1. 幼少期とアマチュア野球時代
南村侑広の幼少期、学生時代、そしてプロ入り以前の社会人野球選手としての経歴は、その後のプロ野球での活躍の基礎を築いた重要な時期でした。
1.1. 生い立ちと学生時代
南村侑広は大阪府で生まれました。
旧制市岡中学校時代は投手として活躍し、京都商業の沢村栄治とも投げ合った経験があります。
早稲田大学に進学後は打者に専念しました。この頃、黒色に塗ったバットを使用したことから、「黒バットの南村」という愛称で人気を博しました。
東京六大学リーグでは通算69試合に出場し、197打数51安打、打率.259を記録しました。また、1938年春季と1939年春季の2回にわたり首位打者を獲得しました。
1.2. 社会人野球時代
大学卒業後、南村は三井信託銀行に就職しました。
銀行員として勤務しながら、神奈川県横浜市にあった横浜金港クラブという野球クラブで社会人野球選手としてプレーを続けました。
2. プロ野球選手時代
南村侑広のプロ野球選手としての活動と業績は、西日本パイレーツでの新人としての活躍、読売ジャイアンツでの黄金期の貢献、そして彼独自のプレースタイルに特徴づけられます。
2.1. 西日本パイレーツ時代 (1950年)
1950年に新しく結成された西日本パイレーツの監督で、早稲田大学時代の先輩でもあった小島利男に誘われ、32歳にして銀行員からプロ野球選手へと転身しました。
入団時には、いずれは監督にするという条件があったとされています。
一塁手、二塁手、三塁手といった内野の複数のポジションをこなす一方、多くのプロ野球経験者がいる中で、新人ながら4番を務めました。
この年、彼は打率.300、11本塁打、59打点という好成績を記録しました。
プロ入り初本塁打は、開幕3戦目にあたる3月14日の巨人戦(熊本水前寺)で、先発の中尾碩志から放たれたものです。
一時病気で離脱した期間もありましたが、最終的にはセ・リーグの新人打撃王のタイトルを獲得しました。
2.2. 読売ジャイアンツ時代 (1951年 - 1957年)
1951年には、西日本パイレーツの球団消滅に伴い、読売ジャイアンツに移籍しました。
旧所属球団の西日本(セ・リーグ所属)がパ・リーグの西鉄クリッパースと合併しようとした際、巨人が「西日本の選手の保有権はセ・リーグにある」と主張したため、南村は巨人と西鉄の両方から勧誘を受け、それぞれ応諾してしまい、複数の契約を交わしたとも言われています。
その後、南村は熱海に身を隠すなどしましたが、最終的に巨人へ入団しました。契約金は10.00 万 JPY、給料は月額8.00 万 JPYだったと伝えられています。
巨人では6番・右翼手のレギュラーとなり、打率.283、62打点をマークし、同じ西日本から移籍した平井正明と共に、巨人の両リーグ分裂後の初優勝に貢献しました。
水原茂監督は後に、南村自身の打撃もさることながら、これに刺激を受けた川上哲治や千葉茂の奮起が実に大きかったと語っています。
また、同年の日本シリーズでは、第1戦で先制二塁打を放つと、第1戦、第2戦で6打数6安打を記録する固め打ちを見せました。シリーズ全体を通しては16打数9安打の打率.563を記録し、最高殊勲選手を獲得しました。この打率は、1966年に柴田勲(.565)に破られるまで、日本シリーズ記録でした。
1952年と1953年は、宇野光雄とともに主に5番または6番を打ち、外野手のベストナインに2年連続で選出されました。
1952年には打率.315でリーグ4位につけています。
1954年に登録名を不可止から侑広に改名し、同年から1955年にかけては3番打者を務めました。
1956年になると、宮本敏雄らの台頭もあり、出場機会が減少しました。
そして1957年、40歳で現役を引退しました。
2.3. プレースタイルと特徴
選手としての南村は、独特なバッティングスタイルを持っていました。バットを短めに持ち、打席の最前方に立ち、オープンスタンスからコースに逆らわずに左右に打ち分けるのが特徴でした。
特にシュート打ちが非常に得意でした。内角に食い込んでくるボールに対しては、バットを腰に付けて脇を締め、腰から振り抜き、押っつけながら右中間へ持っていく打法を身につけていました。シュート打ちのうまさは、後に「山内一弘と双璧をなす」と評されるほどでした。
守備は打撃ほど得意ではなく、打球を追いかける際に両腕を前後に振らず、左手を前に、右手を後ろに固定したまま走っていたという特徴がありました。
巨人がリードされている試合の7回の攻撃になると、南村が鋭く渋い声で放つ「時間だよ、行こうぜ」という掛け声がきっかけとなり、巨人が逆転することがしばしばありました。
3. 引退後の活動
南村侑広は引退後も多岐にわたる活動を続け、コーチ、野球解説者、そして球団フロントとして野球界に貢献しました。
3.1. コーチ・解説者時代
引退後は、日本テレビおよびラジオ関東で野球解説者として活躍しました(1958年 - 1963年)。
日本テレビの解説者に迎えられた1958年の正月には、夜に鎌倉の材木座にある自宅の風呂の中で、「佐渡おけさ」を歌って発声練習をしていたという逸話があります。
また、1959年の天覧試合でも日本テレビで解説を務めました。
古巣である巨人では、一軍のコーチ(1964年)、ヘッドコーチ(1965年 - 1966年)、二軍の打撃コーチ(1967年)などを歴任しました。
コーチ職を終えた後、再び日本テレビとラジオ関東の解説者を務めました(1968年 - 1973年)。
3.2. フロント入り
1974年には、三原脩球団社長の下で日本ハムファイターズのフロントに入り、広報担当を務めました。
その後は寮長や査定係などを歴任し、1984年に球団を退団しました。
4. 人物・エピソード
南村侑広は、その明るい人柄と数々の個性的なエピソードで知られています。
- 剽軽で明るい人柄で、皆から愛されました。また、川上哲治とは気脈を通じ、しばしば打撃に関して議論を戦わせていました。
- 南村の人柄の良さは広く知られており、1951年1月1日号の「ベースボールニュース」では、「野心もなければ、打算もなく、また功利的でもない生来の楽天的な気持ちが、常にボールと取り組んでも発揮されている」と書かれました。入団時の新人紹介では、愛読書は論語で、ベートーヴェンを聴きながらリプトン紅茶を飲むのが好きと書かれた記事もありました。
- 麻雀が大好きで、高い手を狙うタイプでした。ある時、何でもないフライを落球して失点したため、水原茂監督に「どうしたんだ」と怒られた際に、南村は「飛んできた打球がパイパン(麻雀牌の白)に見えた」と答え、野球プレー中に麻雀のことを考えていたのか、と大笑いになったという逸話があります。
- 麻雀の腕は悪くなかったものの、勝負には弱く、同僚の別所毅彦に大負けして、1ヶ月の負けが12.00 万 JPYに達したことがあります(当時の南村の月給は10.00 万 JPYほどでした)。また、別所は南村と藤本英雄から勝った金で自宅を建て増しし、その部屋を「南藤の間」と名付けたなどの逸話も残っています。
- かなりの偏食家で、魚をほとんど食べませんでした。一方でコーヒーを好み、四六時中ブラックコーヒーをがぶ飲みしていたと言われています。
- 現役時代の背番号は1でした。南村の次に背番号1を着用したのは、王貞治でした。王の入団発表の際、南村の背番号1のユニフォームが用意されましたが、細身の南村と比べ体躯の太い王には、そのユニフォームが合わなかったという一幕もありました。
5. 死去
南村侑広は1990年4月17日に死去しました。享年73歳でした。
奇しくも、この日は彼の誕生日と同日でした。
6. 表彰・記録
南村侑広は現役時代に数々の重要な表彰を受け、個人記録を樹立しました。また、彼の使用した背番号や登録名も、そのキャリアの変遷を示しています。
6.1. 主要な表彰・タイトル
- ベストナイン: 2回 (外野手部門: 1952年, 1953年)
- 日本シリーズMVP: 1回 (1951年)
6.2. 個人記録
- オールスターゲーム出場: 3回 (1952年 - 1954年)
6.3. 背番号
- 1 (1950年 - 1957年): 選手時代
- 75 (1964年 - 1967年): コーチ時代
6.4. 登録名
- 南村 不可止(南村 不可止みなみむら ふかし日本語): 1950年 - 1953年
- 南村 侑広(南村 侑広みなみむら ゆうこう日本語): 1954年 - 1967年
7. 年度別成績
南村侑広のプロ野球選手としての詳細な年度別打撃成績を以下に示します。
7.1. 打撃成績
年 | 球団 | 試 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 西日本パイレーツ | 96 | 404 | 377 | 72 | 113 | 13 | 9 | 11 | 177 | 55 | 34 | 13 | 1 | -- | 25 | -- | 1 | 30 | 10 | .300 | .345 | .469 | .814 |
1951 | 読売ジャイアンツ | 113 | 456 | 407 | 59 | 115 | 14 | 3 | 5 | 150 | 62 | 23 | 7 | 2 | -- | 45 | -- | 2 | 27 | 3 | .283 | .357 | .369 | .725 |
1952 | 115 | 487 | 441 | 72 | 139 | 21 | 3 | 8 | 190 | 76 | 18 | 8 | 4 | -- | 40 | -- | 2 | 20 | 7 | .315 | .375 | .431 | .806 | |
1953 | 123 | 507 | 459 | 64 | 127 | 21 | 1 | 5 | 165 | 49 | 19 | 7 | 18 | -- | 27 | -- | 3 | 24 | 8 | .277 | .321 | .359 | .681 | |
1954 | 125 | 520 | 466 | 57 | 133 | 16 | 2 | 7 | 174 | 61 | 18 | 8 | 9 | 7 | 34 | -- | 4 | 32 | 10 | .285 | .339 | .373 | .713 | |
1955 | 105 | 371 | 330 | 34 | 83 | 9 | 2 | 2 | 102 | 30 | 13 | 2 | 11 | 4 | 25 | 0 | 1 | 29 | 12 | .252 | .306 | .309 | .615 | |
1956 | 63 | 111 | 94 | 8 | 22 | 6 | 1 | 0 | 30 | 13 | 2 | 2 | 5 | 0 | 11 | 0 | 1 | 10 | 2 | .234 | .327 | .319 | .646 | |
1957 | 34 | 45 | 42 | 1 | 8 | 1 | 0 | 1 | 12 | 11 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 1 | 5 | 2 | .190 | .227 | .286 | .513 | |
通算:8年 | 774 | 2901 | 2616 | 367 | 740 | 101 | 21 | 39 | 1000 | 357 | 128 | 47 | 51 | 11 | 208 | 1 | 15 | 177 | 54 | .283 | .339 | .382 | .722 |