1. 生い立ちと球歴以前
井川慶は1979年7月13日、茨城県東茨城郡大洗町で生まれた。少年野球チームで野球を始め、小学生までは右投げだった。高校時代も体のバランスを保つため、右投げの練習を続けていたという。
水戸商業高等学校では橋本實の指導を受け、3年春の県大会である対竜ヶ崎第一高等学校戦では、7回参考記録ながら18奪三振の完全試合を達成した。しかし、夏の県大会では腰痛のためほとんど登板機会がなかった。県大会決勝の対茨城東高等学校戦(水戸市民球場)では、痛み止めの注射をして登板したが、自らのミスなどで4点を失い敗退した。
全国大会(甲子園)への出場経験はなかったものの、「東のドクターK」の愛称でその名は広く知られており、当時「高校生左腕三羽烏」として川口知哉や能見篤史と並び称された。1997年のドラフト会議では、阪神タイガースに2位指名され入団した。担当スカウトは菊地敏幸である。なお、日本ハムファイターズも一時は井川の指名を検討していたが、高校時代の腰痛を理由に見送ったとされる。高校在学中には日商簿記検定2級と実用英語技能検定3級の資格を取得している。プロ入り後もシーズンオフには故郷の大洗町を訪れ、小中学生の後輩たちに野球教室を開いている。
2. プロフェッショナルキャリア
2.1. 阪神タイガース時代 (1998-2006)
1998年に阪神タイガースへ入団。1999年2月28日には、高知・春野球場で「平成の怪物」と呼ばれた西武ライオンズの松坂大輔のプロ入り後初となるオープン戦登板の相手として登板し、3回を無失点で終えた。同年5月2日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)で中継ぎとして一軍プロ初登板を果たした。5月7日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で4回に波留敏夫からプロ初奪三振を記録し、5月19日の対広島戦(米子市民球場)でプロ初先発登板し初勝利を挙げた。しかし、その後は一軍に定着できず、プロとしてのシーズン序盤は苦戦を強いられた。
2000年は9試合に登板し、5試合で先発登板したが、1勝しか挙げられずにシーズンを終えた。
2001年、監督の野村克也によって先発ローテーションに抜擢され、4月24日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(甲子園)でプロ入り後初となる完投勝利を記録した。監督推薦によりオールスターゲームにも出場を果たした。最終的に防御率はセ・リーグ2位の2.67という好成績を残したが、チームは4年連続で最下位に沈み、打線の援護にも恵まれず9勝13敗と負け越した。防御率2位での負け越しは、1991年の今中慎二以来の出来事であった。
2002年は監督が星野仙一に交代し、3月30日の対巨人戦(東京ドーム)で自身初の開幕投手を務め完投。チームも3対1で勝利し、阪神にとって12年ぶりの開幕戦勝利に貢献した。夏場に調子を落としたが、自身初の2桁勝利となる14勝を挙げ、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。同年にはオールスターゲームのファン投票でセ・リーグ先発投手部門にて初めて最多票数を獲得し選出された。オフには推定年俸1.00 億 JPY(6000.00 万 JPY増)で契約を更改した。
2003年も開幕投手を任されたが黒星を喫した。しかし、6月・7月には4戦連続完投勝利を挙げ、8月2日の対中日ドラゴンズ戦(甲子園)では完封勝利で自身12連勝を記録した。この連勝中、験担ぎとして髪を切らなかったため、約3か月間も髪を伸ばし続け、アフロヘアーのような髪型になっていた。同年にはオールスターゲームのファン投票でセ・リーグの先発投手部門にて2位得票ながら選出されたが、これは1位得票の中日・川崎憲次郎が故障により出場を辞退したことによるものである。この年は最終的に、セ・リーグでは1999年の巨人・上原浩治以来4年ぶりとなる20勝投手を達成し、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。なお、セ・リーグでは2004年以降20勝以上を挙げた投手はおらず、井川は2024年シーズン終了時点でセ・リーグ最後の20勝投手となっている。ポストシーズンにおいては、福岡ダイエーホークスとの2003年の日本シリーズにて第1戦と第4戦に先発登板。第1戦(福岡ドーム)ではダイエーの先発が井川と同じく同年20勝を挙げた斉藤和巳が登板したことで、20勝投手同士の投げ合いが実現した。しかし、井川は5回3失点で降板し勝敗は付かなかった。第4戦では6回まで1失点と好投するも7回に追いつかれて6回2/3を4失点で降板。チームはサヨナラ勝ちしたが、最終的に日本一は逃した。当時、年俸が1.00 億 JPYを超えていたにもかかわらず、「食事が美味しく、野球ができる環境が整っている」という理由で、新人や独身選手用の選手寮「虎風荘」に居住を続けていたが、球団からの退寮命令を繰り返し受け、この年のオフに梅本正之寮長が定年となったのを機に退寮した。寮では模範生で、途中からは若手の指導役も務めていた。
2004年10月4日の対広島戦(広島市民球場)でプロ野球史上71人目となるノーヒットノーランを達成した。同年は前年より調子を落とし11敗を喫し、防御率も3.73と悪化したが、14勝を挙げてチームのエースとしての役割を果たした。オフにはポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を希望したが、球団との交渉が決裂。自費でのキャンプ参加となり、否定的な報道や一部世論の反発に遭った。以降、毎年オフに球団に対しポスティングによるメジャー移籍を希望することになった。
2005年8月23日の対広島戦(広島市民球場)で通算1,000投球回を達成した。このとき、井川が連続三振を奪った勢いで捕手の矢野輝弘が記念ボールをスタンドに投げ込んでしまい、ベンチ前にほとんどの選手とコーチが出て受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらったというエピソードがある。同年は二軍落ちもあったが、13勝9敗、防御率3.86の成績で2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。千葉ロッテマリーンズと対戦した2005年の日本シリーズでは第1戦の先発を任されたが6回5失点で敗戦投手となった。井川の不調を筆頭に阪神の投手陣はシリーズ4試合で33失点と大きく打ち込まれ、チームは勝ち星なしの4連敗で日本一を逃した。
2006年には5年連続2桁勝利を達成した。それまでの貢献を考慮した球団が、井川にとって3年越しの希望であったメジャー移籍を容認したことから、11月10日にポスティングによるメジャー挑戦を表明。アーン・テレムを代理人とした。11月29日にニューヨーク・ヤンキースが2600.00 万 USD(当時のレートで約30.00 億 JPY)で独占交渉権を得て落札し、12月27日に5年2000.00 万 USD(2011年まで毎年400.00 万 USD)+出来高の条件で契約した。渡米直前の2007年2月には結婚を発表した。
2.2. ニューヨーク・ヤンキース時代 (2007-2011)

ニューヨーク・ヤンキース移籍後、彼は高額な移籍金と契約金に見合う活躍が期待されたが、メジャーリーグでは多くの困難に直面した。
2.2.1. MLBへの挑戦と初期の苦戦 (2007)
2007年4月7日の対ボルチモア・オリオールズ戦(ヤンキー・スタジアム)でメジャー初登板を果たしたが、5回を8安打4四死球2本塁打7失点の内容で降板。しかし、その後ヤンキースが逆転したため、勝ち負けはつかなかった。4月18日の対クリーブランド・インディアンス戦(ヤンキー・スタジアム)で、6回5安打5奪三振2失点に抑えメジャー初勝利を挙げた。しかし、その後も投球フォームや制球が安定せず、中継ぎへ転向した。4月28日の対ボストン・レッドソックス戦では、先発投手が負傷降板したのを受けて緊急登板。6回を無失点に抑える好投を見せ、メジャー2勝目を挙げた。この好投が評価され先発に復帰したが、5月7日にはマイナーリーグに降格。まずはフロリダ州リーグのタンパヤンキースに送られ、ナーディ・コントレラスやビリー・コナーズらコーチのもとでフォームの調整を行った。その後、AAA級スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキースに昇格し、6月22日の試合でメジャー復帰したが、7月28日に再びマイナーリーグに降格された。
9月22日の試合でメジャーに再昇格し中継ぎとして登板。9月25日には昇格後初めて先発し、5回を無失点に抑える好投を見せたが、勝ち星はつかなかった。結局この年は2勝3敗、防御率6.25、WHIP1.67と不振に終わった。井川の実力を評価する声は多く、「ヤンキース以外なら活躍できる投手」や「ナ・リーグに行けば大化けする」といった意見も聞かれた。サンディエゴ・パドレスが井川の年俸を全て引き継ぐ形で獲得を希望する積極的な姿勢を示したが、ヤンキースがポスティングの入札金の分担まで要求したため、トレード交渉は決裂した。
2.2.2. マイナーリーグでの活動と契約上の問題 (2008-2011)
2008年は前年の不振により開幕前から先発としての構想には入っておらず、スプリングトレーニングでは中継ぎとしての起用が続いた。また、開幕前の大学生との練習試合では満塁本塁打を打たれるなど、出だしからつまずいて結果を残せなかった。若手起用の方針により、開幕はAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキースで迎えた。5月9日にメジャー昇格し、その日の対デトロイト・タイガース戦に先発したが、3回を11安打6失点で敗戦投手となり、5月15日にマイナー降格。6月28日に再昇格し、対ニューヨーク・メッツ戦の9回に登板し、1回を無失点に抑えた。しかしその翌日に再びのマイナー降格を通告された上、7月26日にはメジャー契約を解除され、40人枠から外れた。本人は「メジャーリーグでローテーションを守れるピッチャーを目指して頑張りたい」と語った。この年、スクラントンで14勝6敗、防御率3.45、WHIP1.19の好成績を残してAAAのベストナインに当たる「オールスターチーム」の左腕投手部門に選出されたが、メジャーでの勝ち星を挙げることはできなかった。オフにはブライアン・キャッシュマンGMから「井川の獲得は失敗だった」と厳しい評価が下された。キャッシュマンからはメジャーに残る方策として横手投げへの転向も示唆されたが、井川はこれを断った。
2009年はスプリングトレーニングに招待選手として参加し、15回3分の1を投げて1失点と好投したが、与四球率5.35と四球が多く、3月23日にマイナー行きを通告され、2年連続で開幕をスクラントンで迎えた。スクラントンでは前半戦に9勝4敗、防御率4.04、WHIP1.24の成績を残したが、後半戦は1勝4敗、防御率5.66、WHIP1.70と不調に陥った。最終的にはチーム最多の10勝8敗、防御率4.15、WHIP1.41の成績を残したが、メジャーでの登板はなかった。12月にはグリーンカードを申請中であることを明らかにした。また、12月29日には地元紙『ニューヨーク・ポスト』が掲載した「過去10年のニューヨークのプロスポーツ選手ワースト10」において1位に選ばれるという不名誉な評価を受けた。
2010年もスプリングトレーニングに招待選手として参加したが、中継ぎとして2回3分の2を投げて5失点、防御率16.87、WHIP1.88と振るわず、3月13日にマイナーに降格された。スクラントンでは先発として10試合に先発し防御率3.96、WHIP1.24の成績を残したが、リリーフでは12試合の登板で防御率5.00、WHIP1.65と結果を残せなかった。このシーズンもメジャーでの登板はなく、2年連続でメジャーの試合に出場することはなかった。オフには前年に申請していたグリーンカードを取得し、ヤンキースとの契約終了後もMLBでのプレーを希望していることを明らかにした。
2011年はキャンプからマイナーでスタートした。故郷の大洗町が東日本大震災で被災したことで3月14日に一時帰国したが、3月20日に再渡米し、開幕はAA級トレントン・サンダーで迎えた。4月21日にはスクラントンでAAA級の対リーハイバレー・アイアンピッグス戦に先発したが、その試合以外はトレントンで5先発を含む11試合に登板し、6月12日にスクラントンに昇格。当日AAA級の対シラキュース・チーフス戦に先発し、球団史上最多タイ記録となる73先発を記録した。しかし、トレントンで故障者が続出したことに伴い、6月17日にトレントンに再降格した。6月26日にはスクラントンに再昇格したが、2試合に先発した後に再降格し、左ひじの張りで故障者リスト入りした。8月中旬に復帰し、最終的にリリーフではマイナー通算10試合の登板で1勝0敗1セーブ、防御率1.90、WHIP1.01の成績を残したが、先発では同10試合の登板で2勝2敗、防御率4.72、WHIP1.57の成績に終わった。5年間のマイナー通算成績は、107試合登板(うち先発83試合)で36勝25敗1セーブ、防御率3.83、奪三振419だった。
井川自身はアメリカでの5年間について「失ったものはない。すべてが自分の血となり肉となっている」と述べ、マイナー生活も悪いことばかりではなかったと語っている。メジャーで通用しなかったことについては2017年のインタビューで「井の中の蛙だった。世界に出て、能力が高い選手もたくさんいて努力で埋まらない差が身に染みて分かった。メジャーで投げたかったが、すごく勉強になった」と述べている。一方で、球団側からの信頼度の低さと獲得の際の調査不足により、数度の失敗でチャンスを失ったことがメジャーで成功できなかった要因であるとも語っている。2021年4月に上原浩治の公式YouTubeチャンネルに出演した際には「フォームを横手投げや下手投げに変えなければメジャーには昇格させないと無理難題を押し付けられた」「2008年にAAAで最多勝を挙げるなどマイナーで活躍したにもかかわらず球団からのレッテル貼りにより正当に評価されずメジャー昇格を逃した」と語り、球団から飼い殺しに遭っていたと主張した。また、球団から中継ぎに回るよう指示されたがそれを断ったためマイナー落ちを喫したという噂が当時流れたことについて、「マイナーでは先発を希望していたが、メジャーなら先発でも中継ぎでもどこでも投げる」と否定した。上述の通り、2007年にはパドレスがトレードでの獲得に積極的な姿勢を示したことがあった。また、2008年と2009年には日本の球団が獲得を打診したことがあり、その際にキャッシュマンは井川に「君の能力はメジャーリーグには適応しないというのが我々の評価だ。日本の球団との取引はヤンキースの財政的な負担も軽くする」と井川に直接話したが、同時に「しかし君がヤンキースにいたいのならこのトレードを断ることもできる」とも伝え、結果的に井川は2度ともトレードを拒否した。
2.3. オリックス・バファローズ時代 (2012-2015)
2012年3月28日に阪神時代の恩師である岡田彰布が監督を務めるオリックス・バファローズへの入団を自身の公式サイトにて発表し、6年ぶりにNPBに復帰した。背番号は阪神・ヤンキース時代と同じく「29」となった。5月9日に一軍登録されると、同日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ほっともっとフィールド神戸)に先発し、2,032日ぶりとなるNPB一軍公式戦出場を果たしたが、4回表に江川智晃へ2球目を投じたところで右太股の痙攣を訴えて62球で降板。3回2/3を1失点の内容で敗戦投手になった。7月11日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で8回を3安打1失点に抑え、2006年10月16日以来2,095日ぶりに日本で白星を挙げた。7月26日の対楽天戦でも7回1失点で勝利投手となり、続く8月2日の対西武戦でも7回を無失点に抑えたが、この時に左脇腹を痛めた。阪神時代には球速140 km/h後半を記録していたが、この年は平均球速137 km/hと球速が出ず、苦しいピッチングを強いられた。その後は2試合連続で8失点し、8月16日に登録抹消された。8月31日に一軍復帰すると、2試合連続でクオリティ・スタートを達成したものの敗戦投手となり、9月14日の対楽天戦で先発した際に左脇腹痛が再発し、1回限りで降板し、そのままシーズン終了となった。結局、日本球界復帰初年度は12試合の先発で2勝7敗、防御率4.65に終わった。10月30日にはオリックス移籍前から違和感を持っていた左肘の遊離軟骨と骨棘の除去手術を受けた。
2013年は術後リハビリ中も腰に違和感を抱え復帰は5月末になったが、そこから8月頭までの9試合に先発し、勝敗こそ3勝3敗の5割だったが防御率2.59の成績だった。8月に二軍落ちをして以降はチーム事情も重なり一軍復帰はなくシーズンを終えた。
2014年はオープン戦で結果を残し、開幕ローテーション入りを勝ち取った。しかし3月29日の対北海道日本ハムファイターズ戦で、陽岱鋼に先頭打者本塁打を浴びるなど初回から打ち込まれ、自己最短となる2/3回で降板した。その後異例の中3日で4月3日の対楽天戦に先発し、5回無失点で勝利投手となった。しかし、セ・パ交流戦を機に先発投手の頭数の関係で5月に登録抹消されると、新人の東明大貴や井川と同じ先発左腕の松葉貴大の先発ローテーション定着もあり、以後一軍での登板はなかった。
2015年には一軍公式戦での登板機会がなくウエスタン・リーグの公式戦でも0勝4敗、防御率14.40と不振を極めた。シーズン中の6月頃から食事療法に取り組み、2か月で体重を約12 kg減らしたというが、10月2日に球団から戦力外通告を受けた。
2.4. 独立リーグと野球解説者・評論家としての活動 (2016-現在)
オリックス退団後も「アメリカからの帰国後では一番いい状態」として現役続行を模索した。2015年11月10日に草薙球場で開かれた12球団合同トライアウトには参加せず、NPB球団以外のプレーも視野に、代理人に交渉を任せながら自主トレーニングに専念した。
2016年2月より、阪神時代のトレーニングコーチで、独立リーグのBFL(現:関西独立リーグ)に加盟する兵庫ブルーサンダーズでコーチを務めていた続木敏之の誘いで兵庫の練習に参加した。井川は9月に自らの公式ブログで「ブルーサンダーズの試合で登板できる機会を頂戴できれば」という意向を示したが、正式な契約には至らなかったため、シーズン終了まで実戦登板の機会はなかった。
2016年12月15日付で、兵庫との選手契約を正式に締結した。背番号は引き続き「29」となった。この時点ではオープン戦や練習試合のみ出場できる練習生契約で、体調などが整った場合にリーグ戦に出場できる本契約へ移行することが想定されていた。同月12月22日に臨んだ記者会見では、「1年間ずっと練習してきたので、野球に対する思いはまだまだ残っているが、NPBへの復帰など先のことはまだ考えていない。まずは兵庫の選手として1シーズンしっかり投げられるように身体を仕上げたい」と抱負を述べた。
2017年3月31日付で、兵庫と支配下選手契約を結んだ。4月には、2日のリーグ開幕戦で救援投手として2年振りの公式戦登板を果たすと、先発として臨んだ20日の試合では6回無失点の好投でBFL初勝利を記録した。その一方で、6月には「何とかもう一段階レベルを上げて、自分の球を投げて、気分よく終わりたい。1年間しっかり投げて納得いく形になれば、潮時かなと思っている」という表現で、この年限りで現役生活を終える可能性を示唆した。結局、BFLの公式戦全体では、11勝0敗、防御率1.09、94奪三振という成績で、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振のタイトルを獲得した。10月5日には、兵庫の一員として阪神鳴尾浜球場で阪神二軍との練習試合に先発し、3回1被安打1失点だった。試合後には「やりきった感はある」とのコメントを残す一方で、自身の去就については「すべて終わってから考えようと思う」として明言しなかった。シーズン終了後の11月27日、契約満了となる11月30日をもって兵庫を退団することが発表された。発表に付されたコメントで、「このまま引退ということは考えておらず、現役は続行するつもりでいったん休養に入りたい」と述べるとともに、引き続き何らかの形で兵庫に関係する意向を示した。
2018年7月に放送されたフジテレビ『ニチファミ!』において、年収は「0円」で、現役復帰を目指しトレーニングを続けていることが報じられた。また、『茨城新聞』の取材に対しては現状を「休養」と述べ、兵庫の選手とのトレーニングを継続していることを明らかにし、兵庫を退団した理由は「独立リーグは若手の場所」という考えによるものと語った。11月4日には兵庫OB戦で先発登板し、3回を投げ6奪三振を記録したが、「現役続行は難しいかな」とコメントした。
2019年は7月29日に東京ドームで開催されたプロ野球OBによるエキシビジョン戦「サントリードリームマッチ2019」に「ドリームヒーローズ」の一員として参加し、先発投手として1回を投げ無失点だった。試合後に更新された本人のブログに「これからも、自分に厳しくトレーニングに励んでいき、いつでも投げられる状態をキープし、またいつの日か、マウンドに立つことができればと願っています」と記し、復帰を目指しトレーニングを続けている旨を明かした。
2020年は6月6日に生放送されたTBSテレビ『炎の体育会TV』に出演。ティモンディのたかぎし、ゴールデンボンバーの樽美酒研二、三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEのELLY、俳優の岡田健史と対戦し、全員を打ち取った。マスクをかぶって正体を隠した「マスク・ド・ピッチャー」としての出演だったが、特徴のある口元から正体を明かす前から視聴者の間では正体が判明していた。同番組の出演に当たり、古巣の関西独立リーグ・兵庫と4日間の練習を行っていた。8月9日に開催された兵庫とこの年発足したばかりの北海道ベースボールリーグ・美唄ブラックダイヤモンズの交流戦(美唄市営野球場、非公式戦)にて、兵庫のOBとして1試合限定で復帰登板。1イニング打者6人に対して33球を投げ、振り逃げを含む4奪三振、無失点という内容だった。
2021年に毎日放送・GAORA(Tigers-ai製作)の野球解説者に就任。その後、2023年からはデイリースポーツの野球評論家を務めている。
3. プレースタイルと特徴
井川慶はオーバースローから投げるストレートを武器とする左投左打の投手である。ストレートは最速で151 km/h(NPB時代)を記録し、MLB時代には87-90 mph(約140-145 km/h)の範囲で、最高で93 mph(約150 km/h)に達した。しかし、日本球界復帰後は平均球速が137 km/hに落ち込んだ。彼の主要な球種は、ストレートと同じ回転でシンカーのように曲がりながら落ちるチェンジアップ、そして主に左打者に対して用いるスライダーである。ニューヨーク・ヤンキース移籍後はカットボールやツーシームも投げるようになった。
コントロールが悪かった新人時代、当時の監督である野村克也から「ダーツの的に当てるイメージで投げろ」とアドバイスを受け、井川自身もダーツボードを購入し練習したという。阪神に同期入団し、捕手として井川の球を受けてきた中谷仁によれば、入団当初の井川は特別いいボールを投げていたわけではなかったが、2001年頃からボールの回転や威力が向上し、その年のシーズン終了後に参加した二軍選手中心の教育リーグで、立川隆史や福浦和也ら一軍選手を揃えたロッテを相手に見違えるような投球を見せたという。中谷は、井川がチェンジアップを習得したのもおそらくこの頃で、強靭な下半身によって投げられるようになったと推測している。
ボールの威力自体はメジャーでもトップクラスとの評価を受けており、2007年にはハードヒット率(芯でとらえられる率)の低さがマリアノ・リベラに次ぐチーム2位の.196を記録した。スクラントンでのチームメイトらは井川について「ビッグリーグで投げるべきピッチャー」「上でやれる力はあっても、そういう機会に恵まれないことだってある」と語っていた。しかし、フランク・トーマスから「四球が多いといった制球力の問題よりも、コースが甘くなることが最大の問題」と言われ、またジョー・トーリから「球は悪くない。問題は制球力」と言われるように、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)の不足や日本時代から高かった被本塁打率の高さなどによりメジャー昇格を果たせなかった。佐野慈紀は、井川がメジャーリーグで苦しんだ原因としてチェンジアップの制球力を挙げている。井川自身は「チェンジアップの浮き球は日本人選手はミスしてくれることが多いが、メジャーの選手には高い確率で打たれてしまう」と振り返っている。ヤンキース入団は当時ヤンキースGM補佐だったビリー・エプラーの強い推薦により実現したが、1年目のスプリングトレーニングでブルペンに入った際、エプラーがブルペン捕手に「どうだい? すごい球を投げるだろう」と聞いたところ、「故障をしているならわかるがとてもメジャーのレベルじゃない。制球は最悪だ」と返される場面があったという。
井川は独特な投球フォームでも知られており、投げた後に左足が大きく跳ね上がり、投げた腕は高い位置に戻る。この特徴的な動きが、速球時には頻繁に見られる一方で、オフスピード系の変化球ではあまり見られないため、打者にとっては球種を判別する手掛かりになる可能性がある。
デーゲームを苦手としており、日本でのデーゲーム時の成績は4勝5敗、防御率7.09と振るわなかった。そのため、デーゲームで登板する際はサングラスを着用し、試合環境を夜間のそれに近づける工夫をしている。オフシーズンは自主トレの一環として茨城県内のオリエンテーリング大会に参加している。
4. 人物と趣味
井川慶は、若いころは1か月で1.00 万 JPY使うと「今月は使いすぎた」と言っていたほどの倹約家で、金銭への執着がないタイプとして知られている。
彼の趣味はコンピュータゲームで、2012年にはセガの『WORLD CLUB Champion Football』の第16回JAPAN WINNER'S CHAMPIONSHIPで関東ブロックのエリア大会を勝ち抜き全国大会に進出するほどの腕前である。阪神時代に選手寮に住んでいた当時、野球をしている時以外の時間はほとんどゲームに費やしており、年俸の使い途もほとんどがゲームソフトやゲーム攻略本で、1か月の出費が攻略本490 JPYだけという時もあったという。
将棋好きでもあり、阪神時代は球場ロッカーで選手やスタッフらと対局を楽しんでいた。2004年にノーヒットノーランを達成した日も、試合前に久保田智之との対局に熱中するあまりブルペンでの投球練習に遅れ、万全ではない状態で登板したというエピソードがある。2007年1月には日本将棋連盟より将棋親善大使を委嘱されるとともに初段免状を贈られ、将棋の普及に貢献した。
サッカーファンでもあり、中学時代にサッカークラブがなかったため野球部に入部した経緯がある。元々は地元茨城県に本拠地を置く鹿島アントラーズのファンだったが、阪神タイガースに入団してからはガンバ大阪のファンになった。
2007年2月に結婚を発表しており、彼の妻と子供たちは毎年数ヶ月ニューヨークを訪れる。
年代は違うが、大久保博元とは実家が近く、小学校・中学校・高校すべて同じである。野球では左投左打だが、ペンは右手で持ち、箸は左手で持つという、両利きである。
5. 受賞・タイトルと記録
井川慶のプロキャリアを通じて獲得した主要な個人タイトルと表彰は以下の通りである。
5.1. タイトルと表彰
; NPB
- 最多勝利:1回(2003年)
- 最優秀防御率:1回(2003年)
- 最多奪三振:3回(2002年、2004年、2006年)
- 最高勝率:1回(2003年)※当時連盟表彰なし。セントラル・リーグでは、1972年までと2013年以降表彰
- 沢村栄治賞:1回(2003年)
- 最優秀選手:1回(2003年)
- ベストナイン:1回(投手部門:2003年)
- 最優秀投手:1回(2003年)
- 月間MVP:3回(投手部門:2002年4月、2003年6月、2003年7月)
- 最優秀バッテリー賞:1回(2003年、捕手:矢野輝弘)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(2001年)
- サンスポMVP特別賞(2002年)
; BASEBALL FIRST LEAGUE (BFL)
- 最多勝利:1回(2017年)
- 防御率1位:1回(2017年)
- 最多奪三振:1回(2017年)
5.2. その他の記録とマイルストーン
; NPB投手記録
- 初登板:1999年5月2日、対広島東洋カープ6回戦(阪神甲子園球場)、5回表に2番手で救援登板、1安打2四球1死球3失点
- 初奪三振:1999年5月7日、対横浜ベイスターズ6回戦(横浜スタジアム)、4回裏に波留敏夫から
- 初完投勝利:2001年4月24日、対読売ジャイアンツ4回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
- 初完封勝利:2001年8月17日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)
- 初セーブ:2002年10月12日、対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)、8回裏に3番手で救援登板・完了、2回無失点
- 1000投球回:2005年8月23日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、7回裏3死目に前田智徳を空振り三振で達成 ※史上304人目
- 1000奪三振:2006年4月14日、対広島東洋カープ3回戦(阪神甲子園球場)、9回表に梵英心から ※史上119人目
; NPB打撃記録
- 初安打:1999年6月1日、対横浜ベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に福盛和男から左翼へ二塁打
- 初打点:2001年5月10日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、7回表に米正秀から投手前スクイズ
; NPBその他の記録
- ノーヒットノーラン:2004年10月4日、対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)※史上71人目
- オールスターゲーム出場:3回(2001年 - 2003年)
6. 評価とレガシー
井川慶のプロ野球選手としてのキャリアは、日本とアメリカで大きく異なる評価を受け、そのレガシーは多角的な視点から考察される。
日本プロ野球(NPB)においては、阪神タイガースのエースとして輝かしい実績を残した。特に2003年には沢村栄治賞とMVPに輝き、セ・リーグで1999年の上原浩治以来となる20勝を達成。この20勝は、2024年シーズン終了時点においてもセ・リーグ最後の記録となっており、彼の日本球界での功績の大きさを物語っている。彼は複数回のリーグ優勝に貢献し、多くのタイトルと記録を樹立した。
しかし、2007年のメジャーリーグベースボール(MLB)挑戦以降は、その評価は一変する。ニューヨーク・ヤンキースが投じた巨額の移籍金と高額な契約にもかかわらず、メジャーでは期待された成績を残せず、主にマイナーリーグでの活動が続いた。これに対し、アメリカのメディアからは「過去10年のニューヨークのプロスポーツ選手ワースト10」の1位に選ばれるなど、厳しい批判にさらされた。井川自身は、自身の能力不足を認めつつも、ヤンキース球団からの不当な評価や「飼い殺し」に近い扱いを受けたと主張しており、メジャーでの不振は複雑な要因が絡み合っていた。
井川のキャリアは、日本人投手がMLBに挑戦する際の難しさ、特に高額な契約と期待がプレッシャーとなり、成績不振に陥るリスクを示す象徴的な事例となった。日本での圧倒的な成功と、メジャーでの苦難という対照的な経緯は、彼の選手としての技術、精神力、そして異文化適応の課題を浮き彫りにした。引退は明言していないものの、現在は野球解説者や評論家として活動し、その経験を次世代に伝えている。彼のレガシーは、日本球界での偉業と、メジャー挑戦の光と影という、野球史における重要な一章として記憶されている。
7. 詳細なキャリアデータ
7.1. 年度別投手成績 (NPB)
年 度 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999年 | 阪神 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 80 | 15.1 | 23 | 1 | 13 | 0 | 1 | 14 | 0 | 0 | 11 | 11 | 6.46 | 2.35 |
2000年 | 9 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 172 | 39.1 | 36 | 5 | 19 | 1 | 0 | 37 | 7 | 0 | 19 | 19 | 4.35 | 1.40 | |
2001年 | 29 | 28 | 3 | 2 | 0 | 9 | 13 | 0 | -- | .409 | 829 | 192.0 | 174 | 11 | 89 | 6 | 3 | 171 | 6 | 0 | 76 | 57 | 2.67 | 1.37 | |
2002年 | 31 | 29 | 8 | 4 | 2 | 14 | 9 | 1 | -- | .609 | 830 | 209.2 | 163 | 15 | 53 | 1 | 7 | 206 | 8 | 0 | 63 | 58 | 2.49 | 1.03 | |
2003年 | 29 | 29 | 8 | 2 | 3 | 20 | 5 | 0 | -- | .800 | 839 | 206.0 | 184 | 15 | 58 | 3 | 3 | 179 | 5 | 0 | 72 | 64 | 2.80 | 1.17 | |
2004年 | 29 | 29 | 6 | 3 | 1 | 14 | 11 | 0 | -- | .560 | 840 | 200.1 | 190 | 29 | 54 | 0 | 6 | 228 | 5 | 0 | 95 | 83 | 3.73 | 1.22 | |
2005年 | 27 | 27 | 2 | 1 | 1 | 13 | 9 | 0 | 0 | .591 | 749 | 172.1 | 199 | 23 | 60 | 0 | 1 | 145 | 4 | 0 | 91 | 74 | 3.86 | 1.50 | |
2006年 | 29 | 29 | 8 | 3 | 2 | 14 | 9 | 0 | 0 | .609 | 844 | 209.0 | 180 | 17 | 49 | 3 | 6 | 194 | 4 | 0 | 77 | 69 | 2.97 | 1.10 | |
2012年 | オリックス | 12 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | .222 | 278 | 62.0 | 64 | 5 | 31 | 0 | 2 | 36 | 3 | 1 | 35 | 32 | 4.65 | 1.53 |
2013年 | 9 | 9 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 0 | 0 | .500 | 205 | 48.2 | 48 | 2 | 15 | 0 | 2 | 41 | 2 | 0 | 15 | 14 | 2.59 | 1.34 | |
2014年 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | .500 | 149 | 33.0 | 37 | 4 | 12 | 0 | 0 | 28 | 0 | 0 | 17 | 14 | 3.82 | 1.48 | |
NPB:11年 | 219 | 208 | 35 | 15 | 9 | 93 | 72 | 1 | 0 | .564 | 5815 | 1387.2 | 1298 | 127 | 453 | 14 | 31 | 1279 | 44 | 1 | 571 | 495 | 3.21 | 1.26 |
- 各年度の太字はリーグ最高
7.2. 年度別守備成績 (NPB)
年 度 | 球 団 | 投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1999年 | 阪神 | 7 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1.000 |
2000年 | 9 | 0 | 6 | 0 | 2 | 1.000 | |
2001年 | 29 | 9 | 29 | 7 | 1 | .844 | |
2002年 | 31 | 8 | 42 | 0 | 3 | 1.000 | |
2003年 | 29 | 8 | 28 | 1 | 1 | .973 | |
2004年 | 29 | 3 | 26 | 3 | 1 | .906 | |
2005年 | 27 | 3 | 29 | 1 | 3 | .970 | |
2006年 | 29 | 2 | 26 | 1 | 0 | .966 | |
2012年 | オリックス | 12 | 3 | 15 | 1 | 0 | .947 |
2013年 | 9 | 2 | 7 | 0 | 1 | 1.000 | |
2014年 | 8 | 0 | 3 | 1 | 0 | .750 | |
NPB | 219 | 38 | 214 | 15 | 12 | .944 |
- 各年度の太字はリーグ最高
7.3. 年度別投手成績 (MLB)
年 度 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2007年 | NYY | 14 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | .400 | 313 | 67.2 | 76 | 15 | 37 | 1 | 4 | 53 | 5 | 1 | 48 | 47 | 6.25 | 1.67 |
2008年 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 24 | 4.0 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 13.50 | 3.25 | |
MLB:2年 | 16 | 13 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | 0 | .333 | 337 | 71.2 | 89 | 15 | 37 | 1 | 4 | 53 | 5 | 1 | 54 | 53 | 6.66 | 1.76 |
- 各年度の太字はリーグ最高
7.4. 年度別守備成績 (MLB)
年 度 | 球 団 | 投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2007年 | NYY | 14 | 1 | 3 | 1 | 1 | .800 |
2008年 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
MLB | 16 | 1 | 4 | 1 | 1 | .833 |
- 各年度の太字はリーグ最高
7.5. 独立リーグでの投手成績
年 | ||||||||||||||||||||
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2017年 | 兵庫 | 14 | 1 | 11 | 0 | 0 | 1.00 | 300 | 82.0 | 43 | 1 | 18 | 0 | 94 | 2 | 0 | 11 | 10 | 1.10 | 0.74 |
通算:1年 | 14 | 1 | 11 | 0 | 0 | 1.00 | 300 | 82.0 | 43 | 1 | 18 | 0 | 94 | 2 | 0 | 11 | 10 | 1.10 | 0.74 |
- 各年度の太字はリーグ最高
7.6. 背番号
- 29(1998年 - 2008年、2012年 - 2015年、2017年)※2020年の1試合復帰時も着用
7.7. 登場曲
- 「君のいちばんに...」LINDBERG