1. 生い立ちと教育
小松塁は1983年8月29日に高知県安芸市で生まれた。幼少期からサッカーに親しみ、その才能を育んだ。身長は190 cm、体重は79 kgであった。
彼は高知県立高知追手前高等学校で1999年から2001年までサッカー部に所属し、学生時代からフォワードとしての能力を発揮した。高校卒業後、2002年から2005年まで関西学院大学に進学。大学サッカー部でプレーを続け、その実力をさらに磨いた。
大学在学中の2005年には、将来性を見込まれ、Jリーグおよび日本サッカー協会(JFA)の特別指定選手としてセレッソ大阪に登録された。この制度により、大学の試合に出場しながらプロクラブの一員として活動することが可能となったが、この期間中にセレッソ大阪の公式戦で出場機会を得ることはなかった。同年には、ユニバーシアードのサッカー日本代表に選出され、トルコのイズミルで開催されたイズミル大会で優勝に貢献した。また、東アジア競技大会でも日本代表として参加した。
2. 選手経歴
小松塁のプロサッカー選手としてのキャリアは、2006年にセレッソ大阪に正式入団したことから始まった。その後、複数のクラブを渡り歩き、その高さを活かしたプレースタイルで各チームの攻撃を牽引した。
2.1. クラブでの経歴
小松は大学卒業後の2006年に、特別指定選手として登録されていたセレッソ大阪に正式に入団した。しかし、同年10月には全国地域リーグ決勝大会を控える当時Kyuリーグ所属のV・ファーレン長崎へ期限付き移籍する。ここでは同じく期限付き移籍で加入した林祐征と「ツインタワー」を組んでJFL昇格を目指したが、長崎での公式戦出場はなかった。
2007年にセレッソ大阪に復帰。当初は出場機会に恵まれなかったが、シーズン途中から監督に就任したレヴィー・クルピによってそのフォワードとしての総合的な能力の高さが評価され、レギュラーに抜擢された。同年5月23日のJ2第17節対水戸ホーリーホック戦でセレッソ大阪での初ゴールを記録した。古橋達弥との2トップを形成し、互いの動きを活かし合う連携でチームの攻撃を支えた。
2008年シーズンも、小松は当初出場機会に恵まれなかったものの、第8節のロアッソ熊本戦でスタメンに復帰すると、第9節の横浜FC戦から5試合連続ゴールを挙げるなど、期待に応える活躍を見せた。このシーズンは、古橋達弥の負傷もあり、小松が1トップを務め、香川真司や柿谷曜一朗、後に乾貴士がシャドープレーヤーとして彼を支えるフォーメーションが組まれることが多かった。時には森島康仁やカイオとツインタワーを組むこともあった。しかし、10月のフォーメーション変更後は、カイオにポジションを奪われ再び控えに回ることが増えた。それでも、このシーズンは香川真司と並び、チームトップタイの16得点を記録した。
2009年も引き続き1トップ2シャドーの基本フォーメーションが採用された。このシステムでは、香川や乾といったシャドープレーヤーを活かすことに徹するカイオに対し、小松は自ら得点を狙う意識が強かったため、カイオとのスタメン争いで苦戦することとなった。
2012年には川崎フロンターレへ完全移籍した。リーグ開幕から数試合でスタメン出場を果たすも、結果を残すことができず、監督が相馬直樹から風間八宏に交代してからはほとんど出場機会を与えられなかった。
2013年は大分トリニータへ移籍したが、同年7月22日には再びV・ファーレン長崎へ期限付き移籍した。長崎では2014シーズンまでプレーし、チームの主力として活躍した。
2015年からはギラヴァンツ北九州へ完全移籍。移籍初年度から主力として活躍し、2015シーズンはJ2リーグでキャリア最多の18ゴールを記録。これはリーグ全体の得点ランキングで3位、日本人選手の中ではトップの成績であった。特にシーズン後半には、12試合で10ゴール、そのうち終盤の5試合連続で6ゴールという驚異的な得点力を示した(天皇杯での1ゴールは除く)。しかし、翌2016シーズンは33試合に出場しながら4ゴールと得点数が激減し、チームもJ2最下位となりJ3降格を経験した。
2017年シーズンはJ3リーグで14試合に出場したがゴールを挙げられなかった。天皇杯2回戦の清水エスパルス戦ではチーム唯一のゴールを決めたものの、同年11月22日にギラヴァンツ北九州から契約満了が発表された。同年12月にはJリーグ合同トライアウトに参加したが、新たな所属先を見つけることはできなかった。
2.2. 主な実績とハイライト
小松塁のキャリアにおける重要な瞬間は、ゴール前での存在感とチームへの貢献であった。特にセレッソ大阪在籍時の2007年シーズンには、古橋達弥との強力な2トップを形成し、二人で合計30ゴール(古橋が18ゴール、小松が12ゴール)を挙げるなど、攻撃の核として活躍した。この年は小松のJリーグ初得点も記録され、彼の得点能力が注目され始めた時期である。
2008年シーズンには、一時的に古橋達弥が負傷で離脱する中で、小松が1トップを務め、香川真司や柿谷曜一朗、乾貴士といった若手有望株のシャドープレーヤーたちと連携し、チームの攻撃を牽引した。このシーズンには、香川真司と並んでチームトップタイとなる16ゴールを記録し、自身の得点能力の高さを改めて証明した。
ギラヴァンツ北九州に所属した2015年シーズンは、J2リーグでキャリアハイとなる18ゴールを記録した。これはリーグ全体の得点ランキングで3位、日本人選手の中ではトップという素晴らしい成績であり、彼のキャリアにおける最大のハイライトの一つとなった。特に、シーズン後半には12試合中9試合で得点を挙げ、5試合連続ゴールを含む怒涛のゴールラッシュを見せた。
一方で、キャリアを通じていくつかの課題にも直面した。特に、2008年後半や2009年には、チームのフォーメーション変更やカイオとのポジション争いの中で出場機会が減少する時期もあった。また、川崎フロンターレ在籍時には、得点に恵まれず、監督交代後にはほとんどプレー機会を失うなど、厳しい時期も経験した。ギラヴァンツ北九州での最後の2シーズンは、怪我の影響もあり得点数が伸び悩み、最終的には現役引退を決断するに至った。
2.3. 代表経歴
小松塁は、国際大会において日本代表に選出され、その経験を積んだ。
2005年には、トルコのイズミルで開催されたユニバーシアードにサッカー日本代表の一員として参加し、この大会で日本チームの優勝に貢献した。
また、同年には東アジア競技大会のサッカー日本代表にも選出された。これらの国際大会への参加は、彼の選手としての経験と成長に重要な役割を果たした。
3. 通算成績
小松塁のプロキャリアにおけるクラブおよび国際大会での出場記録、得点統計を以下に示す。
| クラブ | シーズン | リーグ戦 | 天皇杯 | Jリーグカップ | アジア | 合計 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
| セレッソ大阪 | 2006 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 1 | 0 | |
| V・ファーレン長崎 | 0 | 0 | - | - | - | 0 | 0 | ||||
| セレッソ大阪 | 2007 | 32 | 12 | 2 | 0 | - | - | 34 | 12 | ||
| 2008 | 32 | 16 | 1 | 0 | - | - | 33 | 16 | |||
| 2009 | 35 | 6 | 1 | 0 | - | - | 36 | 6 | |||
| 2010 | 23 | 2 | 1 | 0 | 5 | 2 | - | 29 | 4 | ||
| 2011 | 23 | 5 | 3 | 1 | 1 | 0 | 6 | 1 | 33 | 7 | |
| 川崎フロンターレ | 2012 | 12 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | 15 | 0 | |
| 大分トリニータ | 2013 | 5 | 1 | - | 2 | 0 | - | 7 | 1 | ||
| V・ファーレン長崎 | 12 | 4 | 1 | 0 | - | - | 13 | 4 | |||
| 2014 | 30 | 4 | 3 | 1 | - | - | 33 | 5 | |||
| ギラヴァンツ北九州 | 2015 | 41 | 18 | 2 | 1 | - | - | 43 | 19 | ||
| 2016 | 33 | 4 | 0 | 0 | - | - | 33 | 4 | |||
| 2017 | 14 | 0 | 1 | 1 | - | - | 15 | 1 | |||
| キャリア通算 | 293 | 72 | 16 | 4 | 10 | 2 | 6 | 1 | 325 | 79 | |
- Jリーグ初出場 - 2006年8月12日 J1第17節・対大宮アルディージャ(長居スタジアム)
- Jリーグ初得点 - 2007年5月23日 J2第17節・対水戸ホーリーホック(笠松運動公園陸上競技場)
4. 現役引退と指導者キャリア
小松塁は、度重なる怪我の影響もあり、2018年1月30日にプロサッカー選手としての現役引退を発表した。しかし、彼のサッカーへの情熱は尽きることなく、引退と同時にセレッソ大阪から分離された一般社団法人であるセレッソ大阪スポーツクラブへ入団し、指導者としての新たなキャリアをスタートさせた。
彼の指導者としてのキャリアは以下の通りである。
- 2018年 - 2018年5月: セレッソ大阪スクールコーチ
- 2018年6月 - 2018年: レディース・ガールズコーチ 兼 スクールコーチ
- 2019年 - 2022年: U-15コーチ
- 2023年 - 2024年: U-18コーチ
- 2025年 - : トップチームコーチ
スクールコーチとしてサッカーの基礎を教えることから始め、ユース年代の指導、そして現在はトップチームのコーチとしてプロ選手たちの指導に携わるなど、指導者として着実にステップアップを続けている。
5. 評価と貢献
小松塁の選手としてのキャリアは、特にJ2リーグにおいて顕著な得点能力と高い身体能力を誇るフォワードとして、日本サッカー界に強い印象を残した。彼はセレッソ大阪やギラヴァンツ北九州といったクラブでチームの攻撃の核となり、重要な局面でのゴールでチームを勝利に導いた。特に2007年、2008年のセレッソ大阪時代における古橋達弥とのパートナーシップや、2015年のギラヴァンツ北九州でのキャリアハイの18得点は、彼の選手としての貢献度を明確に示している。彼はまた、ユニバーシアードでの優勝など、国際舞台での経験も積んでおり、若い世代に影響を与える存在であった。
選手引退後、彼はすぐにセレッソ大阪スポーツクラブで指導者の道を選び、育成年代からトップチームまで、様々なカテゴリーでコーチを務めている。この指導者としての継続的な活動は、彼が単なる一選手としてではなく、日本サッカーの発展に深く関与し続ける人材であることを示している。若手選手の育成に力を注ぐことで、将来の日本代表選手やJリーグ選手を育てる役割を担っており、その指導者としての貢献は日本サッカーの未来にポジティブな影響を与えている。
総じて、小松塁は選手としては印象的な得点力でチームを支え、引退後は指導者として後進の育成に尽力することで、日本サッカー界に多角的に貢献している人物である。彼の現役時代の実績と、指導者としての継続的な挑戦は、サッカー界における模範的なキャリアパスの一つとして評価される。