1. 概要
大谷一二は、兵庫県に生まれ、学生時代にサッカー選手として頭角を現し、神戸商業大学(現神戸大学)でサッカー部の創設に尽力し、日本代表としても活躍しました。特に1934年の第10回極東選手権競技大会では3試合に出場し1得点を記録しました。しかし、その実力にもかかわらず、1936年のベルリンオリンピック代表には選出されず、当時の日本サッカー界の東西確執が背景にあったとされています。サッカー選手引退後は実業家として東洋紡に入社し、後に社長、会長、名誉顧問を歴任し、日本紡績協会の会長も務めるなど、産業界でも大きな足跡を残しました。本記事では、彼のサッカー選手としての経歴と実業家としての功績、そして生涯を通じて日本社会に与えた影響について詳述します。
2. 生い立ちと初期キャリア
大谷一二の出生背景、家族構成、幼少期の環境などの基本情報と、教育過程、学生時代の初期のサッカー活動について記述します。
2.1. 出生と家族背景
大谷一二は1912年8月31日に兵庫県で生まれました。彼の父は内海紡績の常務取締役を務めた大谷恭助であり、実弟にはサッカー記者の大谷四郎がいます。
2.2. 学業と初期サッカー経歴
大谷は兵庫県立第一神戸中学校を卒業し、学生時代はサッカー選手として活躍しました。第一神戸中学校では右近徳太郎とコンビを組み、全国制覇を達成しています。その後、兵庫県立神戸高等商業学校を卒業後、一度鐘紡に入社しますが、1年で退社し、1934年に神戸商業大学(現神戸大学)に入学しました。同大学ではサッカー部を創設し、関西学生リーグで優勝を果たすなど、その中心選手として活躍しました。
3. サッカー経歴
大谷一二の選手として日本サッカー界での主な活動と、国家代表チームでの業績を詳細に記述します。
3.1. クラブ経歴
大谷は幼少期からサッカーに親しみ、以下の学校でサッカー部に所属し、その才能を磨きました。
- 兵庫県御影師範学校附属小学校(現:神戸大学附属住吉小学校)
- 兵庫県立第一神戸中学校
- 兵庫県立神戸高等商業学校
- 神戸商業大学
特に、神戸商業大学(現神戸大学)に1934年に入学後、同大学のサッカー部を自身が中心となって創設し、その活躍により関西学生リーグで優勝を果たしました。
3.2. 国家代表チーム経歴
大谷は神戸商業大学在学中の1934年5月にフィリピンのマニラで開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されました。この大会では、以下の3試合に出場し、1得点を記録しました。
- 1934年5月13日:オランダ領東インド代表戦(結果:1-7で敗戦)
- 1934年5月15日:フィリピン代表戦(結果:4-3で勝利、この試合で1得点を記録)
- 1934年5月20日:中華民国代表戦(結果:3-4で敗戦)
これらの試合を通じて、彼は日本代表のフォワードとして国際舞台での経験を積みました。
3.3. ベルリンオリンピック選考に関する議論
大谷一二は、当時川本泰三と並ぶ日本最高のフォワードの一人として評価されていましたが、1936年のベルリンオリンピックの日本代表には選出されませんでした。この選出漏れは、当時の日本サッカー界における東西の蹴球協会の間の確執が背景にあったと言われています。彼の高い実力と貢献にもかかわらず、こうした組織的な対立が原因で国際大会の機会を逸したことは、当時の日本サッカー界の課題を浮き彫りにする出来事でした。
4. 実業家経歴
サッカー選手引退後の実業家としての主な活動と、東洋紡での経営者としての業績を記述します。
4.1. 東洋紡入社と初期
1937年3月に神戸商業大学を卒業した大谷は、同年4月に東洋紡績に入社し、実業家としての道を歩み始めました。
4.2. 経営陣活動
東洋紡に入社後、大谷は順調に昇進を重ね、その経営手腕を発揮しました。
- 1964年12月:取締役
- 1968年6月:常務取締役
- 1972年12月:専務取締役
- 1974年2月:取締役副社長
- 1974年6月:社長に就任(1978年まで務める)
- 1978年7月:社長を退任し会長に就任(1983年まで務める)
社長および会長在任中には、繊維業界の変動期において東洋紡の経営を牽引し、同社の発展に大きく貢献しました。
4.3. その他の役職と引退後
東洋紡の経営者としての職務と並行して、大谷は対外的な活動も積極的に行いました。日本紡績協会の会長なども務め、日本の紡績産業全体の発展にも寄与しました。1983年7月に東洋紡績の相談役に就任し、1992年には同社の名誉顧問となり、引退後も長きにわたり会社に貢献しました。
5. 死去
大谷一二は2007年11月23日、老衰のため95歳で死去しました。
6. 遺産と評価
大谷一二の生涯と業績に対する後世の評価と、彼が残した遺産について記述します。
6.1. サッカー界への影響
大谷一二は、学生時代からそのサッカーの才能を発揮し、特に自身が創設に関わった神戸商業大学サッカー部では、関西学生リーグ優勝という実績を残しました。日本代表としても国際試合に出場し、その優れたフォワードとしての能力は当時のサッカー界で高く評価されました。彼の存在は、日本のサッカー発展期において、若い世代の選手たちに大きな影響を与え、日本サッカーの基盤作りに貢献しました。
6.2. 事業的遺産
サッカー選手引退後、大谷は東洋紡に入社し、取締役から始まり、副社長、社長、そして会長へと昇進し、長年にわたり経営の要職を歴任しました。彼のリーダーシップは、繊維業界が国内外の経済情勢の変化に直面する中で、東洋紡の成長と安定に貢献しました。また、日本紡績協会会長としての活動は、日本の紡績産業全体の発展と国際競争力の強化に寄与しました。彼の経営哲学と実務経験は、東洋紡だけでなく、広く日本産業界にも影響を与え、社会全体への貢献を果たしました。
7. 統計
大谷一二の国家代表チームでの出場記録を以下に示します。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1934 | 3 | 1 |
合計 | 3 | 1 |
8. 外部リンク
- [http://www.national-football-teams.com/player/50101/Ichiji_Otani.html National Football Teams]
- [http://www.japannationalfootballteam.com/en/players/otani_ichiji.html Japan National Football Team Database]