1. 概要
加賀一郎(かが いちろう)は、日本の短距離陸上競技選手であり、引退後は陸上競技指導者、そしてスポーツ行政官として日本のスポーツ界に多岐にわたる貢献をした人物です。彼は1898年に大阪で生まれ、1946年に東京都で死去しました。選手としては、1920年アントワープオリンピックに100メートル競走と200メートル競走で出場し、1921年の日本陸上競技選手権大会200メートル競走で優勝するなど、国内外の主要大会で活躍しました。
引退後は、西武鉄道、読売新聞、常磐生命保険といった企業に勤務する傍ら、日本陸上競技連盟の役員、1932年ロサンゼルスオリンピックや1936年ベルリンオリンピックの日本選手団役員、明治大学競走部監督などを歴任し、日本の陸上競技の発展に尽力しました。また、東京市の公職に就き、1940年東亜競技大会では設備部長を務め、プロ野球チームの指導も行いました。彼の功績は没後も評価され、1948年度には日本陸上競技連盟功労章が授与されています。衆議院議員を務めた父の加賀卯之吉、松竹常務の弟加賀二郎、そして女優の加賀まりこを姪に持つなど、著名な親族を持つことでも知られています。
2. 生涯
加賀一郎の個人的な背景、学歴、初期の競技歴、そして彼の人物像について記述します。
2.1. 出生と家族
加賀一郎は1898年(明治31年)に、衆議院議員を務めた加賀卯之吉の長男として生まれました。生母は大阪府出身の山田ひさよで、一郎は庶子にあたります。出生地は大阪府とされています。
彼の正確な生年月日については複数の異なる記録が存在します。海外のスポーツ関連ウェブサイト「Olympedia」では6月10日と記載されていますが、加賀が生きていた時代の1937年に刊行された『人事興信録 第11版 上』では「明治三十一年八月」、1933年の『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』や1942年の『東京市職員名鑑』では「明治31.8.30」(8月30日)と記載されています。
2.2. 学歴と初期の競技歴
加賀は兵庫県立伊丹中学校に在籍しており、1932年に刊行された同校の創立30周年記念誌には「本校運動部の生める選手」として名前が挙げられています。また、1923年の雑誌の読者質問欄への回答でも、出身中学が「伊丹中」と記載されています。さらに、神戸新聞の記事では、加賀が旧制伊丹中学校野球部の先輩であったと記されています。一方で、1934年に刊行された弓館小鰐の『スポーツ人国記』には、「堺中学時代野球の選手であった」という異なる記述も存在します。
その後、明治大学に進学し、そこで陸上競技の短距離走に転向したとされています。在学中の1920年にはアントワープオリンピックの陸上競技に出場し、100メートル競走と200メートル競走の2種目に参加しました。1922年(大正11年)には、明治大学商科を卒業しています。
大学卒業後の1923年には、志願兵として歩兵第1連隊に入営していたことが当時の文献に記されています。当時の『軍事警察雑誌』の記事には、加賀が「極東オリンピックに出場せしむる」と記載されていましたが、実際には同年の第6回極東選手権競技大会の代表選手には選ばれませんでした。
2.3. 人物像
加賀一郎は、当時の日本の短距離走選手としては珍しい長身の持ち主でした。その身長は5尺8寸(約176 cm)でした。現役引退後には、「スプリント型には代表的な体質の持ち主」であったにもかかわらず、「将来を嘱望されつつも、十分にその力を発揮することなく競技選手としての生活を退いた」と評されています。
また、陸上競技評論家の川本信正が1940年の雑誌に記した逸話によると、加賀が明治大学のコーチを務めていた頃、箱根駅伝の伴走車であるサイドカーから転落し、「股間の貴重品を半ばつぶしてしまった」という事故に見舞われたとされています。
3. 競技者としてのキャリア
加賀一郎の選手時代に焦点を当て、彼の主な成績と重要な大会への参加記録を詳細に記述します。
3.1. オリンピック出場
加賀一郎は、明治大学に在学中の1920年アントワープオリンピックに日本代表選手として出場しました。この大会では、男子100メートル競走と男子200メートル競走の2種目にエントリーし、国際舞台での競技に挑みました。
3.2. 国内外の主要大会
1921年(大正10年)には、日本陸上競技選手権大会の200メートル競走において、23秒6の記録で優勝を飾りました。同年開催された第5回極東選手権競技大会(開催地:中華民国上海市)では、100ヤード競走と220ヤード競走の2種目で3位に入賞しました。
1925年(大正14年)にフィリピンマニラで開催された第7回極東選手権競技大会には、2大会ぶりに代表選手として参加しました。この大会では100メートル競走に出場しましたが、4位に終わり入賞は果たせませんでした。当時の新聞報道によると、加賀は当初、代表選手ではない視察員として選手団と行動を共にしていましたが、マニラ到着前の上海での練習で好成績を示したため、コーチ会議によって急遽代表選手に加えられたとされています。
4. 引退後の活動と貢献
選手生活引退後に彼が担ったスポーツおよび公共サービス分野における多様な専門的役割と貢献を詳細に説明します。
4.1. 職歴・企業活動
大学卒業後、加賀は様々な企業で職務に携わりました。弓館小鰐の『スポーツ人国記』によると、彼はかつての西武鉄道(旧社)に所属し、1927年開場の上井草競技場の設計を担当したとされています。また、1929年3月には、上井草競技場の運営を担っていた西武鉄道から「神田美津野運動具店」(現在のミズノの前身とされる「美津濃」の誤記の可能性が高い)へ移籍したことが、同年の雑誌記事に記されています。同じ1929年には読売新聞運動部の客員記者にも就任しました。
その後、常磐生命保険会社に勤務しました。1932年当時、常盤生命保険には加賀の他にも、長距離走選手の津田晴一郎や十種競技選手の斎辰雄といった陸上競技選手が所属していました。
4.2. コーチ・役員としての活動
加賀一郎は、選手としてのキャリアを終えた後も、日本の陸上競技界において重要な指導者および行政官の役割を担いました。彼は日本陸上競技連盟の役員を務めました。
国際大会では、1932年ロサンゼルスオリンピックに日本陸上競技連盟の嘱託役員として参加し、1936年ベルリンオリンピックにも日本代表選手団の役員として参加しました。
また、1940年2月には、母校である明治大学競走部の監督に就任し、後進の指導にあたりました。
4.3. 公職・その他の活動
加賀は公職にも就き、1938年当時は東京市の嘱託を務めていました。1942年刊行の『東京市職員名鑑』には、市民局体力課の「講師」として記載されており、東京市への入庁は1936年(昭和11年)6月7日と明記されています。この時期に東京市市民局体力課に所属していたことは、同年出席した座談会の雑誌記事でも言及されています。
1940年に開催された東亜競技大会では設備部長に就任しましたが、就任直後に胃潰瘍で倒れたため、実際の業務は別の人物が担当することになりました。
さらに、戦前にはプロ野球チームのキャンプに指導者として複数回招かれました。具体的には、1937年には東京巨人軍に、1941年には阪急軍にそれぞれ招かれ、指導を行いました。
5. 死去と死後の評価
彼の死去の経緯と、死後に受けた栄誉または認識を記述します。
5.1. 死去
加賀一郎は、1946年(昭和21年)11月5日に自宅で療養中に死去しました。享年49歳(満48歳没)でした。
5.2. 死後の評価と栄誉
加賀一郎の死去後、彼の陸上競技界への貢献は高く評価され、1948年度には日本陸上競技連盟から功労章が授与されました。
6. 親族
彼の広範な家族構成について包括的な概要を提供し、著名な家族を強調します。
6.1. 直系家族
加賀一郎の父は、衆議院議員を務めた加賀卯之吉です。母は大阪府出身の山田ひさよでした。
彼には実弟が2人います。一人は松竹常務、歌舞伎座専務および歌舞伎座映画プロデューサーを務めた加賀二郎です。もう一人は大映プロデューサーであった加賀四郎です。
また、加賀一郎には長女の加賀美子がいましたが、美子は1936年8月11日に13歳で死去しています。
6.2. その他の著名な親族
加賀一郎の親族には、他にも著名な人物がいます。甥にはテレビプロデューサーで、元日本テレビに勤務していた加賀義二がいます。また、姪には女優の加賀まりこがいます。彼女は実弟である加賀二郎の娘にあたります。