1. 概要

前園 真聖(まえぞの まさきよ)は、1973年10月29日に鹿児島県薩摩川内市(旧東郷町)で生まれた元プロサッカー選手であり、現在はサッカー解説者やタレントとして多岐にわたる活動を行っている。彼はサッカー日本代表の元選手であり、特に1996年のアトランタオリンピックではU-23日本代表のキャプテンを務め、「マイアミの奇跡」として知られるブラジル戦での勝利に貢献した功労者として広く認識されている。
選手としては横浜フリューゲルスでキャリアをスタートさせ、後にヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)に移籍。ブラジルのサントスFCやゴイアスECでの経験も積み、Jリーグに復帰した。また、Kリーグの安養LGチータース(現在のFCソウル)や仁川ユナイテッドFCでもプレーし、国際的なキャリアを築いた。引退後はビーチサッカー日本代表としても活躍し、AFCビーチサッカー選手権で優勝するなど、異なる分野でも才能を発揮した。
引退後の活動は、サッカー解説やJFAアンバサダーとしての普及活動、少年サッカー教室の運営など多岐にわたる。一方で、過去の飲酒運転や暴行事件といった論争に直面しながらも、真摯な謝罪と反省、そしてアルコール依存症からの回復に向けた努力を通じて、その経験を社会貢献活動に活かしている。特にACジャパンのいじめ防止キャンペーンへの協力や、依存症の理解啓発サポーターとしての活動は、彼が社会的な責任を果たす姿勢を示している。その人間性や、困難を乗り越えて回復する過程が、多くの人々に影響を与えている。
2. 幼少期と背景
前園真聖は1973年10月29日に鹿児島県薩摩郡東郷町(現在の薩摩川内市)で生まれた。彼のサッカーキャリアは幼少期に始まり、プロ入り以前の学生時代に基礎を築いた。
2.1. 幼少期と教育
4歳年上の兄の影響を受けて、小学校入学前からサッカーに親しんだ。東郷小学校の2年生の時に「東郷少年サッカー団」に入団し、5年生の時には県大会でベスト4に進出した。彼はディエゴ・マラドーナに憧れ、そのプレーが収められたビデオを繰り返し見ては、ドリブルの練習に明け暮れる日々を送っていた。
進学した東郷中学校にはサッカー部がなかったため、当初は陸上部に所属していた。しかし、2年生の3学期にサッカー部が創部されると、すぐに転部。3年生になる頃には県選抜にも選ばれるほどの実力を身につけた。
2.2. プロ入り以前の経歴
鹿児島実業高校では1年生時からレギュラーに定着し、高校選手権に3年連続で出場。2年生時の第69回大会では、チームを準優勝に導いた。高校時代の同期には、遠藤三兄弟の長男である遠藤拓哉や藤山竜仁、仁田尾博幸らがいた。また、2学年下には後にアトランタオリンピック日本代表でチームメイトとなる城彰二と遠藤彰弘がいた。
3. クラブ経歴
前園真聖のプロサッカー選手としてのキャリアは、日本国内のクラブだけでなく、ブラジルや韓国のクラブでの経験も含まれる多岐にわたるものであった。
3.1. 横浜フリューゲルス時代
1992年、前園はJリーグの横浜フリューゲルスに加入し、プロとしての第一歩を踏み出した。しかし、1年目は当時の監督加茂周が目指すゾーンプレスサッカーへの適応に苦戦し、持ち味を発揮できないままサテライトチームで過ごした。Jリーグ初年度の開幕を控えた1993年前半には、アルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタへ2か月間の短期留学を経験した。
1993年6月5日のJリーグ・ヴェルディ川崎戦で、延長後半4分から途中出場し公式戦デビューを果たすと、同年7月10日の横浜マリノス戦では決勝ゴールを決め、Jリーグ初ゴールを記録した。1993年のJリーグでは24試合に出場し2得点を挙げ、第73回天皇杯では決勝戦に先発出場。ドリブル突破からPKを奪取するなど活躍し、チームの初タイトル獲得(天皇杯優勝)に貢献した。
1994年にはリーグ戦で8得点を挙げ、レギュラーの座を不動のものとした。1995年も主軸として活躍し、3月22日のベルマーレ戦では巧みなボレーシュートで決勝点を決めた(小島伸幸はこのゴールを、自身のキャリアで決められたスーパーゴールの中で4位に挙げている)。4月15日のセレッソ大阪戦で決めた、相手ディフェンダー2人とゴールキーパーをかわして決めたゴールは、前園自身がキャリアにおけるベストゴールと称しており、Jリーグ30周年ベストゴールのテクニカル部門にもノミネートされた。この年、前園は40試合に出場し7得点を記録した。
初めて1シーズン制を導入した1996年のJリーグでは、ブラジルトリオ(ジーニョ、サンパイオ、エバイール)や山口素弘、三浦淳宏らと共にチームの中心選手として躍動。開幕から8連勝を飾り、前半戦を首位で折り返すなど、初のリーグ優勝のチャンスを迎えた。しかし、後半戦は勢いを維持できず、最終的には3位に終わった。このシーズン、前園はリーグ戦とカップ戦を合わせて15ゴールを決めるなど、チームの躍進に大きく貢献し、同年のJリーグベストイレブンにも選出された。
1996年6月にはスペインのセビージャの関係者が来日し、横浜フリューゲルスに対し前園獲得を打診していた。
3.2. ヴェルディ川崎およびブラジルでの期限付き移籍
1996年のアトランタオリンピックでU-23日本代表の主将を務めた経験により、前園の海外志向はさらに強まった。1996年シーズン後の契約更改では、日本サッカー界で初めて代理人を立てて交渉に臨んだが、これは当時大きな批判を浴びた。横浜フリューゲルス側は、移籍金満額(推定3.50 億 JPY)が支払われる場合にのみ海外移籍を認めるとの姿勢を崩さず、交渉は難航した。セビージャ以外にも複数のクラブが横浜フリューゲルスに接触していたが、その情報が前園本人に一切伝えられなかったことが後に判明し、彼はクラブへの不信感を募らせていった。
「フリューゲルスに残ることも、ましてやJリーグの他のチームへ行くこともまったく考えてなかった」と語る前園であったが、三浦知良の国外移籍を容認した実績を持つヴェルディ川崎が獲得を希望。移籍交渉期限最終日である1997年1月31日に、ヴェルディ川崎への移籍が発表された。ヴェルディ川崎が横浜フリューゲルスに支払った移籍金は当時Jリーグ史上最高額の推定3.50 億 JPYと報じられたが、実際にはクラブ間の交渉により2.00 億 JPYから2.50 億 JPYほどに減額されたとされる。前園は移籍記者会見で、ヴェルディ川崎が国外移籍を容認したことを移籍理由の一つに挙げた。ヴェルディ川崎の新監督である加藤久は、日本サッカー協会強化委員長時代にオリンピック代表チームをサポートしており、以前から前園を高く評価していた人物であった。
- ヴェルディ川崎時代(1997年 - 1998年)**
大きな期待を集めての移籍であったが、ヴェルディ川崎でのプレーでは気迫が感じられず、精彩を欠いた。次第に先発メンバーから外れ、途中出場の試合が増加した。この時期に多くのテレビコマーシャルに出演していたこともあり、プレーの不振と相まって批判された。チームも怪我人が多く、前園の不振も続き成績が振るわなかったため、1stステージ途中に加藤久監督は解任された。
前園はこの時期の不振について、夢だったスペイン移籍が叶わなかったことで気持ちが切れ、精神的な不調がプレー全体に悪影響を及ぼしたと振り返っている。当時の移籍騒動により、人間不信に陥ったとも述べている。
- ブラジル時代(1998年 - 1999年)**
1998年10月、前園は3か月間の期限付き移籍でブラジルの名門クラブ、サントスFCに加入した。元々はネルシーニョ率いるサンパウロFCへの移籍話が進んでいたが、ネルシーニョの解任により頓挫し、代わりにエメルソン・レオンが監督を務めるサントスへの移籍が決まった。
10月18日、ブラジル全国選手権のポルトゥゲーザ戦に65分から途中出場し、直後の66分に初ゴールを決めた。しかし、その後は出場試合数・時間は少なく、公式戦4試合出場1得点にとどまった。それでも前園本人はサントス時代を「フルで出た試合はひとつもなかったけど、ベンチにいてもすごくワクワクしてた。サッカーをやってる、という充実感があった」と振り返っている。
1999年もサントスでの期限付き移籍期間延長を予定していたが、サントスが菅原智の獲得を決めたため「日本人は二人もいらない」として前園との契約を見送った。同年1月25日、ゴイアスECへの期限付き移籍が発表された。ゴイアスでは3月3日のデビュー戦で先発フル出場し1アシストを記録。移籍当初はコンスタントに出場を重ねていたが、監督の構想に合わず次第に出場機会を失い、契約満了前に帰国した。
その後、移籍を前提としてポルトガルのヴィトーリア・ギマランイス、ギリシャのPAOKサロニカに練習参加したが、最終的に本契約には至らなかった。ギマランイスではヴェルディ川崎が求めていた1.00 億 JPYの移籍金が交渉のネックになったという。
3.3. Jリーグ復帰
2000年、加藤久監督の招聘により、この年からJ2に降格した湘南ベルマーレに期限付き移籍し、Jリーグに復帰した。湘南のJ1再昇格の切り札として期待され、9月3日のベガルタ仙台戦ではプロ入り後初のハットトリックを決めるなど活躍を見せたが、チームは8位に終わり、再昇格は果たせなかった。しかし、前園は引退後にこのシーズンを「チームとしても僕個人も結果を出すことはできなかったけど、40試合近く試合をやったことでコンディションを取り戻すことができました。あれがなければ選手寿命はもっと短くなっていたと思います」と振り返っている。
2001年、保有権を持つJ1の東京ヴェルディ1969に半年契約で3年ぶりに復帰した。7月に松木安太郎が解任され小見幸隆が監督に就任すると、前園はそれまでよりも重用されるようになった。同年9月15日、2ndステージ第5節の横浜F・マリノス戦の前半35分、ゴール前への飛び出しから先制点を奪った際、横浜F・マリノスのゴールキーパー川口能活との接触を避けようと引いた左足がピッチに引っ掛かり足首を骨折した。これにより長期離脱を余儀なくされ、そのまま2001年シーズンを終えることとなり、結果的にこれがJリーグでの最後の試合出場となった。
2002年7月、前園、西田吉洋、石塚啓次の3選手がロリ監督の構想外となり、戦力外通告を受けたとメディアに報じられた。スポーツ新聞には、ロリが以前から3選手の練習態度に不満を持っており、改善を求めたが聞き入れられなかったために戦力外になったという東京V関係者の談話が掲載された。しかし、前園はこの処遇に対し「新聞にはそうやって出てましたけど、僕からすれば明確な理由も納得できる説明もなかったですよ。練習態度と言われても、僕はリハビリ中だから、ロリが監督になってからずっと練習に参加できていたわけじゃない。それなのに、『もう使うつもりはないから、離れて練習してくれ』っていきなり言われて、3人で練習ですよ。(...)いったい何が問題だったのか、いまでもまったく分からない」と反駁している。
3.4. Kリーグ時代
東京ヴェルディを退団後、前園は知人を通じて韓国のKリーグのクラブへの移籍を模索した。最初に練習に参加した城南一和天馬では「体力的な問題」から契約を見送られたが、次の安養LGチータースでは趙廣來監督に評価されて契約に至った。安養ではリーグ開幕戦から10試合連続で先発出場を果たしたが、シーズン途中以降はメンバーから外れるようになった。Kリーグ時代の登録名は「前園」(마에조노マエゾノ韓国語)であった。
2004年にはKリーグの新クラブである仁川ユナイテッドFCと契約を結んだ。前園はカップ戦を中心に起用され、8月1日のFCソウル戦では韓国における公式戦初ゴールをPKで決め、これがこの試合の決勝点となった。しかし、左足薬指の骨折により3か月以上戦線離脱し、11月に入ってから復帰した。2004年末で契約が解除された。
3.5. 引退
2005年、セルビア・モンテネグロ1部リーグのOFKベオグラードに1か月間練習参加したが、本契約には至らなかった。そして同年5月19日に、現役引退を正式に表明した。
4. 日本代表経歴
前園真聖の日本代表としてのキャリアは、オリンピック代表としての活躍とA代表での経験に分けられる。
4.1. オリンピック代表
1994年1月、西野朗監督率いるU-21日本代表(1996年のアトランタオリンピック出場を目指すチーム)の第1回合宿に招集された。1995年1月のオーストラリア国際トーナメント参加時に西野監督から指名され、キャプテンに就任。前園はそれまでのサッカー人生でキャプテンを任された経験がなく、西野も彼の性格はリーダー向きではないと分析していたものの、時に独りよがりなプレーに走りがちな前園にあえてキャプテンを任命することで、彼にチーム全体を意識したプレーをさせることを意図したと語っている。
前園はすでにA代表にも招集され、2つの代表チームを掛け持ちしていたが、1995年3月に前園本人の意向も汲み取った上で、オリンピック代表を優先する方針が決まった。1995年5月から6月にかけてタイと日本で行われたアトランタオリンピック・アジア一次予選に出場し、日本は4戦全勝で翌年の最終予選進出を決めた。1996年3月、マレーシアで行われたアトランタオリンピック・アジア最終予選に出場。3月24日の準決勝サウジアラビア戦で2ゴールを挙げ勝利に貢献し、日本を1968年メキシコシティ大会以来、7大会(28年)ぶりのオリンピック本大会出場権獲得に導いた。
同年7月、アメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピック本大会に出場。日本はグループリーグ初戦で金メダル候補のブラジルから大金星を挙げ、この試合は「マイアミの奇跡」として知られる。3戦目のハンガリー戦では前園が2ゴールを決め、3-2で勝利した。日本はナイジェリア、ブラジルと勝ち点6で並んだが、得失点差で決勝トーナメント進出を逃した。
4.2. A代表
サッカー日本代表監督ファルカンに抜擢され、1994年5月22日、キリンカップのオーストラリア戦で国際Aマッチデビューを果たした。同年10月の広島アジア大会でも全試合にフル出場した。その後しばらくの間、オリンピック代表に集中するため、A代表の招集を辞退した。
1996年8月25日、アトランタオリンピック出場を終えてフル代表に復帰した初戦のウルグアイ戦で、フリーキックから日本代表初ゴールを決めた。同年12月にはアジアカップUAE大会に出場。グループリーグ第2戦のウズベキスタン戦では、直接FKからゴールを決め、さらに巧みなボールコントロールから相手をかわしてゴールを奪うなど活躍した。しかし、準々決勝のクウェート戦では精彩を欠き、前半のみで途中交代を命じられた。試合は0-2で敗れ、日本はベスト8で大会を終えた。
1997年、移籍騒動の影響で精彩を欠くようになり、3月のワールドカップ・フランス大会アジア一次予選オマーンラウンドのメンバーに召集されたものの、出場機会は与えられなかった。これ以降、彼は日本代表から外れることになった。日本代表での最後の出場は、1997年3月15日にバンコクで行われたタイとの親善試合(1-3で日本が敗北)であった。
その後、前園と入れ替わるように中田英寿が代表入りする形となり、中田とはA代表で共にプレーすることはなかった。
5. ビーチサッカー経歴
選手引退後、前園はビーチサッカー日本代表に選出された。これは、ヴェルディ川崎時代のチームメイトであったラモス瑠偉が監督を務めるチームであった。2009年10月にはポルトガル代表との親善試合に2試合出場した。
日本代表は2009 FIFAビーチサッカーワールドカップアジア予選で優勝し、本大会にも出場を果たした。これにより、前園はサッカーとは異なる形ではあるが、ワールドカップ出場を経験することとなった。
6. 引退後の活動
前園真聖は現役引退後、多岐にわたる分野で活動を展開している。
6.1. サッカー解説者および指導者としての活動
引退後、前園はテレビ東京や日本テレビの高校サッカー選手権中継などに出演するサッカー解説者として活躍している。また、少年サッカーの普及促進活動にも積極的に参加しており、2007年からはJFAアンバサダーとしても活動している。
2006年8月には、サッカー普及活動の一環として、幼稚園児から小学生までを対象とした「ZONOサッカースクール」を立ち上げ、後進の育成にも力を入れている。2008年には中田英寿が設立した元サッカー選手で構成されるサッカーチーム「TAKE ACTION FC.」の一員となった。2012年にはJFA 公認S級コーチライセンスを取得し、指導者としての専門性も高めている。
6.2. メディアおよびエンターテイメント活動
前園はスポーツ関連の活動と並行して、メディアやエンターテイメント分野でも幅広く活躍している。2014年6月22日からはフジテレビ系『ワイドナショー』に、サッカー関連番組以外で初めてレギュラー出演を開始した。この番組では、松本人志らから飲酒トラブルや私生活などをたびたびからかわれているが、毎回過度に緊張するため、おかしな受け答えになることが多い。そのユニークなキャラクターが注目を集め、以後バラエティ番組への出演が増加した。
その他、TOKYO MXの『菊地亜美の女子力向上委員会』や『バラいろダンディ』、NOTTVの『SPA!監修 秘密のゾノ』では司会やレギュラーを務めた。日本テレビの『おはよう忍者隊ガッチャマン』などのアニメでは本人役で声優を務め、2016年には映画『アングリーバード』で日本語吹替版の声優にも初挑戦した。
6.3. CM
前園は現役時代から引退後にかけて数多くのCMに出演している。
- ナイキ 「サッカー維新」(小倉隆史、北澤豪、中西永輔と共演)
- ナイキ(単独出演)
- ブルボン 「DEWAウォーター」「IONウォーター」「ツイスター」
- 日清食品 「ラ王」(1996年、中田英寿と共演)
- ACジャパン(1996年、公共広告機構時代)
- 大正製薬 「リポビタンD」(1996年)
- アステル東京 「PHS」(1996年、BEGINと共演)
- マンダム 「ASI's」(1997年)
- 日本スポーツ振興センター 「toto」(2011年、2012年、中西永輔、名良橋晃と共演)
- 大山酒造合名会社「伊佐大泉」(2015年)
- コロプラ 「白猫プロジェクト」(2015年 - 、松木安太郎、福田正博、じゅんいちダビッドソン、桜井日奈子と共演)
- スクウェア・エニックス スマホゲーム「星のドラゴンクエスト」(2017年、ラモス瑠偉、北沢豪、小野伸二と共演)
- ユニバーサルホーム(2019年 - )
- Jリーグ「ネットいじめ、カッコ悪い。」(2021年、YouTube限定)
6.4. 社会貢献と論争
前園は社会貢献活動にも積極的に取り組む一方で、過去に世間に知られた論争も経験している。
6.4.1. 社会貢献
JFAアンバサダーとして、全国各地でサッカー普及活動やJFAこころのプロジェクト「夢の教室」での活動を通じて、子どもたちに夢や希望を伝えている。
1996年には公共広告機構(現:ACジャパン)のいじめ防止キャンペーンに全面的に協力した。この際の発言「いじめ問題のことなんだけど。別にみんな型にはまることはないし、カッコつけてもいいと思う。俺もそうだった。でも俺、いじめなんかしたことなかったよな。だって恥ずかしいだろ。誰か泣かしたり。昔からカッコ悪いことだけはしたくなかったし。いじめは最低だよ。カッコ悪いよ。」は、用意された台詞ではなく前園自身の言葉であり、いじめという行為を「みっともないもの、恥ずべきもの」という視点で捉え、反響を呼んだ。
2016年には「Bリーグ」の特命広報部長に就任し、バスケットボールの普及にも貢献。同年2月末には、出身地である鹿児島県薩摩川内市が観光大使に「再指名」した(スポーツ大使を一度辞任したため)。
過去の飲酒トラブルを契機に、アルコール依存症からの回復を目指す自助グループへの協力や、依存症の理解啓発活動にも携わっており、自身の経験を社会に還元している。
6.4.2. 公開された論争と回復
2013年10月13日、前園は酒に酔ってタクシー運転手に暴行を加えた容疑で逮捕された。翌10月14日には処分保留で釈放され、同日謝罪会見を行い、テレビ東京系『neo sports』などテレビ番組の出演自粛を表明した。10月15日にはJFAこころのプロジェクトの活動停止処分を受け、11月15日には出身地である鹿児島県薩摩川内市のスポーツ大使を辞任した。
この事件は大きな波紋を呼んだが、前園はその後、自身の飲酒問題に真摯に向き合った。2014年のフジテレビ系『ワイドナショー』への出演を契機に、再びタレント活動を開始。番組内で自身の過去の過ちを赤裸々に語り、アルコール依存症からの回復を目指す自助グループへの協力や啓発活動に積極的に関わるようになった。この過程を通じて、彼は社会的な信頼を徐々に回復していった。
2015年7月5日には『ワイドナショー』で「なでしこジャパンが(2015 FIFA女子ワールドカップで)優勝できなかったら丸刈りします」と公約し、結果が準優勝だったため、7月12日放送の同番組で丸刈り姿を披露した。
7. 私生活とエピソード
前園真聖の私生活と、そのキャリアを通じて特筆すべきエピソードについて述べる。
7.1. 私生活
2017年12月24日、前園は10年間交際を続けていた34歳のダンサーとの結婚を発表した。
7.2. 特筆すべきエピソード
- ラ王ラーメンのエピソード**: AFCアジアカップ1996遠征に際し、当時CM出演していた日清食品のラ王を大量に持ち込んだ。当時の海外遠征では食事面をはじめ選手のサポートが不足しており、慣れない食事で疲弊していた選手たちは、夕食後には決まって前園の部屋へ殺到し、ラ王を奪い合う光景が常であった。後年になって名波浩は「食事はつらかった。ゾノのラ王でなんとか凌げた。本当にそのくらいつらかった」と振り返っている。この大会の惨敗をきっかけに、以降の日本代表の海外遠征では日本人シェフを同行させるなど、サポート体制が充実していくことになった。
- ホノルルマラソン完走**: 2006年のホノルルマラソンに参加し、5時間43分で完走を果たした。
- 珍しい名前の由来**: 「真聖」という名は両親がクリスチャンであることに由来するが、彼自身はクリスチャンではない。
- ワイドナショーでの活躍**: 2014年6月22日より『ワイドナショー』(フジテレビ)にレギュラー出演しており、飲酒トラブルや私生活などを松本人志らによくからかわれている。他の出演番組以上に毎回過度に緊張していることから、おかしな受け答えになることも多いが、そのユニークさがバラエティ番組への出演増加につながっている。
- ユニフォーム交換の習慣**: 選手時代は対戦相手と試合後にユニフォーム交換をした際に、ユニフォームに汗や匂いがついているため、持ち帰らずロッカールームに置いて帰っていたと発言している。アトランタオリンピックのブラジル戦でロベルト・カルロスとユニフォーム交換した際も、同様にロッカールームに置いて帰ったという。
- 高野山での奇跡**: NHK-BSで放送された『もっと四国「前園真聖 自転車へんろ旅 お礼参り編」』にて高野山壇上伽藍を訪れた際、三鈷杵にちなんだ縁起物とされる三鈷の松から落ちた三枚の松葉を立て続けに二つ発見し、案内した僧侶に「最速」と評された。
8. 受賞と栄誉
前園真聖が選手時代または引退後に受賞した主な個人およびチームの賞と栄誉は以下の通りである。
- 個人**
- Jリーグベストイレブン:1996年
- チーム**
- 横浜フリューゲルス**
- 第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会:1993年 優勝
- アジアカップウィナーズカップ:1994-95 優勝
- ゴイアスEC**
- ゴイアス州選手権:1999年 優勝(優勝決定時には退団)
- 日本ビーチサッカー代表**
- AFCビーチサッカー選手権:2009年 優勝
- 横浜フリューゲルス**
9. キャリア成績
9.1. クラブ成績
クラブ成績 | リーグ | カップ | リーグカップ | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | 合計 | ||||||
1992 | 横浜フリューゲルス | J1リーグ | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1993 | 24 | 2 | 5 | 1 | 5 | 0 | 34 | 3 | ||
1994 | 38 | 8 | 2 | 0 | 2 | 0 | 42 | 8 | ||
1995 | 40 | 7 | 2 | 0 | - | 42 | 7 | |||
1996 | 26 | 8 | 2 | 0 | 11 | 7 | 39 | 15 | ||
1997 | ヴェルディ川崎 | J1リーグ | 28 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 30 | 5 |
1998 | 22 | 3 | 0 | 0 | 2 | 1 | 24 | 4 | ||
ブラジル | リーグ | コパ・ド・ブラジル | リーグカップ | 合計 | ||||||
1998 | サントス | セリエA | 5 | 1 | - | - | 5 | 1 | ||
1999 | ゴイアス | セリエB | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||
日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | 合計 | ||||||
2000 | 湘南ベルマーレ | J2リーグ | 38 | 11 | 3 | 2 | 2 | 0 | 43 | 13 |
2001 | 東京ヴェルディ | J1リーグ | 13 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 15 | 1 |
2002 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
韓国 | リーグ | FAカップ | リーグカップ | 合計 | ||||||
2003 | 安養LGチータース | Kリーグ | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 0 |
2004 | 仁川ユナイテッド | Kリーグ | 4 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 13 | 1 |
国 | 日本 | 229 | 45 | 16 | 3 | 24 | 8 | 269 | 56 | |
ブラジル | 5 | 1 | - | - | 5 | 1 | ||||
韓国 | 20 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 29 | 1 | ||
合計 | 254 | 46 | 16 | 3 | 33 | 9 | 303 | 58 |
9.2. 日本代表成績
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1994 | 6 | 0 |
1995 | 4 | 0 |
1996 | 7 | 4 |
1997 | 2 | 0 |
合計 | 19 | 4 |
9.3. 日本代表ゴール
日本代表戦における前園真聖の得点記録は以下の通り。
# | 開催日 | 開催地 | 会場 | 対戦相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1996年8月25日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | ウルグアイ | 5-3 | 国際親善試合 |
2 | 1996年10月13日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | チュニジア | 1-0 | プーマカップ |
3 | 1996年12月9日 | アル・アイン | ウズベキスタン | 4-0 | AFCアジアカップ1996 | |
4 |
10. 所属クラブ
- 1992年 - 1996年: 横浜フリューゲルス
- 1997年 - 2002年: ヴェルディ川崎 / 東京ヴェルディ
- 1998年途中 - 1998年末: サントスFC(期限付き移籍)
- 1999年: ゴイアスEC(期限付き移籍)
- 2000年: 湘南ベルマーレ(期限付き移籍)
- 2003年: 安養LGチータース
- 2004年: 仁川ユナイテッドFC
11. 主な発言
- 1996年3月24日のアトランタオリンピックアジア最終予選サウジアラビア戦後のインタビューにて、以下の発言をした。「皆の力と、応援した(してくれた)皆のおかげだと思います。本当に、感謝してます。」「ここまでずっと、チームの皆、スタッフも含めて一丸と(なって)支えてくれたので、そのおかげだと思います。本当に感謝してます。」「非常に苦しかったですけど、応援してくれた皆とチームの皆のおかげだと思います。」
- 1996年、ACジャパンのいじめ防止キャンペーンに協力した際、「いじめ問題のことなんだけど。別にみんな型にはまることはないし、カッコつけてもいいと思う。俺もそうだった。でも俺、いじめなんかしたことなかったよな。だって恥ずかしいだろ。誰か泣かしたり。昔からカッコ悪いことだけはしたくなかったし。いじめは最低だよ。カッコ悪いよ。」と発言した。これは用意された台詞ではなく前園自身の言葉であり、いじめという行為を「みっともないもの、恥ずべきもの」という視点で捉え、反響を呼んだ。
12. 著書
- 『DVDでうまくなる!少年サッカー-基本・練習・指導法』(2008年5月、西東社)
- 『個の力を伸ばす!サッカーの技術と考え方(DVD付き)』(2008年10月、池田書店)
- 『本格ドリブラー養成講座-プロでも間違う「ドリブル」の基本』(2015年5月、東邦出版)
13. 主な出演
13.1. スポーツ番組
- メガスポ! → neo sports(テレビ東京)
- toto&JリーグTV(スカイパーフェクTV!)
- 戦え!スポーツ内閣(毎日放送、2016年10月5日 - ) - サッカー大臣(準レギュラー)
- Football TimeLine(スカパー!)
- サッカーの園~究極のワンプレー~(NHK BS1)
13.2. 情報番組
- ワイドナショー(フジテレビ、2014年6月22日 - )
- ひめポン!内コーナー、前園真聖の自転車へんろ旅(NHK松山、2017年5月31日 - 2018年度)
- 前園真聖しこく絶景たび(NHK松山、2019年度 - 2021年度)
- 前園真聖 四国ともたび(NHK松山、2022年度 - )
13.3. バラエティ番組
- おはよう忍者隊ガッチャマン → マジンガーZIP! → グッド・モーニング!!!ドロンジョ(日本テレビ) - 本人役(声の出演)
- バイキング(フジテレビ、2015年1月16日 - 2015年2月6日) - 金曜日コーナーレギュラー
- 菊地亜美の女子力向上委員会(TOKYO MX、2015年4月 - ) - レギュラー
- SPA!監修 秘密のゾノ(NOTTV、2015年7月 - 2016年3月) - 司会
- バラいろダンディ(TOKYO MX、2016年4月 - ) - 木曜隔週レギュラー
13.4. 教育番組
- 旅するためのスペイン語(2022年10月 - 、NHK Eテレ)- 旅人
13.5. ラジオ番組
- MIRACLE WORDS!(ジャパンエフエムネットワーク)
- 篠園音楽堂(JFN、2016年10月 - 2019年3月)
- 丸園音楽堂(JFN、2019年4月 - )
13.6. テレビドラマ
- 問題のあるレストラン 第6話(2015年2月19日、フジテレビ) - 本人役
13.7. 劇場アニメ
- アングリーバード(2016年、日本語吹替版) - ジョニー / ピッグセブン 役
13.8. その他番組
- ネプリーグ(フジテレビ、2014年、2015年、2016年に複数回出演)
- ぼくらはマンガで強くなった~SPORTS×MANGA~(NHK BS1、2017年11月24日) - ゲスト出演
- 紙兎ロペ(フジテレビ、2017年10月6日) - 『ヘイヘイパスおじさん』紙イノシシ役