1. Life and Early Career
1.1. Childhood and School Days
大友愛は宮城県泉市(現在の仙台市泉区)で生まれた。中学1年生の時にバレーボールを始め、当時のバレーボール部監督にその素質を見出された。中学時代には全国都道府県対抗中学バレーボール大会に宮城県代表として出場し、オリンピック有望選手に選出されている。高校時代にはチームとしての全国大会出場はなかったものの、高校3年生の時には世界ユース選手権で優勝、アジアユース選手権で準優勝を経験するなど、早くからその才能を発揮した。
1.2. Professional Debut and Early National Team Experience
2000年にNECレッドロケッツに入団し、その年のうちにレギュラーの座を獲得した。翌2001年には早くも全日本代表に初選出され、レギュラーのセンターとして活躍。特に、スピードと攻撃力を兼ね備えたブロード攻撃は彼女の代名詞となり、大きな武器となった。
2003年には柳本晶一が監督に就任した後も代表に選ばれたが、大山加奈や栗原恵といった次世代エースの台頭もあり、チームに馴染めずモチベーションを上げられない時期を経験した。この時、初めて全日本で控えに回り、出場選手のビデオ撮りという役割を与えられたことに対し、「私はビデオを撮るために来たんじゃない!」という強い思いを抱いた。必要とされていないと感じた彼女は、自らを必要とするチームで磨きたいと考え、一時的に代表を離脱する決断を下した。
しかし、その後、立て続けに母と祖父を亡くしたことを機に、バレーボールへの再挑戦を決意。2004年のアテネオリンピック世界最終予選前に全日本に復帰し、日本の2大会ぶりとなるオリンピック出場に大きく貢献した。アテネオリンピック本戦では、世界で初めてとなるバックブロード(後衛からの移動攻撃)を成功させ、その技術力の高さを示した。

2. Career Highlights
大友愛のキャリアは、国内リーグでの安定した活躍と、全日本代表としての国際舞台での輝かしい成績によって特徴づけられる。
2.1. National Team Career
大友愛は2001年から2005年、そして2010年から2012年にかけて全日本代表として活躍した。
主な国際大会での出場歴と成績は以下の通りである。
- 2002年世界選手権:13位
- 2004年アテネオリンピック:5位
- 2005年ワールドグランプリでは、本来のセンターからライトポジションにコンバートされ、大山加奈や栗原恵が不在の中、エースアタッカーとしてチームを牽引した。この大会での彼女のキャッチコピーは「勝利を呼ぶワンダーガール」であった。決勝ラウンドが彼女の出身地である仙台市で開催されたこともあり、地元では福原愛、宮里藍と共に「仙台の3大"あいチャン"」と呼ばれ、大きな注目を集めた。
- 2010年世界選手権:銅メダル獲得に大きく貢献した。
- 2011年モントルーバレーマスターズ:優勝。
- 2011年アジア選手権において、右膝の前十字靭帯と内側側副靱帯を損傷する重傷を負い、日本代表チームを離脱。これにより、ワールドカップおよびVプレミアリーグ2011/12シーズンへの出場が困難となった。
- 2012年ロンドンオリンピック:怪我から復帰し、自身通算2度目のオリンピック出場を果たした。この大会で、女子日本代表はロサンゼルスオリンピック以来28年ぶりとなる銅メダルを獲得し、その快挙に大きく貢献した。
2.2. Club Career
大友愛は、高校卒業後から引退まで、日本のトップリーグであるVリーグで複数のチームに所属し、それぞれのチームで中心選手として活躍した。
- NECレッドロケッツ(2000年 - 2006年)
- 2000年に入団し、1年目からレギュラーを獲得。チームの主力として活躍した。
- 久光製薬スプリングス(2008年 - 2009年)
- 2006年に結婚・出産のためNECを退職し、一時現役を離れた後、2008年4月14日に久光製薬スプリングスに入団し、2年ぶりに現役復帰した。
- JTマーヴェラス(2009年 - 2013年)
- 2008年/2009年シーズン終了をもって久光製薬スプリングスを退団し、2009年7月1日付でJTマーヴェラスに入団した。
- 2013年4月22日に2012年/2013年シーズン限りでの現役引退を発表。第62回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会準決勝のNECレッドロケッツ戦が選手生活最後の試合となった。試合終了後には、かつてNECや日本代表で共に戦い、同じく今大会で引退する杉山祥子から労いの言葉をかけられた。
Vプレミアリーグレギュラーラウンドにおける個人成績は下記の通りである。
シーズン 所属 出場 アタック ブロック サーブ レセプション 総得点 備考 試合 セット 打数 得点 決定率 効果率 決定 /set 打数 エース 得点率 効果率 受数 成功率 2000/01 NEC 18 61 380 188 49.5% % 48 0.79 221 12 5.43% 10.6% 3 100.0% 248 2001/02 16 60 395 203 51.4% % 32 0.53 151 6 3.97% 9.8% 88 67.0% 241 2002/03 21 80 360 152 42.2% % 53 0.66 228 8 3.51% 9.8% 68 77.9% 213 2003/04 18 67 386 177 45.9% % 46 0.69 247 16 6.48% 14.6% 48 66.7% 239 2004/05 27 105 720 291 40.4% % 76 0.72 396 24 6.06% 12.8% 80 58.8% 391 2005/06 15 59 308 139 45.1% % 41 0.69 212 8 3.78% 9.8% 22 72.7% 188 2008/09 久光製薬 27 106 586 233 39.8% % 60 0.57 352 10 2.84% 12.1% 7 85.7% 303 2009/10 JT 28 102 430 200 46.5% % 60 0.59 335 16 4.48% 13.2% 17 76.5% 276 2010/11 26 91 407 195 47.9% % 47 0.52 247 10 4.05% 10.1% 34 79.4% 252 2011/12 0 0 0 0 0.0% % 0 0.00 0 0 0.00% 0.0% 0 0.0% 0 2012/13 24 79 474 193 40.7% % 39 0.49 187 5 2.67% 11.3% 22 59.1% 237 通算 220 810 4446 1971 44.3% % 502 0.62 2576 115 4.46% 11.7% 389 69.2% 2588
2.3. Major Awards and Honors
大友愛が選手生活で獲得した主な個人賞、および所属チームや全日本代表としての栄誉は以下の通りである。
- 個人賞
- 1997年:全国都道府県対抗中学バレーボール大会(さわやか杯)オリンピック有望選手
- 1999年:アジアユース選手権大会 ベストサーブ賞
- 2000年:アジアジュニア選手権大会 サーブ賞
- 2000年:第7回Vリーグ 新人賞(NEC)
- 2002年:第51回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 ベスト6(NEC)
- 2005年:第54回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 ベスト6(NEC)
- 2009年:第58回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 ベスト6(久光製薬)
- 2010年:2009-2010 V・プレミアリーグ ベスト6(JT)
- 2010年:第59回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 ベスト6(JT)
- 2011年:2010-11 V・プレミアリーグ ベスト6(JT)
- 2011年:第60回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 黒鷲賞(MVP)、ベスト6(JT)
- 2011年5月:ベストマザー賞スポーツ部門
- 2013年:第62回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 ベスト6(JT)
- チームタイトル
- NECレッドロケッツ
- 2001年:黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 優勝
- 2002年:第8回Vリーグ 準優勝
- 2003年:第9回Vリーグ 優勝
- 2004年:第10回Vリーグ 優勝
- 久光製薬スプリングス
- 2008年-2009年:2008/09Vプレミアリーグ 準優勝
- 2009年:第58回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 準優勝
- JTマーヴェラス
- 2009年-2010年:2009/10Vプレミアリーグ 準優勝
- 2010年:第59回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 準優勝
- 2010年-2011年:2010/11Vプレミアリーグ 優勝
- 2011年:第60回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 優勝
- 全日本代表タイトル
- 2000年:世界ユース選手権 優勝
- 2001年:ワールドグランドチャンピオンズカップ 銅メダル
- 2010年:世界選手権 銅メダル
- 2011年:モントルーバレーマスターズ 優勝
- 2012年:ロンドンオリンピック 銅メダル
- NECレッドロケッツ
3. Play Style
大友愛は、日本のセンタープレーヤーの中でも群を抜いたスピードと攻撃力を誇り、特にブロード攻撃は彼女の最大の武器として知られている。その高い打点と素早い動きは、相手ブロックにとって大きな脅威であった。
彼女は、過去に所属したNECレッドロケッツ、久光製薬スプリングス、JTマーヴェラスの全ての大会において、常にレギュラーメンバーとして先発出場を果たした。全日本代表においても、2003年に一時的に辞退した期間を除けば、一貫してレギュラーメンバーとして定着し、チームの中心選手として活躍した。
2010年シーズンからは、日本代表の戦略的な方針により、それまでのフローターサーブからジャンプフローターサーブへとサーブのスタイルを変更。これにより、さらに攻撃の幅を広げ、チームに貢献した。
4. Personal Life
4.1. Marriage and Family
大友愛は、2006年1月16日にビーチバレー選手の山本辰生と結婚し、当時すでに妊娠2か月であることを公表した。同年8月には長女を3296 gで出産した。この時点では育児休業中であり、現役復帰はしないと語っていた。
しかし、2012年3月に山本辰生と離婚。その後、2013年8月8日に柔道家の秋本啓之と再婚した。2021年現在、秋本との間には3人の子供がおり、山本との間の娘を含めて合計4人の子供の母親となっている。
長女の秋本美空は、母と同じくバレーボール選手となり、2023年には16歳で日本代表の登録メンバーに選出されるなど、その才能が注目されている。
4.2. Name Changes
大友愛は、結婚と離婚に伴い戸籍名の変更を経験している。
- 出生名:大友 愛
- 最初の結婚(山本辰生と):山本 愛として活動。この期間中、『ジャンクSPORTS』などのテレビ番組にも「山本愛」名義でゲスト出演していた。
- 離婚後:再び大友 愛として活動すると報じられた。
- 再婚(秋本啓之と):現在の戸籍名は秋本 愛となっている。
5. Public Perception and Legacy
5.1. Anecdotes and Public Image
大友愛は、その選手としての実力だけでなく、人間味あふれるエピソードやメディアでの露出を通じて、広く大衆に親しまれてきた。
2004年に全日本代表に復帰した際、アテネオリンピックに向けた代表合宿で、朝の自主練習を行う吉原知子に「一緒に打たせて下さい」と依頼したが、「人数が足りてるから」と一度は断られた。それでも心を折らず、2週間にわたって球拾いなどの練習サポートを続けた結果、吉原から「本気度が分かった」と言われ、練習に参加を許された。後に吉原は、この行動が「代表への意気込みを確かめていた」ものであったと大友に伝えている。
2005年のワールドグランプリにおいて、強豪ブラジルを相手にマッチポイントの場面でサーブミスを起こし、大金星を逃す遠因を作ってしまった。その後も度々重要な場面でのサーブミスに苦しむことがあったが、これらの経験も彼女の人間的な魅力の一部として語られている。
2005年秋には、現役の全日本女子バレーボール選手として初めてとなる写真集とDVDを出版し、同時期には写真週刊誌にプライベートの写真が掲載されるなど、世間の大きな関心を集めた。
かつて雑誌に「全日本に選ばれながら武器がない」と書かれたことに奮起し、高いトスを打てるようにして自分の「武器」にしたというエピソードも残っている。また、自身が仲が良いと語る高橋みゆきからは「自由人」「自分が思うがままに生きてる感じ」と評されるなど、極めて天真爛漫な性格の持ち主としても知られている。
5.2. Influence and Legacy
大友愛は、そのキャリアを通じて日本の女子バレーボール界に多大な影響を与えた。一度は代表を離脱し、結婚・出産で現役を退いたものの、家族の死を乗り越え、再びトップレベルの舞台に戻ってきたその不屈の精神は、多くの人々に勇気を与えた。特に、2012年ロンドンオリンピックでの銅メダル獲得に貢献したことは、日本の女子バレーボールの歴史に刻まれる快挙であり、彼女の存在がその達成に不可欠であったことを示している。
また、彼女の長女である秋本美空が母と同じバレーボールの道に進み、若くして日本代表に選出されたことは、大友愛のレガシーが次世代へと受け継がれていることを象徴している。彼女の選手としての活躍と、その後の人生における挑戦は、後進の選手たちにとって大きな示唆を与え続けている。
6. Other Works
6.1. Photo Book and DVD
大友愛は現役時代に、その人気と注目度の高さから、写真集とDVDを発表している。
- 写真集
- 『I Love ...』(扶桑社)
- DVD
- 『You Are My ...』(ポニーキャニオン)