1. 生い立ちとユース経歴
北本久仁衛は、奈良県奈良市で生まれ育ち、幼少期からサッカーに親しんだ。
1.1. 生誕と幼少期
1981年9月18日、奈良県奈良市に生まれた。幼少期からサッカーを始め、地元奈良で少年時代を過ごした。
1.2. ユースクラブ経歴
北本久仁衛は、1989年から1993年まで奈良市立登美ヶ丘小学校の登美ヶ丘サッカークラブに所属した。その後、1994年から1996年には奈良市立登美ヶ丘北中学校で、1997年から1999年には奈良育英高校でプレーし、アマチュア時代からその才能を育んだ。
2. 選手経歴
プロサッカー選手としてのキャリアは、主にJリーグのヴィッセル神戸で長きにわたり、その後タイリーグでもプレーした。
2.1. ヴィッセル神戸時代
高校卒業後の2000年、J1リーグのヴィッセル神戸に加入しプロキャリアをスタートさせた。2001年にデビューを飾り、2002年にはセンターバックのレギュラー選手として定着した。長年にわたりヴィッセル神戸の守備を支え、クラブの象徴と評されるほどその存在感は絶大であった。
主にセンターバックを務め、ディフェンスリーダーとしてチームを牽引したが、2006年には右SBも任され、プレーの幅を広げた。また、攻撃の起点としても重要な役割を担い、2009年10月3日の京都サンガF.C.戦では、自身の通算200試合出場を祝う豪快なダイレクトボレーで得点を挙げた。
ヴィッセル神戸は2006年にJ2リーグに降格するが、北本はJ1クラブからのオファーがあったにもかかわらず、神戸に残留する道を選んだ。2007年から2010年までの4シーズンは副主将を務め、チームを精神的にも支えた。2011年シーズンは全試合に出場し、自身初の2試合連続得点も記録した。翌2012シーズンもレギュラーとしてプレーを続けた。
しかし、2013年1月にメディカルチェックで肋骨に腫瘍が見つかり、同年3月に手術を行った。この腫瘍は悪性であったものの、半年後には見事に実戦復帰を果たし、J2リーグ第32節のギラヴァンツ北九州戦でピッチに戻った。クラブは2012年末に再びJ2へ降格するが、1年でJ1へ復帰。しかし、2013年シーズン以降は、プレー機会が減少していった。北本は2018年シーズン終了後、19年間在籍したヴィッセル神戸を退団した。
2.2. タイリーグでの活動
ヴィッセル神戸を退団した北本久仁衛は、2019年2月5日にタイ・リーグ3部のシモークFCへ移籍した。この移籍は、前シーズンにヴィッセル神戸でチームメイトだったタイ代表のテーラトン・ブンマタンのサポートを受けて実現した。しかし、シモークFCは程なくして給与未払い問題によりタイサッカー協会から資格停止処分を受け、クラブは解散に追い込まれてしまう。その後、2019年6月23日には同じくタイ・リーグ3部のチャムチュリー・ユナイテッドFCと契約を結び、タイでのプレーを続けた。
2.3. 日本代表経歴
北本久仁衛は、年代別日本代表として、U-18、U-19、U-20日本代表に1999年から2001年にかけて選出された。また、2003年から2004年にはU-22、U-23日本代表として活動し、アテネオリンピックではバックアップ選手としてチームを支えた。
2.4. 現役引退
2020年2月19日、古巣のヴィッセル神戸が北本久仁衛の現役引退を発表した。当初、引退セレモニーは同年2月23日のホームでの横浜FC戦のキックオフ前に行われる予定であった。しかし、2019新型コロナウイルスの感染予防対策として、セレモニーは2月22日に延期が発表された。
3. 指導者経歴
選手引退後、北本久仁衛は指導者としてのキャリアをスタートさせ、古巣のヴィッセル神戸に戻った。2020年からはヴィッセル神戸のスクールコーチに就任し、若手育成に携わった。同年10月にはトップチームのアシスタントコーチに就任し、2022年6月までその職を務めた。その後、2022年6月から2024年まではトップチームのコーチを務め、2025年からはU-18コーチに就任することが発表されている。
4. プレースタイルと人物像
北本久仁衛は、主にセンターバックとしてプレーし、堅実な守備とリーダーシップで知られていた。攻撃参加も得意とし、重要な局面で得点に絡むこともあった。
彼のトレードマークはスキンヘッドである。2003年、当時のチームメイトである土屋征夫の影響を受けてスキンヘッドにしたとされており、以前は「絶対しない」と語っていたにもかかわらず、その髪型は彼の象徴となった。当時、トルシエ・ジャパンの「フラットスリー」が話題になっていた頃、北本が土屋、シジクレイとともに3バックを形成していたことから、「ピカッとスリー」「フラッシュスリー」「フラットスキン」などと呼ばれたエピソードもある。
また、北本は日本のロック歌手である長渕剛の大ファンであることでも知られている。当時のチームメイトで同じく長渕ファンである近藤岳登と共に、長渕剛のライブ映像に偶然映り込んだことがある。
5. クラブ統計
クラブ成績 | リーグ | カップ | リーグカップ | 通算 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
日本 | リーグ | 天皇杯 | リーグカップ | 通算 | ||||||
2000 | 神戸 | J1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
2001 | 6 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 10 | 0 | ||
2002 | 22 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 23 | 1 | ||
2003 | 24 | 1 | 3 | 0 | 2 | 0 | 29 | 1 | ||
2004 | 27 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | 33 | 2 | ||
2005 | 33 | 1 | 1 | 0 | 6 | 0 | 40 | 1 | ||
2006 | J2 | 43 | 5 | 0 | 0 | - | 43 | 5 | ||
2007 | J1 | 33 | 2 | 2 | 0 | 6 | 0 | 41 | 2 | |
2008 | 28 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | 35 | 0 | ||
2009 | 32 | 1 | 3 | 0 | 6 | 0 | 41 | 1 | ||
2010 | 33 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 39 | 0 | ||
2011 | 34 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 37 | 2 | ||
2012 | 29 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 32 | 0 | ||
2013 | J2 | 10 | 0 | 1 | 1 | - | 11 | 1 | ||
2014 | J1 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 9 | 0 | |
2015 | 12 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 14 | 0 | ||
2016 | 14 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 17 | 1 | ||
2017 | 6 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 11 | 0 | ||
2018 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 7 | 0 | ||
キャリア通算 | 394 | 16 | 20 | 1 | 60 | 0 | 474 | 17 |
その他の公式戦
- 2006年: J1・J2入れ替え戦 2試合0得点
- J1リーグ初出場: 2001年1st11節 対 サンフレッチェ広島(2001年6月16日)
- J1リーグ初得点: 2002年2nd8節 対 鹿島アントラーズ(2002年10月12日)
6. 評価と影響
北本久仁衛は、ヴィッセル神戸における長年の貢献と、個人的な困難を乗り越えた姿によって、多くのファンや関係者から高い評価を受けている。
6.1. ポジティブな評価と貢献
北本久仁衛は、プロ生活のほとんどをヴィッセル神戸で過ごし、その献身的なプレーとリーダーシップから「クラブの象徴」として位置づけられた。2006年のJ2降格時にもクラブに残り、チームの再建に尽力したことは、彼のクラブへの忠誠心を示すものとして高く評価されている。
また、2013年に肋骨の悪性腫瘍が見つかり、手術後半年という短期間でプロの舞台に復帰したことは、その不屈の精神と強い意志の表れとして、多くの人々に感動と勇気を与えた。これは、単なるスポーツ選手としての功績に留まらず、病との闘いを乗り越える人間の強さを示すものとして、社会的な影響も与えた。彼の存在は、ヴィッセル神戸の歴史において、単なる選手以上の意味を持つとされている。