1. 生涯と教育
保坂司は、1937年3月3日に山梨県甲府市に生まれました。彼は、甲府市にある積翠寺温泉の伝統ある旅館「古湯坊 坐忘庵」を代々継ぐ保坂家の22代目として育ちました。
サッカーを始めたのは比較的遅く、山梨県立甲府第一高校の3年生になってからです。当初はウィングのポジションでしたが、後にゴールキーパーへと転向しました。このポジション転向後、彼は同年の第9回国民体育大会でチームを準優勝に導く活躍を見せました。
高校卒業後、明治大学サッカー部に進学し、ここでもその才能を開花させました。大学1年次から早くもサッカー部のスターティングメンバーに定着し、チームの重要な一員として活躍しました。
2. 選手経歴
保坂司の選手経歴は、クラブでの成功と国際舞台での活躍に彩られています。
2.1. クラブ経歴
大学卒業後、保坂司は古河電気工業サッカー部に加入しました。彼はこのチームで、実業団サッカーとしては初めてとなる天皇杯獲得に大きく貢献しました。特に、1960年、1961年、そして1964年に天皇杯優勝を果たし、チームの黄金期を支えました。
1965年には、古河電気工業サッカー部が新設された日本サッカーリーグ(JSL)に参加。保坂司はJSLにおいて47試合に出場し、1968年に選手としてのキャリアを引退しました。
2.2. 代表経歴
保坂司は、サッカー日本代表のゴールキーパーとして、1960年代初頭の主要な国際大会で活躍しました。
1960年11月6日の1962 FIFAワールドカップ予選の韓国代表戦で日本代表としてデビュー。その後も、1962年アジア競技大会やムルデカ大会など、数々の国際試合に出場し、1960年代前半の日本代表の正ゴールキーパーとして重要な役割を担いました。
1964年に東京で開催された東京オリンピックでは、レギュラーゴールキーパーとして代表に選出されました。しかし、大会直前の遠征中に不運にも手を骨折してしまい、出場機会を得ることができませんでした。彼の代わりに横山謙三がゴールマウスを守ることになりましたが、保坂司はチームのリザーブゴールキーパーとしてチームに帯同しました。彼は1964年までに国際Aマッチ19試合に出場しました。
3. 引退後の経歴
選手引退後、保坂司はサッカー指導者として、また政治家として、多岐にわたる分野で活躍しました。
3.1. 指導者経歴
選手としてのキャリアを終えた後、保坂司はサッカー指導者の道に進みました。1973年には、自身の故郷を拠点とする甲府サッカークラブ(現 ヴァンフォーレ甲府)の監督に就任しました。彼は1977年まで監督を務め、地域サッカーの発展に貢献しました。また、日本サッカー協会の技術指導委員も歴任しました。
3.2. 政治家経歴
保坂司は、サッカー界での功績に加えて、政治家としてもその影響力を発揮しました。彼は山梨県議会議員を務め、さらに山梨県議会の議長という要職も歴任しました。地域住民の生活向上と地方自治の発展のために尽力し、そのリーダーシップは高く評価されました。
1998年の第18回参議院議員通常選挙では、自由民主党公認で山梨県選挙区から参議院議員選挙に出馬しました。169,633票を獲得しましたが、民主党公認の輿石東が183,721票を獲得したため、惜敗しました。政治家としての活動を通じて、彼はスポーツ選手としての知名度を生かし、民主的なプロセスへの積極的な参加を示しました。
4. 私生活と死
保坂司は、その公的なキャリアの傍らで、伝統的な家業との深い繋がりを持ち続けました。
4.1. 私生活
保坂司は、積翠寺温泉にある旅館「古湯坊 坐忘庵」の22代目という伝統的な家柄の出身でした。政治家としての活動を終えた後は、この旅館の会長を務め、家業の発展にも寄与しました。彼の生涯は、日本のスポーツ界と政治だけでなく、地域の文化的伝統をも支えるものでした。
4.2. 死去
2018年1月21日、保坂司は肺炎のため、甲府市内の山梨県立中央病院で逝去しました。享年80歳でした。彼の死は、日本のサッカー界、地域社会、そして彼の活動を知る多くの人々に惜しまれました。
5. 遺産と評価
保坂司は、その生涯を通じて、日本のサッカー界と地域社会に多大な遺産を残しました。
サッカー選手としては、日本のサッカーがまだ発展途上にあった時代に、古河電気工業サッカー部で数々の天皇杯を獲得し、国内サッカーのレベル向上に貢献しました。また、サッカー日本代表のゴールキーパーとして、国際舞台で日本の名を高めることに尽力し、特に1964年東京オリンピックに選出されたことは、彼の選手としての最高峰の功績の一つです。彼が当時日本代表のレギュラーゴールキーパーを務めていたことは、その技術とリーダーシップが認められていた証拠であり、後の世代のサッカー選手たちにとって大きなインスピレーションとなりました。
引退後、故郷の甲府サッカークラブの監督を務めたことは、地域スポーツの振興に対する彼の深い献身を示しています。彼は単なる元プロ選手に留まらず、地元のサッカーを根付かせ、育成する役割を積極的に担いました。
さらに、山梨県議会議員および議長としての政治活動は、彼の公共サービスへの強い意志を反映しています。彼はスポーツ界での知名度を社会貢献に活かし、地域社会の発展と住民の福祉向上に尽力しました。特に、県議会議長という要職を務めたことは、彼が行政運営と民主的な意思決定プロセスにおいて重要な役割を果たしたことを示しています。
保坂司の生涯は、一人のアスリートが引退後も社会の多様な分野で積極的に貢献し、特に地域コミュニティの発展と民主主義の成熟に尽力した模範的な事例として評価されるべきです。彼は、スポーツと政治という異なる領域を横断しながら、常に公共の利益と社会の進歩を追求した人物として、日本の歴史にその名を刻んでいます。
6. 記録と統計
保坂司のサッカー選手としての記録と統計を以下に示します。
6.1. クラブ成績
所属クラブ | リーグ | 期間 | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|
古河電工 | JSL | 1965-1968 | 47 | 0 |
6.2. 代表成績
保坂司は、サッカー日本代表として国際Aマッチに19試合出場し、0得点を記録しました。
日本 | ||
---|---|---|
年度 | 出場 | 得点 |
1960 | 1 | 0 |
1961 | 6 | 0 |
1962 | 6 | 0 |
1963 | 5 | 0 |
1964 | 1 | 0 |
合計 | 19 | 0 |
国際Aマッチ以外を含む代表戦の合計出場記録は以下の通りです。
国際Aマッチ | その他 | 合計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | |
1960 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
1961 | 6 | 0 | 3 | 0 | 9 | 0 |
1962 | 6 | 0 | 5 | 0 | 11 | 0 |
1963 | 5 | 0 | 7 | 0 | 12 | 0 |
1964 | 1 | 0 | 6 | 0 | 7 | 0 |
1965 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1966 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1967 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 19 | 0 | 27 | 0 | 46 | 0 |
6.3. 主要な国際試合出場記録
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1960年11月06日 | ソウル | 대한민국 축구 국가대표팀韓国代表韓国語 | ●1-2 | デットマール・クラマー(コーチ) | 1962 FIFAワールドカップ・予選 | |
2. | 1961年05月28日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | Malayaマラヤ代表英語 | ○3-2 | 高橋英辰 | 国際親善試合 |
3. | 1961年06月11日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 대한민국 축구 국가대표팀韓国代表韓国語 | ●0-2 | 1962 FIFAワールドカップ・予選 | |
4. | 1961年08月02日 | クアラルンプール | Malayaマラヤ代表英語 | ●2-3 | ムルデカ大会 | ||
5. | 1961年08月06日 | クアラルンプール | India national football teamインド代表英語 | ○3-1 | ムルデカ大会 | ||
6. | 1961年08月10日 | クアラルンプール | Đội tuyển bóng đá quốc gia Việt Nam Cộng hòa南ベトナム代表ベトナム語 | ●2-3 | ムルデカ大会 | ||
7. | 1961年11月28日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ユーゴスラビア代表 | ●0-1 | 国際親善試合 | |
8. | 1962年08月25日 | インドネシア | ทีมชาติไทยタイ代表タイ語 | ○3-1 | アジア競技大会 | ||
9. | 1962年08月29日 | インドネシア | India national football teamインド代表英語 | ●0-2 | アジア競技大会 | ||
10. | 1962年08月30日 | インドネシア | 대한민국 축구 국가대표팀韓国代表韓国語 | ●0-1 | アジア競技大会 | ||
11. | 1962年09月08日 | クアラルンプール | Malayaマラヤ代表英語 | △2-2 | ムルデカ大会 | ||
12. | 1962年09月15日 | クアラルンプール | Myanmar national football teamビルマ代表英語 | ●1-3 | ムルデカ大会 | ||
13. | 1962年09月21日 | シンガポール | シンガポール代表 | ●1-2 | 国際親善試合 | ||
14. | 1963年08月08日 | クアラルンプール | Malaysia national football teamマレーシア代表英語 | ○4-3 | 長沼健 | ムルデカ大会 | |
15. | 1963年08月10日 | クアラルンプール | ทีมชาติไทยタイ代表タイ語 | ○4-1 | ムルデカ大会 | ||
16. | 1963年08月12日 | クアラルンプール | Đội tuyển bóng đá quốc家 Việt Nam Cộng hòa南ベトナム代表ベトナム語 | ○5-1 | ムルデカ大会 | ||
17. | 1963年08月13日 | クアラルンプール | 대한민국 축구 국가대표팀韓国代表韓国語 | △1-1 | ムルデカ大会 | ||
18. | 1963年08月15日 | クアラルンプール | 中華民國足球代表隊中華民国代表中国語 | ●0-2 | ムルデカ大会 | ||
19. | 1964年03月03日 | シンガポール | シンガポール代表 | ○2-1 | 国際親善試合 |
6.4. 監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯 | 天皇杯 | |||
1973 | JSL2部 | 甲府ク | 準優勝 | 18 | 26 | 12 | 2 | 4 | - | 予選敗退 |
1974 | 5位 | 18 | 20 | 8 | 4 | 6 | - | |||
1975 | 7位 | 18 | 14 | 5 | 4 | 9 | - | |||
1976 | 8位 | 18 | 12 | 4 | 4 | 10 | 予選敗退 | |||
1977 | 5位 | 18 | 32 | 6 | 6 | 6 | 予選敗退 |