1. 概要

小谷実可子(こたに みかこ、現姓: 杉浦)は、日本の元アーティスティックスイミング選手であり、現在はスポーツコメンテーターやスポーツ行政官として多岐にわたる活動を展開しており、スポーツビズに所属する。東京都出身。身長は1.64 m、体重は53 kg。
選手時代には、日本人離れした体型が競技に不利とされる中で、卓越した技術と表現力で数々の国際大会で輝かしい功績を収めた。特に、1988年ソウルオリンピックでは、ソロとデュエットの両種目で銅メダルを獲得し、日本代表選手団の旗手も務めた。これは日本人女性として初の快挙である。
引退後も、小谷はスポーツ界に深く関わり続け、日本オリンピック委員会(JOC)やIOCアスリート委員会、国内オリンピック委員会連合(ANOC)、世界オリンピアン協会(WOA)など、国内外の主要なスポーツ団体で重要な役職を歴任している。さらに、国連総会において「オリンピック停戦決議」を提案するなど、スポーツを通じた平和と人権の促進に尽力しており、その活動は社会全体に大きな影響を与えている。2007年には、その功績が認められ、国際水泳殿堂入りを果たした。
2. 幼少期と教育
小谷実可子は1966年8月30日に東京都で生まれた。幼少の頃からアーティスティックスイミング(旧称: シンクロナイズドスイミング)に親しんだ。
渋谷区立神宮前小学校、桐朋女子中・高を経て、日本大学文理学部を卒業している。
1978年には、小学生ながら日本代表として「カナダ年齢別選手権大会」に出場し、ソロとデュエットの両種目で3位に入賞した。1982年には、さらなる技術向上を目指してアメリカ合衆国カリフォルニア州ウォールナットクリークのノースゲート・ハイスクールにシンクロ留学し、アメリカ代表チームの指導者であったゲイル・エメリーに師事した。
3. 競技キャリア
小谷実可子のアーティスティックスイミング選手としてのキャリアは、幼少期に始まり、国内外での経験を積みながら着実に成長していった。
3.1. ユースおよび初期活動
小学生の頃からシンクロナイズドスイミングの練習を始め、その才能は早くから開花した。
1978年には、日本代表としてカナダで開催された「カナダ年齢別選手権大会」に出場し、ソロとデュエットの両部門で3位という好成績を収め、国際舞台での実力を示した。その後、1982年にはさらなる技術向上を目指し、アメリカ合衆国のノースゲート・ハイスクールに留学。ここでは、アメリカのナショナルチームを指導していた高名なコーチ、ゲイル・エメリーの指導を受け、競技者としての基盤をより強固なものにした。
3.2. 主要大会成績
小谷実可子は、その競技キャリアを通じて数々の主要大会で輝かしい成績を収めた。
1985年にはパンパシフィック水泳選手権に出場し、ソロで銀メダル、デュエットで金メダルを獲得した。この年から全日本水泳選手権では4連覇を達成するなど、国内のトップ選手としての地位を確立した。
国際大会における主な成績は以下の通りである。
大会名 | 開催年 | 開催地 | 種目 | メダル |
---|---|---|---|---|
世界水泳選手権 | 1986年 | マドリード | デュエット | 銅 |
世界水泳選手権 | 1986年 | マドリード | チーム | 銅 |
世界水泳選手権 | 1991年 | パース | ソロ | 銅 |
世界水泳選手権 | 1991年 | パース | デュエット (高山亜樹とのペア) | 銀 |
世界水泳選手権 | 1991年 | パース | チーム | 銅 |
パンパシフィック水泳選手権 | 1985年 | 東京 | ソロ | 銀 |
パンパシフィック水泳選手権 | 1985年 | 東京 | デュエット | 金 |
パンパシフィック水泳選手権 | 1987年 | ブリスベン | デュエット | 金 |
FINAシンクロナイズドスイミングワールドカップ | 1985年 | インディアナポリス | チーム | 銅 |
FINAシンクロナイズドスイミングワールドカップ | 1987年 | カイロ | デュエット | 銅 |
FINAシンクロナイズドスイミングワールドカップ | 1987年 | カイロ | チーム | 銅 |
FINAシンクロナイズドスイミングワールドカップ | 1989年 | パリ | ソロ | 銅 |
FINAシンクロナイズドスイミングワールドカップ | 1989年 | パリ | デュエット | 銀 |
FINAシンクロナイズドスイミングワールドカップ | 1989年 | パリ | チーム | 銅 |
そして、小谷のキャリアの頂点の一つは、1988年ソウルオリンピックでの活躍であった。開会式では日本選手団の旗手を務め、これは日本人女性として初めての栄誉であった。競技では、ソロと田中京とのデュエットの両種目で銅メダルを獲得した。この功績により、都民栄誉賞、ビッグスポーツ賞、総理大臣銀杯など、数々の栄誉ある賞を受賞した。
1989年にはスイス・オープンでソロ優勝を飾り、1990年にはローマシンクロ大会とマヨルカ・オープン大会でもソロ優勝を達成した。
3.3. 引退と復帰
1991年の世界水泳選手権パース大会でソロ銅メダル、高山亜樹とのデュエットで銀メダルを獲得した後、小谷実可子は一時的に競技活動を休養することを発表した。この期間中、彼女は1998年長野オリンピックの招致活動など、競技以外の分野でスポーツへの貢献を続けた。
しかし、1992年バルセロナオリンピックを控え、現役復帰を決意。これまでの実績が高く評価され、日本人アーティスティックスイミング選手としては初めて2大会連続でオリンピック代表に選出されるという快挙を成し遂げた。バルセロナ五輪では、試合直前まで奥野史子らと出場枠を競い合った。結果としてソロでは奥野史子が出場し、デュエットでは小谷と高山亜樹が出場予定と一度発表されたものの、最終的には奥野と高山が出場することになり、小谷は本番で演技をする機会を失った。デュエットの試合中、小谷は観客席からチームメイトを見守り続け、試合終了後に涙を流す姿が繰り返しテレビで放映され、多くの人々の記憶に残った。
バルセロナ五輪後、小谷は正式に現役引退を表明した。
4. ポスト競技活動
選手としての第一線を退いた後も、小谷実可子はスポーツ界の発展と社会貢献のために多岐にわたる活動を展開している。
4.1. スポーツ行政と外交
小谷実可子は、引退後、日本オリンピック委員会(JOC)の広報員や理事、長野オリンピック広報員を務めるなど、国内のスポーツ行政に深く関わった。また、IOCアスリート委員会、国内オリンピック委員会連合(ANOC)委員、そして世界オリンピアン協会(WOA)の理事および副会長を務めるなど、国際的なスポーツ団体でも重要な役割を担っている。
1997年11月25日には、特筆すべき功績として、民間人として初めて国連総会に出席した。この場で彼女はスポーツと平和に関する議題について講演を行い、長野冬季オリンピックの開催期間中の停戦を求める「オリンピック停戦決議」を提議した。この決議は全会一致で採択され、スポーツの持つ平和構築への可能性を世界に示した。
2013年には、2020年夏季オリンピックの東京招致活動において、計画された会場配置案を提示する役割を担った。2014年9月16日には日本中央競馬会の非常勤監事に任命され、これはJRA初の女性役員となった。2016年1月25日には、2016年リオデジャネイロオリンピックの閉会式で行われた「フラッグハンドオーバーセレモニー」の検討メンバー(アドバイス担当)にも就任した。
4.2. メディアと教育活動
小谷実可子は、スポーツコメンテーターとしてメディアでも活躍しており、多くのテレビ番組に出演している。主な出演番組には、『情報スペースJ』(TBS)、『世界水泳』(テレビ朝日)、『世界陸上』(TBS)、『どうぶつ奇想天外!』、『からだであそぼ』(NHK教育)、『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK総合)、『ハピふる!』(フジテレビ)、『ソロモン流』(テレビ東京)、『くらしのサプリ!集合!○○三姉妹』、『美活三姉妹~くらしのサプリ~』(BS朝日)、『世界水族館ものがたり』(JNN共同制作番組)、『2016年リオデジャネイロオリンピック』(フジテレビでオリンピアンキャスターとして中継を担当)、『奇跡のレッスン アーティスティックスイミング 小谷実可子』(NHK BS1)などがある。
また、ミズノ「SPEEDO」、カルピス、国民年金基金、ツムラ、グアム政府観光局、イオン、コナミデジタルエンタテインメントの『実況パワフルプロ野球2013』、アートネイチャー、日本マイクロソフトの『Windows 8.1』(これら3社は「阿須里家」シリーズとして武蔵丸光洋、織田信成、伊藤沙月と共演)、サントリー「セサミンEX」、世界水泳福岡2023の「シンフロ」メンバーといったテレビCMにも多数出演している。
著書には『ドルフィン・ピープル』(1998年)や『一筆啓上-スポーツ見て歩記』(2004年)があり、ビデオ作品として『どうぶつ奇想天外!・イルカとの絆』(1998年)もリリースしている。
教育分野では、2006年10月に政府の教育再生会議委員に就任した。さらに、2015年からは立教大学の兼任講師を務め、大学の授業でシンクロナイズドスイミングを指導するなど、後進の育成にも力を注いでいる。
4.3. 近年の活動
選手引退後も精力的に活動を続ける小谷実可子は、近年も重要な活動と功績を重ねている。2015年12月には、22年ぶりにシンクロのショーに出演し、多くの観客を魅了した。
2023年8月には、世界マスターズ水泳選手権2023に選手として挑戦したことが大きな話題となった。この大会では、アーティスティックスイミングのチーム、ソロ、デュエットの3部門に出場し、デュエットでは銀メダリストの藤丸真世と共にペアを組み、3枚の金メダルを獲得する快挙を成し遂げた。この挑戦は、10を超える役職と家庭を両立させながらの現役復帰であり、その姿勢は多くの人々に感動と勇気を与えた。
5. 私生活とエピソード
小谷実可子は1999年に、元陸上短距離選手であり当時明海大学助教授であった杉浦雄策と結婚し、本名が杉浦実可子となった。2001年2月には長女を、2006年8月には二女を出産している。公私にわたり充実した生活を送っており、多忙な活動と家庭を両立させている。
印象的なエピソードとして、1988年ソウルオリンピックでの小谷の演技を見たアメリカ人男性が、その美しさに感動し、「美しく泳ぐから、野生のイルカに会わせたい」と誘ったことがある。これは、彼女の演技が単なる技術だけでなく、見る人の心を動かす芸術性を持っていたことを示している。
6. 受賞と栄誉
小谷実可子は、選手およびスポーツ行政官としての長年の功績により、数多くの賞と栄誉を受けている。
- 1988年ソウルオリンピック後の受賞**
- 都民栄誉賞
- ビッグスポーツ賞
- 総理大臣銀杯
- 国際的な栄誉**
- 2007年:国際水泳殿堂入り
- 2008年1月:グアム自然大使に任命
7. 評価と遺産
小谷実可子は、アーティスティックスイミング選手としてだけでなく、引退後の多岐にわたる活動を通じて、日本のスポーツ界と社会全体に計り知れない影響を与えてきた。日本人選手が体型的に不利とされるアーティスティックスイミングにおいて、彼女が国際舞台でメダルを獲得したことは、その後の選手たちに大きな希望と可能性を示した。彼女の泳ぎは、技術の高さだけでなく、表現力と美しさによって多くの観客を魅了し、競技の魅力を広めることに貢献した。
選手引退後は、スポーツコメンテーターとして競技の解説を行うだけでなく、日本オリンピック委員会、IOCアスリート委員会、世界オリンピアン協会といった国内外の要職を歴任し、スポーツ行政の発展に尽力した。特に、1997年に国連総会で「オリンピック停戦決議」を提案し、その採択に貢献したことは、スポーツが平和構築と人権尊重に貢献しうる強力な手段であることを世界に示した画期的な功績である。これは、彼女が単なる元アスリートに留まらず、スポーツを社会変革のツールと捉え、社会貢献を追求する姿勢の表れである。
2023年の世界マスターズ水泳選手権への挑戦と成功は、彼女が年齢を重ねてもなお、挑戦し続けることの価値と、スポーツへの情熱を持ち続けることの重要性を社会に示した。複数の役職と家庭を両立させながら、競技者としても高みを目指すその姿は、多くの人々、特に女性にとってのロールモデルとなっている。
小谷実可子の功績は、競技成績だけでなく、スポーツの価値を社会に広め、平和と人権の推進に貢献した点にその真価がある。彼女の活動は、スポーツが持つ可能性を最大限に引き出し、より良い社会の実現に寄与する、まさに「社会進歩」の遺産と言えるだろう。