1. 概要
井端弘和(いばた ひろかず日本語、1975年5月12日 - )は、神奈川県川崎市川崎区出身の日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球解説者、野球評論家。現在は野球日本代表の監督を務めている。現役時代は主に遊撃手として中日ドラゴンズ、二塁手としても読売ジャイアンツで活躍した。中日ドラゴンズ時代には同僚の荒木雅博と共に「アライバコンビ」の愛称で親しまれ、卓越した守備でチームを牽引した。引退後は読売ジャイアンツのコーチを経て、野球日本代表の指導者として、またU-12およびU-15日本代表の監督を務め、最終的に野球日本代表トップチームの監督に就任した。彼のキャリアは、その堅実なプレースタイルと指導者としての手腕により、日本野球界に多大な影響を与えている。
2. 幼少期・学生時代
井端弘和の幼少期から学生時代は、野球との出会い、その才能の開花、そしてプロの道へと繋がる基盤を築いた重要な時期である。特に、ある名将の助言が彼のプレースタイルとキャリアの方向性を決定づける転機となった。
2.1. 幼少期・少年時代
神奈川県川崎市川崎区で育った井端弘和は、川崎市立川中島中学校時代までは投手としてプレーしていた。県立高校への進学を考えていた時期、城南品川リトルシニア在籍時に対戦した港東ムースの試合を観ていた野村克也から直接電話を受け、「投手から遊撃手への転向」と「堀越高等学校へ進学」をアドバイスされた。この野村からの助言が、井端の野球人生における大きな転機となったと語られている。
2.2. 高校・大学時代
堀越高等学校時代は、2年時に第64回選抜高等学校野球大会、3年時に第75回全国高等学校野球選手権大会に出場し、甲子園の舞台を経験した。
その後、亜細亜大学に進学。東都大学1部リーグでは通算81試合に出場し、269打数78安打、打率.290、4本塁打、33打点を記録した。特に3年秋からは3季連続で二塁手としてベストナインに選出されるなど、その実力を示した。2部リーグ(2年春のみ)でも通算11試合に出場し、48打数14安打、打率.291、1本塁打、5打点を残している。亜細亜大学では、1年時に4年生の沖原佳典と二遊間を組み、1年上には部坂俊之、中野栄一(プロでも同僚)、1年下には赤星憲広が在籍し、3年秋にはリーグ戦で優勝を経験した。
堀越高校時代の桑原秀範と、亜細亜大学時代の内田俊雄という2人の広島商業OBから、小技を極め、精神力を鍛え抜く、いわゆる「スモールベースボール」を7年間で徹底的に叩き込まれた。この経験が井端の野球の源流に「広商野球」を築いたとされている。
1997年のドラフト会議において、中日ドラゴンズから5位指名を受け、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせた。
3. プロ野球選手時代
井端弘和のプロ野球選手としてのキャリアは、中日ドラゴンズでの長きにわたる黄金期と、その後の読売ジャイアンツでの挑戦に彩られている。彼はその堅実な守備と勝負強い打撃で、両チームに貢献し、多くのファンを魅了した。
3.1. 中日ドラゴンズ時代 (1998年-2013年)
中日ドラゴンズに入団した1998年は、シーズン後半戦で一軍に合流し、18試合に出場した。しかし、1999年には同年オフのドラフトで中日が同じ遊撃手である福留孝介を1位指名したことで、福留がレギュラーに定着し、井端は一軍出場なしに終わる。
2000年の春季キャンプでは、チームの主力選手たちを観察し、バントを確実にこなせる選手や守備力に秀でた選手が少ないと感じたことから、それらの技術を磨いて一軍での出場機会を得ようと考えた。この年、開幕から一軍に帯同し、開幕6試合目の対読売ジャイアンツ(巨人)戦では、相手の先発投手である新人高橋尚成との相性を星野仙一監督から尋ねられ、つい「5割は打ってました」と偽って答えたが、この試合の8回に代打として起用され、中堅前への安打を放った。1か月後の対巨人3連戦では同年初のスタメン出場を果たし、3試合とも2安打1打点の成績を残した。この年から試合終盤の守備固め・代走、またはレギュラーとして出場機会を増やしていった。
2001年からは全試合出場を果たし、2番遊撃手としてレギュラーに定着。2002年には初のベストナインを受賞し、オフに背番号を6に変更した。
2004年には選手会長に就任し、チームのリーグ優勝に貢献した。また、自身2度目となるベストナイン(以降、2007年までに4年連続)、自身初の打率3割、ゴールデングラブ賞を受賞した。2005年には2年連続の打率3割とともに、規定打席到達者中12球団トップの得点圏打率を残した。同年8月27日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤドーム)では6回二死満塁の打席で天野浩一から自身初の満塁本塁打を放っている。
国際大会では、2001年に台湾で開催されたIBAFワールドカップ(4位)を皮切りに、2002年キューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップ(準々決勝リーグ敗退)に出場。2003年アテネオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権では長嶋ジャパンの一員として優勝。2007年の北京オリンピック予選でも2大会連続での本戦出場権獲得に貢献した。一方で、2006年および2009年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではメンバーに入らなかった。
2008年8月3日にFA権を取得するも、その日の中日スポーツ朝刊で残留を宣言し、12月16日に球団史上最長の5年契約を結んだ。同年12月22日、元テレビ朝日アナウンサーの河野明子と結婚した。
2009年の初めグアムに自主トレに行った際に目の腫れや痛みを訴え、帰国後の医師による診断で上皮角膜ヘルペスによるものだと判明した。肩の故障もあり二塁手にコンバートされる予定であったが、井端本人の調整が目の不調により遅れたことに加え、代わって遊撃手を務める予定であった荒木雅博が開幕直前に足を痛めたことで見送られた。調整は遅れていたもののシーズンでは主に1番打者として全試合に出場し、4年ぶりに打率3割を達成。12月3日には日本プロ野球選手会の理事長に就任した(2013年12月に退任)。
2010年は予定通り二塁手にコンバートされ、チーム方針により6番の打順を任されることが多かった。6月5日の対ロッテ戦で、通算1500本安打を達成した。6月11日に登録抹消、7月15日に一度一軍復帰するも、途中出場3試合のみで7月25日に再び登録抹消。復帰は10月2日の最終戦になった。離脱の理由は眼病によるもので、ボールがぼやけて見える不調が生じ、この年は144試合中53試合しか出場できなかった。長期離脱により2000年以来の規定打席未到達、前年まで6年連続で受賞していたゴールデングラブ賞も逃し、二塁のレギュラーポジションも堂上直倫に明け渡した。11月26日には減額制限一杯となる40パーセントダウン(3.00 億 JPYから1.80 億 JPYと推定)で契約更改。治療を続けていた目に回復の兆しが見られず痛みが続いていたため、このシーズンには引退も考えていたという。
2011年は再び2番打者として起用される。7月26日、第一子となる長男が誕生した。打撃面ではプロ入り後で最低の成績に終わる。9月1日にはNPBから反ドーピング規則違反の処分を受けるが、これは目の治療のために使用していた薬物の許可期限切れに伴う継続申請を怠っていた中日球団の過失によるところが大きいと認定され、最も軽いけん責処分となっている。
2012年、開幕戦から6番打者として起用されていたが、シーズン中盤からは5番を務めた。守備面では再び遊撃手に戻り、荒木も元の二塁手に再コンバートされた。最終的に打率.284を残し、3年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。オフの11月6日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表に選出。12月4日には、第3回WBC日本代表候補選手34人に選出された。

2013年2月20日に第3回WBC日本代表選手28人に選出され、背番号は「3」だった。ブラジル戦で同点打を放ち、3月8日の台湾戦では9回二死から同点打を打ち、打率.556と決勝ラウンドに進出した全選手の中で最も高い打率を記録した。指名打者としても出場し、東京ラウンドのMVPを獲得、大会ベストナインの指名打者部門にも選出された。特に2次ラウンドの台湾戦の同点適時打については「一生忘れない」と語った。シーズン公式戦では100試合出場で打率.236、1本塁打にとどまった。シーズン後は球団の勧めもあり右足首と右肘の手術を受けたが、手術を受けた後に球団の体制が変更。年俸減額限度額を越える大幅減俸の提示を受け、秋季キャンプには1人だけ不参加。11月4日に球団から翌年の契約を結ばないことが発表された。
3.2. 読売ジャイアンツ時代 (2014年-2015年)
2013年11月26日に読売ジャイアンツとの契約の合意が発表され、12月3日に入団会見を行った。背番号は2。12月13日には第二子となる長女が誕生した。
2014年は、脚に不安を抱える片岡治大に次ぐ二塁手など、主に内野の守備要員として試合に出場した。また、片岡が連戦の疲れを考慮して休養する際は二塁手でスタメン出場し、正遊撃手の坂本勇人が故障等で先発出場ができない際には遊撃手として先発を務めた。7月6日には古巣の中日からの第1号となる本塁打を濱田達郎から放った。5年ぶりにシーズン3本塁打を記録し、クライマックスシリーズファイナルステージ阪神戦では第2戦の7回に岩田稔から2点本塁打を放った。
2015年は開幕スタメンで出場し、序盤はレギュラーとしても出場していた。6月12日、第三子となる次女が誕生。最終的に片岡の故障離脱もあって98試合に出場したが、10月24日、読売巨人軍球団事務所で記者会見を行い、同級生の高橋由伸の監督就任に伴い、同年限りで現役を引退することを表明した。日本プロ野球名球会の入会基準である通算2000本安打まであと88本及ばなかった。高橋からの引退報告を電話で聞き「彼より長くやることはないと思っていた。電話をもらい、すぐに辞めようと思った」と決断したことを会見で明かした。
3.3. 選手としての特徴
井端弘和の選手としての特徴は、その卓越した守備と巧みなバットコントロールに集約される。特に遊撃手としてのプレーは「芸術的」と称され、日本球界における守備の概念を大きく高めた。
3.3.1. 守備・走塁
プロ入り後、一軍での出場機会が少なかった時代は外野を守ることもあったが、プロ入りまで外野の守備経験はほとんどなかった。これは当時遊撃手としては年下の福留孝介がおり、一軍出場が難しいチーム事情から二軍監督の仁村徹は一軍首脳陣に「井端は元々外野手だった」と報告、内外野を守れるユーティリティープレイヤーとして一軍に昇格したためである。
2001年から遊撃手のレギュラーに定着。荒木雅博とは守備で二遊間、打順で1・2番を組むことから「アライバコンビ」というコンビ名で呼ばれる。外野に抜けようかという打球を荒木が捕球したのち、無理に自ら一塁に送球せず井端にトスして送球を委ねるというプレーを始めとした数々の芸術的な守備を見せ、荒木と共に2004年から2009年まで6年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。2021年12月に投票が行われた「三井ゴールデン・グラブ レジェンズ」では、遊撃手部門で1位を獲得した。
2010年からは年齢的な負担を考慮して二塁手にコンバートされ、荒木と守備位置の入れ替えを行った。2012年からはこの年から監督に就任した高木守道の「井端は(二塁を守っている時は)気持ちが吹っ切れてなかったし、荒木も肩に不安があるから」という意見と井端本人が遊撃手を希望したことにより、再び守備位置を入れ替えることになり、この年は守備イニング1000以上の遊撃手で両リーグ2位となるUZR15.9を記録した。
走塁面でもシーズン20盗塁以上を三度記録し、右打者ながら一塁到達3.98秒を記録するスピードを誇ることもあるが、大半は4秒台前半から6秒台前半とムラが激しい傾向にあった。また、通算盗塁成功率も62%と低かった。
3.3.2. 打撃
守備力同様に打撃も優れていた。「しぶとい打撃」といわれ、通算1912安打を記録した打力を持つ。2001年から2011年までは主に2番打者として起用され、荒木が不調の場合は井端が1番に入ることもあった。また、監督の方針により3番、5番、6番などの打順を任されることもあった。柔らかいリストワークを生かしたバットコントロールの良さを持ち味とする。大きく左足を上げるバッティングフォームだが、タイミングやステップを微調整するため対応力が高い。
2006年から2010年までの5年間で左投手に対して打率.307を残し、基準違反統一球が導入されていた2011年から2012年も打率.285を記録するなど左投手を得意としていた。空振りは少なく、外角の球に限らず内角の厳しいコースも腕をたたんで右方向へ運ぶ技術を備え、得点圏時には右方向に8割以上の割合で打球を運ぶなど場面に応じたバッティングもできた。ファウル打ちは球界屈指の技術を誇った。
現役時代の本塁打数は通算で56本とホームランバッターというタイプではないため、本人はプロ初本塁打の際に「よかったこれで」と安堵したと引退後に語っており、「ホームラン1本打つならヒット2本3本打ちたいなと思っていた」という。
4. 引退後の指導者・解説者時代
井端弘和は選手引退後、プロ野球チームのコーチから野球解説者、そして日本代表の監督に至るまで、多岐にわたる分野で野球への貢献を続けている。特に、次世代の選手育成と日本野球の強化に尽力している。
4.1. プロ・アマチュアチーム指導者時代
2015年11月5日に日本野球機構(NPB)より任意引退公示された。2016年から読売ジャイアンツの一軍内野守備走塁コーチに就任し、背番号は82。2018年10月22日に退任した。
2019年からは日本テレビ・TBSチャンネル・フジテレビONE・東海テレビ・ニッポン放送・東海ラジオの野球解説者、中日スポーツ・東京中日スポーツの野球評論家に就任。また同年10月には日本テレビサービスがYouTubeチャンネル『イバTV~井端弘和公式チャンネル』を開設した。このチャンネルでは、現役時代の裏話や野球界が抱える問題、注目の選手についてなど野球にまつわる話題が、アシスタントMCのみっちーとともに井端独自の目線で週一回のペースで投稿されている。
2020年からは亜細亜大学時代の同期である飯塚智広が監督を務めている縁で、NTT東日本硬式野球部の臨時コーチに就任。2022年からはベンチ入りし、NTT東日本のユニフォームも着用するようになった(背番号は88)。
2022年10月4日から17日までの2週間、台湾プロ野球の新球団台鋼ホークスの客員コーチに就任した。
2023年8月1日付で母校の亜細亜大学硬式野球部の外部コーチに、野球部同期の飯塚智広と共に就任した。
4.2. 日本代表指導者・監督時代
選手引退後の2017年からは、プロ・アマチュアチームの指導と並行して野球日本代表(侍ジャパン)に携わっている。
稲葉篤紀監督のもと、2017年第1回アジアプロ野球チャンピオンシップ・2018年日米野球で日本代表内野守備・走塁コーチを務めた。

2019年1月には侍ジャパンの強化本部編成戦略担当に就任。2019年第2回プレミア12・2021年東京オリンピックでも引き続き、内野守備・走塁コーチを務めた。
2022年からはU-12日本代表の監督に就任し、背番号は89。第6回WBSC U-12ワールドカップでは7位、翌2023年の第7回WBSC U-12ワールドカップでは4位となった。
2023年10月3日、同年3月に開催されたWBCで世界一に導いた栗山英樹監督の後任として、野球日本代表トップチームの監督に就任した。同時にU-12監督を退任する一方で、U-15日本代表の監督も兼任することになった。同年11月に東京ドームで開催された第2回アジアプロ野球チャンピオンシップがトップチーム監督としての初陣となり、4戦全勝で優勝し、大会連覇を果たした。

2024年、U-15監督としての初陣となった第6回WBSC U-15ワールドカップにおいて、日本代表として2012年の同大会改組後では初となる優勝を達成した。同年10月9日には、2026年に開催(予定)の第6回WBCまで継続して監督を務めると発表された。
2024 WBSCプレミア12では決勝戦で台湾に敗れて準優勝。これにより、2019 WBSCプレミア12・2020年東京オリンピック・2023 ワールド・ベースボール・クラシックと続いていた日本代表の世界大会連覇は3で止まることになった。
5. 人物
中日チーム内での井端の愛称は「イバチン」で、名付け親は入団当時の監督である星野仙一である。
趣味は競艇。年末年始には、愛知県にあるBOAT RACE蒲郡でトークショーに出演するのがここ数年の恒例行事となっている。ボートレーサーの中では原田幸哉と仲が良いことで知られている。
大学時代には野球部に「1年生・2年生は電車の座席に座ってはいけない」という厳しい決まりがあった。ある日、井端が前後の車両に先輩がいないのを確認して座席に座ったところ、先輩が踏切に立って電車の外から見張っていたため肝を冷やしたというエピソードがある。
内野守備が特に上手い選手として、中日時代のチームメイトである久慈照嘉と酒井忠晴を挙げている。井端は二人の守備を「魅せる守備(華麗なグラブさばき)」と表現。現役時代は「魅せる守備では、彼らには到底追いつけないと思った。自分が彼らのようなグラブさばきをすると、軽いプレーだと思われる恐れがあった」と振り返り、堅実なプレースタイルが特徴であった川相昌弘を参考にしたという。しかし、久慈や酒井の守備スタイルの練習は続けており、「ここぞという時にやろうと思えばできる」というスタイルでいたと語っている。
2004年から2018年まで、出身校である川崎市立川中島小学校で開催される「井端祭り」に参加し、子ども達との交流を図っていた。また、2006年から2015年まで川崎市の野球少年のために「井端弘和杯」を主催していた。
井端のファンであると公言している人物としては、妻である河野明子や、SKE48の高柳明音、吉田沙保里などが知られている。
2021年8月8日(この前日、井端がコーチをしていた東京オリンピック野球日本代表が決勝でアメリカを破って金メダルを獲得した)放送の、NHK教育テレビジョンの番組おとうさんといっしょのコーナー「父山(とうさん)のぼり」に2人の娘とともに出演した。自身の紹介シーンには水木一郎の歌う「燃えよドラゴンズ」が流れた。
2022年には、長男が小学5年生ながらベイスターズジュニアに選出された。背番号は父・井端が中日時代につけていた番号と同じ「6」であった。長男は翌2023年にもベイスターズジュニアに選出され、キャプテンとしてチームを優勝に導いている。
監督の1人であった落合博満にしごかれた選手の一人でもあった。落合からも突出した守備能力を「助けられたことが多々あった」と認められている一方で、井端はしごかれたことで「かなりムカついた顔」をよくしていたという。
6. 表彰・栄誉
井端弘和は、その長年の現役生活と突出した野球の技術により、日本プロ野球内外で数々の表彰と栄誉に輝いている。特に守備面での貢献は高く評価され、複数のゴールデングラブ賞を受賞している。
6.1. NPBにおける表彰
- ベストナイン:5回(2002年、2004年 - 2007年)
- ゴールデングラブ賞:7回(2004年 - 2009年、2012年)
- 遊撃手として7度受賞は、山下大輔に次ぐ歴代2位。
- 「三井ゴールデン・グラブ レジェンズ」では、遊撃手部門で1位を獲得した。
- 月間サヨナラ賞:1回(2015年6月)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2007年第2戦)
- オールスターゲーム・ベストバッター賞:1回(2009年第2戦)
- イチロー(当時オリックス・ブルーウェーブ)、内川聖一(当時横浜ベイスターズ)に次ぐ5打席連続安打を記録。
- アジアシリーズMVP:1回(2007年)
- 月間アットホームヒーロー賞:1回(2015年6月)
6.2. 国際大会における表彰
- WBC2次ラウンドMVP(2013年)
- WBCベストナイン(指名打者:2013年)
7. 記録・節目
井端弘和は、プロ野球選手としての長きにわたるキャリアの中で、多くの重要な記録を達成し、その足跡を日本野球史に刻んでいる。
7.1. 初記録
- 初出場・初先発出場:1998年9月8日、対阪神タイガース23回戦(ナゴヤドーム)、7番・遊撃手で先発出場
- 初打席:同上、1回裏にダレル・メイから投手ゴロ
- 初安打・初打点:同上、3回裏にダレル・メイから中前2点適時打
- 初犠打:1998年9月15日、対ヤクルトスワローズ23回戦(明治神宮野球場)、5回表に川崎憲次郎から投手前犠打
- 初盗塁:1998年9月17日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、1回表に二盗(投手:山部太、捕手:古田敦也)
- 初本塁打:2000年6月8日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、1回表にドナルド・レモンから左越ソロ
7.2. 節目の記録
- 1000本安打:2007年4月1日、対東京ヤクルトスワローズ3回戦(ナゴヤドーム)、1回裏に藤井秀悟から左中間二塁打 ※史上243人目
- 1000試合出場:2007年7月16日、対東京ヤクルトスワローズ12回戦(ナゴヤドーム)、3番・遊撃手で先発出場 ※史上419人目
- 1500本安打:2010年6月5日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に吉見祐治から右中間へ適時二塁打 ※史上105人目
- 200犠打:2011年9月1日、対阪神タイガース18回戦(ナゴヤドーム)、6回裏にジェイソン・スタンリッジから投手前犠打 ※史上32人目(高木守道と並ぶ通算犠打の球団タイ記録)
- 1500試合出場:2012年5月3日、対阪神タイガース6回戦(ナゴヤドーム)、6番・遊撃手で先発出場 ※史上174人目
7.3. その他の記録
- オールスターゲーム出場:8回(2001年、2002年、2005年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年)
- サイクル安打:2002年9月21日、対横浜ベイスターズ25回戦(ナゴヤドーム) ※史上53人目
8. 詳細情報
井端弘和の詳細情報は、彼のプロ野球選手としてのキャリアを年度ごとの打撃成績と守備成績、そして国際大会での成績を通じて統計的に詳述する。これらのデータは、彼の貢献度を客観的に示すものである。
8.1. 年度別打撃成績
年 度 | 所 属 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | 中日 | 18 | 60 | 49 | 2 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 2 | 4 | 0 | 4 | 0 | 6 | 0 | 1 | 8 | 0 | .245 | .339 | .265 | .605 |
2000 | 92 | 270 | 242 | 35 | 74 | 7 | 0 | 3 | 90 | 16 | 6 | 8 | 8 | 2 | 16 | 0 | 2 | 22 | 1 | .306 | .351 | .372 | .723 | |
2001 | 140 | 625 | 531 | 53 | 139 | 25 | 3 | 1 | 173 | 32 | 14 | 12 | 37 | 2 | 49 | 2 | 6 | 60 | 10 | .262 | .330 | .326 | .656 | |
2002 | 135 | 596 | 531 | 67 | 154 | 25 | 1 | 4 | 193 | 25 | 6 | 9 | 6 | 0 | 53 | 1 | 6 | 77 | 11 | .290 | .361 | .363 | .724 | |
2003 | 105 | 447 | 386 | 44 | 103 | 14 | 0 | 5 | 132 | 27 | 5 | 3 | 30 | 1 | 28 | 0 | 2 | 50 | 9 | .267 | .319 | .342 | .661 | |
2004 | 138 | 642 | 562 | 81 | 170 | 30 | 2 | 6 | 222 | 57 | 21 | 10 | 18 | 3 | 54 | 0 | 5 | 74 | 16 | .302 | .367 | .395 | .762 | |
2005 | 146 | 659 | 560 | 87 | 181 | 22 | 5 | 6 | 231 | 63 | 22 | 8 | 19 | 2 | 72 | 3 | 6 | 77 | 11 | .323 | .405 | .413 | .817 | |
2006 | 146 | 666 | 573 | 97 | 162 | 19 | 2 | 8 | 209 | 48 | 17 | 12 | 27 | 1 | 61 | 0 | 4 | 72 | 13 | .283 | .355 | .365 | .720 | |
2007 | 144 | 665 | 588 | 87 | 174 | 34 | 4 | 5 | 231 | 45 | 23 | 6 | 8 | 1 | 63 | 1 | 5 | 74 | 13 | .296 | .368 | .393 | .761 | |
2008 | 106 | 466 | 408 | 51 | 113 | 16 | 3 | 5 | 150 | 23 | 8 | 3 | 16 | 2 | 37 | 1 | 3 | 56 | 7 | .277 | .340 | .368 | .708 | |
2009 | 144 | 657 | 569 | 80 | 174 | 24 | 2 | 5 | 217 | 39 | 13 | 7 | 8 | 2 | 72 | 0 | 6 | 66 | 13 | .306 | .388 | .381 | .770 | |
2010 | 53 | 212 | 180 | 18 | 47 | 6 | 0 | 0 | 53 | 16 | 0 | 0 | 6 | 2 | 21 | 1 | 3 | 28 | 13 | .261 | .345 | .294 | .639 | |
2011 | 104 | 434 | 376 | 28 | 88 | 9 | 1 | 1 | 102 | 29 | 3 | 3 | 31 | 2 | 25 | 1 | 0 | 53 | 10 | .234 | .280 | .271 | .551 | |
2012 | 140 | 553 | 489 | 35 | 139 | 17 | 0 | 2 | 162 | 35 | 4 | 4 | 8 | 1 | 52 | 2 | 3 | 58 | 14 | .284 | .356 | .331 | .687 | |
2013 | 100 | 376 | 326 | 30 | 77 | 9 | 0 | 1 | 89 | 18 | 0 | 2 | 8 | 0 | 38 | 0 | 4 | 51 | 13 | .236 | .323 | .273 | .596 | |
2014 | 巨人 | 87 | 187 | 164 | 16 | 42 | 3 | 0 | 3 | 54 | 16 | 0 | 0 | 4 | 1 | 18 | 0 | 0 | 24 | 11 | .256 | .328 | .329 | .657 |
2015 | 98 | 321 | 269 | 20 | 63 | 9 | 0 | 1 | 75 | 19 | 3 | 3 | 10 | 2 | 37 | 0 | 3 | 36 | 4 | .234 | .331 | .279 | .610 | |
通算:17年 | 1896 | 7836 | 6803 | 831 | 1912 | 270 | 23 | 56 | 2396 | 510 | 149 | 90 | 248 | 24 | 702 | 12 | 59 | 886 | 169 | .281 | .352 | .352 | .706 |
- 各年度の太字はリーグ最高
8.2. 国際大会打撃成績
年 度 | 代 表 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗< 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2013 | 日本 | 6 | 23 | 18 | 6 | 10 | 1 | 0 | 0 | 11 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 3 | 0 | .556 | .652 | .611 | 1.263 |
年 度 | チ ー ム | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004 | NPB | 6 | 13 | 10 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | .100 | .100 | .231 | .331 |
8.3. 年度別守備成績
; 内野
年 度 | 球 団 | 一塁 | 二塁 | 三塁 | 遊撃 | ||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1998 | 中日 | - | 6 | 5 | 10 | 1 | 2 | .938 | - | 12 | 23 | 34 | 0 | 10 | 1.000 | ||||||||||
2000 | - | 23 | 15 | 22 | 0 | 7 | 1.000 | 2 | 2 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | 51 | 70 | 122 | 5 | 16 | .975 | ||||||
2001 | - | 15 | 9 | 10 | 0 | 3 | 1.000 | - | 134 | 193 | 381 | 4 | 66 | .993 | |||||||||||
2002 | - | - | - | 134 | 237 | 387 | 6 | 69 | .990 | ||||||||||||||||
2003 | - | - | - | 104 | 150 | 319 | 2 | 62 | .996 | ||||||||||||||||
2004 | - | - | - | 138 | 213 | 472 | 4 | 90 | .994 | ||||||||||||||||
2005 | - | - | - | 146 | 204 | 480 | 5 | 97 | .993 | ||||||||||||||||
2006 | - | - | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 146 | 242 | 475 | 4 | 77 | .994 | |||||||||||
2007 | - | - | - | 144 | 222 | 465 | 6 | 97 | .991 | ||||||||||||||||
2008 | - | - | - | 106 | 139 | 311 | 8 | 50 | .983 | ||||||||||||||||
2009 | - | - | - | 144 | 218 | 477 | 8 | 92 | .989 | ||||||||||||||||
2010 | - | 45 | 114 | 114 | 1 | 27 | .996 | - | 8 | 15 | 18 | 2 | 1 | .943 | |||||||||||
2011 | - | 102 | 260 | 328 | 5 | 54 | .992 | 2 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||||||||
2012 | - | - | - | 140 | 186 | 450 | 4 | 94 | .994 | ||||||||||||||||
2013 | - | 2 | 1 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | - | 93 | 118 | 248 | 6 | 40 | .984 | |||||||||||
2014 | 巨人 | 14 | 36 | 2 | 0 | 7 | 1.000 | 42 | 84 | 84 | 1 | 21 | .994 | 16 | 4 | 7 | 0 | 1 | 1.000 | 14 | 9 | 18 | 0 | 4 | 1.000 |
2015 | 26 | 154 | 10 | 1 | 9 | .994 | 33 | 63 | 55 | 1 | 10 | .992 | 39 | 23 | 35 | 2 | 2 | .967 | 11 | 11 | 28 | 1 | 4 | .975 | |
通算 | 40 | 190 | 12 | 1 | 16 | .995 | 268 | 551 | 626 | 9 | 124 | .992 | 61 | 30 | 47 | 2 | 3 | .975 | 1525 | 2250 | 4685 | 65 | 869 | .991 |
; 外野
年 度 | 球 団 | 外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2000 | 中日 | 21 | 18 | 0 | 1 | 0 | .947 |
2001 | 11 | 16 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |
通算 | 32 | 34 | 2 | 1 | 0 | .973 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞
9. メディア出演・著作活動
井端弘和は選手引退後、メディアでの活動や執筆活動を通じて、野球の普及と自身の経験の共有に積極的に取り組んでいる。
9.1. メディア出演
; ラジオ
- 久野誠のドラゴンズワールド、宮部和裕のドラゴンズEXPRESS(CBCラジオ。週一回程度電話出演。主に月曜日)
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送)(2019年 - 2023年)
- ガッツナイター(東海ラジオ)(2019年 - 2023年)
; CM
- スカパー!e2(スカパー!)2009年プロ野球(地域限定版)
; 広告
- 名古屋鉄道 - 名鉄特急ミュースカイの広告ポスター
- Wアミノバリュー(大塚製薬)荒木とともに広告ポスターに出演
; コラム
- 井端弘和の一の野球:不定期更新。中日スポーツの携帯サイト「ドラゴンズ情報」内で、「現状レポート」とファンからの質問に答える「なんでもQ&A」・井端からのメッセージ動画のほか、井端オリジナルコンテンツとして「マイブーム」で構成。
; ブログ
- 匠の言葉(2019年 - )
; 動画配信
- イバTV(YouTube、2019年 - 、毎週水曜更新)
; その他
- ほっと青汁(販売元はトーカ堂。元同僚の荒木雅博とともに、同社のテレビショッピングやネットショッピングのページにも登場していた。)
9.2. 著作
- 『土壇場力:悔しさと憧れが無限の力を生み出す』(竹書房、2013年7月、ISBN 978-4812495964)
- 『勝負強さ』(角川oneテーマ21、2013年7月、ISBN 978-4041105160)
- 『守備の力』(光文社新書、2014年12月、ISBN 978-4334038328)
- 『内野守備の新常識 4ポジションの鉄則・逆説&バッテリー・外野・攻撃との関係』(廣済堂出版、2019年8月、ISBN 978-4331522387)
- 『井端弘和の遊撃手「超」専門講座』(ベースボール・マガジン社、2019年9月、ISBN 978-4583112350)
- 『アライバの鉄則』(廣済堂出版、2020年7月20日、ISBN 978-4-331-52296-7)- 荒木雅博と共著
- 『野球観 ~勝負をわける頭脳と感性~』(日本文芸社、2022年6月2日、ISBN 978-4-537-21994-4)
- 『最強 二遊間論』(エクシア出版、2022年10月3日、ISBN 978-4-910-88401-1)
- 『少年野球 デキる選手はやっている「打つ・走る・投げる・守る」』(日本文芸社、2023年7月23日、ISBN 978-4-537-22122-0)
10. レガシーと評価
井端弘和は、その卓越した守備技術と堅実な打撃で、プロ野球界に大きな足跡を残した選手である。特に中日ドラゴンズ時代の荒木雅博との「アライバコンビ」は、二遊間の守備の概念を革新し、「芸術的」とまで評される連携プレーで多くの野球ファンを魅了した。これは単なる個々の技術の高さに留まらず、チームプレーにおける協調性や信頼関係の重要性を示す模範的な例として、後進の選手たちに大きな影響を与えている。
彼のプレースタイルは、派手さはないものの、試合の流れを読み、粘り強く対応する「しぶとい打撃」や、状況に応じた的確な守備判断に特徴づけられた。こうした「スモールベースボール」を体現する姿勢は、現代野球においてもその価値が再評価されており、野球の基本に忠実であることの重要性を伝えている。
引退後は、読売ジャイアンツのコーチとして若手選手の指導に当たり、その実践的な指導力は高く評価された。特に、野球日本代表のコーチやU-12、U-15、そしてトップチームの監督を歴任する中で、その指導者としての手腕を遺憾なく発揮している。彼のリーダーシップは、選手個々の能力を引き出すだけでなく、チーム全体の結束力を高めることに貢献しており、国際大会での優勝など、具体的な成果を上げている。
社会的な評価としては、長年のプロ生活で培った経験と知見を、メディア出演や著作活動を通じて積極的に共有している点が挙げられる。野球解説者や評論家として、多角的な視点から野球の魅力を伝え、ファンとの交流を深めている。また、故郷川崎市での「井端祭り」や「井端弘和杯」の主催など、地域の子どもたちへの野球普及活動にも熱心に取り組み、野球を通じた社会貢献にも尽力している。
このように、井端弘和は選手として、そして指導者として、常に野球の発展と次世代の育成に真摯に向き合ってきた。彼の人間性、リーダーシップ、そして野球への深い情熱は、多くの人々に感銘を与え、日本野球界における彼のレガシーは今後も語り継がれるだろう。
11. 関連項目
- 神奈川県出身の人物一覧
- 亜細亜大学の人物一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 荒木雅博