1. 概要
古田敦也は、1965年8月6日に兵庫県川西市で生まれた日本の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、プロ野球監督、野球解説者、スポーツキャスター、YouTuber。東京ヤクルトスワローズ一筋で選手生活を送り、「ID野球の申し子」として知られる名捕手として名を馳せた。その多岐にわたるキャリアの中でも、2004年の球界再編問題では日本プロ野球選手会会長として史上初のプロ野球ストライキを主導し、選手たちの権利保護と野球界の構造改革に大きな影響を与えた。
古田は、アマチュア時代にはドラフト会議での指名漏れという屈辱を経験しながらも、社会人野球を経てプロ入り。東京ヤクルトスワローズの野村克也監督の下で正捕手として定着し、1991年には捕手として史上2人目(セ・リーグ初)の首位打者を獲得。リーグ優勝5回、日本一4回に貢献し、2度のシーズンMVP、2度の日本シリーズMVP、10度のゴールデングラブ賞に輝いた。特に捕手としての通算盗塁阻止率.462とシーズン盗塁阻止率.644は日本記録であり、その卓越した守備能力は日本球界の歴史に名を刻んでいる。
2006年から2007年には選手兼任監督としてチームを指揮。その期間中には、ファンサービスの改善を目的とした「F-Project」を立ち上げ、球団名の「東京ヤクルトスワローズ」への改称を提案するなど、地域密着型の球団運営に貢献した。引退後も野球殿堂入りを果たし、野球解説や臨時コーチ、日本女子ソフトボールリーグ機構理事など、幅広い分野で野球の発展と普及に尽力している。彼の野球に対する深い洞察力と「優柔決断」の哲学は、単なる選手や監督に留まらない、社会全体への影響力を示している。
2. 生い立ちとアマチュア時代
古田敦也は、プロ野球選手となる以前の幼少期から社会人野球選手としての活動まで、様々な経験を積んだ。特に、中学生時代にいじめに遭い野球を中断した経験や、大学時代のドラフト会議での指名漏れは、彼の野球人生における反骨心の原点となった。
2.1. 幼少期から学生時代
古田敦也は兵庫県川西市で生まれ、川西市立加茂小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団した。当時、Dチームには捕手がおらず、「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任されたのが、彼の捕手としての原点である。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝で、阪急ブレーブスのファンクラブ組織である「ブレーブスこども会」の会員でもあった。
川西市立川西中学校で野球を続けたが、中学1年の夏休み明けから、野球が上手なことを理由に上級生から暴力、1リットルのコーラの一気飲みの強要、度を越した罰走などのいじめを受け、野球をやめた。両親の尽力により、2学期から宝塚市立南ひばりガ丘中学校に転校した。この転校後から注目を集め、高校進学時には私立校からの誘いもあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学し、高校3年間はほぼ無名の存在だった。
高校3年の8月から受験勉強を始め、関西大学商学部と立命館大学経営学部経営学科の一般入試に合格した。当初は強豪だった関西大学への進学を決めていたが、立命館大学硬式野球部監督の中尾卓一に強く勧誘されたこと、また京都の祇園の夜の街に魅せられたことで心変わりし、1984年春に立命館大学に入学し、硬式野球部に入部した。大学入学後、裸眼視力が0.1まで低下したため眼鏡をかけるようになり、これが後に「眼鏡をかけた捕手」という彼の象徴的なイメージにつながる。古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、もう眼鏡をかけるしかないと...」と語っている。
2.2. 大学・社会人時代
立命館大学時代、当時の関西学生野球リーグは近畿大学の全盛期であったが、3年時の1986年にはエース岩本利仁とバッテリーを組み、チームを春季・秋季連続優勝に導いた。4年時の1987年にはキャプテンを務め、日米大学野球選手権大会日本代表に選出されるなど、その実力はプロ各球団からも注目され、プロを目指すようになった。リーグ通算77試合に出場し、234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点を記録し、ベストナイン(捕手)に4度選ばれた。
しかし、11月18日のドラフト会議当日、大学には会見用のひな壇が設置され、垂れ幕まで用意されていたにもかかわらず、指名を確約された球団を含め、どの球団からも指名されなかった。当時の日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって、日本ハムは指名を取りやめたという。また、古田自身は乱視が原因ではないかと振り返っており、この屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている。
プロ入りが叶わなかった古田は一般枠で新卒採用に応募し、トヨタ自動車から内定を得て、1988年3月に立命館大学経営学部を卒業した。同年4月、トヨタ自動車に入社し人事部に配属され、野球部の練習がない時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営に従事した。新人研修ではディーラーでの営業も経験し、この社会人野球時代を経て身についた普通の金銭感覚が、プロ入り後にも役立ったと語っている。
トヨタ自動車硬式野球部では1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。1年目の都市対抗ではNTT東海の補強選手としてチームの準優勝に貢献した。同年8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表に選出された。古田は当時、「(プロに行くために)五輪メンバーに選ばれないといけない」と考え、ジャパンの監督やバッテリーコーチの野球観を調べ、「元気があって、国際大会の環境の悪い中でもへこたれない、あきらめないやつが好きだ」との情報を得て、選考会で「ボール回しでも"ヤー"とか言いながら、一生懸命、声出して野球をやった」と語っている。そして見事に日本代表の座を射止め、野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組み、決勝でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。2年目にはチームを9年ぶりの都市対抗出場に導いた。
古田は1989年のドラフト会議に際し、巨人かヤクルトを希望していると報じられた。ヤクルトは1987年のドラフトでも古田を指名候補に入れていたが、当時のスカウト部長である片岡宏雄によれば、古田の眼鏡が理由で指名を見送っていたという。しかし、片岡は古田のプレーに惚れ込み、担当スカウトの羅本新二に交渉を進めさせ、夏の編成会議で球団首脳の了承を取り付け、2位指名が内定した。
しかし、10月にヤクルト本社社長の桑原潤が推す野村克也が新監督に就任すると状況は一変した。野村は「大学出に名捕手はいない」という持論を展開しており、眼鏡をかけている古田の指名をやめるよう要求した。片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と反発し、球団幹部も古田指名の方針を崩さなかった。野村自身は後に「(眼鏡は)問題ない」と語り、古田獲得を自分が命じたと主張しており、両者の間で異なる見解がある。いずれにせよ、ヤクルトは当初の予定通り古田を2位で指名した。
3. プロ野球選手時代
東京ヤクルトスワローズに入団後、古田敦也は捕手としての卓越した守備能力と打撃力を兼ね備え、チームの黄金期を牽引した。数々の記録を打ち立て、日本プロ野球界を代表する名捕手としての地位を確立した。
3.1. 入団から黄金期 (1990年代)
1990年、古田は1位指名の西村龍次と共にユマでの一軍キャンプメンバーに選ばれた。野村克也監督は当初、「肩は一流、打撃は二流、リードは三流」と辛辣な評価を下し、メディアに対しても「メガネを掛けているとマスクがズレる」と語るなど、古田への評価は低かった。開幕戦は前年の主戦捕手だった秦真司が先発したが、秦のリードや守備に不安を露呈したため、4月28日に古田が初のスタメン出場を果たした。野村監督は秦の捕手としての能力に不満があり、飯田哲也を正捕手として育成する構想もあったが、秦を外野にコンバートしたことで古田が正捕手に定着した。
古田は試合に出るようになると野村監督から厳しい叱責を受けるようになったが、彼は持ち前の負けん気を発揮し、「どうせ怒られるなら近くにいようと思って『すいませんここに座らせてください』と言って近くに座るようになりました」と前向きな姿勢を示した。この経験は彼の野球観に大きな影響を与え、「頭を使えたら弱いやつでも勝てる」という野村の思想を深く学んだ。新人ながら監督推薦でオールスターに出場し、盗塁阻止率リーグ1位(.527)を記録してゴールデングラブ賞を受賞した。先輩捕手だった八重樫幸雄は、古田がレギュラーになってから投手とのコミュニケーションが活発になり、チーム全体の守備が向上したと称賛している。
1991年のオールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では、相手走者の盗塁3度を全て刺し、MVPを受賞した。シーズンでは打率.340で首位打者を獲得。捕手による首位打者獲得は野村克也以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初の快挙だった。この首位打者争いは落合博満(当時中日ドラゴンズ)との間で激しく繰り広げられた。ヤクルトの野村監督は落合を全打席敬遠するよう指示し、落合は1試合6四球という日本新記録を樹立した。最終的に落合が一時逆転するも、古田は最終戦で重圧の中、第1打席で安打を放ち事実上首位打者を確定させた。
1992年には6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクル安打を記録し、MVPを受賞した。シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、自己最多の30本塁打を記録するなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。しかし、日本シリーズ(対西武ライオンズ)では3勝4敗で敗れた。
1993年は、5月27日の対読売ジャイアンツ戦で、古田の発言が巨人ベンチの怒りを買い、続く6月8日の試合で宮本和知から死球を受け、その後本塁突入時に吉原孝介からの執拗なタッチにジャック・ハウエルが怒り乱闘騒ぎに発展した。シーズンを通じては2年連続となる全試合出場を果たし、リーグ優勝の原動力となり、シーズンMVPに選ばれた。この年の盗塁阻止率.644は2024年現在も破られていない日本記録である。日本シリーズでは前年と同じ西武ライオンズとの対戦で、伊東勤との捕手対決が話題となる中、チームは4勝3敗で日本シリーズを制覇した。
1994年には初のCDデビューを果たすも、その発売6日後、開幕4戦目の4月14日に対広島東洋カープ戦で前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱した。6月14日に一軍・スタメン復帰するも、今度は打撃が不振を極め、76試合の出場、打率.238、3本塁打と低調な成績に終わり、チームも4位に沈んだ。
1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。古田はミーティングでイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、4勝1敗で2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚した。
1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322、勝負強い打撃でリーグ6位の86打点を記録するなど活躍。西武ライオンズとの日本シリーズでは、1勝1敗で迎えた第3戦で渡辺久信から勝ち越し本塁打を放ち、チームは4勝1敗で制覇。古田は捕手として初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。
1998年には通算1000試合出場を達成したが、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村克也がヤクルト監督を退任。オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した。
若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われたシドニーオリンピック野球のアジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出され、15歳年下の松坂大輔とバッテリーを組んだ。2000年は、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。
3.2. ベテラン期と記録達成 (2000年代)
2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。大阪近鉄バファローズとの日本シリーズでは14打数7安打、打率.500、1本塁打、7打点を記録し、近鉄の「いてまえ打線」を打率.171に抑え、4勝1敗で勝利し、自身2度目のシリーズMVPを受賞した。
2002年は4年ぶりに10本塁打に届かなかったが打率3割を記録した。また満塁では11打数8安打(打率.727)を記録するなど満塁での勝負強さが光った。
2003年は開幕直前に右手薬指を骨折したが、完治しないまま開幕戦を強行出場した。6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録した。シーズンでも先発マスクは一試合だけ欠場しただけで打率こそ2年ぶりに3割を割ったが、1995年以来の20本塁打以上を記録した。
2004年は開幕から打撃好調でタイトル争いにも加わっていたが、球界再編問題による選手会の活動が激務で、日に日に成績は下降した。しかし、なんとか通算8回目となるシーズン打率3割を残した(これが現役最後の規定打席到達だった)。39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行と門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。
2005年4月24日(対広島戦、坊ちゃんスタジアム)、捕手としては野村克也以来史上2人目、大卒・社会人を経てプロ入りした捕手としては史上初の通算2000安打を達成した。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し11年ぶりに規定打席未到達となり、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日には通算1000打点を達成した。
4. 選手兼任監督時代 (2006年-2007年)
古田敦也は2005年シーズン限りで若松勉監督が退任した後、ヤクルトの次期監督として打診され、野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督としてチームを率いた。彼の監督としての采配や、球団運営における取り組み、そして直面した課題は多岐にわたる。
2005年10月18日、古田は選手として1年契約、監督としては2年契約で、東京ヤクルトスワローズの指揮を執ることで球団と合意した。監督としての最初の仕事は、翌2006年シーズンに契約を結ばない選手を決めることであり、編成担当から名簿を渡され「いらない選手に×してください」と頼まれたが、本人は後に辛かったと振り返っている。
ファンサービスの改善策について球団と交渉を続け、球団外部からカカクコム社長(当時)の穐田誉輝らを招聘し、「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開した。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された。
2006年、メディアや評論家は、それまでの古田の堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、彼は1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷いた。同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイだった。一方、投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿と五十嵐亮太の怪我及び不調が原因で固定できなかった。監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績を残したが、選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己最低に終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1.80 億 JPY減(75%減)の6000.00 万 JPYで契約を更改した。
2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスがセ・リーグ最多(プロ野球歴代5位)となる204安打を記録し、タイトルを獲得した。一方、古田は通算2000試合出場を達成したものの、その記録を達成した試合では、横浜・石川雄洋が大量得点差のついた状況で盗塁を試みたことに端を発する遠藤政隆の危険球判定にめぐって審判との口論の末に「(審判には)常識がない」という趣旨の暴言を吐いたという理由で退場処分を受けた。前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ、8月までに出場した試合はわずか3試合だった。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。
9月17日、ヤクルトのBクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表した。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声がヤクルトファンのみならず、他球団のファンからも飛び交った。
9月27日の対広島戦でシーズン初安打を放つ。敵地・広島市民球場での試合であったが、試合後には広島監督のマーティ・ブラウンから花束が送られ、古田がそれに応え両軍ファンにサインボールを投げ込むささやかなセレモニーが行われた。神宮球場における最後の出場となった10月7日、古田の引退試合が行われた。奇しくも対戦相手は同じ広島であった。神宮での最終打席となる8回裏の第4打席では、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの佐々岡真司が登板し(前日、佐々岡が自ら登板を志願しており、佐々岡にとってこれが現役最後の登板となった)、遊ゴロに終わった。古田はこの日の最終打席で佐々岡が登板することを聞いていたと明かしており、「球が遅いんですよ。もっとピュッときてくれんかなと。『これ引っ掛けるわ』と思ったらショートゴロだった」と対戦を回顧している。また、この試合の8回には石井一久、9回には高津臣吾とバッテリーを組み、現役最後のマスクを被った。引退試合翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの代打として最後の打席に立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。
10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀澄也オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、快諾した。また球団からは功労金として5000.00 万 JPYが贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津臣吾に対し突如戦力外を通告した件について、球団フロントからの事前通告や話し合いの機会が一切なかった件などに言及するなど、最後までフロントとの間に軋轢が残った。
5. 現役引退後
古田敦也は2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団した。引退後、彼は野球解説者、スポーツキャスター、YouTuberなど多岐にわたる活動を展開している。
11月23日のファン感謝デーには高津臣吾同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰した。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演し、その後はコメンテーターとしてテレビ出演。解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会・野球日本代表の試合(テレビ朝日)だった。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演した。プロ野球中継解説者としてはテレビ朝日と所属契約しているものの、特定局との専属契約はせず、フリーでの出演を続けている。
2015年1月23日、野球殿堂において255票を獲得しプレーヤー表彰に選出された。野茂英雄は古田の殿堂入りをユーモラスに祝福し、野村克也は「私がヤクルトで9年間監督を務めた間に4度優勝したが、持論である『優勝チームに名捕手あり』を体現できた。古田の成長と合わせて、ヤクルトは強くなっていった。殿堂入りを誇りに思う。当時の選手では初めての殿堂入りは当然だろう」と祝福のコメントを寄せた。古田は「捕手とは?」の質問に、「相手の嫌がることをやらなきゃいけない。死球を当てると厳しく対応される時代だったが、それをかいくぐりながら、そこそこ成績を残せた」と現役時代を振り返った。
2016年には「第11回 BFA U-18野球チャンピオンシップ」「第7回女子野球ワールドカップ」「第1回 U-23 野球ワールドカップ」の3大会のアンバサダーを稲村亜美とともに務めた。
2019年4月からは静岡県焼津市内の複数企業による企業複合型の社会人野球クラブチーム・焼津マリーンズのアドバイザーに就任。これはクラブ代表の戸﨑義人がトヨタ自動車時代のチームメイトだった縁によるものである。
2021年にはヤクルトの春季キャンプ第2クールからの臨時コーチを務めた。ヤクルトへの指導は14年ぶりとなり、ブルペン捕手として石川雅規と14年ぶりにバッテリーを組んだり、打撃投手として投げ込んだりするなど、熱のこもった指導が多く取り上げられた。同年3月20日には、日本女子ソフトボールリーグ機構理事に就任することが発表された。
2023年2月、3年連続となるヤクルトの春季キャンプの臨時コーチを務めた後、2月15日から同月末までMLBのアリゾナ・ダイヤモンドバックスの臨時コーチを務めた。2024年にも臨時コーチとしてダイヤモンドバックスの春季キャンプに参加しており、「メジャーリーガーは練習しないと昔は言っていたけど、今は全然する。メチャクチャする」とキャンプでの1日6時間の猛練習を証言している。
6. 選手としての特徴
古田敦也は、かつて日本の野球界に存在した「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」というジンクスを打ち破り、その卓越した守備技術と優れた打撃力、そして高い野球知能で球界を代表する捕手となった。
6.1. 守備
古田敦也は「ID野球の申し子」の異名で名を馳せた。投手に対して初球から決め球を要求したり、3つ目のストライクを狙う時にストライクゾーン中央にストレートを要求したりして打者の裏をかくなど、独特のリードを展開した。
持ち前の強肩に加え、送球前の動作や、捕球から即座に送球動作へと移る技術、正確で素早く力強いスローイング等を徹底的に磨き上げた。1991年には12人連続盗塁阻止を記録し(岡田彰布に許して記録が止まった。岡田の盗塁はその年その一個)、1993年にはシーズン盗塁阻止率.644という日本記録を残した。1993年シーズンに加えて2000年シーズンにも盗塁阻止率6割以上の数字を残しており、キャリアでは盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録した。入団から13年連続で盗塁阻止率4割以上を残すなど、非常に高水準で安定した阻止率を長年維持しており、通算の盗塁阻止率でも.462という日本記録を持っている。
この高い捕球・送球能力について、その理由として下半身の柔軟さを挙げられることが多い。古田自身は股関節の柔らかさについて、「これは持って生まれたものだと思うんです。子供のころから、いわゆる女の子座りもできた。膝の関節も、じん帯も緩めなんです。よく伸びるというか、柔らかいというか......。特に膝は緩いかもしれませんね。というよりルーズ気味。人に引っ張られるとグラグラってする時がありますから」と述べている。
ミットを動かさずにボールと判定されてもおかしくない球をストライクに見せるキャッチング技術も持っていた。矢野燿大は「古田さんのキャッチングは、手で捕っているというよりも下半身で捕られているように見えるんです。(中略)だから、審判にも絶対にストライクに見えるんです。僕らみたいに手をちょこっと動かしたりするのは審判にもバレバレなんですけど、古田さんはインコースだろうがアウトコースだろうが、下半身を動かして身体の中心で捕るんで、全部ストライクに見えるんですよね」と語っている。村田真一も類似の趣旨の発言をしている。ただ単に球がミットに入りやすいという理由で大きなミットを好んで使った。
守備・打撃の両面で、それまで定説とされていた技術に対し、自身の経験に裏打ちされた独自の理論に基づく技術を構築している。かつて「捕手は捕球の際、脇を締めて構える」というセオリーがあったが、古田は敢えて両腕をルーズにして、人差し指をおよそ45度にして構えた。これは脇を締めることで肘の自由性を失うデメリットを懸念したためであり、脇を締めた状態(ミットを立てた状態)から低目の投球を捕球する際には、「ミットを上から被せにいく捕球しかできない」という。それだと捕球直後には腕を伸ばしきって一段とミットの位置を下げてしまうため、ボールと判定される見込みが高くなる。それを解消させようとミットを下から掬い上げる捕球を求めた結果、"脇を空ける構え"につながった。新人時代には、それを見た野村監督から「お前、もういっぺんやってみい」と言われ、再現してみせると「ほう。お前、そうやるんか。なるほどな、勉強になったわ」と言われたという。脇を締めていると真ん中に外に向かって取りにいった時、ミットの重みもあってより外側に向くが、脇を締めずに最初から外回りでいけば、より的確にボールを取れると古田は語る。
宮本慎也の談話によると、配球を根底にした守備体系の指示については、捕手の古田が全て務めていた。そのため古田の捕手としての出番が激減した2006年以降、それまで守備網に引っかかっていた打球が、あと一歩のところで外野に抜けていってしまう頻度が高まったという。
捕手の他、1993年のリーグ優勝が決定した次の試合で外野手(左翼手)、1997年に野村克則と守備位置を入れ替わる形で一塁手として出場したことがある。
現役時代の捕球により親指と人差し指の間の腱を酷使し、引退後には掌を開くと親指が手首の辺りまで垂れ下がるようになった。その様子を収めた動画を、本人は公式YouTubeチャンネルで2021年5月に公開している。
6.2. 打撃
捕手としてはプロ野球史上最多の通算8回のシーズン打率3割を記録した。守備負担の大きい捕手を務めながら残した通算打率.294は、7000打数以上の選手中では歴代9位に位置する。プロ2年目の1991年には首位打者を獲得しており、同年の打率.3398は2012年に阿部慎之助が.3405を記録するまでは2リーグ制以降では捕手のシーズン打率の歴代最高記録だった。
三井康浩は後に、古田の新人時からのスイングを見て、下位打線にいたにもかかわらず「これは下位のスイングじゃない」と確信を持っていたと証言している。新人の頃に落合博満の打撃を捕手側から見て参考にし、自分の打撃に採り入れたという。打撃でも独自の理論を持ち、「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから、初球の重要性を挙げている。
現役時代はピッチャーに合わせてバットを取り替えており、古田は自身を球界一バットを取り替えた男であると主張している。たとえば緩いカーブは短いバットなら先にあたるが、長いバットなら芯に当たるだろうという単純な理由で、相手によってバットを選んでいた。バットを頻繁に替えたのは、敢えてバットのせいにすることによって気持ちの切り替えを図るという狙いもあった。
現役時代、伊勢孝夫打撃コーチからは「強いて言うなら、お前は無手勝流だな」と言われており、引退後の自著でも定まった打撃フォームを持たない人物であったことを自認している。
本人は2021年5月の自身の公式動画で「ホームランを打てない訳ではないけど、打率重視、ヒット狙いの短距離打者」と打撃面の性質を語っていた。
引退後に本人は「後ろ足に体重を乗せ過ぎずに敢えて前にスウェーすることで際どい球に手首が返らないようにする」「スウェーしながら打つときに前肘を抜くようにし、体を後ろに戻して右足を軸に回転して打つと内角に詰まりにくい」と打撃論を語っていた。古田自身の若い頃は指導者が皆「脇を締めろ」と指導したが、2020年代になると脇を締めることに拘らない指導者が増えたとしている。
6.3. リーダーシップと野球脳
古田敦也は「ID野球の申し子」と称され、試合中の優れた判断力と戦略的思考に基づくリーダーシップを発揮した。投手との綿密なコミュニケーション能力に長け、高い野球への理解度でチームを勝利に導いた。
野村克也は古田について、「初めてキャンプで見たときから、捕球や二塁への送球は天才的で、肩も強かった。当初はスカウトから『打撃には目をつぶってください』と言われたが、もともと頭のいい子だったから、投手の配球を読むことで上達し、2年目には首位打者も獲得した」と振り返り、賞賛している。また、古田の性格については「大変強気で自信家、そして目立ちたがりのところもある」と分析し、「捕手の本能も持っているが、それと同じくらい投手に近い考えもある」珍しいタイプと評している。
7. 野球観と思想
古田敦也は、野球と人生に対する独自の思考様式と哲学を築き上げてきた。その中には、従来の野球理論への疑問や、現代の若者に対する警鐘、そして彼自身の生き方を象徴する「優柔決断」の哲学が含まれている。
7.1. 野球理論
古田敦也は、チームのコンセプトには基本的に従うべきだとしながらも、お互いに遠慮が出て意思疎通が取れなくなるのは良くないため、ベテランの域に入った頃の古田は、新人に対して「違うと思ったら首を振れ」と指導していた。首を振って意思を表明した以上、責任が生まれるので、ピッチャーは必死になって投げるというのが古田の主張である。
彼は、得意技を活かしたければ短所を無くすべきであって、それが出来なければいつまでたってもレギュラーにはなれないという趣旨の主張をしている。配球は裏をかくことが重要であり、例えばストライクからボールになる外角の変化球で安易に空振り三振を取りに行くと、肝心な時に配球を読まれるケースが増えるので推奨していない。古田は、キャッチャーにとって一番怖いのはホームランを打たれることそのものではなく大事な場面で打たれることであると言っている。
監督時代、アダム・リグスを「バントしない2番打者」として重用したのは、バントでアウトを献上するよりも2番打者が安打を打って1番打者と合わせて走者が2人いる状況を作ること、リグスが足が速く併殺の恐れが少なかったことによる。また、当時のヤクルトでは後進の捕手も育っておらず、投手も信用できるレベルには達していなかったため、どうしても打って勝つしかなかったと語っている。古田は現役時代より「送りバントをする2番打者」を「2番に打つ奴いた方が嫌なのにな」と否定していた。監督時代のある時「あそこはバントがセオリーでしょ?」と2番打者への采配に対して当時の若手記者が注文を付け、古田も抗弁するが尚も食い下がる若手記者に腹を立てると「古田監督、逆ギレ」と報復記事を書かれたという。
監督時代はとにかく打ち勝つ野球を目指していたため、新聞記者からも「もっと緻密な野球をすると思ったんですけどねえ」と皮肉られることもあった。だが古田にしてみれば「無い袖は振れない」という状況で生み出したその野球こそが緻密な野球であったと語っている。監督時代の大味とも取れる采配を指して野村克也は自著で「奴は俺の考え方とは真逆な采配をやっていた」と批判していた。
古田は、最近の若い選手は優しすぎる人間の下で過保護に育てられたため、決断力がないと分析している。そのため古田はそういう選手たちには強引にこちらの考えを強制するなど若干荒っぽく接した方が、結果を気にせずその場で出来ることに集中できるのではないかと考えていた(2009年当時)。一方2021年7月にアップロードした本人の動画では、現役時代に味方投手が試合で上手く投げられず降板して考え込んでいると「細かい性格の投手にはウソでも細かく答える」ことで納得させたと語っている。
力を80%程度にセーブしながらシーズン中毎試合出場できる選手が優れた選手であり、観客にゲームを観てもらうプロとして適格だと考えている。そのためには、体力的にも精神的にもオンとオフの切り替えができることが重要であると自著で説いている。宮本慎也は「古田さんは年上の選手でもフェンスを怖がっている外野手がいると何怖っているんだ100年早いと言ったり、30過ぎてクイックができない投手がいると辞めてしまえと言う。今(平成末期の時代)はそういう選手はいないですね」と述べている。
高いキャッチング技術が培われた要因として「人の言うことをあまり聞かなかったこと」を挙げている。本人は捕手というポジションについて「教えようがないわりに技術が必要」と表現している。野球選手に読書の必要性を主張しており、アマチュア時代から野球漬けであった選手の中には文字自体を拒絶する者もいる、そのような選手がプロ入りしてミーティングをきちんと聞かなかったりすると嘆いている。特に野村は「馬鹿っぽい奴が嫌い」であったため、野村の顔を潰さないように古田は読書で教養を身に着けたという。古田はトヨタ自動車時代に先輩達から「お前らもう大学を卒業したんだから、漫画とか週刊誌とか卒業しろ」と教育されたといい、これを本人は「その頃の社会の流れ」と後年に分析していた。一方、五十嵐亮太は古田から『20世紀少年』を勧められたと語っており、漫画を完全に否定しているわけではない模様。
プロ野球選手はロマンを与えることが仕事と考えており、先発投手を早期交代させるために初回からカットする打撃を行う打者を「それをやったらプロ野球じゃない」と快く思っていない。また、日本球界時代のある時期に明治神宮野球場での試合で左翼ポール際を狙うことが多かった松井秀喜はオールスターの際にベンチで会った古田に「松井...志が低いよ」と苦言を呈されたことがある。昔の投手はロマンを求めてストレートにこだわっていたが、2022年シーズン時点ではカットボールなどを投げるツーシーム系の投手が増えたと証言している。走り込み肯定派であり、ウエイトトレーニングよりランニングによる負荷の方が大きいと主張している。
7.2. 「優柔決断」の哲学
古田敦也は、2009年の自著で、インターネットなどによって情報量に優れているため、高校生などでもそのままプロで通用するのではないかと自身も思える選手が増えたという。だが、現在の若手選手は情報過多で頭でっかちのため経験が足りないと憂慮している。そんな古田は、1つの情報を得て満足するのではなく、違う方法も試し、人のアドバイスも聞いてみる、情報収集を行い、決断をスッパリと下す、「優柔決断」を推奨している。その上で大切なのは以下の通りである。
まず先入観や好き嫌いで篩にかけず、本、インターネット、人づてなど何でもよいので、あらゆる手段を使って情報を収集する。次に現在の環境に愚痴を漏らさず、与えられた環境の中でいかに最大限の力を発揮するかを大事にする。ブレることを恐れず、進歩することが必要なら成功体験に囚われず変化を求めるべきである。野球の技術を手に入れるためには、情報を収集するだけではなく実際に体験して自分のものにする。それから15秒から20秒の思考時間で取捨選択できるように、頭の中にファイルを作り、情報を体系化する。プロ野球選手は弱点を克服していなければレギュラーを守れるはずもないため、相手に弱点があっても、それが2年前の情報であればその情報を捨てる。そして成功イメージを描きすぎることによってそれに囚われて自分の打撃などができなくなるため、描きすぎないようにする。周りの空気に流されないことも重要である。即決グセを付け、最後は腹をくくることが大切である。
8. 社会への影響と評価
古田敦也は、選手としての輝かしい功績に加え、日本プロ野球選手会会長としての活動を通じて、日本野球界および社会全体に大きな影響を与えた。彼の行動は、単なるスポーツ選手の枠を超え、労働者の権利や社会の公平性を求める動きとして高く評価されている。
8.1. 2004年球界再編問題における役割
2004年のプロ野球再編問題は、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併を巡って、球団オーナー側と選手会(当時会長は古田)の間で起こった対立である。オーナー側は財政難に陥った近鉄バファローズの消滅と、セントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグ制廃止を主張し、人気球団を抱えるセ・リーグがパ・リーグよりも高い利益を上げていたため、その格差是正も目的とされていた。
古田は日本プロ野球選手会会長として、選手たちの雇用と権利を守るために先頭に立った。読売ジャイアンツ渡辺恒雄オーナーが古田を「たかが選手」と発言したことは、選手側の尊厳を軽んじるものとして大きな議論を呼んだ。ストライキは当初9月11日から計画されていたが、交渉のため延期され、最終的に2004年9月18日から9月19日までの2日間、日本プロ野球史上初のプロ野球ストライキが実行された。
このストライキは即座に両者の妥協を引き出した。バファローズはブルーウェーブと合併し「オリックス・バファローズ」となったが、一方で東北楽天ゴールデンイーグルスが新設され、従来の12球団2リーグ制が維持されることになった。この問題は大きな報道を呼び、世論は古田と選手会に有利なものが多かった。この期間中には、交流戦、選手ドラフト、球団経営に関する提案や修正案も議論され、2004年9月23日に両者間で合意が成立し、紛争は正式に終結した。古田は1998年から2005年まで選手会会長を務め、選手の権利向上、そしてプロ野球とアマチュア野球の関係改善に多大な影響を与えた。ストライキ後、古田が姿を見せると、各球団のファンからも大きな声援が送られた。
8.2. 公衆イメージと評価
古田敦也は、現役時代から「メガネ捕手」や「ミスタースワローズ」といったニックネームで広く親しまれてきた。マイナビニュースが2014年に実施した「『ミスタースワローズ』といえば誰ですか?」というアンケートでは、得票率47.5%を記録し、2位以下を大きく引き離して1位を獲得した。
古田はプロ入り当初、眼鏡を着用していたことから「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」というジンクスの存在や、「最大の欠点」と評されたことを乗り越えて活躍し、「一番誇れる記録は?」という質問には、「記録っていうか、メガネをかけてやってこれたことかな。目が悪くてメガネかけたプロ野球選手はダメだって言われた時代なんでね。高校生を含めてけっこうたくさんの人に"メガネかけてるんですけど、おかげで野球を続けてます"と言われて、やった甲斐あったかなあと思いましたねえ」と述べている。この発言は、彼が自身の身体的特徴を逆手にとり、野球界の古い固定観念を打ち破った象徴的な存在であることを示している。
野村克也は古田について、「捕球や二塁への送球は天才的で、肩も強かった」「もともと頭のいい子だったから、投手の配球を読むことで上達し、2年目には首位打者も獲得した」と賞賛した。一方で、野村が晩年に暴露したところによると、野村のヤクルト監督時代には自分で食事の支払いをしたことがないほどケチで、選手たちからの人望もそのせいで著しく低かったといい、女性にも手が早かった。野村は、古田ほど頭が良ければその自覚はないはずはないだろうが、古田はそれを気にしていなかったと感じていた。現役捕手として成功した一方で監督として成功しなかったのはそうしたところからだろうと、野村は分析している。
古田は眼鏡を掛け、飄々とした風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。2006年・2007年には「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに努め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けた。
2006年11月21日には、男性誌GQ JAPANの読者投票により「GQ JAPAN Men of the Year 2006」のスポーツ部門で選出されている。現役引退後も、数多くのマラソン大会に出場しており、2009年3月22日には東京マラソンを完走した。
8.3. 受賞・表彰
古田敦也が選手および監督として獲得した主要なタイトル、MVP、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、野球殿堂入りなど、多岐にわたる表彰と栄誉は以下の通りである。
- オリンピック
- 1988年ソウルオリンピック 銀メダル
- 首位打者:1回(1991年)
- 最多安打:1回(1993年) ※当時はタイトルではない
- 最優秀選手:2回(1993年、1997年)
- ベストナイン:9回(1991年 - 1993年、1995年、1997年、1999年 - 2001年、2004年) ※捕手部門で9度受賞はセ・リーグ最多タイ(他に阿部慎之助)
- ゴールデングラブ賞:10回(1990年 - 1993年、1995年、1997年、1999年 - 2001年、2004年) ※捕手部門で10度受賞は歴代2位、セ・リーグ最多。4年連続はセ・リーグ捕手最長タイ(他に大矢明彦)
- 三井ゴールデン・グラブ レジェンズ(捕手部門)
- セ・リーグ連盟特別表彰:2回(会長特別賞:2003年、特別功労賞:2007年) ※2003年は1試合4本塁打のプロ野球タイ記録を受けて
- 野球殿堂競技者表彰(2015年)
- 正力松太郎賞:1回(1997年)※選手として表彰
- 日本シリーズMVP:2回(1997年、2001年)
- 月間MVP:4回(1991年5月、1993年8月、1997年5月、1997年9月)
- 最優秀バッテリー賞:6回(1991年 投手:西村龍次、1992年 投手:岡林洋一、1995年 投手:テリー・ブロス、1997年 投手:田畑一也、2000年 投手:五十嵐亮太、2001年 投手:藤井秀悟) ※6回選出は歴代最多タイ記録
- 最優秀バッテリー賞特別賞:1回(1993年)
- オールスターゲームMVP:2回(1991年 第1戦、1992年 第2戦)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回(1993年)
- JA全農Go・Go賞:2回(強肩賞:1993年9月、最多二・三塁打賞:2000年8月)
- 報知プロスポーツ大賞:3回(1992年、1997年、2001年)
- 日本プロスポーツ大賞殊勲賞:1回(1993年)
- 毎日スポーツ人賞
- ファン賞(1997年)
- 文化賞(2004年)
- ゴールデン・アロー賞:1回(スポーツ賞:2004年)
- 兵庫県スポーツ優秀選手特別賞:1回(2005年)※2000本安打達成を受けて
- ファッション関連
- ベストドレッサー賞:1回(スポーツ・芸能部門:2005年)
- その他
- 川西市民栄誉賞(1996年)
- 川西市名誉市民(2005年)
- 日本PR大賞(2004年)
- GQ MEN OF THE YEAR 2006(スポーツ部門:2006年)
9. 詳細情報
古田敦也の選手および監督としての詳細な成績記録を提示する。
9.1. 年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | タ 席 | タ 数 | 得 点 | 安 打 | 2 ル タ | 3 ル タ | 本 塁 打 | ル タ | 打 点 | ド ル | ド ル 刺 | 犠 牲 バ ン ト | 犠 牲 フ ラ イ | ボ ル ネ ット | 故 意 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 ル 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | ヤクルト | 106 | 334 | 280 | 32 | 70 | 12 | 1 | 3 | 93 | 26 | 1 | 1 | 3 | 4 | 43 | 3 | 4 | 44 | 11 | .250 | .353 | .332 | .686 |
1991 | 128 | 485 | 412 | 58 | 140 | 23 | 5 | 11 | 206 | 50 | 4 | 5 | 4 | 3 | 62 | 7 | 4 | 59 | 10 | .340 | .428 | .500 | .928 | |
1992 | 131 | 568 | 474 | 87 | 150 | 27 | 3 | 30 | 273 | 86 | 3 | 2 | 1 | 4 | 78 | 10 | 11 | 87 | 12 | .316 | .422 | .576 | .997 | |
1993 | 132 | 595 | 522 | 90 | 161 | 29 | 0 | 17 | 241 | 75 | 11 | 4 | 9 | 2 | 59 | 0 | 3 | 83 | 15 | .308 | .381 | .462 | .842 | |
1994 | 76 | 287 | 260 | 24 | 62 | 9 | 0 | 3 | 80 | 19 | 3 | 0 | 1 | 3 | 20 | 2 | 3 | 40 | 11 | .238 | .297 | .308 | .605 | |
1995 | 130 | 551 | 487 | 88 | 143 | 18 | 1 | 21 | 226 | 76 | 6 | 0 | 5 | 7 | 46 | 0 | 6 | 51 | 24 | .294 | .357 | .464 | .821 | |
1996 | 119 | 492 | 437 | 57 | 112 | 24 | 2 | 11 | 173 | 72 | 5 | 1 | 4 | 1 | 46 | 1 | 4 | 68 | 22 | .256 | .332 | .396 | .728 | |
1997 | 137 | 598 | 509 | 74 | 164 | 32 | 2 | 9 | 227 | 86 | 9 | 4 | 3 | 4 | 69 | 4 | 13 | 64 | 11 | .322 | .413 | .446 | .859 | |
1998 | 132 | 552 | 491 | 58 | 135 | 19 | 1 | 9 | 183 | 63 | 5 | 4 | 3 | 4 | 46 | 4 | 8 | 62 | 14 | .275 | .344 | .373 | .717 | |
1999 | 128 | 548 | 483 | 79 | 146 | 26 | 2 | 13 | 215 | 71 | 10 | 3 | 4 | 7 | 51 | 4 | 3 | 41 | 8 | .302 | .368 | .445 | .813 | |
2000 | 134 | 562 | 496 | 65 | 138 | 31 | 0 | 14 | 211 | 64 | 5 | 5 | 6 | 4 | 45 | 5 | 11 | 54 | 15 | .278 | .349 | .425 | .774 | |
2001 | 121 | 503 | 441 | 59 | 143 | 23 | 0 | 15 | 211 | 66 | 1 | 0 | 3 | 7 | 43 | 2 | 9 | 41 | 17 | .324 | .390 | .478 | .868 | |
2002 | 120 | 458 | 420 | 49 | 126 | 24 | 1 | 9 | 179 | 60 | 3 | 0 | 3 | 1 | 28 | 3 | 6 | 47 | 15 | .300 | .352 | .426 | .778 | |
2003 | 139 | 576 | 509 | 69 | 146 | 27 | 1 | 23 | 244 | 75 | 2 | 0 | 4 | 3 | 49 | 6 | 11 | 77 | 14 | .287 | .360 | .479 | .840 | |
2004 | 133 | 532 | 483 | 72 | 148 | 23 | 0 | 24 | 243 | 79 | 1 | 2 | 0 | 3 | 36 | 2 | 10 | 66 | 11 | .306 | .365 | .503 | .868 | |
2005 | 96 | 357 | 329 | 29 | 85 | 15 | 0 | 5 | 115 | 33 | 1 | 0 | 1 | 3 | 19 | 0 | 5 | 54 | 8 | .258 | .306 | .350 | .656 | |
2006 | 36 | 98 | 90 | 11 | 22 | 5 | 0 | 0 | 27 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | 2 | 0 | 13 | 4 | .244 | .299 | .300 | .599 | |
2007 | 10 | 19 | 18 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | .333 | .368 | .389 | .757 | |
通算:18年 | 2008 | 8115 | 7141 | 1003 | 2097 | 368 | 19 | 217 | 3154 | 1009 | 70 | 31 | 55 | 60 | 748 | 56 | 111 | 951 | 223 | .294 | .367 | .442 | .808 |
- 各年度の太字はリーグ最高。
- 2000安打達成記念碑:
松山坊っちゃんスタジアムにある、古田敦也2000本安打達成記念碑
9.2. 年度別守備成績
年 度 | 球 団 | 捕手 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 企 図 数 | 許 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 阻 止 率 | 捕 逸 | ||
1990 | ヤクルト | 106 | 55 | 26 | 29 | .527 | 5 |
1991 | 127 | 83 | 35 | 48 | .578 | 12 | |
1992 | 130 | 60 | 31 | 29 | .483 | 2 | |
1993 | 132 | 45 | 16 | 29 | .644 | 7 | |
1994 | 76 | 24 | 12 | 12 | .500 | 2 | |
1995 | 130 | 67 | 35 | 32 | .478 | 6 | |
1996 | 118 | 60 | 36 | 24 | .400 | 7 | |
1997 | 137 | 61 | 33 | 28 | .459 | 7 | |
1998 | 132 | 68 | 38 | 30 | .441 | 10 | |
1999 | 127 | 59 | 32 | 27 | .458 | 13 | |
2000 | 134 | 73 | 27 | 46 | .630 | 7 | |
2001 | 116 | 43 | 22 | 21 | .488 | 2 | |
2002 | 113 | 52 | 30 | 22 | .423 | 8 | |
2003 | 139 | 71 | 44 | 27 | .380 | 5 | |
2004 | 130 | 58 | 43 | 15 | .259 | 8 | |
2005 | 87 | 32 | 24 | 8 | .250 | 1 | |
2006 | 21 | 10 | 9 | 1 | .100 | 1 | |
2007 | 6 | 5 | 5 | 0 | .000 | 1 | |
通算 | 1959 | 926 | 498 | 428 | .462 | 104 |
- 各年度の太字はリーグ最高(試合数は捕手として全試合出場)
- 赤太字は日本記録。
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞。
9.3. 年度別監督成績
年 度 | 球 団 | 順 位 | 試 合 | 勝 利 | 敗 戦 | 引 分 | 勝 率 | ゲ | ム 差 | 本 塁 打 | 打 率 | 防 御 率 | 年 齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006 | ヤクルト | 3位 | 146 | 70 | 73 | 3 | .490 | 18 | 161 | .269 | 3.91 | 41歳 | |
2007 | 6位 | 144 | 60 | 84 | 0 | .417 | 20.5 | 139 | .269 | 4.07 | 42歳 | ||
通算:2年 | 290 | 130 | 157 | 3 | .448 | Aクラス1回、Bクラス1回 |
10. 人物
古田敦也の趣味は将棋、ゴルフ、読書、映画鑑賞、投資など多岐にわたる。音楽ではU2の大ファンである。書道は有段者であり、特に将棋では日本将棋連盟から1995年8月に初段、2004年11月には三段の免状を受けている。NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」にも「棋将」のタイトル保持者・毛利元彦役でスポット出演した。また、妻の中井美穂もNHKの「将棋講座」でアシスタントを務めたことがある。読書は、遠征での移動中にたまたま本を読んでいたところを、「漫画や週刊誌以外の、ちゃんとした本を読んでいる野球選手は見たことがない」と野村監督に称賛されたことを機にハマり始めた(古田曰く、「それ(褒められて)以降は漫画や週刊誌を読めなくなった」)。
野村克也が晩年に暴露したところによると、野村のヤクルト監督時代には自分で食事の支払いをしたことがないほどケチで、選手たちからの人望もそのせいで著しく低かったといい、女性にも手が早かった。野村は、古田ほど頭が良ければその自覚はないはずはないだろうが、古田はそれを気にしていなかったと感じていた。現役捕手として成功した一方で監督として成功しなかったのはそうしたところからだろうと、野村は分析している。
古田の従兄にはタレントの大木凡人がいる。また血縁ではないが、ヤクルト時代の同僚であった城石憲之とは縁戚関係(互いの従兄弟同士が夫婦)にあり、古田は城石の前夫人だった大橋未歩に城石との交際を薦めた。
大学時代には家庭教師などのアルバイトをしていた。4回生のゼミ(テーマは現代日本の中小企業問題)では、そのドラフト直前、当時の担当教授に進路を聞かれた際、「ドラフト待ってます」と答えている。レーシングドライバーの田中哲也は大学時代野球部の同期にあたる。古田の活躍を目の当たりにしたことで、野球の道を諦めレース界に転向し、国内を代表するトップレーシングドライバーとして活躍することになる。
プロ入り後につけた背番号「27」については「(憧れていた)梨田さんの背番号8+野村克也監督の背番号19=27。とても気に入っています」と語っている。自身の引退後は準永久欠番扱いになっていたが、2022年から中村悠平が引き継ぐこととなり、古田は彼から直接報告を受けエールを送った。
1993年には母校立命館大学のイメージキャラクターに選ばれた。その際のキャッチコピーは「ぼくのチームも大したもんだが、ぼくの母校も大したもんだ」。2008年には、京都の龍安寺にて同学の川口清史総長と語り合う、という内容の同学の広告に再登場した。
1994年にシングルCD「Xeno ~見知らぬ人~」を発売している(現在は廃盤)。PVにはレコーディングの模様が使用されている。
1995年に野茂英雄がメジャーに挑戦し始めた際、国際大会で活躍していた野茂の姿を知っていた古田は、日本の各メディアや複数の野球評論家が「無謀」「ワガママ」と批判する中で、野茂の活躍を信じていた。
2001年のリーグ優勝の時、ウイニングボールをキャッチし、高津臣吾を抱擁して喜びを分かち合うはずだったが、石井一久に先を越され、古田はマウンド上で独りになり、日本シリーズでも同様のことが繰り返された。
2005年1月5日、故郷である兵庫県川西市から同市第1号の「名誉市民」に選ばれ、同日の記念講演で「子どもたちが大きな夢を持って育てるような環境づくりに貢献していきたい」と語った。
2005年から、公式ブログを開設。トラックバック数1位を誇る「ブログの女王」眞鍋かをりのブログを意識しており、「打倒眞鍋かをり」を宣言している。眞鍋がブログを書籍化した際には、古田が宣伝用の帯を担当し、古田が書籍化した際には、眞鍋が宣伝用の帯を書いている。公式ブログを開設する以前、試験的に「吉田淳也」という偽名でブログを数回書いていた。写真を載せていたのにも関わらず閲覧数はとても少なかったが、古田の公式ブログで紹介すると一気に閲覧数が増えたという。
眼鏡を掛け、飄々とした風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。2006年・2007年には前述の「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに努め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けた。
プロ野球の現場退任後、数多くのマラソン大会に出場している。2009年3月22日、東京マラソンを完走。2010年5月16日、ホノルルトライアスロンを完走。2011年9月18日、アイアンマン70.3 セントレア常滑ジャパンを完走。2011年12月4日には、西オーストラリアでアイアンマンレースを完走した。
引退後はタレントとしても活躍しており、番組の企画から司会までこなす。「フルタの方程式」や「古田敦也のプロ野球ベストゲーム」「スポーツクロス」など冠番組がある。
2000本安打以上を記録した捕手では自身以外には野村克也と谷繁元信と阿部慎之助がいるが、野村・谷繁・阿部は現役引退後に専任監督を務めたことがある。一方捕手出身の2000本安打以上を記録した監督経験者の中では古田のみ専任監督の経験がない。なお、大卒・社会人経由での2000本安打達成は古田がNPB史上初である。
11. 著書
古田敦也が執筆または共同執筆した主要な書籍および出版物を以下に示す。
11.1. 単著
- 『古田ののびのびID野球』(学研、1993年)ISBN 4054001181
- 『古田のブログ』(アスキー、2005年)ISBN 4756146937
- 『フルタの方程式』(朝日新聞出版、2009年)ISBN 4022506318
- 『「優柔決断」のすすめ』<PHP新書634>(PHP研究所、2009年)ISBN 4569774210
- 『フルタの方程式 バッターズ・バイブル』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 4022507381
- 『古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術』<朝日新書506>(朝日新聞出版、2015年)ISBN 4022736062
- 『うまくいかないときの心理術』<PHP新書1041>(PHP研究所、2016年)ISBN 9784569826929
11.2. 共著
- (周防正行)『古田式』(太田出版、2001年)ISBN 4872335813
- (谷川浩司)『心を読み、かけひきに勝つ思考法』(PHP研究所、2002年)ISBN 4569622313 ※2004年に『「勝負脳」を鍛える』と改題し文庫化
- (岡田武史、平尾誠二)『勝利のチームメイク』(日本経済新聞社、2003年)ISBN 4532164389 ※2008年に文庫化
- (日本プロ野球選手会共編)『決意!合併・1リーグ制NO!宣言』(双葉社、2004年)ISBN 4575297437
- (鈴木寛)『子育てキャッチボール』(徳間書店、2007年)ISBN 9784198623432
- (NHK取材班)『ベストゲーム プロ野球最高の名勝負』(ヨシモトブックス、2017年)ISBN 9784847093142
12. その他の活動
古田敦也は野球界以外でも多岐にわたる対外活動を行っている。
- テレビ番組**
- 情報・報道番組**: 『NEWS23』(TBS)、『新報道プレミアA』(フジテレビ・関西テレビ)、北京オリンピック中継(フジテレビ、総合キャスター)、『サンデーLIVE!!』(テレビ朝日・朝日放送テレビ・メ~テレ共同制作、コメンテーター兼コーナー担当)など。
- バラエティ番組**: 『スポーツマンNo.1決定戦』(TBS、1998年 - 2001年、2003年 - 2005年)、『くりぃむクイズ ミラクル9』(テレビ朝日系列、不定期出演)など。
- 教養・ドキュメンタリー番組**: 『アインシュタインの眼』(BSプレミアム、メインキャスター)、『古田敦也のスポーツトライアングル』(NHK BS1、メインプレゼンテーター)、『古田敦也のプロ野球ベストゲーム』(NHK BS1、司会)、『オトナの社会科見学』(BS朝日、ナビゲーター)など。
- スポーツ番組**: 『フルタの方程式』(テレビ朝日、初の冠番組)、『F1グランプリ』(フジテレビ、2009年イギリスGPゲスト)、『速報!スポーツLIVE』(テレビ朝日、レギュラーコメンテーター)、『中居正広のプロ野球魂』(テレビ朝日、不定期特番)、『SPORTS X』(BS朝日)、『熱闘甲子園』(朝日放送テレビ・テレビ朝日共同制作、2015年 - )、『2020高校野球 僕らの夏』(朝日放送テレビ、甲子園高校野球交流試合期間中)など。
- ドラマ**: 『連続テレビ小説ふたりっ子』(NHK総合)、『アストロ球団』(テレビ朝日、本人役)、『役者魂!』(フジテレビ)、『ガリレオ 第2シーズン』(フジテレビ)、『青空ふたたび』(ABCテレビ)、『海と空と蓮と』(ABCテレビ)、『八月は夜のバッティングセンターで。』(テレビ東京、本人役)、『DCU』(TBS)など。
- ウェブテレビ**: 『ボブ・サップ緊急来日!第1回Abema杯5種競技HAOOO5!』(AbemaTV)
- ラジオ番組**: 『古田敦也 ラジオもやってます』(ニッポン放送)
- CM**:
- アイメトリクス・ジャパン(1992年 - 2007年)
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)(1993年、踏切事故撲滅キャンペーン)
- 東京デジタルホン(現ソフトバンク)(1994年)
- マリンフード ホットケーキ(1995年)
- ヤクルト本社(1996年、2006年3月ほか)
- トヨタホーム(1996年)
- サッポロ黒ラベル(2002年)
- ゼット(2003年)
- 富士写真フイルム(2005年4月)
- 三井ダイレクト損害保険(2005年4月 - )
- ホワイトバンドプロジェクト(2005年)
- ユニデン(2006年 - 2007年)
- 任天堂「Wii Fit」(2007年 - )
- サッポロビールビアファイン(2008年)
- パナソニック4枚刃電気シェーバー「ラムダッシュ」(2008年)
- 日本航空(2008年 - )
- ハウスドゥ(2013年 - )
- コロプラ プロ野球PRIDE(2013年)
- サントリープレミアムモルツ香るエール(2019年)
- PV**: RYO『HOMARE』
- ゲーム**: 『古田敦也のシミュレーションプロ野球2』(1996年、ヘクト、スーパーファミコン用ソフト)
- ディスコグラフィ(シングル)**: 「Xeno~見知らぬ人~」(1994年4月8日、東芝EMI)
- その他**: 一般財団法人 藤本育英財団 理事、片岡篤史チャンネル(2020年5月3日配信)出演、めちゃコミックオリジナル漫画『古田敦也がメガネに転生した件』(作画:堂仙こいる、原案:オトノ/楠風夏)、テレビアニメ『球詠』予習大作戦!新越ナインのきらら野球だよ?(avex pictures公式YouTubeチャンネル)ゲスト出演。
13. 関連項目
- 兵庫県出身の人物一覧
- 立命館大学の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 廣畑敦也
- 小木田敦也
- 野村克也
- 高津臣吾
- 石井一久
- 吉井理人
- 長嶋一茂
- 野茂英雄
- 潮崎哲也
- 中井美穂
- 2004年のプロ野球再編問題
- ID野球
- 野球殿堂 (日本)
- 日本プロ野球選手会
- 東京ヤクルトスワローズ
- 日本のプロ野球