1. 概要
小関竜也は、日本の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ、野球解説者である。栃木県佐野市出身。左投左打。選手としては埼玉西武ライオンズ、読売ジャイアンツ、横浜DeNAベイスターズでプレーし、1998年にはパシフィック・リーグの新人王に輝いた。特に西武時代には走攻守にわたる総合的な能力でチームのリーグ優勝に貢献し、ベストナインやゴールデングラブ賞も受賞している。引退後は野球解説者として活動した後、古巣である読売ジャイアンツと埼玉西武ライオンズでコーチを務め、2025年からは西武のファーム監督に就任することが決定している。長女は元アイドルグループ・カントリー・ガールズのメンバーである小関舞である。
2. 来歴
小関竜也のプロ野球選手としてのキャリアは、投手として入団した後、打者へと転向し、複数球団でのプレーを経て指導者としての道を歩むことになった。
2.1. プロ入り前
小関竜也は幼少期から野球に打ち込み、高校時代にはその才能を開花させた。
2.1.1. 出生地と家族
小関竜也は1976年7月24日に栃木県佐野市で生まれた。実家は佐野市内にある有名な佐野ラーメン店「万里」を営んでいる。
2.1.2. 高校時代
国学院栃木高校では、野球部のエース投手としてだけでなく、主将と四番打者も兼任し、チームの中心選手として活躍した。3年夏の県大会では、3回戦で延長12回を投げ抜き、14奪三振の力投を見せたものの、チームは惜敗した。この時の控え投手には、後に千葉ロッテマリーンズで活躍する渡辺俊介がいた。
2.1.3. 大学進学とドラフト
高校卒業後、慶應義塾大学への推薦入試を受けたが、不合格となった。その後、1994年度プロ野球ドラフト会議において、西武ライオンズから2位指名を受け、投手として入団した。しかし、入団後に打者へと転向することになる。
2.2. 西武ライオンズ時代
西武ライオンズでのプロ生活は、ポジション転向から始まり、新人王受賞、主力選手としての活躍、そして選手会長としての役割を経て、新たな挑戦へと向かう転機を迎えた。
2.2.1. 入団とプロデビュー
西武ライオンズに入団後、小関は投手から外野手へとポジションを変更した。1996年10月4日に行われた対近鉄バファローズ25回戦(西武ライオンズ球場)の8回裏に、笘篠誠治の代打として一軍初出場を果たした。この試合が同年唯一の一軍出場となった。翌1997年も一軍出場は1試合に留まった。
2.2.2. 新人王受賞と活躍
1998年には、104試合に出場し、その活躍が認められ、パシフィック・リーグの最優秀新人に選出された。パ・リーグにおいて、入団4年目の選手が新人王を受賞したのは小関が初めてであり、2021年時点でも唯一の事例である。また、高卒でプロ入りした野手としては、2021年現在までパ・リーグで新人王を受賞した最後の選手であった(源田壮亮が登場するまでの19年間、パ・リーグ野手の新人王は小関が最後だった)。1999年には123試合に出場し、打率.268、1本塁打、34打点、16盗塁を記録し、自身初の規定打席に到達した。
2.2.3. 主なシーズン成績
2002年は、自身最高の打率.314を記録した。この年、松井稼頭央との不動の一・二番コンビを形成し、リーグ最多となる43犠打を記録するなど、チームの攻撃を牽引した。小関自身も初のリーグ優勝を経験した。読売ジャイアンツとの日本シリーズ第2戦(10月27日、東京ドーム)では、1回表二死満塁の場面で三塁走者だった小関が、巨人・桑田真澄が二塁へ牽制球した隙を突き本塁を狙ったが、返球が早くアウトとなった。このチャンスを逃した西武は、桑田に抑え込まれ、打線も振るわず、結果的にチームはストレートの4連敗で日本シリーズ優勝を逃した。2003年は打率3割には届かなかったものの、5三塁打とリーグ最多の32犠打を記録した。2004年には赤田将吾や佐藤友亮が台頭した影響もあり、レギュラーとしての出場機会が減少し、90試合の出場に終わった。しかし、リーグ優勝を決めたプレーオフ第二ステージの第5戦では、10回表の先頭打者として三瀬幸司から決勝点に繋がる二塁打を放つなど、重要な局面で活躍を見せた。
2.2.4. 選手会長と退団
2005年には選手会長に就任し、さらなる飛躍が期待された。しかし、開幕スタメンの座を前年台頭した赤田将吾や佐藤友亮に奪われる形となった。4月2日の試合中に佐藤が負傷し長期離脱(9月に復帰)するも、小関はそのチャンスを生かせず、47試合の出場に留まり、打率.198と低迷した。シーズン終了後、球団から大幅な減俸を提示されたことを受け、メジャーリーグへの挑戦を申し出た。西武球団は小関を長年の功労者であると認め、自由契約とした。
2.3. メジャーリーグ挑戦と巨人時代
西武を退団後、小関はメジャーリーグへの挑戦を決意するが、その道は困難を極め、最終的に読売ジャイアンツへと移籍することになった。
2.3.1. マイナー契約と巨人入団
2006年2月8日、小関は守備と送球の能力を評価され、ミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約を結び、メジャー昇格を目指した。しかし、4月13日に球団のマイナーリーグにおける外国人選手枠が埋まっていることが判明し、その後の交渉も不調に終わり、ブルワーズ残留は困難と判断された。その2日後の4月15日、小関は巨人の入団テストを受け、合格した。
2.3.2. 巨人でのプレーと主な出来事
2006年、小関は巨人でのプレー中に、NPB史上初の「打者走者以外の塁空過で打者の本塁打が取り消される」という珍事(幻の本塁打一覧)を経験した。6月11日に行われたセ・パ交流戦の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)の3回表、二死一塁の場面で、ロッテの渡辺俊介から李承燁が右翼側外野スタンドへ打球を直接叩き込んだ。しかし、プレイ再開後にロッテの今江敏晃が一塁走者だった小関の三塁空過をアピール。これが三塁塁審の西本欣司に受け入れられ、小関はアウトとなった。既に二死であったため、李の得点は認められず、本塁打も取り消され、李には単打が記録された。
この件に関して、小関自身は2009年5月26日に放送された『斉藤一美 うるわしの夜』(文化放送)に出演した際、「(三塁を)踏んでないわけない。踏まないなら変な感触がある」「フジテレビにはベースを踏んだ映像が残っている」「(その時の審判を)今でも許せない。死ぬまで許せない」「今はインターネットがあるのでいつまでも残ってしまう」「清武英利代表が『小関は踏んだ』ということをアピールしてくれてうれしかった」と語っている。この年の巨人は故障者が続出し、小関も入団後は出場機会があったものの、打率.258で本塁打0に終わり、チームの救世主となることはできなかった。なお、小関は西武時代にも1999年6月25日の福岡ダイエーホークス戦で三塁を空過してアウトになった経験がある。
2007年は若手選手の台頭もあり、二軍でも出場機会が得られないまま戦力外通告を受けた。しかし、同年の12球団合同トライアウトで2本塁打を放つ活躍を見せ、横浜ベイスターズへの入団が決定した。石井琢朗は、球団の正式発表前に小関から「よろしくお願いします」という電話があったことを自身のブログで明かしている。石井と小関は同郷であり、自主トレーニングを共に行うなど親交が深かった。
2.4. 横浜ベイスターズ時代
巨人退団後、小関は横浜ベイスターズで新たなスタートを切ったが、最終的には再びチームを去ることとなった。
2.4.1. 入団から退団まで
2008年、横浜ベイスターズに入団した小関は、開幕戦に先発出場し、開幕から4試合連続で複数安打(その内1試合は猛打賞)を記録するなど、絶好調のスタートを切った。しかし、5月に入ると失速し、その後は主に左の代打として起用されることが多くなった。8月半ばに登録を抹消されて以降、一軍での出場機会はなかった。同年10月1日に戦力外通告を受け、横浜を退団した。守備面では無失策を記録しており、その持ち味は十分に発揮されていた。
横浜退団後の2009年には、2度目のメジャーリーグ挑戦を目指し、3月にコロラド・ロッキーズのトライアウトを受けたが、不合格となった。同年4月14日、現役引退を発表した。
3. 選手としての特徴
小関竜也は、西武ライオンズ時代に走攻守の三拍子揃った選手として評価され、特にその守備範囲の広さと堅実なプレーは特筆すべきものであった。
3.1. プレースタイル
西武時代は走攻守の三拍子揃った選手として活躍し、3度のリーグ優勝を経験した。レギュラーの右翼手だった頃は、守備範囲が非常に広いことが特徴であり、右翼手でありながら中堅手よりも多くの打球を処理していた。
3.2. 守備
守備面では、広い守備範囲と極めて少ない失策が特徴であった。これを裏付けるデータとして、プロ入り時から2000年9月6日のロッテ戦まで、パ・リーグの外野手として連続無失策記録(658)を保持していたことが挙げられる。この記録は、2013年5月25日に聖澤諒に破られるまで、長らく保持されていた。
3.3. 走塁
走塁においては、積極的に盗塁を試みる姿勢が見られ、盗塁数が二桁を超えるシーズンも多かった。しかし、盗塁成功率には課題があり、その分盗塁刺の数も多かった。特に2002年は、28回の盗塁企画に対し、15回成功、12回失敗を記録し、同年のリーグ最多盗塁刺を記録した。
3.4. 登場曲と応援
西武時代、西武ライオンズ球場が西武ドームへとドーム化されるのに伴い、各選手が打席に入る際やイニング間の投球練習の間に流すテーマ曲を決めることになった。小関はTBSの番組『レッツゴー!ライオンズ』内でファンからテーマ曲のアイディアを公募し、その結果、テレビドラマ『太陽にほえろ!』で劇中曲として使われた『ジーパン刑事のテーマ』(青春のテーマ)を使用することを決めた。
ある時期から一部の西武ファンが、小関が打席に入る際、場内で流れるこの曲のリズムに合わせて「小関コール」を入れるようになり、これが後にホームゲームだけでなくビジターゲームでも応援団がトランペットで演奏するまでに定着した。
小関は巨人移籍後もこの曲をテーマ曲に選び、ファンや応援団による小関コールも西武時代と同様に行われた。しかし、巨人に在籍した2年間は出場機会に恵まれず、特に2007年シーズンはわずか5試合の出場に留まったため、東京ドームでこの曲が流れたのはわずか2回だけであった。
その後、12球団合同トライアウトを経て横浜へ移籍した際も、小関は「自分のテーマ曲として定着しているし、あの曲で横浜を盛り上げたい」と語り、再びこの曲をテーマ曲に選んだ。
2009年には、西武の星秀和が小関本人に直接許可を得て、この曲を自身の登場曲として使用した。
3.5. 背番号と登録名
小関竜也はプロ野球キャリアを通じて複数の背番号を着用し、また登録名の変更も経験している。
期間 | 背番号 | 所属球団 |
---|---|---|
1995年 - 1999年 | 51 | 西武 |
2000年 - 2005年 | 31 | 西武 |
2006年 | 49 | 巨人 |
2007年 | 31 | 巨人 |
2008年 | 0 | 横浜 |
2011年 - 2017年 | 74 | 巨人(コーチ) |
2018年 | 84 | 巨人(コーチ) |
2020年 - | 79 | 西武(コーチ) |
西武時代、背番号51を着用していた小関は、同じ背番号で同じ守備位置だったイチローと比較されることを嫌い、背番号を51から31へ変更した。小関自身が、かつて背番号31をつけていた掛布雅之と前田智徳を好きな選手として挙げていたことも、その理由の一つである(ただし、小関の引退後のことだが、イチローも後にニューヨーク・ヤンキースで背番号31をつけている)。巨人に移籍した2006年は背番号49だったが、2007年には再び愛着のある背番号31へ変更した。
登録名については、プロ入りから2003年8月13日までは「小関 竜也(おぜき たつや)」を使用していた。しかし、2003年8月14日から2004年までは「小関 竜弥(おぜき たつや)」に変更し、その後2005年からは再び「小関 竜也」に戻している。
4. コーチ・解説者時代
選手引退後、小関竜也は野球解説者としてメディアで活動し、その後はプロ野球チームのコーチとして若手選手の育成やチーム運営に深く関わっている。
4.1. 野球解説者
現役引退後、小関は野球評論家としてJ SPORTSで解説を務めた。解説者としての初仕事は「NACK5 SUNDAY LIONS」のゲスト解説であった。2019年からは、古巣西武のOBとしてフジテレビTWOとテレ玉の野球解説者に復帰した。また、メジャーリーグ中継 (J SPORTS)やインターネットラジオの「鎌スタラジオ」にも出演経験がある。
4.2. コーチ時代
小関は選手引退後、読売ジャイアンツと埼玉西武ライオンズのコーチを歴任し、指導者としてのキャリアを築いている。
4.2.1. 読売ジャイアンツ
2011年から2016年まで、古巣である巨人の二軍外野守備走塁コーチを務めた。2017年からは二軍打撃コーチに異動し、2018年をもって巨人を退団した。
4.2.2. 埼玉西武ライオンズ
2020年からは、再び古巣である西武の一軍外野守備走塁コーチを担当した。2022年からはファーム(二軍)野手総合兼打撃コーチに異動。同年7月14日から25日までの間、ファーム監督の西口文也が新型コロナウイルス陽性となったため、監督代行を務めた。2024年からはファーム野手総合コーチに役職が変更された。肩書は総合コーチであるが、2023年より三軍の対外試合の際には、小関が監督扱いでベンチ入りしている。そして、2025年1月1日付でファーム野手総合コーチからファーム監督に役職が変更となることが決定している。
4.3. その他の活動
小関は野球界での活動以外にも、古巣埼玉西武ライオンズの社会貢献活動や講演活動に協力している。埼玉県内の小・中学校で自身の経験を基にした講演などを行い、地域社会への貢献にも積極的に取り組んでいる。また、テレビドラマ『ドリーム☆アゲイン』に主人公・小木駿介に代打される役で出演した経験もある。
5. 表彰・記録
小関竜也は、そのプロ野球選手としてのキャリアにおいて、数々の個人表彰と記録を達成している。
5.1. 個人表彰
- 新人王(パ・リーグ:1998年)
- ベストナイン:1回(外野手部門:2002年)
- ゴールデングラブ賞:1回(外野手部門:2002年)
5.2. 記録
小関竜也がプロ野球で達成した主な記録は以下の通りである。
; 初記録
- 初出場:1996年10月4日、対近鉄バファローズ25回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に笘篠誠治の代打として出場
- 初打席:同上、8回裏に佐野重樹から三振
- 初安打:1998年4月8日、対福岡ダイエーホークス2回戦(福岡ドーム)、2回表に山崎慎太郎から左前安打
- 初打点:1998年4月19日、対福岡ダイエーホークス4回戦(西武ドーム)、6回裏に吉武真太郎から左翼へ適時二塁打
- 初盗塁:1998年4月21日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、5回表に二盗(投手:伊藤隆偉、捕手:日高剛)
- 初犠打:1998年4月22日、対オリックス・ブルーウェーブ2回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、2回表に星野伸之から一塁前犠打
- 初本塁打:同上、8回表に戎信行から右越2ラン
; 節目の記録
- 200犠打:2004年8月28日、対福岡ダイエーホークス23回戦(西武ドーム)、1回裏に新垣渚から捕手前犠打 ※史上26人目
; 年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | OPS | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | 西武 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1997 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
1998 | 104 | 387 | 322 | 44 | 91 | 11 | 4 | 3 | 119 | 24 | 15 | 10 | 27 | 0 | 33 | 1 | 5 | 37 | 2 | .283 | .358 | .370 | .728 | |
1999 | 123 | 464 | 373 | 46 | 100 | 9 | 4 | 1 | 120 | 34 | 16 | 8 | 32 | 2 | 46 | 0 | 11 | 53 | 6 | .268 | .368 | .322 | .690 | |
2000 | 125 | 417 | 340 | 50 | 89 | 11 | 4 | 1 | 111 | 32 | 7 | 5 | 23 | 4 | 43 | 1 | 7 | 54 | 1 | .262 | .353 | .326 | .679 | |
2001 | 133 | 495 | 407 | 40 | 114 | 17 | 4 | 3 | 148 | 38 | 17 | 6 | 32 | 2 | 46 | 1 | 8 | 37 | 2 | .280 | .363 | .364 | .726 | |
2002 | 135 | 569 | 487 | 59 | 153 | 35 | 1 | 4 | 202 | 50 | 15 | 12 | 43 | 4 | 25 | 0 | 10 | 59 | 1 | .314 | .357 | .415 | .772 | |
2003 | 113 | 457 | 397 | 48 | 111 | 12 | 5 | 1 | 136 | 33 | 9 | 3 | 32 | 3 | 21 | 0 | 4 | 38 | 7 | .280 | .320 | .343 | .663 | |
2004 | 90 | 328 | 286 | 43 | 77 | 13 | 2 | 3 | 103 | 32 | 1 | 3 | 11 | 2 | 24 | 0 | 5 | 29 | 5 | .269 | .334 | .360 | .695 | |
2005 | 47 | 104 | 86 | 10 | 17 | 3 | 1 | 0 | 22 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 8 | 0 | 4 | 16 | 1 | .198 | .296 | .256 | .552 | |
2006 | 巨人 | 56 | 137 | 128 | 8 | 33 | 4 | 2 | 0 | 41 | 10 | 3 | 0 | 4 | 0 | 4 | 0 | 1 | 15 | 1 | .258 | .286 | .320 | .606 |
2007 | 5 | 4 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | 1.000 | 1.250 | |
2008 | 横浜 | 49 | 103 | 93 | 9 | 20 | 1 | 0 | 1 | 24 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 8 | 2 | 1 | 11 | 1 | .215 | .284 | .258 | .542 |
通算:13年 | 982 | 3466 | 2924 | 359 | 806 | 116 | 27 | 18 | 1030 | 259 | 83 | 48 | 211 | 17 | 258 | 5 | 56 | 351 | 27 | .276 | .344 | .352 | .696 |
- 各年度の太字はリーグ最高
; 年度別守備成績
年 度 | 球 団 | 外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1997 | 西武 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- |
1998 | 103 | 213 | 7 | 0 | 3 | 1.000 | |
1999 | 122 | 250 | 4 | 0 | 0 | 1.000 | |
2000 | 116 | 224 | 3 | 1 | 0 | .994 | |
2001 | 130 | 204 | 3 | 1 | 1 | .995 | |
2002 | 135 | 270 | 2 | 1 | 0 | .996 | |
2003 | 109 | 215 | 4 | 3 | 0 | .986 | |
2004 | 79 | 115 | 2 | 1 | 0 | .992 | |
2005 | 32 | 36 | 0 | 1 | 0 | .973 | |
2006 | 巨人 | 40 | 44 | 0 | 1 | 0 | .978 |
2007 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | |
2008 | 横浜 | 29 | 37 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
通算 | 899 | 1608 | 25 | 9 | 4 | .995 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
6. 個人生活
小関竜也の個人生活に関する情報として、家族構成が挙げられる。
6.1. 家族
小関竜也の長女は、元アイドルグループ・カントリー・ガールズのメンバーである小関舞である。小関舞は、かつて巨人戦の始球式で投げたいという意向を示していた。
7. 功績と評価
小関竜也は、プロ野球選手として、そして引退後はコーチや解説者として、長きにわたり野球界に貢献してきた。選手としては、埼玉西武ライオンズ時代に走攻守の三拍子揃った外野手として活躍し、特に1998年の新人王受賞や、2002年のベストナイン、ゴールデングラブ賞受賞は、その実力を示す大きな功績である。広い守備範囲と堅実な守備は、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。また、松井稼頭央との一・二番コンビは、当時の西武打線を牽引する重要な存在であった。
引退後も、野球解説者として視聴者に野球の魅力を伝え、読売ジャイアンツや埼玉西武ライオンズのコーチとして、若手選手の育成に尽力してきた。特に西武では、ファームの要職を歴任し、2025年にはファーム監督に就任するなど、次世代の選手育成における中心的な役割を担っている。彼の多岐にわたる活動は、野球界への献身と、選手や指導者としての高い評価を確立している。
