1. 来歴
吉田秀彦は、柔道においてオリンピック金メダルと世界選手権優勝を達成した後、総合格闘技の世界へと転向し、その両分野で顕著な足跡を残した。
1.1. 柔道家時代
吉田秀彦は1969年9月3日に愛知県大府市で生まれた。幼少期に柔道の世界へと足を踏み入れ、共長小学校、大府西中学校を経て、柔道の名門である講道学舎に入門した。中学3年時には世田谷区立弦巻中学校へ転校。その後は世田谷学園高校、明治大学へと進学し、柔道に打ち込んだ。
学生時代からその才能は際立っており、1984年の全中(-65kg級)で準優勝、1987年のインターハイ(軽重量級)で優勝を飾る。また、1987年と1988年には全日本ジュニア(-78kg級)で優勝し、1988年と1990年の世界学生選手権(-78kg級)では2連覇を達成するなど、国際舞台でも頭角を現した。
1991年からは新日鉄に所属。1991年世界柔道選手権大会では78kg級で3位に入賞し、同年の全日本柔道選手権大会で優勝。翌1992年のソフィアAトーナメントでも優勝を果たす。そして、迎えた1992年バルセロナオリンピックの柔道競技男子78kg級では、予選から決勝まですべて一本勝ちという圧倒的な内容で金メダルを獲得した。
オリンピック後も国際大会で活躍を続け、1993年世界柔道選手権大会(78kg級)と1995年世界柔道選手権大会(86kg級)で銀メダルを獲得。1999年世界柔道選手権大会では90kg級で金メダルに輝いた。しかし、その後のオリンピックでは金メダルには届かず、1996年アトランタオリンピック(86kg級)では5位、2000年シドニーオリンピック(90kg級)では3回戦で右肘関節脱臼の怪我を負い敗退し、敗者復活戦を棄権した。
2002年に全日本柔道選手権大会への出場を最後に柔道第一線から退いた。同年には、自身の名を冠した吉田道場を設立し、師範を務めることになった。
1.2. 総合格闘家時代
2002年、吉田はかねてより解説者として関わっていた総合格闘技の世界へ本格的に転身することを決意し、PRIDEと契約した。柔道家としての競争力が失われたと見られることを避けるため、トップレベルの相手と対戦することにこだわり、柔道着を着用して試合に臨むことで柔道という武道の魅力を示すことを誓った。
1.2.1. PRIDE Fighting Championships
吉田の総合格闘技における最初の舞台は、PRIDE Shockwaveでのホイス・グレイシーとのスペシャルグラップリングマッチだった。この試合は、木村政彦対エリオ・グレイシー戦の50周年を記念してホイスが提案したルールで行われ、再び「柔道対ブラジリアン柔術」の対決として注目を集めた。試合は立ち技での打撃が限定され、判定決着なし、両者柔道着着用という特別なルールが設定された。吉田は寝技のエキスパートではなかったため、柔道家の高阪剛と組んでサブミッション技術を磨いた。
試合開始直後、ホイスは吉田の強力な投げ技を避けるため、すぐに引き込みからガードを取った。ホイスは腕十字を試みるが、吉田はこれを防ぎ、袖車絞めを狙った。ホイスがヒールホールドに切り替えた後、両者の膠着した関節技の攻防があり、一度スタンドに戻された。ホイスは再度ガードに引き込んだが、吉田はこれを抱き上げに転じ、ホイスのハーフガードを突破して木村ロックを狙った。ホイスは耐えきったものの、吉田は短い攻防の末にガードをパスし、サイドコントロールの体勢を奪う。最終的に吉田はホイスにマウントポジションを取り、袖車絞めを仕掛けた。しばらくの膠着の後、吉田はレフェリーの野口大輔にホイスが意識を失ったかを確認。野口レフェリーはそれを受け、試合をストップし吉田の勝利とした。
しかし、その場で立ち上がったホイスは判定に猛抗議し、レフェリーに詰め寄って一時的に両陣営が入り乱れる事態となった。大会後、グレイシー家は謝罪したものの、ホイスが意識を失っていなかったこと、そしてレフェリーに試合を止める権限がなかったことを主張し、試合結果をノーコンテストに変更するよう要求した。スローモーションの映像では、ホイスの顎が露出しており、首が絞めから解放されているように見え、長年のPRIDE FC解説者であるスティーヴン・クアドロスとバス・ルッテンも、ホイスが絞め落とされていなかったことに同意した。
吉田にとって初の本格的な総合格闘技戦は、PRIDE.23で元UFCトーナメント王者であるドン・フライとの対戦だった。吉田は大内刈でフライを投げ倒し、再び袖車絞めを試みたがフライは脱出。しかし吉田は腕ひしぎ十字固めを仕掛け、フライがタップアウトを拒否したため、彼の腕を折って一本勝ちを収めた。フライが敗北を喫したのは6年ぶりのことであった。続いてINOKI BOM-BA-YE 2002では、元極真空手王者の佐竹雅昭の引退試合の相手を務め、フロントチョークで一本勝ちを収めた。
PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦で行われたミドル級グランプリの1回戦では、シュートスタイルの達人である田村潔司と対戦した。試合のほとんどの時間で田村のローキックやパンチ、バックからの攻めなどで劣勢に立たされた吉田だったが、最後は払い腰で田村を投げ倒し、袖車絞めでタップアウトを奪った。
吉田の総合格闘技キャリア初の敗北は、PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦でのPRIDEミドル級王者ヴァンダレイ・シウバとの対戦だった。シウバはすでに田村潔司や桜庭和志といった日本人選手をノックアウトしていたが、吉田はシウバと一進一退の攻防を繰り広げ、予想を覆した。第1ラウンドでは、両者がガードからの攻防と立ち技での打撃戦を繰り広げ、シウバが膝蹴りを放ち、吉田はネッククランクでプレッシャーをかけた。第2ラウンドでは、シウバが吉田のテイクダウンを阻み、強烈な頭部へのキックや膝蹴りを繰り出したが、吉田はほとんどのダメージを吸収し、パンチの距離に留まって打ち合いに応じた。試合はシウバが吉田をダウンさせ、さらにスウィープからの最終的な攻撃で終了した。判定はシウバに下されたが、この試合はレスリング・オブザーバー・ニュースレターから「ファイト・オブ・ザ・イヤー」に選出された。
シウバ戦から2ヶ月も経たないうちに、その試合での負傷を引きずりながらも、吉田はPRIDE SPECIAL 男祭り 2003でホイス・グレイシーとの再戦に臨んだ。この試合はPRIDEの特別ルールで行われ、マット・ヒュームがスペシャルレフェリーを務め、10分2ラウンド、判定なしというルールで、決着がつかなければ引き分けとなる規定だった。ホイスは今回は柔道着の上着を脱いで試合に臨んだが、吉田に3連続で金的攻撃を加え、そのうちの1発が吉田に命中し、試合が数分間中断されるという物議を醸した。試合を続行できるようになった吉田は、コンビネーションでホイスをダウンさせ、グラウンドで攻撃を仕掛け、ハーフガードを突破して一時的にホイスのバックを奪った。ホイスはアームロックの試みからトップポジションを奪い返し、最終的にはバックマウントからハンマーパンチで柔道家を打ち続けた。第2ラウンドでは、最初にアンクルロックの攻防があったが、すぐにホイスが亀になった吉田に馬乗りになり、サブミッションを狙ってパンチを打ち続けるという最後のポジションに戻った。試合は規定通り、時間切れによる引き分けとなった。
PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDでは、K-1の王者でキックボクシングのベテラン、そしてはるかに体重の重いマーク・ハントと対戦した。吉田は開始早々に下からの腕ひしぎ十字固めで一本を狙ったが、ハントは膝で吉田の喉元を押しつけることでこれを防いだ。試合の残りの時間、吉田は足関節技、三角絞め、腕ひしぎ十字固めを試みたが、ハントはそれらすべてをその怪力と即席のサブミッション防御で防ぎきり、最終的に吉田が腕ひしぎ十字固めを決めて勝利を収めた。
2004年には、プロモーターが吉田が望むホイス・グレイシーとのラバーマッチを実現できなかったため、吉田は同じくデビュー戦となるルーロン・ガードナーとの対戦に臨んだ。グレコローマンレスリングのオリンピック金メダリストであり、吉田よりもはるかに体重の重いガードナーは、予想外の動きを見せ、スタンドでの攻防で吉田を圧倒し、ユナニマス判定で勝利した。
2005年4月、吉田はPRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦でヴァンダレイ・シウバとの再戦に臨んだ。この試合は前回の対戦よりもさらに接戦となり、吉田は第1ラウンドでジャッジからポイントを取り、第3ラウンドまでほとんど危険な状態に陥ることなく戦ったが、再び判定負けを喫した。この敗北から立ち直った吉田は、次の大会PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦でタンク・アボットを柔道の片羽絞めでサブミッション勝ちを収めた。
同年末、PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI-で柔道家で先輩の小川直也と対戦し、腕ひしぎ十字固めで勝利した。この試合は総合格闘技史上最も高額な試合の一つとなり、両選手にそれぞれ200.00 万 USDが支払われた。吉田と小川はすでに世界柔道選手権大会で激突しており、その時は吉田が番狂わせで勝利を収めていたため、この試合ではリベンジというテーマが盛り込まれていた。今回は柔道着を着用せず、吉田は試合開始からパンチを放ち小川をテイクダウンした。その後、リバーサルとパウンドが激しく入れ替わる攻防が続いた。最終的には小川が優位なポジションを確保しているように見えたが、吉田はガードから不意打ちで腕ひしぎ十字固めを決め、柔道のライバルをタップアウトさせた。
翌2006年、吉田はPRIDE 無差別級グランプリ 2006に参加し、まずボクシング王者西島洋介と対戦した。予想通り、吉田は西島を投げ倒してマウントポジションを取り、西島がスウィープを試みた際に三角絞めを仕掛け、一本勝ちを収めた。吉田は次のラウンドに進出し、キックボクシングの達人であり、最終的な優勝者となるミルコ・クロコップと対戦した。典型的なストライカー対グラップラーの戦いとなり、吉田はミルコをマットに投げようと試み、一時はコーナー際で内股を狙う場面もあったが、ミルコはこれを力でしのぎ、ローキックを打ち込み続けた。吉田はミルコの代名詞であるノックアウトを避けることはできたものの、蓄積された脚へのダメージにより最終的に倒れ、TKO負けを喫した。吉田は試合後、ミルコ自身に助けられてリングを後にした。
PRIDEでの吉田の最後の試合は、PRIDE 男祭り 2006でのジェームス・トンプソンとの対戦だった。吉田ははるかに体重の重いイギリス人ファイターをボクシングで上回り、何度も投げからの腕ひしぎ十字固めや足関節技で脅かしたが、トンプソンは吉田をリングのロープの外に押し出すという物議を醸す行為に出た。吉田は試合に戻ることを選択したが、場外への落下が彼に大きなダメージを与えており、トンプソンのパンチと膝蹴りの猛攻に圧倒され、ノックアウトされた。この試合はさらに物議を醸し、レフェリーが試合を止めず、意識朦朧とした吉田にトンプソンがさらに攻撃を加えるのを許し、ストップが遅れた。
1.2.2. World Victory Road
2008年3月、吉田は戦極の旗揚げ興行である戦極 ~第一陣~でキャッチレスリングのスペシャリストであり、元練習仲間のジョシュ・バーネットと対戦し、戦極デビューを果たした。この試合では、バーネットが吉田にスープレックスを決め、吉田が飛びつき腕ひしぎ逆十字固めを返すなど見どころがあったが、両グラップリングの専門家がグラウンドでサブミッションを狙い合うという激しいグラウンド戦も展開された。第3ラウンドに入り、吉田がさらなるスープレックスを避けるために膝をついた際、バーネットがトップポジションを奪い、ヒールホールドを決め、吉田をタップアウトさせた。
同年6月の戦極 ~第三陣~では、元UFCヘビー級王者のモーリス・スミスと対戦。吉田がすぐにグラウンドに持ち込み、袈裟固めのポジションからネッククランクを仕掛け、1ラウンド一本勝ちを収めた。
2009年1月4日、戦極の乱2009で柔道家であり古賀稔彦の弟子でもある菊田早苗と対戦した。菊田は吉田の弟子である瀧本誠を以前の大会で破っていた。柔道着を脱いで臨んだこの試合は、菊田が吉田をテイクダウンし、控えめに打撃を交換するという、ゆっくりとした立ち上がりだった。第2ラウンドでは、菊田がガードに引き込みアンクルロックを狙う一方、吉田はトップポジションを維持し、ガード越しに何度かパンチを打ち込んだ。しかしその後、菊田はリバーサルしてマウントを奪い、ラウンド終了までパウンドを打ち込んだ。第3ラウンドでは、吉田がパンチで菊田をぐらつかせ、柔道投げを決めたが、菊田はバックを奪い、試合終了まで打撃を打ち続け、最終的に判定勝ちを収めた。
1.2.3. 引退試合とその後
2009年12月31日、Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~で石井慧のデビュー戦の相手を務め、判定勝ちを収めた。石井はUFCやStrikeforceといった世界のトップ団体から多くのオファーを受けていた。吉田は大きなアンダードッグであったが、第1ラウンドで経験の浅い石井を圧倒し、石井をぐらつかせた右オーバーハンドを含む多くのパンチ、そしてクリンチからの連続するアッパーカットと膝蹴りをヒットさせた。石井は第2ラウンドでクリンチからの距離を見つけたが、その際に吉田の股間にローブローを当ててしまい、ベテランの吉田に大きなダメージを与えた。吉田は実際にファウルカップを交換しなければならなかったが、最終的には試合続行という不屈の精神を見せた。第2ラウンドの終わりに吉田はテイクダウンされ、第3ラウンドでは効果的な動きが少なくなり、石井から多くの打撃を受けたが、最終的には粘り強く戦い抜き、ユナニマス判定で番狂わせの勝利を収めた。
吉田は以前のプロモーションへの不満に応える形で、2010年4月25日に行われた吉田秀彦引退興行 ~ASTRA~を最後の試合とした。吉田は自身の長年の愛弟子である中村和裕にユナニマス判定で敗れ、プロ格闘家としてのキャリアを終えた。
1.3. 柔道界への復帰
プロ格闘家としての引退から1年が経過し、全日本柔道連盟への指導者登録が可能になったことを受け、2011年5月12日に時間貸し駐車場経営で知られるパーク24の柔道部監督に就任した。吉田自身は、2年後にはプロ格闘家から選手への復帰も可能になることから、指導者としてだけでなく現役選手としての復帰の可能性も示唆していた。そして実際に2013年に現役選手として再登録を行い、同年6月の全日本実業団対抗大会に出場して本格的に現役復帰を果たした。
2. 人物・エピソード
- 吉田は明治大学の卒業生であり、柔道部に所属していた。
- 格闘家生活と並行して、「VIVA JUDO!ビバ・ジュードー!英語」というスポーツイベントを日本各地で開き、柔道の普及のために精力的に活動している。
- 中村和裕や瀧本誠らは、吉田道場に所属する吉田の弟子である。
- フェラーリ・F430スパイダーを所有し、グッチやプラダのスニーカーを愛用している。
- 世田谷学園高校の後輩に元SIAM SHADEの栄喜がおり、吉田の入場テーマ曲には栄喜の曲「The Secretザ・シークレット英語」が使用されている。
- 所属事務所はJ-ROCK。もともとは栄喜がソロ活動のために立ち上げた個人事務所に間借りする形で所属していたが、いつの間にか吉田を中心とするアスリートたちが数多く所属する事務所になり、栄喜は新たな事務所を作るためJ-ROCKを退所した。
- 高阪剛とは、学生柔道時代からの友人である。
- パチンコ店『ヒノマルグループ』のイメージキャラクターを務めている。
3. 武道哲学と影響
吉田秀彦は、柔道という伝統的な武道をベースに総合格闘技という新たな挑戦をすることで、その武道哲学を実践し、多くの人々に影響を与えてきた。彼の設立した吉田道場は、柔道と総合格闘技の両方を指導しており、多くのトップファイターを輩出している。
また、「VIVA JUDO!ビバ・ジュードー!英語」の活動を通じて、柔道の普及にも尽力。これは、彼が柔道という競技だけでなく、武道としての柔道の精神を次世代に伝えたいという強い思いの表れである。彼の弟子たちや、彼と対戦した多くの格闘家たちにとっても、吉田の存在は単なる強敵ではなく、柔道の技術と精神を体現する存在として、大きな影響を与えた。特に柔道着を着用して総合格闘技に参戦したことは、柔道への関心を高める上で重要な役割を果たした。
4. 獲得タイトル・表彰
吉田秀彦は、柔道家および総合格闘家として、そのキャリアを通じて数々の輝かしいタイトルと表彰を獲得してきた。
4.1. 柔道
- 1984年 全国中学校柔道大会 中量級 2位
- 1987年 全国高等学校総合体育大会柔道競技 軽重量級 優勝
- 全日本学生柔道体重別選手権大会 78kg級 3連覇(1988年、1989年、1990年)
- 世界学生柔道選手権大会 78kg級 2連覇(1988年、1990年)
- 嘉納治五郎杯東京国際柔道大会 78kg級 優勝(1990年)
- 世界柔道選手権大会 78kg級 3位(1991年)
- 全日本柔道選手権大会 3位(1991年)
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg級 優勝(1992年)
- 1992年バルセロナオリンピック 柔道男子78kg級 優勝(1992年)
- フランス国際 優勝(1993年)
- 世界柔道選手権大会 78kg級 2位(1993年)
- 全日本柔道選手権大会 2位(1994年)
- 嘉納治五郎杯東京国際柔道大会 86kg級 優勝(1994年)
- 講道館杯 86kg級 優勝(1994年)
- フランス国際 優勝(1995年)
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 86kg級 優勝(1995年)
- 世界柔道選手権大会 86kg級 2位(1995年)
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 86kg級 優勝(1996年)
- 1996年アトランタオリンピック 柔道男子86kg級 5位(1996年)
- 講道館杯 90kg級 優勝(1998年)
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 90kg級 優勝(1999年)
- 世界柔道選手権大会 90kg級 優勝(1999年)
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 90kg級 優勝(2000年)
4.2. 総合格闘技
- PRIDE
- 2003 PRIDEミドル級グランプリ準決勝進出
- 東京スポーツ
- 話題賞(2002年)
- レスリング・オブザーバー・ニュースレター
- ファイト・オブ・ザ・イヤー(2003年11月9日 ヴァンダレイ・シウバ戦)
4.3. その他の表彰
- アクアピースゴールデンハート賞(2002年) ※アクアピースネットワーク主催
5. 戦績
5.1. 総合格闘技
吉田秀彦の総合格闘技戦績は9勝8敗1分である。
勝敗 | 戦績 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 | ラウンド | 時間 | 開催地 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
敗 | 9勝8敗1分 | 中村和裕 | 判定0-3 | 吉田秀彦引退興行 ~ASTRA~ | 2010年4月25日 | 3 | 5:00 | 日本東京 | 引退試合 | |
勝 | 9勝7敗1分 | 石井慧 | 判定3-0 | Dynamite | ~勇気のチカラ2009~ | 2009年12月31日 | 3 | 5:00 | 日本さいたま | |
敗 | 8勝7敗1分 | 菊田早苗 | 判定1-2 | 戦極の乱2009 | 2009年1月4日 | 3 | 5:00 | 日本さいたま | ||
勝 | 8勝6敗1分 | モーリス・スミス | 1R 2:43 袈裟固め | 戦極 ~第三陣~ | 2008年6月8日 | 1 | 3:23 | 日本さいたま | ||
敗 | 7勝6敗1分 | ジョシュ・バーネット | 3R 3:23 ヒールホールド | 戦極 ~第一陣~ | 2008年3月5日 | 3 | 3:23 | 日本東京 | ||
敗 | 7勝5敗1分 | ジェームス・トンプソン | 1R 7:50 TKO(パンチ) | PRIDE 男祭り 2006 | 2006年12月31日 | 1 | 7:50 | 日本さいたま | ||
敗 | 7勝4敗1分 | ミルコ・クロコップ | 1R 7:38 TKO(ローキック) | PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND | 2006年7月1日 | 1 | 7:38 | 日本さいたま | PRIDE 2006 無差別級グランプリ 準々決勝 | |
勝 | 7勝3敗1分 | 西島洋介 | 1R 2:33 三角絞め | PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦 | 2006年5月5日 | 1 | 2:33 | 日本大阪 | PRIDE 2006 無差別級グランプリ 1回戦 | |
勝 | 6勝3敗1分 | 小川直也 | 1R 6:04 腕ひしぎ十字固め | PRIDE 男祭り 2005 | 2005年12月31日 | 1 | 6:04 | 日本さいたま | ||
勝 | 5勝3敗1分 | タンク・アボット | 1R 7:40 片羽絞め | PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦 | 2005年8月28日 | 1 | 7:40 | 日本さいたま | ||
敗 | 4勝3敗1分 | ヴァンダレイ・シウバ | 判定1-2 | PRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦 | 2005年4月23日 | 3 | 5:00 | 日本大阪 | PRIDE 2005 ミドル級グランプリ 1回戦 | |
敗 | 4勝2敗1分 | ルーロン・ガードナー | 判定0-3 | PRIDE 男祭り 2004 | 2004年12月31日 | 3 | 5:00 | 日本さいたま | ||
勝 | 4勝1敗1分 | マーク・ハント | 1R 5:25 腕ひしぎ十字固め | PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND | 2004年6月20日 | 1 | 5:25 | 日本さいたま | ||
引分 | 3勝1敗1分 | ホイス・グレイシー | 時間切れ | PRIDE SPECIAL 男祭り 2003 | 2003年12月31日 | 2 | 10:00 | 日本さいたま | 特別ルール戦 | |
敗 | 3勝1敗0分 | ヴァンダレイ・シウバ | 判定0-3 | PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦 | 2003年11月9日 | 2 | 5:00 | 日本東京 | PRIDE 2003 ミドル級グランプリ 準決勝。2003年ファイト・オブ・ザ・イヤー | |
勝 | 3勝0敗0分 | 田村潔司 | 1R 5:06 袖車絞め | PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦 | 2003年8月10日 | 1 | 5:06 | 日本さいたま | PRIDE 2003 ミドル級グランプリ 1回戦 | |
勝 | 2勝0敗0分 | 佐竹雅昭 | 1R 0:50 フロントネックロック | INOKI BOM-BA-YE 2002 | 2002年12月31日 | 1 | 0:50 | 日本さいたま | ||
勝 | 1勝0敗0分 | ドン・フライ | 1R 5:32 腕ひしぎ十字固め | PRIDE.23 | 2002年11月24日 | 1 | 5:32 | 日本東京 |
5.2. グラップリング
吉田秀彦のグラップリング戦績は1勝0敗0分である。
6. メディア出演
吉田秀彦はスポーツ活動の傍ら、以下のCMに出演した。
- 日商エステム(高島礼子と共演)
7. 関連項目
- 男子総合格闘家一覧
- 柔道家一覧
- PRIDE選手一覧
- SRC選手一覧
- オリンピックの柔道競技・日本人メダリスト一覧
- オリンピックの柔道競技・メダリスト一覧
- 明治大学の人物一覧
- 古賀稔彦
- 小川直也
- 大石道場