念を超えたものを目指しているのかもしれない。そんな感じがした」と肯定的に評価している。
10. 外部リンク
- [http://www.joyu.jp/ 上祐史浩オフィシャルサイト]
- [https://ameblo.jp/joyufumihiro/ 上祐史浩オフィシャルブログ]
- [https://twitter.com/joyu_fumihiro 上祐史浩Twitter]
- [https://www.youtube.com/user/HIKARINOWAMOVIE 上祐史浩・ひかりの輪YouTubeチャンネル]
- [https://ameblo.jp/hikari-sokatsu/entry-12737061074.html?frm=theme オウムの教訓 上祐史浩個人の総括]
- [http://english.aleph.to/pr/07.html 9.11テロ、対テロ戦争、テロリズム全般に関する上祐史浩の見解(英語)]
- [http://www.japantimes.co.jp/cgi-bin/getarticle.pl5?ff20020327a1.htm ジャパンタイムズ: 「You Just Have to Ask」]
- [http://www.midnighteye.com/reviews/a.shtml Midnight Eye: A]
- [http://www.tokyoweekender.com/2015/03/20-years-after-the-aum-shinrikyo-attacks-a-former-leader-speaks-out/ ジョウユウへのインタビュー: オウム真理教とアレフでの期間、入信理由、1995年サリンガス攻撃事件中およびその後の意見、そして彼の新しいグループひかりの輪について]
- [https://www.ustream.tv/recorded/8415379 平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」前半]
- [https://www.ustream.tv/recorded/8416386 平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」後半]
- [https://www.ustream.tv/recorded/11414758 プチ鹿島・居島一平の思わず聞いてしまいました!!4]