1. Overview
五十嵐亮太は、日本の北海道留萌市出身の元プロ野球選手であり、NPBの東京ヤクルトスワローズと福岡ソフトバンクホークス、およびMLBのニューヨーク・メッツ、トロント・ブルージェイズ、ニューヨーク・ヤンキースでプレーした。NPBでは、ヤクルト時代に5度のオールスターゲームに選出され、4度のリーグ優勝と5度の日本シリーズ優勝に貢献した。個人としては2004年に最優秀救援投手のタイトルを獲得している。メジャーリーグ時代には、ニューヨーク・ヤンキースで1度の地区優勝を経験した。現役引退後は、野球解説者やYouTuberとして多方面で活動している。
2. 生い立ちと背景
五十嵐亮太は、1979年5月28日に北海道留萌市で生まれた。父親は夕張市出身で北海道夕張南高等学校のアルペンスキー国体選手であり、母親は留萌市出身でヤクルトOBの若松勉と留萌中学校の同窓であった。
2.1. 出生から少年時代
五十嵐は留萌市で生まれた後、札幌市で育ち、小学4年時に千葉県へ転校した。野球は柏井ジャガースで軟式野球を始め、小学校時代には肩の強さを見込まれて捕手を経験したこともある。中学時代までは一塁手として、千葉北リトル・シニアに所属して活躍した。五十嵐自身はシニア時代を「打てない、走れない、守れない」「まるでヘボだった」と述懐しており、当時の同僚も彼がプロ入りしたことに驚きを隠せなかったことを後に明かしている。
2.2. 学生時代とプロ入り前
敬愛学園高等学校へ進学後、五十嵐の鉄砲肩を見抜いた監督により、投手へ転向した。シニア時代の監督は彼が高校に進学した際には捕手にすることを考えていたという。当初はストレートとカーブしか投げられなかったが、高校2年の夏にはすでに球速が約140 km/h近くまで伸びていた。3年夏の千葉大会は5回戦で敗退したが、県内屈指の豪腕投手として名を馳せ、1997年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから2位指名を受け入団した。背番号は53となった。
3. プロ野球選手としての経歴
五十嵐亮太のプロ野球選手としての経歴は、日本とメジャーリーグの双方で長期にわたり、数々の記録と功績を残した。
### NPB時代 (ヤクルト1期)
五十嵐亮太は、ヤクルトスワローズ(旧ヤクルトスワローズ時代)で1998年から2009年までの期間、主要なキャリアを築いた。
1998年、プロ入り後は主にニ軍でプレーし、10試合に登板して30奪三振を記録した。イースタン・リーグの優勝が決定した9月26日の試合では、雨で中断されたものの、6回参考記録ながら完全試合を達成した。ファーム日本選手権ではMVPを獲得し、高卒ルーキーとしては史上初の受賞者となった。
1999年、開幕は二軍で迎えたが、4月20日に廣田浩章の降格に伴い一軍に初昇格した。同日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板するも、制球を乱し敗戦投手となった。しかし、故障者が多い投手陣の事情もあり一軍に残留し、5月27日の横浜ベイスターズ戦でプロ初勝利を挙げた。6月末には再び二軍落ちとなったが、8月に一軍復帰。シーズン終盤には最速154 km/hの速球が評価され、接戦での登板が増加した。四死球の多さが課題とされたが、中継ぎのみで最終的に6勝を記録する活躍を見せた。7月23日には横浜スタジアムで行われたフレッシュオールスターゲームに出場したが、2イニングを投げ2失点を喫した。
2000年、前年の活躍を受け、自身初の開幕一軍入りを果たした。チームは開幕6戦で1勝5敗と出遅れたが、4月だけで3勝1敗を記録した五十嵐の活躍により徐々に持ち直した。一時は「五十嵐が投げると勝てる」とまで言われ、中継ぎのみでオールスターゲーム戦前だけで11勝を記録し、ハーラーダービートップを走った。監督推薦で自身初のオールスターゲームにも出場した。しかし、8月8日の試合でマメが潰れ二軍に降格。復帰後は勝ち星を挙げることができず、最多勝は14勝のメルビン・バンチに譲った。オフには古田敦也と共に最優秀バッテリー賞に選ばれた。これは受賞バッテリーとしては史上最大の年の差であった。契約更改では推定1600.00 万 JPYから大幅増の推定4300.00 万 JPYで一発サインした。また、球団から新背番号「11」を提示され一度は了承したが、当時使用していた「53」に愛着が強くなったとして、再度旧番号への変更を願い出る場面があった。
2001年、キャンプ中に全治1か月の肉離れを発症した。3月に復帰し開幕には間に合わせたものの、5月には右肘痛を発症して二軍に降格。復帰は7月半ばまでずれ込み、チームが優勝する中で波に乗り切れない一年となった。それでも41試合に登板し、防御率は自己最高の2.59を記録し、終盤のチームを支えた。しかし、大阪近鉄バファローズとの日本シリーズ第2戦では8回裏同点の場面で登板したが、タフィ・ローズに3点本塁打を打たれて敗戦投手となり、それ以降の試合には登板しなかった。
2002年、ファンからの公募により、同僚の石井弘寿と共にロケットボーイズの愛称が付けられた。シーズンでは不動のセットアッパーとしてチームに貢献し、自身初めて開幕からシーズン終了まで一軍に帯同した。7月には監督推薦で自身2度目のオールスターゲームに出場し、速球勝負でも話題を集めた。最終的には64試合に登板し、中継ぎのみで8勝を記録した他、防御率は2.08と自己最高の成績を残した。
2003年、故障者の多い投手陣の中で前年に続いて開幕から1年間一軍に定着した。監督推薦で3度目のオールスターゲーム出場を果たした。2年連続60試合登板となる66試合に登板し、同年のセ・リーグ最多登板となり、「勝利の方程式」の一角を担った。
2004年、前年まで抑えを務めた高津臣吾の米メジャーリーグ移籍により、抑えに回った。6月3日の阪神タイガース戦で、当時の日本プロ野球最速タイ記録となる158 km/hを今岡誠に対して記録した。この記録は2005年5月11日にマーク・クルーンが159 km/hを出して更新されたが、日本人選手としては2010年にヤクルトの由規が161 km/hを記録するまで最速タイ記録であった。NPB史上初のストライキが解除された後の最初の試合となった9月20日の阪神戦でも、矢野輝弘に対し、3球連続を含む計4球で158 km/hを計測し、「速球王」の称号を手にした。7月にはファン投票1位に選ばれ、自身4度目のオールスターゲームに出場。オールスターゲームにおける最速球速記録は現在も五十嵐が保持している(157 km/h)。最終的には5勝3敗37セーブという球団セーブ記録を更新し最優秀救援投手に輝いた。
2005年、前年に続き抑えとしての働きを期待されたが、開幕前に大腿部を故障した。開幕には間に合わせたものの、不振で4月半ばには2001年以来の二軍降格も経験した。序盤戦こそ苦しんだが、2年連続ファン投票1位に選ばれて5度目のオールスターゲームに出場した。しかし、最終的には49試合に登板したが4年連続の60試合登板はならなかった。4月6日には藤井秀悟、石井弘寿と共に1試合19奪三振のNPB記録を樹立した。
2006年、開幕の阪神戦でセーブを記録するも成績が安定せず、6月半ばには二軍降格。8月に復帰したものの、9月18日の試合を最後に一軍登録を抹消された。その後の精密検査で右肘靭帯断裂が発覚。オフにはトミー・ジョン手術を受けた。この手術のリハビリの影響で、2007年の復帰が絶望的であることを11月12日の選手会主催イベントで発表した。5月2日の広島東洋カープ戦では、新井貴浩を1球で打ち取り、1球勝利投手となった。
2007年、1年間をリハビリに費やし、実戦登板は無かったが、10月にフェニックスリーグで復帰登板を果たした。
2008年、キャンプとオープン戦を順調に過ごし、開幕戦の3月28日の読売ジャイアンツ戦で9回表に登板。球速も154 km/hを記録し、1年半ぶりの公式戦登板を無失点で切り抜けた。しかしその試合で全治3週間の肉離れを発症し、一時戦線離脱した。4月29日に再登録されると、それ以降は接戦や勝ち試合での起用が増え、9月20日の横浜戦(神宮)では復帰後最速の157 km/hを記録し、自身としては約2年半ぶりのセーブを挙げた。トミー・ジョン手術を受けた投手の中には後遺症や長期の療養により球速が落ちてしまうケースも見られるが、球速は術前と同等まで回復した。この年は四死球も非常に少なく、安定感のある投球が目立った。8月2日にはFA権の取得条件を満たし、プロ生活11年目で初取得となった。
2009年、前年と同様に林昌勇につなぐ8回のセットアッパーとして開幕を迎えた。シーズン中に林昌勇が記録した20試合連続無失点の球団記録を更新して21試合連続無失点を記録した。8月29日の対中日戦でプロ通算500試合登板を記録するも、バント処理の際に腰痛を発症し、翌日には登録抹消となった。シーズン終盤は疲労からか打ち込まれることや四球を出す試合が多くなった。オフにアーン・テレムを代理人としてFA権を行使し、メジャーリーグ挑戦を表明した。
### MLB時代
五十嵐亮太は、2009年オフにニューヨーク・メッツと契約し、メジャーリーグでのキャリアをスタートさせた。
3.1. ニューヨーク・メッツ
2009年12月16日、五十嵐はニューヨーク・メッツと2年総額300.00 万 USD(約2.70 億 JPY)で契約合意した。抑えのフランシスコ・ロドリゲスへのセットアッパーとして期待され、読売ジャイアンツから移籍した高橋尚成と共にメッツに加入した。

2010年、スプリングトレーニングでは防御率7.90と苦戦したものの、4月8日のフロリダ・マーリンズ戦でメジャー初登板を果たした。開幕直後は7試合の登板で防御率1.35と好調な滑り出しを見せたが、4月21日に大腿裏の故障でDL入りした。5月23日に復帰したが、打ち込まれることが多く、防御率7.91で7月初旬にマイナーに降格した。8月下旬に復帰し、チーム161試合目で1/3イニングを投げた直後に味方が勝ち越すという幸運もあり、メジャー初勝利を挙げた。最終的に31試合の登板で1勝1敗、防御率7.12に終わった。この年はこれまで投球割合のほとんどを占めてきたストレートとフォークの他に、フォークとほぼ同じ割合でカーブを交えるようになった。速球系の球種は奪った三振の内70%を占めるなど効果を発揮したが、カーブはストライク率が40%を切るなど制球に苦しみ、フォークも被打率.421と打ち込まれ、変化球の精度の低さに悩まされた。
2011年、1月3日にはチームがクリス・カプアーノとテイラー・バックホルツと契約したことに伴い40人枠から外れた。スプリング・トレーニングには招待選手として参加したが、AAA級バッファローで開幕を迎えた。4月10日のポータケット戦で初セーブを記録し、翌11日にメジャーに昇格したが、5月16日にAAA級バッファローに降格した。バッファローでは19試合の登板で0勝1敗4セーブ、防御率0.94と好投し、7月15日に再昇格した。45試合の登板で4勝1敗、防御率4.66の成績を残した。高めの速球の空振り率が30%を越えるなど、奪三振率は2005年以降ではキャリア最高となる9.78を記録したが、与四球率6.52と制球に苦しんだ。メジャーリーグでの通算5勝はすべて1/3イニングの投球での勝利であった。10月20日には再契約交渉がまとまらずFAとなり、ドミニカ共和国のウィンターリーグに参加。11試合の登板で3セーブ、防御率3.38の成績を残した。
3.2. ピッツバーグ・パイレーツ
2011年12月14日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、2012年のスプリングトレーニングに招待選手として参加した。しかし、3月29日にパイレーツからメジャー契約を結ばないことを通告され、五十嵐は「ニュースにショックを受けた」「やれることはすべてやった」とコメントした。
3.3. トロント・ブルージェイズ、ニューヨーク・ヤンキース
2012年3月30日、五十嵐はトレードでトロント・ブルージェイズへ移籍した。開幕は傘下のAAA級ラスベガスで迎え、19試合の登板で1勝1敗4セーブ、防御率1.29の成績を残し、最速159 km/h (99 mph)(約159 km/h)を記録した。5月25日にメジャーに昇格したが、2試合の登板で4失点を喫し、27日にDFA(事実上の戦力外通告)となった。
2012年5月29日、ウェイバー公示を経てニューヨーク・ヤンキースに移籍した。AAA級スクラントンで5試合に登板した後、フレディ・ガルシアの忌引きリスト入りに伴い、6月7日にメジャー昇格。1試合に登板したのみで10日にスクラントンに降格した。CC・サバシアとアンディ・ペティットの故障離脱に伴いガルシアが先発に回ったため28日に再びメジャーに昇格したが、登板機会のないまま1日で再降格となった。8月12日にはサバシアが再び故障したことにより再昇格しこの日の試合に登板したが、デレク・ロウの加入に伴い翌日再降格し、16日に40人枠から外れた。スクラントンでは30試合に登板し4勝3敗10セーブ、防御率2.45の成績を残した。同年10月、五十嵐はマイナーリーグのFAとなった。
### NPB時代 (ソフトバンク)
2012年11月16日、五十嵐は福岡ソフトバンクホークスと3年総額6.00 億 JPYで契約し、日本球界に復帰した。背番号はヤクルト時代と同じ53となった。
2013年、日本復帰後初登板および本拠地初登板は3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルスとの開幕戦で、8回5点リードから3番手として登板し、打者3人を無失点に抑えた。しかし4月7日の北海道日本ハムファイターズ戦では8回2点リードで登板し、中田翔に逆転3点本塁打を打たれ、帰国後初のホールド機会は救援失敗し敗戦投手となった。4月11日、オリックス・バファローズ戦で帰国後初のホールドを記録し、チームのサヨナラ勝利を呼んだ。4月20日、自身の志願により二軍調整のため出場選手登録を抹消された。5月31日に昇格し、セ・パ交流戦の広島東洋カープ戦で1回を三者連続三振に抑えた。6月22日から7月3日にかけて5試合連続ホールドを記録した。7月9日の埼玉西武ライオンズ戦で帰国後初のセーブを挙げた。7月14日のオリックス戦では、帰国後初のセーブ失敗となったが、その裏にサヨナラ勝ちし、帰国後初勝利、本拠地福岡ヤフオク!ドームでの初勝利となった。その後は主にクローザーとして起用され、7月25日から9月16日までの20試合連続無失点と活躍した。9月30日の西武戦(福岡ヤフオク!ドーム)で、NPB史上初の救援のみで通算50勝目を挙げた。
2014年、デニス・サファテの獲得により、セットアッパーとして開幕一軍を迎えた。4月12日から7月26日までの期間、2度走者を生還させたものの、33試合で1失点自責0と安定した投球を見せた。7月30日から9月5日までの16試合も無失点と活躍した。また、7月2日から9月2日まで、2セーブを挟んで23試合連続ホールドを記録した。この間、パ・リーグ初の月間MVP(7月度)を受賞し、自身2度目の月間MVPとなった。8月3日の日本ハム戦(札幌ドーム)でNPB通算600試合登板を達成し、8月8日の西武戦(県営大宮球場)で、初登板からでは藤田宗一が持つ600試合を塗り替え、NPB新記録となる601試合連続救援登板を達成した。8月28日には史上16人目の通算100ホールドを達成した。9月5日には2010年のブライアン・ファルケンボーグの39ホールドを塗り替え、球団新記録となる40ホールドを達成した。9月7日、西武戦でシーズン初黒星を喫し、9月20日の西武戦ではサヨナラ負けを喫した。9月25日の楽天戦では、7回に登板し、嶋基宏、枡田慎太郎、岩﨑達郎、西田哲朗に4者連続押し出し四球を与え、4失点で降板した。1イニング4つの押し出し四球は、1954年の高橋ユニオンズ田村満以来60年ぶり史上5人目のNPBタイ記録であった。10月2日、リーグ優勝がかかるオリックスとのシーズン最終戦で、8回に登板し1回無失点に抑えた。この試合で自己最多記録・球団新記録・2014年パ・リーグ最多記録となるシーズン44ホールドを記録し、チームは延長10回にサヨナラ勝ちで3年ぶりのリーグ優勝を決めた。また、球団新記録となるレギュラーシーズン合計130ホールドにも貢献した。
CSファイナルステージでは、10月15日の試合でクライマックスシリーズ初勝利を手にした。10月18日にはホールドを記録し、10月19日には中田翔に同点本塁打を許したが、2イニング1失点に抑えた。10月20日には3日連続登板でホールドを記録し、チームは日本シリーズ進出を決めた。阪神との日本シリーズでは、4試合で5回を投げ無失点と活躍した。10月30日の試合では、その裏に松田宣浩が勝ち越し打を放ち、チームは日本一となり、自身初の日本シリーズ勝利投手となった。11月24日に行われた福岡市の優勝パレードでは王貞治球団会長、内川聖一とオープンカーに同乗した。
2015年、春季キャンプで右ふくらはぎの張りを訴え、調整が遅れて開幕には間に合わなかった。4月17日に一軍登録され、同年初登板となった同月21日の楽天戦を1イニング・被安打1・奪三振2で抑えた。6月11日のセ・パ交流戦・阪神戦で2失点を喫するまで19試合に登板し、1勝0敗13ホールド、失点・自責点なしの好リリーフを見せた。その後も8月7日の千葉ロッテマリーンズ戦で、2年ぶりの被本塁打である逆転3点本塁打を打たれ敗戦投手になったが、9月13日の楽天戦でセーブを記録するなど、セットアッパーとして安定したピッチングを見せ、チームの日本シリーズ連覇に貢献した。同年は54試合に登板、52イニングを投げ、3勝1敗、31ホールド、2セーブ、防御率は自己最高となる1.38でレギュラーシーズンを終えた。シーズンオフの12月7日に契約更改を行い、2億円アップの2年契約・年俸推定3.50 億 JPYプラス出来高でサインした。
2016年、開幕一軍登録され、開幕戦第2戦目の3月26日の楽天戦に4番手として同年初登板した。4月5日のロッテ戦において、ジェフ・ウィリアムスに並ぶ歴代4位の通算141ホールドを記録するなど順調なスタートを切った。しかし、4月21日、QVCマリンフィールドでの練習中に左太もも裏の肉離れと診断され、戦列離脱を余儀なくされた。6月23日、2か月ぶりに一軍に合流し、6月27日からのロッテ3連戦で復帰登板。7月は9試合に登板し、2ホールドを挙げるなど中継ぎのローテーションを守ったが、7月30日の日本ハム戦において、同点で迎えた9回に登板した際、3四死球でサヨナラ押し出しを与え初黒星を喫した。8月以降も中継ぎローテーションの一角を担い、8月28日の福岡ヤフオク!ドームで行われたロッテ戦では、史上15人目となる700試合登板を記録した。しかし、前述の怪我による離脱もあり、今シーズンの成績は33試合に登板し、27回1/3を投げ、0勝1敗、7ホールド、防御率3.62と日本での一軍登板で初の未勝利に終わった。シーズンオフには、メキシコでのウインターリーグに自主参加し、トマテロス・デ・クリアカンに所属した。同リーグでは、所属したチームのGMと監督から、2010年にともにニューヨーク・メッツでプレーした高橋尚成と勘違いされ、日米通じて初めての先発登板を経験した。11月10日には初先発初勝利を、同月16日には、8回1安打無失点12奪三振で3勝目を挙げた。成績は、先発で5試合・中継ぎで2試合の計7試合に登板して、37回1/3を投げ、3勝2敗、防御率1.93だった。
2017年、宮崎春季キャンプでは、プロ20年目にしてチェンジアップの習得に取り組んだ。4月2日に行われた開幕第3戦のロッテ戦で2番手として初登板し、初勝利を掴んだ。4月21日の楽天戦(福岡ヤフオク!ドーム)で2勝目を挙げ、日米通算800試合登板を達成した。6月18日の広島戦では、2005年のヤクルト時代以来12年ぶりに打席に立った。投げては1回2/3を無失点で、チームの交流戦最高勝率獲得に貢献した。7月まで中継ぎの一角を担い、39試合に登板し、6勝0敗、10ホールドを挙げていたが、7月11日の楽天戦において、左太もも裏を痛めて負傷交代した。その後「左半腱半膜様筋損傷」、全治2 - 3か月と診断され、戦線離脱した。怪我のリハビリを経て、9月13日に行われたオリックス戦において2か月ぶりの復帰登板を果たした。46試合に登板で移籍後最多の6勝を記録し、11ホールドを記録し、チームの2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。ポストシーズンでは、横浜DeNAベイスターズとの日本シリーズ第4戦に登板し、チームの2年ぶりの日本一奪還に寄与した。12月1日、1000.00 万 JPYアップの年俸推定3.60 億 JPYプラス出来高の単年契約でサインした。
2018年、椎間板ヘルニアで出遅れ、7月に一軍に昇格した。11月4日、球団より戦力外通告を受け、12月2日、自由契約公示されたが、現役続行を明言した。
### NPB時代 (ヤクルト2期) と引退
2018年12月26日、東京ヤクルトスワローズへの移籍が決まり、2019年1月30日に公示された。背番号は前回在籍時と同じ53。推定年俸は3.40 億 JPY減となる推定2000.00 万 JPYとなった。
2019年、開幕から4登板目となる4月5日の中日戦で移籍後初勝利を挙げた。4月は救援登板のみで5勝を挙げ、史上初の40歳シーズン月間5勝を達成した。3・4月の月間MVP候補にも上がった。5月28日、自身の40歳の誕生日に行われた広島戦で、史上7人目となるNPB通算800試合登板を達成した。これは救援のみでの800試合登板としては、岩瀬仁紀を上回る最年長記録である。また、8月8日には、史上4人目となる日米通算900試合登板も達成した。ファームでの再調整のため登録抹消となることもあったが、一軍で45試合に登板し防御率2.98、5勝4ホールドを記録した。契約更改では倍増の推定4000.00 万 JPYでサインし、日米通算1000試合登板を目指していると語った。
2020年、開幕直前でコンディション不良により、一軍から離れた。その後一度も一軍に合流することはなく、8月に同年限りの現役引退を決断した。10月15日に引退会見を経て、25日の中日ドラゴンズ戦(明治神宮野球場)で8回表に引退登板。先頭打者を初球で打ち取り有終の美を飾った。なお、現役最後の対戦打者となったモイゼス・シエラは偶然にも2012年ブルージェイズ傘下3Aラスベガス在籍時のチームメイトだった。試合後のセレモニーでは高津監督や家族からの花束贈呈後チームメイトから胴上げされた。その後の場内一周の際には、過去優勝決定試合後に古田敦也らも見せたライトフェンスよじ登りパフォーマンスを見せた。23年の現役生活に幕を閉じ、1997年ドラフト指名のプロ野球選手の中では最後の現役引退となった。
4. 選手としての特徴
五十嵐は、その独特な投球スタイルと球種、そして投球フォームの変化によって、長きにわたりプロ野球界で活躍した。
### 投球スタイルと球種
五十嵐のNPB、MLB、マイナーリーグなどでの生涯登板数は1000を超えるが、プロ入り後の公式戦登板はすべてリリーフ登板である(メキシコウィンターリーグで5試合の先発登板を経験)。
ヤクルト時代は平均球速約151 km/h、当時の日本記録タイとなる最速158 km/hを記録したストレートを武器にセ・リーグの速球王として人気を博し、同僚の石井弘寿と共にロケットボーイズの愛称で呼ばれた。リリーフ登板のみで前半戦11勝を記録した2000年を始め、勝ち星に恵まれたシーズンが多く、スワローズの公式ホームページでは「勝利の女神が惚れた男」というキャッチフレーズを付けられたこともある。メジャーでは記録した5勝すべてが、1/3回の投球での勝利という幸運ぶりであった。
スリークォーターから平均球速約150 km/h (93 mph)(約150 km/h)、マイナーリーグで自己最速159 km/h (99 mph)(約159 km/h)と抜群のスピードを誇る速球(フォーシーム、ツーシーム)と平均球速約138 km/h (86 mph)(約138 km/h)のSFF気味のフォークを武器とし、日本での通算奪三振率9.95と奪三振が多い。一方で4球連続ボールを与えることがシーズンで10回以上あるなど、制球に苦しむ一面も見られた。
2005年以前は投球割合の7 - 8割を速球が占めていたが、2006年には速球の投球割合が減少し、故障から復帰した2008年からはフォークの投球割合が約4割となった。2010年には投球割合のほとんどを占めてきたストレートとフォークの他に、フォークとほぼ同じ割合でナックルカーブを交えるようになった。2011年には握りを深くして落差を大きくしたフォークとスライダーも交えるようになった。ソフトバンク移籍後はストレートは平均球速約148 km/hを記録し、変化球はフォークの比率が下がった分、ヤンキース時代に習得したナックルカーブやカットボールを使うようになった。
### 投球フォームと技術的変化
担いで腕を押し出すようにして投げる独特のピッチングフォームであり、クイックも約1.1秒台前半と速い。敢えて腕を畳んだまま最小の半径で腕を振ることが、爆発的な速球を生み出す源になっているという。
現役時代に室伏広治からは体の使い方を教わり、上半身を活かすために下半身を使うことの重要性を説かれ、投球でも腕は自分から「振る」ものではなく結果として下半身に「振れる」ものだと自覚した。本人は引退後、日本球界時代の担当キャッチャーであった古田敦也が、ストライクも満足に入らなかった制球力であった若手時代に、敢えてノーコンを注意せずに持ち味を伸ばしてくれたことが速球派投手として大成した要因であるとしている。
5. 人物
五十嵐亮太は、家族や交友関係、そして公の場での活動を通じて、その人柄やキャラクターが広く知られている。
### 家族・交友関係
妻はかつて横浜ベイスターズのマスコットガールをしていた。一男一女に恵まれている。家族の多くは2011年東北地方太平洋沖地震の震源地から南に約321868 m (200 mile)の場所に住んでいた。
ブログやインタビューなどで度々チームや日本野球への愛着を述べており、かつてはメジャー移籍願望を否定していたが、FA権を取得した際には将来のメジャー移籍も選択肢のひとつと語った。お笑いトリオのネルソンズの大ファンであることを公言している。
### スワローズマン
2008年のオフに「五十嵐の親友」を名乗る覆面男「スワローズマン」が出現した。オフの間、五十嵐のトレーニングを手伝うつもりで北海道の留萌からやって来たという。覆面レスラーU.M.Aからプレゼントされたスワローズデザインのマスクを2007年のファン感謝デーにかぶって登場したことから誕生したキャラクターだが、その正体は五十嵐本人であった。スワローズマンは一時期ブログを開設していた(現在は閉鎖)。2009年オフの五十嵐のメジャー挑戦を期に、メキシコでのプロレス挑戦を宣言し活動休止となった。
6. 現役引退後の活動
現役引退後、五十嵐亮太は野球解説者やYouTuberとして多岐にわたる活動を展開し、野球界の内外でその影響力を広げている。
2020年の日本シリーズ(福岡ソフトバンクホークス対読売ジャイアンツ)第1戦で日本テレビの地上波特別ゲスト解説者としてデビューした。
2021年以降は、日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビ・テレビ東京の在京キー局全てで野球解説を務め、TOKYO MXや福岡での解説なども担当。AbemaTVではMLB解説を務める。2023年にはテレビ朝日での「2023 WORLD BASEBALL CLASSIC」でのリポーターも務めた。
その後は日本人メジャーリーガーの活躍や、理論派かつ丁寧で時代にあった解説が定評をよび、日本テレビのZIP!やnews every.、TBSのひるおび、テレビ朝日モーニングショーやフジテレビのめざましテレビなど情報番組への出演が増え、日本テレビの藤井貴彦アナウンサーから「日本一、行列のできる野球解説者」と言われるなど、人気の解説者となっている。
2024年7月15日には神宮球場で行われた出身地である留萌市(JAるもい)の協賛試合で、引退後初めて始球式で神宮のマウンドに上がり、約130 km/hの速球を披露した。その際にユニフォームの背に「JA RUMOI」と印字されていたことを本人は、「五十嵐亮太ではなく新外国人選手の『ジェロモイ』だ」と発言し、ネット上で話題となった。
2024年7月には自身のYouTubeチャンネルを開設した。現役時代には忙しくてできなかったことに挑戦しつつも、元メジャーリーガーとしてMLB・NPBの両リーグを解説するチャンネルとなっている。
7. 受賞・記録・栄誉
五十嵐亮太は、その現役生活において、NPBおよびMLBで数々の個人タイトルや記録を達成し、多くの栄誉に輝いた。
### 主要タイトルと表彰
- 最優秀救援投手:1回(2004年)
- 月間MVP:2回(投手部門:2004年7月、2014年7月)
- 最優秀バッテリー賞:1回(2000年 捕手:古田敦也) ※同受賞バッテリーでは史上最大の年の差
- ファーム日本選手権MVP:1回(1998年)
### 個人記録達成
- NPB初記録
- 初登板:1999年4月20日、対中日ドラゴンズ4回戦(明治神宮野球場)、12回表に3番手で救援登板、1/3回3失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、12回表に山崎武司から見逃し三振
- 初勝利:1999年5月27日、対横浜ベイスターズ9回戦(明治神宮野球場)、7回表に3番手で救援登板、1回無失点
- 初セーブ:1999年10月3日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、8回裏に2番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初ホールド:2005年5月21日、対オリックス・バファローズ2回戦(明治神宮野球場)、7回表二死に4番手で救援登板、1回1/3を無失点
- NPB節目の記録
- 500試合登板:2009年8月29日、対中日ドラゴンズ20回戦(明治神宮野球場)、9回表に2番手で救援登板、1/3回無失点 ※史上84人目
- 600試合登板:2014年8月3日、対北海道日本ハムファイターズ14回戦(札幌ドーム)、8回裏に4番手で救援登板、1回無失点 ※史上37人目
- 100ホールド:2014年8月28日、対北海道日本ハムファイターズ20回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、8回表に3番手で救援登板、1回無失点3奪三振 ※史上16人目
- 700試合登板:2016年8月28日、対千葉ロッテマリーンズ22回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、8回表に5番手で救援登板、2/3回1失点 ※史上15人目
- 800試合登板:2019年5月28日、対広島東洋カープ9回戦(明治神宮野球場)、5回表に3番手で救援登板、1回無失点 ※史上7人目
- NPBその他の記録
- 1球勝利投手:2006年5月2日、対広島東洋カープ4回戦(明治神宮野球場)、9回表二死に新井貴浩を一邪飛 ※史上21人目(セ・リーグ12人目)
- オールスターゲーム出場:6回(2000年、2002年、2003年、2004年、2005年、2014年)
- 初登板からの連続救援登板:823 ※当時のNPB記録(2023年に宮西尚生が更新)
- 1イニング4押し出し四球:2014年9月25日、対東北楽天ゴールデンイーグルス23回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の7回表に嶋基宏、枡田慎太郎、岩﨑達郎、西田哲朗から ※史上5人目、60年ぶりNPBタイ記録
- NPB/MLB通算節目の記録
- 900試合登板:2019年8月8日、対阪神タイガース17回戦(明治神宮野球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回2失点
8. 詳細情報
五十嵐亮太のキャリアに関する詳細なデータは、年度別の成績や背番号の変遷など、多岐にわたる。
### 年度別投手成績
年度 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 敬遠 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | ヤクルト | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 1 | -- | .600 | 207 | 47.2 | 34 | 4 | 29 | 0 | 1 | 59 | 3 | 1 | 27 | 26 | 4.91 | 1.32 |
2000 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 4 | 1 | -- | .733 | 301 | 75.1 | 42 | 11 | 33 | 3 | 1 | 90 | 6 | 0 | 28 | 26 | 3.11 | 1.00 | |
2001 | 41 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 180 | 41.2 | 25 | 2 | 28 | 2 | 2 | 51 | 1 | 0 | 13 | 12 | 2.59 | 1.27 | |
2002 | 64 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 4 | -- | .800 | 300 | 78.0 | 49 | 8 | 18 | 2 | 3 | 97 | 8 | 0 | 19 | 18 | 2.08 | 0.86 | |
2003 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 310 | 74.0 | 60 | 9 | 33 | 2 | 1 | 83 | 7 | 1 | 33 | 32 | 3.89 | 1.26 | |
2004 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 37 | -- | .625 | 313 | 74.1 | 57 | 9 | 36 | 5 | 1 | 86 | 4 | 0 | 24 | 22 | 2.66 | 1.25 | |
2005 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 4 | 11 | .600 | 246 | 56.2 | 52 | 6 | 27 | 2 | 1 | 60 | 6 | 0 | 24 | 22 | 3.49 | 1.39 | |
2006 | 29 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 1 | .333 | 119 | 25.0 | 33 | 3 | 11 | 1 | 2 | 18 | 4 | 0 | 20 | 17 | 6.12 | 1.76 | |
2008 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 3 | 12 | .600 | 171 | 43.2 | 35 | 3 | 6 | 0 | 2 | 42 | 3 | 0 | 13 | 12 | 2.47 | 0.94 | |
2009 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 3 | 29 | .600 | 221 | 53.2 | 42 | 3 | 20 | 1 | 3 | 44 | 1 | 0 | 19 | 19 | 3.18 | 1.16 | |
2010 | NYM | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 2 | .500 | 135 | 30.1 | 29 | 4 | 18 | 1 | 0 | 25 | 3 | 0 | 24 | 24 | 7.12 | 1.55 |
2011 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 2 | .800 | 190 | 38.2 | 43 | 2 | 28 | 2 | 4 | 42 | 3 | 0 | 20 | 20 | 4.66 | 1.84 | |
2012 | TOR | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 10 | 1.0 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 4 | 36.00 | 7.00 |
NYY | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 16 | 3.0 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | 12.00 | 2.33 | |
'12計 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 26 | 4.0 | 9 | 0 | 5 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 8 | 8 | 18.00 | 3.50 | |
2013 | ソフトバンク | 51 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 12 | 11 | .500 | 214 | 53.1 | 38 | 1 | 18 | 0 | 1 | 58 | 1 | 1 | 17 | 15 | 2.53 | 1.05 |
2014 | 63 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 2 | 44 | .250 | 226 | 59.1 | 33 | 0 | 18 | 0 | 1 | 71 | 4 | 1 | 11 | 10 | 1.52 | 0.86 | |
2015 | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 2 | 31 | .750 | 203 | 52.0 | 31 | 1 | 15 | 1 | 4 | 59 | 3 | 0 | 8 | 8 | 1.38 | 0.88 | |
2016 | 33 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | .000 | 123 | 27.1 | 23 | 3 | 14 | 1 | 4 | 27 | 2 | 0 | 11 | 11 | 3.62 | 1.35 | |
2017 | 46 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 11 | 1.000 | 170 | 41.2 | 20 | 2 | 21 | 0 | 3 | 28 | 2 | 0 | 8 | 8 | 1.73 | 0.98 | |
2018 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | .000 | 94 | 20.0 | 23 | 2 | 11 | 0 | 0 | 14 | 2 | 0 | 11 | 10 | 4.50 | 1.70 | |
2019 | ヤクルト | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 4 | .833 | 193 | 42.1 | 35 | 4 | 24 | 1 | 3 | 33 | 3 | 1 | 19 | 14 | 2.98 | 1.39 |
2020 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 1 | 0.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | |
NPB:18年 | 823 | 0 | 0 | 0 | 0 | 65 | 39 | 70 | 163 | .625 | 3592 | 866.1 | 632 | 71 | 362 | 21 | 33 | 920 | 60 | 5 | 305 | 282 | 2.93 | 1.15 | |
MLB:3年 | 83 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 0 | 4 | .714 | 351 | 73.0 | 81 | 6 | 51 | 3 | 4 | 72 | 6 | 0 | 52 | 52 | 6.41 | 1.81 |
### 年度別守備成績
年度 | 球団 | 投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
1999 | ヤクルト | 36 | 1 | 5 | 0 | 0 | 1.000 |
2000 | 56 | 2 | 6 | 1 | 0 | .889 | |
2001 | 41 | 1 | 3 | 1 | 0 | .800 | |
2002 | 64 | 5 | 6 | 0 | 2 | 1.000 | |
2003 | 66 | 4 | 11 | 0 | 3 | 1.000 | |
2004 | 66 | 5 | 8 | 1 | 1 | .929 | |
2005 | 49 | 7 | 7 | 0 | 0 | 1.000 | |
2006 | 29 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
2008 | 44 | 1 | 7 | 0 | 0 | 1.000 | |
2009 | 56 | 2 | 10 | 0 | 0 | 1.000 | |
2010 | NYM | 34 | 1 | 2 | 2 | 0 | .600 |
2011 | 45 | 1 | 9 | 0 | 0 | 1.000 | |
2012 | TOR | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- |
NYY | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
'12計 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
2013 | ソフトバンク | 51 | 1 | 8 | 0 | 0 | 1.000 |
2014 | 63 | 1 | 15 | 0 | 0 | 1.000 | |
2015 | 54 | 3 | 9 | 2 | 0 | .857 | |
2016 | 33 | 3 | 6 | 0 | 0 | 1.000 | |
2017 | 46 | 0 | 5 | 0 | 0 | 1.000 | |
2018 | 23 | 1 | 4 | 0 | 0 | 1.000 | |
2019 | ヤクルト | 45 | 4 | 8 | 1 | 0 | .923 |
2020 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | |
NPB | 823 | 43 | 119 | 7 | 6 | .959 | |
MLB | 83 | 3 | 12 | 2 | 0 | .882 |
### ウィンターリーグでの投手成績
年度 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 敬遠 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011-2012 | ヒガンテス | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | -- | ---- | 48 | 10.2 | 11 | 0 | 4 | 0 | 1 | 14 | 0 | 0 | 5 | 4 | 3.38 | 1.41 |
2016-2017 | クリアカン | 7 | 5 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | -- | .600 | 142 | 37.1 | 23 | 2 | 9 | 0 | 1 | 49 | 3 | 0 | 10 | 8 | 1.93 | 0.86 |
### 背番号の変遷
- 53(1998年 - 2009年)ヤクルト
- 18(2010年 - 2011年)メッツ
- 17(2012年 - 同年3月30日)パイレーツ
- 56(2012年5月25日 - 同年5月27日)ブルージェイズ
- 43(2012年6月7日 - 同年6月10日)ヤンキース
- 41(2012年6月28日 - 同年6月29日)ヤンキース
- 53(2012年8月12日 - 2020年)ヤンキース、ソフトバンク、ヤクルト
### 登場曲
- 「希望の轍」サザンオールスターズ(2013年)
- 「Skull And Crossbones (海賊の印)」Klaus Badelt(2013年 - 2016年、2018年 - )
- 「Sandstorm」ダルード(2017年 - )
- 「Feel Invincible」Skillet(2017年)
9. 関連情報
### メディア出演
- TV
- 「追跡LIVE! Sports ウォッチャー」→「みんなのスポーツ Sports for All」(2021年 - 2023年、テレビ東京)
- 「ひるおび」(2022年~、TBS)
- 「news every」(2022年~、日本テレビ)
- 「S☆1」(2022年、TBS)
- 「ワースポ×MLB」(レギュラー出演:2022年~、NHK BS1)
- なお、WBCなど侍JAPAN関連や大谷翔平関連の話題がある時は、上記以外のテレビ局の番組(ワイドショーや情報番組等)に出演する場合もある。
- テレビドラマ
- 「八月は夜のバッティングセンターで。」第4話(2021年7月29日、テレビ東京)本人 役
- ラジオ
- REAL SPORTS(2021年4月3日 - 2022年3月26日・InterFM897 → 2022年4月1日 - ・JFNC、FUTURES金曜)
### 関連書籍
- 『海を渡る:サムライたちの球跡』(長谷川晶一著、扶桑社、2024年9月、ISBN 9784594098056