1. 概要
桑田真澄は、日本の野球界において選手、指導者、そして学者として多大な影響を与えた人物である。特に、清原和博との「KKコンビ」としてPL学園高校時代に甲子園で数々の記録を打ち立て、プロ入り後も読売ジャイアンツのエースとして長きにわたり活躍した。彼のキャリアは、沢村栄治賞やMVP、ゴールデングラブ賞8回受賞など輝かしい栄光に彩られる一方で、ドラフトを巡る騒動や現役時代のスキャンダル、右肘の重傷からのトミー・ジョン手術と不屈の復活劇など、波乱に満ちたものでもあった。引退後は早稲田大学大学院で「野球道」を研究し、東京大学野球部特別コーチや読売ジャイアンツのコーチを歴任するなど、学術的・指導的な側面からも野球界に貢献している。彼は日本のスポーツ界に根強く残る体罰や非合理的な練習方法に対して批判的な立場を取り、科学的かつ人間性を尊重する指導哲学を提唱し続けている。その生き様と野球観は、後進の選手たちに大きな影響を与え、日本の野球文化の変革を促す一助となっている。
2. 生い立ちと背景
桑田真澄は、幼少期から野球に深い関わりを持ち、その才能を早くから開花させた。彼の野球人生は、家族の支えと、時に厳しい環境の中で培われた精神力によって形作られていった。
2.1. 小学校・中学校時代
桑田真澄は1968年4月1日に大阪府八尾市で生まれた。プロゴルファーの桑田泉を弟に持つ。小学2年次には町内会の「はやぶさ子供会ソフトボールチーム」でソフトボールを始め、同学年で最も若かったにもかかわらず、6年生主体のAチームでショートのレギュラーポジションを獲得した。小学3年生からは硬式野球のボーイズリーグチーム「八尾フレンド」に所属し、父・泰次による創意工夫された練習や特訓も行っていた。小学5年生からは主戦級投手として活躍した。
1980年4月、八尾市立大正中学校へ進学後は野球部に所属し、準硬式の試合(大阪中学校優勝野球大会)に出場した。入学直後から外野手・一塁手としてレギュラーとなり、秋からは主戦級投手として活躍した。中学2年次には、第32回大阪中学校優勝野球大会で優勝した守口市立八雲中学校に0-1で惜敗した。中学3年次には、出場した春の中河内地区大会、大阪府大会、八尾市大会、第33回大阪中学校優勝野球大会の全てを制覇した。
大正中学時代は、後にプロに進んだ西山秀二とバッテリーを組んでいた。桑田と西山を擁する大正中は、投打ともに群を抜く強さだったと言われている。大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、桑田の圧倒的な実力を物語る逸話が掲載されている。西山は桑田について「140 km/hくらいの球を、中学生の頃から放っていたね。すんごいコントロールをしていたよ。ミットを構えた所にしか、本当にボールが来なかった」「プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、『桑田はこんな所に来なかったもん。中学生でもそうなのに、なんでプロが出来ないの?』と聞きましたよ」「誰も打てなかった。高校野球で、1年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールだった」「ずーっと野球をやってきて、総合的に桑田が一番すごいと思う。俺の中では歴代ナンバーワンのピッチャーは桑田」と語っている。
進路方針等で学校側と揉め、中学3年生の3学期に八尾市立成法中学校に転校し、同校を卒業した。桑田と同じPL学園に進みたいというチームメイトをセットで入学させようと顧問が画策していたが、PL側は希望していたチームメイトに形式的なセレクションテストを行い2人が合格した。その合格した際の顧問の発言に不信感を持ち学校側ともめたため、最終的に引越し転校することとなったとされている。桑田自身は「最終的には、"勉強のレベルも高く、野球も強いから、ここでどうだ"と、ある高校を提示されました。そこは僕が行けば、他に5人取ってくれるんだということでした」「先生、僕はPL学園に行きたいんです。夢なんです」「ダメだ。うちの中学からPL学園には誰も行ったことがないし。とにかく、お前はここに行け。ここに行けばみんな喜ぶんだ」「いや、先生、それでも僕はPLに行きたい」と学校側と対立し、最終的に「お前を絶対にPL学園には行かせない」と言われ、転校を余儀なくされたと語っている。
2.2. 高校時代
1983年4月、PL学園高等学校に入学した。同期には、後にプロ入りする清原和博、松山秀明、今久留主成幸、内匠政博がいた。
PL学園入学直後は、「4番は清原、エースは田口権一」が既定路線で、桑田は「お前はあっちに行っておれ」という扱いだった。中学時代の実績を考慮され、私学大会などで登板機会が何回かあったが、いずれも痛打され、監督から外野手転向を言い渡された。失意の中、ある日、母親が練習を見に来た際に「もう投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と打ち明けたが、母は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい」と返答し、桑田は思いとどまった。この時、「身体の大きな相手に力で対抗しても無理だ、僕は僕らしくやるしかない」と考えるようになり、清原に対するコンプレックスが消えたという。
桑田が入学する前のPL学園は、1981年、1982年と春のセンバツを連覇したが、夏は4年連続(1979年-1982年)で甲子園出場を逃しており、1983年のV奪回は至上命令だった。この年のPLは投手陣が安定せず、中村順司監督は、市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫を臨時投手コーチとして招聘した。清水は桑田の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き、「おい、凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私が夏までに立派なピッチャーにしてみせる」と発言し、桑田を投手に戻した。清水コーチのマンツーマンの指導が始まり、特に下半身を徹底的に鍛え上げた。通常のスクワットに加え、前後に跳ぶジャンピングスクワットを繰り返させ、桑田が寮の階段を這って上らなければならないほどハードなものだった。清水は後に「下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。だから足腰、膝の使い方を教えた。それだけでよかったんです。腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。毎日、私が桑田の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力」と述懐している。
6月にレギュラー組に昇格。夏の甲子園に向けた大阪大会に背番号17番で清原、田口とともに1年生としてメンバー入りした。打撃も買われての、投手兼外野手としての登録だった。大阪大会において、さして強いとは思えないチーム相手に、よたよたとした試合展開でやっと勝つPLの有様を見かねた清水一夫が、4回戦の大阪スタヂアムでの吹田高校戦前に「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村へ桑田先発を進言した。当初、中村は難色を示したが、清水の並々ならぬ自信と迫力、そして投手コーチとしての力量に、思い切った起用を決意した。試合前まで弁当配りやバット運びをしていた1年生桑田の公式戦先発デビューが急遽、決まった。試合前は味方チームにもかかわらず上級生は桑田を一人にし、「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、「お前がおるからあかんのや」と桑田を苛めた。この試合、清原が公式戦初本塁打で桑田を援護し、桑田は相手打線を散発2安打に抑え、完封した。
決勝での先発は田口だったが、田口が試合中に負傷で退場したため急遽マウンドに桑田が上がり、相手打線を抑えてチームを甲子園出場に導いた。以降は田口は調子が戻らず、桑田がエースに定着した。夏の甲子園では、1年生で背番号「11」ながら同校の事実上のエースとして出場し、1回戦の埼玉県立所沢商業高等学校戦で甲子園デビューした。2回戦の大分県立中津工業高等学校戦を3安打完封、初本塁打。準決勝では、水野雄仁を擁して史上初の夏春夏の甲子園三連覇を目指した「やまびこ打線」の徳島県立池田高等学校と対戦した。初回池田打線に立て続けに良い当たりをされた時は背筋が寒くなり、「何回まで持つかな...」と思ったというが、すぐに「自分は1年生だし、元々打たれて当たり前。打たれても自分が悪いんじゃなく、あっちが偉いんや。」と気を取り直し、その後は味方のファインプレーにも助けられそのまま7-0と完封。1-0でリードの二回裏の二死二塁でバッターボックスに立った桑田は、「ホームラン以外で出塁してスタミナ消耗するより、三振でも良いのでフルスイングでホームランを狙う方がベター」と考え、レフトスタンドに2点本塁打を放ち、水野から甲子園で初めて本塁打を打った選手となる(自身、この大会2本目の本塁打)。決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手(15歳)の記録を立てた。1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は坂本佳一、荒木大輔のように過去にもあったが、いずれも準優勝に終わっており、桑田はそのジンクスを破ったことになる。また、この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験した。帰国後、1年生で優勝し、首脳陣の信頼を勝ち得た桑田は、中村監督に全体練習の短縮化(3時間程度)と個人練習の強化、大会後の投手のノースロー調整を中村監督に志願し、了承されたことから、以降のPL学園の練習方法として定着した。
1984年の2年生での春のセンバツ、夏の甲子園はいずれも決勝で敗れ準優勝。この夏の相手だった取手二高には高校日本代表で一緒になったメンバーがおり、秋の国体後に訪問し、笑顔で野球を楽しむスポーツの原点を再確認して、その後に生かした。
1985年、3年生の春のセンバツはベスト4、夏の甲子園は決勝戦で宇部商業高校を下し優勝した。
高校野球激戦区の大阪から甲子園に出場可能な5回全てに出場し、そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝という記録を清原と共に打ち立てた。甲子園での通算勝利数は吉田正男に次ぐ歴代2位で学制改革以後は1位(20勝3敗)。また、甲子園での通算奪三振記録(150個)も単独一位であり、通算登板数は25試合で単独一位であり、通算投球回数の197回2/3も単独一位を記録しているなど、多くの記録で1番になっており、以後もこれらの記録は破られていない。なお、「夏の甲子園の優勝投手はプロで大成しない」と言われていたが、桑田がプロで173勝の成績を残したため、このジンクスも桑田によって破られた形となった。桑田はプロに進んだ時のことを考え、ストレートとカーブのみで3年間通した。ある時、試合でストレートとカーブしか投げない桑田に対して清原が「もっと簡単に勝てるんだし、スライダーやシュートもキレてんのに何で投げへんねん?」と問い詰めると、桑田は「まっすぐとカーブで高校生を抑えられないようなピッチャーは、プロで大成するわけがないと思っていた」と答え、清原を驚愕させたという。
打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原に次ぐ歴代2位の6本である(内訳:高1夏:2本、高2春:2本、高2夏:1本、高3夏:1本)。高校通算25本塁打を記録した。5回の大会の中で桑田・清原のいたPL学園を1失点以内で抑えた投手(田口竜二、山口重幸、渡辺智男)はいずれもプロ入りをしている。
また、桑田は高校卒業後には早稲田大学(教育学部)への進学を希望していた。「スポーツ推薦ではなく勉強の実力で合格したい」との信念から、夜遅くまで学科の勉強を行っていたという。野球部の寮にあった「勉学室」を桑田は頻繁に利用し、ほぼ常に桑田一人の貸し切り状態であったと、後の2020年に桑田および後輩であった片岡篤史が語っている。
2.3. ドラフト指名とプロ入り
1985年度プロ野球ドラフト会議にて読売ジャイアンツ(巨人)から1位指名を受け、入団した。
桑田は事前に「早稲田大学へ進学する」と表明しており、他の球団は桑田への指名を回避していた。唯一指名した巨人が、くじ引き抽選なしに桑田を獲得した格好となった。そのため、「桑田と巨人との間に密約があったのではないか」と囁かれ(KKドラフト事件)、社会的な論争を巻き起こした。ドラフト後には実家には抗議や嫌がらせが殺到し、警備を頼まざるをえない状況にまでなったという。
桑田自身は密約を否定した上で、「巨人に行かないと言ったことはない。春の選抜が終わった時点で、巨人が一位指名してくれたらプロに行こうと決めた。当時のドラフトでは進学を示唆しながらもプロに入団した選手は自分以外にも大勢いる」と弁明している。また、後の2020年には「巨人から裏金を受けたことはプロ入り後にもわたって一度もない。指名されたことは予想外であり、当時の私は体格的にも技術的にも大学を経てからプロ入りすべきだと考えていた。だからこそ進学のために勉強を続けていた」と語った。桑田は以前から巨人ファンであったが、「PL、早稲田、巨人」という経歴が目標だったという。一方で「心の底には『清原と一緒に巨人に行ければいいな』という気持ちもあった」と述べた。
なお、ドラフト当日には巨人以外の3球団が「桑田を1位指名する予定だ」と桑田の父へ伝えており、桑田は父へ「早稲田へ行く」と告げたという。しかし、その3球団は実際には清原を1位指名し、結果的に巨人だけが桑田を1位指名したと、のちに桑田が明かしている。
ドラフト当日のインタビューで巨人監督の王貞治は「チームの状況を考えれば補強ポイントは投手。投手と言えば桑田」「時期は言えないが、ずっと前から桑田一本で行こうと決めていた」と、指名はドラフト当日の気まぐれな決断ではないことを明かした。桑田で行こうと決断したポイントとして、「状況に応じたピッチングが出来ること」、桑田の印象に残るプレーとしては、1985年春の「第57回選抜の天理高校戦でトリプルプレーを決めたこと」を挙げている。
3. プロ野球経歴
桑田真澄は、読売ジャイアンツで21年間、ピッツバーグ・パイレーツで1年間、合計22年間のプロ野球選手としてのキャリアを歩んだ。その間、数々の栄光と苦難を経験し、日本のプロ野球史に名を刻んだ。
3.1. 読売ジャイアンツ時代
プロ入り前後は本職の投球だけでなく、打撃や守備も優れていた桑田について野手転向を薦める者も多かったが、球団と桑田の意向から転向はせず、投手として1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾った。
3.1.1. 王監督時代(1986年 - 1988年)
2年目の1987年7月8日、札幌市円山球場での広島東洋カープ戦で、自らの3点本塁打と適時打でチームの全4得点をもたらした上で、プロ初完封勝利を挙げた。2号本塁打は9月1日の後楽園球場での中日戦で、前回の対戦で無安打無得点試合を達成した近藤真市からソロ本塁打を打った。近藤にとってはプロ5試合目の登板(先発4)で初の被本塁打で、5失点で初の敗戦投手にもなった(桑田は勝ち負け付かず)。このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれた。また、堀内恒夫以来の10代での2桁勝利となった。同年の日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、いずれの試合も自らのエラーで自滅し、序盤で降板した。
翌1988年には、球団史上最年少の20歳0か月で開幕投手に抜擢された。
3.1.2. 第2次藤田監督時代(1989年 - 1992年)
1989年からは監督の藤田元司独特の先発理論にもとづき斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。
2年連続で開幕投手に指名された1989年は開幕から負けなしの5連勝スタート。自己最多の17勝を記録した。近鉄バファローズとの日本シリーズは、第2戦こそ敗戦投手になったが、第6戦に勝利投手になってチームの日本一に貢献した。
もっとも、この年の夏頃から週刊誌でスキャンダルが報じられ、翌1990年2月、その情報源である中牧昭二によってスポーツ用品メーカーとの関係を暴露する内容の書籍『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』が出版された。その書籍では、桑田が親しくしている会員制メンバーズクラブの社長に登板日を教えたらしい旨の記述や会員の勧誘に成功の報酬として現金をもらう記述があり、さらに同社長がかつて常習賭博罪で有罪判決を受けたことも明らかになった。そのため、桑田が野球賭博に関与しているのではないかとの憶測を招き、その件も週刊誌やスポーツ紙等で騒がれることとなった。当初、桑田は登板日漏洩の事実と金品の授受の事実をいずれも否定したが、その後それが虚偽であったことが判明した。そこで、巨人は、3月30日、桑田に対し、金品の授受等が統一契約書17条(模範行為)に反するとして、シーズン開始後登板禁止1か月、罰金1000.00 万 JPYの処分を下した。この件は、国会でも採り上げられるなど社会問題化した。中牧との間では、野球賭博には関与していないことが確認されている。
1990年のシーズンは、1か月の謹慎後、2試合連続完封でシーズン復帰するなど、遅れをものともせず勝利数・防御率ともに同僚の斎藤に続いてリーグ2位と活躍した。オールスターファン投票でも、与田剛に次いで投手部門で2位となるが、監督推薦から漏れて出場できなかった。日本シリーズは第3戦に先発し、初めて完投(8イニング)したが、7失点と打ち込まれ敗戦投手になった。
1991年は、前年6人で80勝を挙げた先発陣が軒並み不調に陥る中で孤軍奮闘し、あらゆる項目でチーム内トップとなる成績を残した。しかし、1992年は6年連続2桁勝利を記録したものの不調に陥り、6月から7月のチーム10連勝、4連勝、7連勝をいずれも桑田が止めてしまい、テレビや新聞にて連勝ストッパーと名付けられてしまった。
3.1.3. 10.8決戦
長嶋茂雄が2度目の巨人監督へ就任した1993年も前年に続いて打線の援護に恵まれないこともあって精彩を欠き、野手転向論が再度沸くようになった。この時期の不調に関して、当時セ・リーグの審判だった田中俊幸の著書「審判だからわかること」によると「低めの球に伸びがなく、それまでストライクとコールしていた球が外れるようになっていた」という。1994年シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185の成績を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。シーズンを通しての活躍でセ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出された。8月13日の阪神タイガース戦(東京ドーム)では、セ・リーグタイ記録の16奪三振(毎回奪三振も記録)で完封した。
1994年10月5日、神宮球場でのヤクルト戦に先発登板した際は、8回二死までノーヒットノーランに抑え、投手コーチの堀内恒夫の指示で、8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板した。7日夜、宿舎で監督の長嶋茂雄から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」と言われて、意欲満々で試合当日に臨んだ。
当日8日は、試合前の練習時に桑田が巨人投手陣の鍵を握ると見たファンからの熱い声援を受けて、15分くらい涙が止まらなかった。試合開始し初回からブルペンに入っていたが、「体は、疲れでバリバリ」という状態であった。
7回3点リードの状態から登板し、「(準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった」と述べている状況であった。8回先頭打者のPLの後輩で同室だった立浪和義が一塁ベースに執念のヘッドスライディングで左肩を痛めて負傷退場となりながら内野安打としたシーンに感動したことを認めている。9回裏二死小森哲也を大きなカーブで空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えてセーブを挙げた。『ベースボールマガジン』2009年3月号は、「(最後の打者が三振の)直後の桑田のガッツポーズは多くの野球ファンの記憶に刻み込まれているはずだ」と記述している。試合前に涙を流し続けていたので、試合終了後は特に涙は出てはいなかった。
1994年の日本シリーズでは、第1戦で序盤に打ち崩された後は第3戦で終盤の救援登板でセーブを挙げ、第5戦で先発登板して完投勝利を挙げ、1勝1敗1セーブであった。桑田は、本当に巨人のエースとして認められる一方、1994年終盤の酷使から下記の肘の手術に入っていくという分岐点として、10.8決戦を振り返っている。堀内恒夫は、「投手としての絶頂期だった」と振り返っている。
3.1.4. 右肘負傷と再起
1995年5月24日の阪神戦で、3回表に湯舟敏郎の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に右肘を強打し、その後も6回途中に降板するまで遜色無い投球を続けていたが大事を取って二軍調整となった(その間に肘の精密検査は受けず)、6月15日の対阪神11回戦にて約3週間ぶりの一軍先発したが、初回から失点するなど精彩を欠き5回には走者がいない状態で相手投手に四球を記録し次の打者を打ち取ったとこで自ら降板を訴え交代。後日、肘の精密検査をしたところ、側副靭帯断裂の重傷を負っていたことが判明した。治療のため、自身の左手首から健全な靭帯を移植するトミー・ジョン手術を受けることを選択し渡米した。
1995年シーズン残りと1996年の全シーズンを棒に振り、1997年4月6日の試合で661日ぶりに復帰した。手術後、ボールが投げられない期間が続いたが「ボールは投げられなくても、下半身は鍛えられる」とジャイアンツ球場の外野をただランニングし続けた。桑田が走り続けた部分は芝が剥げ上がり「桑田ロード」と呼ばれるようになった。カムバックの際、マウンドにひざまずきながらプレートに右肘をつけたシーンが取り上げられたが、バント飛球に対し迷わずダイブする桑田の姿もあった。復帰した同年は球数制限があったこともあり完投は無かったが、2年ぶりに規定投球回をクリアし、勝ち星も10勝を挙げた。
1998年のヤクルトとの開幕戦で9年ぶりに開幕投手を務め、9回二死から金石昭人の救援を仰ぎ完投は逃したが、勝ち星を挙げている。この年は最多勝争いに加わる16勝を挙げたが、1勝差で川崎憲次郎に及ばなかった。前年は100球限定での登板だったが、この年は球数制限もなくなり復帰後初完封を含む7完投を記録した。
1999年は開幕投手を務める予定だったが直前に風邪を引いてしまい登板を回避(代わりにチームでは初の外国人開幕投手になったバルビーノ・ガルベスが登板)桑田は二戦目に登板したが2回途中ボーク絡みで6失点KOされ、次の登板は中14日も空いた。その後はローテーションを守っていたが勝ち星に恵まれず先発としては7勝9敗防御率4.23の成績に終わる。リーグ終盤には抑えの槙原寛己の救援失敗が目立ち、10.8決戦以来となる公式戦救援登板に回った。リリーフとしては9試合に登板し1勝0敗5セーブ、防御率0.00の好成績を挙げた。
2000年は開幕ローテーションに入ったが、不振で6月から先発から外され残りのシーズンはリリーフ登板となった。槙原が故障離脱したこともあり、再び抑えを担当したが前年のような安定感は無く、岡島秀樹が入れ替わり抑えに定着。チームは4年ぶりにリーグ優勝を果たした。2000年の日本シリーズでは、第二戦にチームが大量リードされた8回から登板、2回を無失点に抑えたがこの登板のみで終わった。
2001年も開幕ローテーション入りしたが不調で、以降は先発の谷間と中継ぎ登板となり4勝5敗の成績で終わった。同シーズン終了後、巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一などのベテラン勢が引退し、長嶋も監督を勇退した。
3.1.5. 第1次原 - 堀内監督時代(2002年 - 2005年)
2002年からは原辰徳が巨人の監督に就任し、桑田は前年オフに引退を決意していたが、原から「来年も一緒にやろう」と声を掛けられ現役を続行した。
この年は古武術を応用したトレーニング、投球フォームを取り入れたのが功を奏し、4年ぶりの2桁勝利を果たす。15年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献した。規定投球回に到達しての防御率2点台は1994年以来8年ぶりだった。西武ライオンズとの2002年の日本シリーズでは第2戦に先発し、7回1失点で日本シリーズでは1994年の第5戦以来の勝利投手となる。チームはストレートの4連勝で日本一に輝いた。なお桑田にとってはこの年が最後のリーグ優勝と日本一となった。9月18日の横浜戦(東京ドーム)では3失点で完投勝利を挙げ、打撃ではシェーン・バワーズから8年ぶりとなるソロ本塁打も打った(東京ドームでは10年ぶり2本目)。完投・本塁打はいずれも現役最後であった。打撃成績は打率.294(51打数15安打)で、規定投球回の到達シーズンでは自身最高だった。
2003年には足首を捻挫し、前年のような投球ができず5勝3敗、防御率5.93と不安定な成績となった。
2004年は3勝5敗、防御率6.47の成績に終わり、この年から就任した堀内恒夫監督からは「俺は晩節を汚さなかった」と引退勧告ともいえる発言を受けている。
2005年は勝てない試合が続き、12試合に先発し0勝7敗、防御率7.14に終わるが、2006年も現役続行が決まった。
3.1.6. 第2次原監督時代(2006年)

2006年4月13日の広島戦で600日ぶりとなる勝利を挙げたが、この試合で走塁中に右足首を捻挫し、同27日の広島市民球場での広島戦では3回途中6失点で降板し敗戦投手となった。この試合が一軍での最後の登板となった。その2日後に登録抹消された。
しばらく二軍で調整を続け、原が視察する8月21日のイースタン・リーグのヤクルト戦に先発するが、2回途中で降板した。以降、首脳陣から一切声はかからなかったことから、吉村禎章二軍監督に、首都圏での最終登板機会である9月24日、読売ジャイアンツ球場での二軍戦は自分に投げさせてくれるよう懇願した。本人は「球団が処遇をはっきりしてくれないので、お世話になったファンに巨人での最後の登板を知らせるには、これしか方法がなかった」とし、9月23日に球団公式ホームページ内の自身のページ『LIFE IS ART』で、退団と二軍戦登板を示唆する内容の文章を掲載した。
動向が注目されていたが、11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグベースボール(MLB)に挑戦することを表明し、結局『引退試合』は『お別れ会』としてファン感謝デーで行われることとなった。11月23日に東京ドームで行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ2006」で、「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持ちしかありません。(略)...さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」と挨拶した。
3.2. パイレーツ時代(2007年)
2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことが発表された。日本人選手初のパイレーツ(及び傘下球団)との契約選手となった。桑田はボストン・レッドソックスやロサンゼルス・ドジャースからの関心もあったが、パイレーツが最もメジャーで投げる機会を提供してくれると考え、ピッツバーグを選んだ。
2007年の春季キャンプに招待選手として参加し、キャンプ終盤までメジャーキャンプに残り、開幕ロースター入りを目指していた。3月26日のトロント・ブルージェイズとのオープン戦に登板した際、センター前ヒットを打たれ三塁ベースカバーに入る際に球審のウォーリー・ベルと激突し、右足首の靭帯を断裂した。この試合は審判3人制で、ベル球審は三塁での判定をするため三塁に向かって走っており、桑田と交錯することとなった。当面は怪我からの回復・リハビリに努めることを余儀なくされた。
パイレーツは桑田を解雇せず、3Aインディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで、3Aの故障者リストに入った。フロリダでリハビリを続け、5月19日にフリー打撃、5月24日に練習試合での登板を経て、3Aインディアナポリス・インディアンズに合流した。6月2日に3Aでの公式戦初登板を果たした。
パイレーツの中継ぎ陣が壊滅状態であったというチーム事情も手伝い、6月9日にメジャー昇格し、6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たした。39歳70日でのメジャーデビューは当時日本人選手の史上最高齢(現在は高橋建に次いで2位)であり、メジャー全体でも第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次ぐ第3位の年長記録となった。メジャーデビュー戦ではアレックス・ロドリゲスに本塁打を打たれ、2イニングで2失点を喫した。
昇格当初は敗戦処理などでの登板が続いたが、監督のジム・トレーシーから「大事な場面でストライクが取れる」と評価を受け、中継ぎとして重要な場面での登板を任される機会が出てきた。しかし打ち込まれる場面が増え、1勝も上げないまま8月14日(日本時間では15日)に戦力外通告を受けた。退団時は「何も悔いはない」「メジャーリーガーになれた充実感でいっぱい」と清々しい表情で語るなど引退を示唆していた。
2008年1月8日に再びパイレーツとマイナー契約を結び、春季キャンプに招待選手として参加することを自身のブログで公表した。オープン戦では好投を見せたが、若手を起用する球団構想から外れ、メジャー昇格が絶望的となったことを機に3月26日、引退の意思をブログで明らかにし、帰国した。パイレーツは桑田にコーチングポジションを提供したが、彼はこれを辞退した。
6月にはグリーンスタジアム神戸で巨人時代の同僚の吉原孝介を加え、清原和博の打撃投手を務めた。9月23日に茨城ゴールデンゴールズ主催の引退試合を行った。
4. 引退後の活動
桑田真澄は選手引退後、多岐にわたる活動を展開し、野球界だけでなく社会全体にその影響力を広げている。特に、学術的な探求と指導者としての実践を通じて、日本のスポーツ文化の発展に貢献している。
4.1. メディア活動
引退後は野球解説者・評論家(日本テレビ・スポーツ報知専属野球解説者・野球評論家。TBS・J-SPO大リーグゲストコメンテイターほか)やタレントとして活動した。
CM出演としては、久光製薬『エアーサロンパス』(1991年)、富国生命、ナイキ『この試練をありがとうございます』(1997年)、映画『守護神』(2007年、声のみの出演)、グアム政府観光局(2008年 - 2009年)、サントリー『ボス』贅沢微糖 いいとこドリップ「贅沢バッティングセンター」篇(2009年、上野由岐子、伊藤淳史と共演)、スカパー! - 「スカパー!野球王道 全国」篇(2012年、清原和博との共演)、日本中古自動車販売協会連合会 『中古自動車販売士』「Life」篇(2013年、ピアノ演奏のみの出演)、ソフトバンク『ワイモバイル』「親子 de ダンス」篇(2019年11月29日 - 、息子・Mattと共演)、リクルート「AirPay」(2021年、槙原寛己・斎藤雅樹と共に出演)、イシダ(2022年、息子・Mattと共演)などがある。
テレビ番組としては、プロ野球中継(フリー解説者として各局に出演)、J-SPO(TBS、大リーグゲストコメンテイター)、桑田式スポーツK営学(BSジャパン、自身初のテレビ番組MC)などに出演した。ラジオ番組では、2005年12月17日にTBSラジオの『ラジオワールド』枠で放送された「忘れられた甲子園、忘れられた戦争」で、1942年の全国中等学校野球大会に出場した選手へのインタビューを担当した。また、ニッポン放送ショウアップナイターの解説も務めた。
ゲームでは『八月のシンデレラナイン』(2021年)にも登場している。
4.2. 学術活動
選手引退後の桑田は、野球を深く学問として探求する道を歩んだ。2009年1月28日、40歳で早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格した。大学院では平田竹男教授の指導を受け、同期生には政治家の中山泰秀や競艇選手の江口晃生などがいた。2010年3月25日、首席で修了した。修士論文の題目は「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」で、最優秀論文賞を受賞した。
2014年3月には、硬式野球部の特別コーチを務める東京大学で、大学院総合文化研究科の大学院研究生に合格した。同年4月から、コーチ職や従来の活動を続けながら、同研究科で投手・野手の動作の研究を行った。2019年度現在は、生命環境科学系 身体運動科学研究室に所属している。
4.3. 指導者としての経歴
桑田は引退後、教育と指導の分野でも積極的に活動している。2011年9月14日には東日本大震災復興のため、福島県営あづま球場にて仁志敏久や、PL学園の後輩の立浪和義らOBを集結させ、地元の社会人クラブ選抜チームと対戦した。桑田は投手として出場し、130 km/h台後半のストレートを披露した。
2013年からは東京大学野球部の特別コーチを務めた。また、日本野球機構で2013年6月にいわゆる「統一球問題」が発覚した際には、同機構が設立した「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」に、「特別アドバイザー」という肩書で野球関係者から唯一参加している。
2016年3月には、BCリーグの信濃グランセローズにて臨時コーチとして指導に当たった。これは、チームで以前指揮を執っていた今久留主成幸監督がPL学園在籍の同期であり、またこの年に長男である桑田真樹が信濃に移籍するなど縁が重なり、球団側の要請により実現した。
2021年1月12日、巨人の一軍投手チーフコーチ補佐として現場復帰した。前年に既に2021年シーズンのコーチングスタッフは発表済みだったが、監督の原辰徳の発案によって年明けに入閣を打診されたものである。桑田は当初臨時コーチだと思っていたという。将来は指導者の道に進みたいとする希望は現役時代からあったが、あらゆる方向で野球の勉強が必要と考えていたため、現役引退から10年程度は現場に戻ってはいけないと思っていたと語っている。
2022年は、投手チーフコーチに昇格した。2023年は、ファーム総監督に配置転換され、2024年からは二軍監督に配置転換された。
4.4. その他の活動・役職
桑田は野球以外の分野でも社会貢献活動や役職を数多く務めている。NPO法人「アミーチ・デル・クオーレ」(イタリア語で「こころの友」の意)の理事長、ボーイズリーグの麻生ジャイアンツ会長を務めている。
2014年にはグランドジャンプPREMIUM11月号より短期集中連載された野球漫画「ダウト(作画:立沢克美)」の監修を担当し、翌年には単行本が発売された。
2017年12月には、現役時代に愛用していたメーカーのワールドペガサスと、グラブ開発に関するアドバイザリー契約を締結した。これはパイレーツで現役生活を終えて以来のアドバイザリー復帰となった。
2018年8月には、雑誌Number 958号より自身の半生を振り返る連載がスタートした。また同月開催の第100回全国高等学校野球選手権記念大会では、準決勝戦・第一試合直前の金足農高校対日大三高校の「レジェンド始球式」にスパイク姿で登場し、左打者に対し外角高め速球のストレートを投げ、甲子園球場の観客からは大きなどよめきと拍手が送られていた。なお、同準決勝・第二試合の大阪桐蔭対済美の始球式には、桑田と同学年で、東北高等学校出身の佐々木主浩が出場していた。
2019年1月12日、PL学園硬式野球部OB会会長に就任した。同年2月22日にはスポーツ庁参与に就任し、任期は2020年3月31日まで務めた。
5. 選手としての特徴と哲学
桑田真澄は、その恵まれない体格を補う理想的な投球フォームと、野球に対する真摯な態度、そして独自の哲学によって、多くの選手に影響を与えた。
5.1. 投打の能力
高校時代はストレートとカーブだけで投球することを自分への試練としていたが、プロ入り2年目の1987年にはスライダーを習得し投球の幅を広げ、1988年にはスプリット(通称・サンダーボール)の習得に取り組んだ。
一般的にはシュートは肩や肘に負担がかかると言われるが、桑田は「一番負担がかかる球はカーブとスライダー」「シュートは体に負担がかからない」「解剖学と運動心理学を勉強すれば当たり前の話なんですよ」と語り、シュートは肩肘を傷めるという従来の考えを否定している。
岩本勉によると、ある時インタビューで桑田が「あえてスリーボールにしました」と語っていたとのことで、岩本はスリーボールから四球を狙って見逃すバッターの心理を使った投球の組み立てに最初は本当かと疑っていたが、桑田の制球力と投球哲学に感心していた。
達川光男は、MSNで連載していたコラム「モノが違いますね」第15回「甲子園が生んだ新旧のスター」(2007年8月24日掲載)において、「桑田という選手は、本当に何でもできる選手でした。ピッチャーとしての能力は言うに及ばず、牽制は上手い、守備は上手い、打撃も野手顔負け。」「ピンチの時にバッターが8番の村田で、ピッチングコーチが村田を敬遠して桑田と勝負しろと言ってきたんです。「いやいや、村田より桑田の方が良いバッターだから、もう一度ベンチで考え直して下さい」と言いましたよ。」と述べている。(※村田...村田真一)
桑田はNPB通算で118完投を記録している。打者としての才能にも優れ、NPB通算打撃成績は打率.216(890打数192安打)、7本塁打、79打点である。この通算打率.216は、1951年以降にプロ入りし通算500打数以上を記録した投手の中では、歴代最高記録である。通算38本塁打の金田正一(打率.198)や通算21本塁打の堀内恒夫(打率.172)よりも高い打率を残している。
5.2. 守備能力
桑田は投手としての優れた守備能力でも知られ、ゴールデングラブ賞を8回受賞している。これは投手としては西本聖と並ぶ最多タイ記録である。桑田自身も「守備が一番得意で、2番目がバッティング、一番苦手なのがピッチング」と語っていた。また、「自分のグラブが届く範囲の打球がセンターに抜けるのは、屈辱的で許せなかった」と、守備に対する強いこだわりを持っていた。
5.3. スポーツ文化・トレーニングへの見解
桑田は日本のスポーツ界における旧弊な慣習に対し、一貫して批判的な立場を取っている。彼は練習量が非常に豊富と言われることがあるが、実際には「ピッチャーが練習で体を壊すのは言語道断」という考えから、比較的ソフトな練習をしていたとのことであり、指導者たちが「桑田はかなりの練習をしているんだぞ!」という言葉をよく使うことに辟易していたとのことである。
現在の日本の野球の指導のあり方に対して問題点を指摘しており、スポーツニュース(特に準レギュラーの『S☆1』)や野球中継の解説などでよく持論を披露する。質よりも単に量を重視する長時間練習や、グラウンドで飲酒、喫煙をするアマチュア野球指導者の姿勢、年長者や指導者に絶対服従、指導中や負けた場合の鉄拳制裁(体罰)は当然、といった日本野球界特有の体育会系思想を厳しく批判している。体罰について「私は、体罰は必要ないと考えています。"絶対に仕返しをされない"という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツとして最も恥ずかしき卑怯な行為です」と答え、これを「指導者が怠けている証拠」であるとした。体罰が社会問題になった際に多方面から様々な意見が上がったが、暴力絶対禁止を訴えたのは桑田と落合博満であった。
打席に立つ投手に対して、体力温存のためにバットを振らせない指示を出すことには批判的で、「2回や3回の打席でバットを振るスタミナもないようでは、いい投球はできない」と指摘している。
6. 評価と影響
桑田真澄は、その野球選手としての輝かしい功績に加え、人間性や社会的な発言を通じて、日本の野球界に多大な影響を与えた。彼のキャリアは、肯定的な評価と、時に批判的な論争の両面から語られる。
6.1. 主な業績と受賞歴
桑田は読売ジャイアンツでは7度のリーグ優勝、4度の日本シリーズ優勝に貢献した。個人ではNPBで合計15個のタイトル(4個)と主要表彰(11個)を獲得している。
項目 | 回数 | 獲得年 |
---|---|---|
最優秀防御率 | 2回 | 1987年、2002年 |
最多奪三振 | 1回 | 1994年 |
最高勝率 | 1回 | 1998年 |
項目 | 回数 | 獲得年 |
---|---|---|
沢村栄治賞 | 1回 | 1987年 |
最優秀選手 (MVP) | 1回 | 1994年 |
ベストナイン | 1回 | 1987年 |
ゴールデングラブ賞 | 8回 | 1987年、1988年、1991年、1993年、1994年、1997年、1998年、2002年 |
最優秀投手 | 1回 | 1987年 |
日本シリーズ優秀選手賞 | 1回 | 1994年 |
最優秀バッテリー賞 | 1回 | 1994年 |
月間MVP | 4回 | 1987年7月、1991年4月、1993年5月、1998年8月 |
優秀JCB・MEP賞 | 1回 | 1991年 |
報知プロスポーツ大賞 | 2回 | 1987年、1994年 |
ヤナセ・ジャイアンツMVP賞 | 1回 | 1994年 |
ゆうもあ大賞 | 1回 | 2008年 |
NPBにおける節目の記録としては、1991年6月21日に1000投球回(史上242人目)、1993年6月12日に1000奪三振(史上89人目)、1993年9月29日に1500投球回(史上137人目)、1994年7月6日に100勝(史上111人目)、1998年6月17日に1500奪三振(史上42人目)と2000投球回(史上78人目)、2001年8月10日に150勝(史上44人目)、2002年8月13日に2500投球回(史上42人目)を達成している。その他、危険球退場を3回記録しており、これは浅尾拓也、内海哲也と並びNPB2位タイである。オールスターゲームには8回選出された。
MLBでは、2007年6月10日にメジャー初登板、2007年6月19日に初ホールド、2007年6月21日に初奪三振を記録した。
現役時代の背番号は、巨人・パイレーツ時代を通じて18(2007年春季キャンプでは52)。引退後のコーチとしては73(2021年 - )を着用している。
年度 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986 | 巨人 | 15 | 12 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 261 | 61.1 | 64 | 13 | 17 | 1 | 1 | 57 | 2 | 0 | 36 | 35 | 5.14 | 1.32 |
1987 | 28 | 27 | 14 | 2 | 4 | 15 | 6 | 0 | -- | .714 | 823 | 207.2 | 177 | 16 | 43 | 4 | 5 | 151 | 1 | 0 | 59 | 50 | 2.17 | 1.06 | |
1988 | 27 | 27 | 5 | 1 | 0 | 10 | 11 | 0 | -- | .476 | 806 | 198.1 | 174 | 19 | 53 | 13 | 5 | 139 | 4 | 0 | 80 | 75 | 3.40 | 1.14 | |
1989 | 30 | 30 | 20 | 5 | 4 | 17 | 9 | 0 | -- | .654 | 995 | 249.0 | 214 | 18 | 54 | 3 | 9 | 155 | 6 | 1 | 77 | 72 | 2.60 | 1.08 | |
1990 | 23 | 22 | 17 | 2 | 2 | 14 | 7 | 0 | -- | .667 | 748 | 186.1 | 161 | 12 | 40 | 1 | 1 | 115 | 2 | 1 | 58 | 52 | 2.51 | 1.08 | |
1991 | 28 | 27 | 17 | 3 | 0 | 16 | 8 | 1 | -- | .667 | 934 | 227.2 | 192 | 17 | 58 | 4 | 5 | 175 | 8 | 0 | 89 | 80 | 3.16 | 1.10 | |
1992 | 29 | 29 | 11 | 3 | 0 | 10 | 14 | 0 | -- | .417 | 912 | 210.1 | 235 | 24 | 64 | 3 | 5 | 152 | 9 | 1 | 112 | 103 | 4.41 | 1.42 | |
1993 | 26 | 26 | 8 | 1 | 0 | 8 | 15 | 0 | -- | .348 | 745 | 178.0 | 162 | 15 | 61 | 6 | 6 | 158 | 5 | 0 | 85 | 79 | 3.99 | 1.25 | |
1994 | 28 | 27 | 10 | 1 | 3 | 14 | 11 | 1 | -- | .560 | 836 | 207.1 | 175 | 16 | 51 | 8 | 4 | 185 | 6 | 0 | 65 | 58 | 2.52 | 1.09 | |
1995 | 9 | 9 | 3 | 1 | 0 | 3 | 3 | 0 | -- | .500 | 265 | 65.1 | 53 | 2 | 18 | 1 | 2 | 61 | 2 | 0 | 22 | 18 | 2.48 | 1.09 | |
1997 | 26 | 26 | 0 | 0 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 580 | 141.0 | 127 | 15 | 37 | 1 | 5 | 104 | 1 | 0 | 68 | 59 | 3.77 | 1.16 | |
1998 | 27 | 27 | 7 | 1 | 0 | 16 | 5 | 0 | -- | .762 | 779 | 181.0 | 197 | 17 | 46 | 0 | 6 | 116 | 4 | 1 | 88 | 82 | 4.08 | 1.34 | |
1999 | 32 | 22 | 2 | 0 | 0 | 8 | 9 | 5 | -- | .471 | 608 | 141.2 | 137 | 17 | 57 | 2 | 4 | 100 | 6 | 1 | 69 | 64 | 4.07 | 1.37 | |
2000 | 30 | 10 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | 5 | -- | .385 | 385 | 86.0 | 103 | 6 | 28 | 5 | 3 | 49 | 0 | 1 | 43 | 43 | 4.50 | 1.52 | |
2001 | 16 | 8 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 2 | -- | .444 | 226 | 50.1 | 56 | 4 | 19 | 4 | 0 | 31 | 0 | 0 | 29 | 27 | 4.83 | 1.49 | |
2002 | 23 | 23 | 3 | 1 | 0 | 12 | 6 | 0 | -- | .667 | 640 | 158.1 | 138 | 13 | 38 | 2 | 3 | 108 | 3 | 0 | 51 | 39 | 2.22 | 1.11 | |
2003 | 14 | 13 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 0 | -- | .625 | 314 | 71.1 | 92 | 13 | 16 | 1 | 3 | 46 | 1 | 1 | 48 | 47 | 5.93 | 1.51 | |
2004 | 16 | 16 | 0 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 357 | 79.1 | 100 | 16 | 28 | 1 | 4 | 39 | 4 | 0 | 58 | 57 | 6.47 | 1.61 | |
2005 | 12 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | .000 | 238 | 49.2 | 65 | 7 | 23 | 2 | 5 | 34 | 4 | 0 | 43 | 40 | 7.25 | 1.77 | |
2006 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | .500 | 55 | 11.2 | 19 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 11 | 9 | 6.94 | 1.71 | |
2007 | PIT | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | .000 | 103 | 21.0 | 25 | 6 | 15 | 4 | 1 | 12 | 0 | 0 | 23 | 22 | 9.43 | 1.90 |
NPB:20年 | 442 | 396 | 118 | 21 | 13 | 173 | 141 | 14 | 0 | .551 | 11507 | 2761.2 | 2641 | 264 | 752 | 62 | 76 | 1980 | 68 | 7 | 1191 | 1089 | 3.55 | 1.23 | |
MLB:1年 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | .000 | 103 | 21.0 | 25 | 6 | 15 | 4 | 1 | 12 | 0 | 0 | 23 | 22 | 9.43 | 1.90 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度 | 球 団 | 投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
1986 | 巨人 | 15 | 2 | 11 | 0 | 1 | 1.000 |
1987 | 28 | 11 | 51 | 0 | 3 | 1.000 | |
1988 | 27 | 23 | 43 | 1 | 4 | .985 | |
1989 | 30 | 15 | 52 | 4 | 1 | .944 | |
1990 | 23 | 13 | 40 | 3 | 1 | .946 | |
1991 | 28 | 24 | 58 | 1 | 1 | .988 | |
1992 | 29 | 15 | 49 | 3 | 6 | .955 | |
1993 | 26 | 10 | 42 | 1 | 2 | .981 | |
1994 | 28 | 14 | 39 | 4 | 3 | .930 | |
1995 | 9 | 5 | 13 | 1 | 0 | .947 | |
1997 | 26 | 10 | 28 | 3 | 1 | .927 | |
1998 | 27 | 12 | 40 | 3 | 5 | .945 | |
1999 | 32 | 15 | 25 | 0 | 1 | 1.000 | |
2000 | 30 | 9 | 12 | 2 | 1 | .913 | |
2001 | 16 | 5 | 12 | 0 | 1 | 1.000 | |
2002 | 23 | 15 | 32 | 1 | 3 | .979 | |
2003 | 14 | 6 | 17 | 0 | 2 | 1.000 | |
2004 | 16 | 8 | 18 | 0 | 1 | 1.000 | |
2005 | 12 | 7 | 10 | 0 | 0 | 1.000 | |
2006 | 3 | 3 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |
2007 | PIT | 19 | 1 | 4 | 0 | 1 | 1.000 |
NPB | 442 | 222 | 594 | 27 | 37 | .968 | |
MLB | 19 | 1 | 4 | 0 | 1 | 1.000 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞
試 合 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB通算 | 478 | 890 | 75 | 192 | 34 | 5 | 7 | 257 | 79 | 0 | 0 | 110 | 8 | 41 | 0 | 0 | 265 | 12 | .216 | .248 | .289 | .537 |
- メジャーリーグ在籍時は打席に立っていない。
- 打率・出塁率・長打率・OPSは、通算38本塁打の金田正一(打率.198・出塁率.238・長打率.287・OPS.524)や通算21本塁打の堀内恒夫(打率.172・出塁率・196・長打率.262・OPS.459)よりも上である。通算打率.216は、1951年以降にプロ入りし通算500打数以上を記録した投手の中では、歴代最高記録。
6.2. 批判と論争
桑田は、その野球人生において、いくつかの批判や論争に直面した。最も大きなものは、プロ入り時のKKドラフト事件である。早稲田大学進学を表明していたにもかかわらず、読売ジャイアンツから1位指名を受け入団したことで、巨人との密約が疑われた。桑田自身は密約を否定し、当時のドラフト慣習や自身の心情を説明したが、この騒動は彼のキャリアに影を落とし、実家には抗議や嫌がらせが殺到する事態にまで発展した。
また、1989年夏頃から週刊誌でスキャンダルが報じられ、翌1990年には中牧昭二による暴露本が出版された。この書籍では、スポーツ用品メーカーとの関係や金品の授受、さらには野球賭博への関与が示唆された。桑田は当初、金品の授受を否定したが、後にそれが虚偽であったことが判明し、巨人は彼に1か月の登板禁止と罰金1000.00 万 JPYの処分を下した。この問題は国会でも取り上げられるなど社会問題化したが、野球賭博への関与は確認されていない。
これらのトラブルにより、桑田は一般の野球ファンからはある種の色物として見られることも多く、江川卓に倣って一時「投げる不動産王」と呼ばれたこともあった。自身の証言によると、甲子園球場で小学生から小銭を鳴らされながら「桑田~、カネ貸したろか」と野次を飛ばされた時は、さすがに堪えたとのことである。
6.3. 後世への影響
桑田真澄は、そのプレースタイルだけでなく、練習への取り組み方や野球観を通じて、後進の選手たちに大きな影響を与えた。プロ野球選手としては特に恵まれていない体格ながら、理想的な投球フォームと、野球に取り組む真摯な態度によって、彼を模範とする選手はプロアマ問わず今なお多い。一例として、『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』の著者・石田雄太は、同書の文庫版「あとがき」で、当時横浜高校の3年生として春のセンバツを目前に控えていた松坂大輔が、発売日にわざわざ書店に出向いてこの本を買ってきたと記している。
試合中のプレーのみならず、試合前の準備、練習への取り組み、さらに日々の私生活にいたるまで、プロフェッショナルとしてのありかたは落合博満をはじめとする球界関係者から高い評価を得ている。落合は桑田について「帽子を目深にかぶり、マウンド上ではボールになにやら話しかけながら投げてくるふてぶてしい態度。メディアを通して伝わってくるストイックな生き方。(中略、巨人に移籍して間近に見て)12球団どこにいってもエースになれる存在だと感じた」と評価している。
また、入団間もない新人時代から慣例を無視してアイシングで肘を守るなど、信念を譲らない性格であった。彼の日本のスポーツ界における体罰や長時間練習といった慣習への批判、合理的なトレーニング論、そして「野球を学問する」という彼の姿勢は、野球界の指導者や選手たちに新たな視点を提供し、日本のスポーツ文化の変革に貢献している。
現役を引退して久しい2021年でもトレーニングは継続しており、OB戦や始球式ではかつてのようなピッチングを披露している。練習とはいえ52歳で年不相応の速球でバットを差し込む場面もあった。
7. 個人的な生活
桑田真澄は野球選手としての顔だけでなく、家族との関係や個人的な信条においても、その人間性が深く現れている。
7.1. 家族関係
桑田には姉と弟(プロゴルファーの桑田泉)がいる。妻は真紀(まき)。2人の息子がおり、長男の桑田真樹はかつて独立リーグに所属していた元プロ野球選手、次男のMattはタレント・ミュージシャンとして活動している。
子供の頃は家庭が貧乏であったことを知らなかったが、ある日家族で寿司を食べに行った時に桑田と弟はよく食べるが母と姉は全然食べていないのを見て「女性はあんまり食べないものなんだ」と思っていたが、後に姉から「貧乏だからお腹いっぱい食べることができない」という話を聞いて貧乏であることを知ったという。
桑田の父・泰次(たいじ)は2010年1月17日に住宅火災に巻き込まれて死去した。事故の翌日の18日夜の通夜では桑田が何度もハンカチで涙を拭う姿が見られた。桑田は取材陣に対して「最後に父親の投げたボールを捕りたかったし、僕の投げたボールを捕ってもらいたかった」と話した。桑田の父は晩年静岡県浜松市で喫茶店を営みながら、地元の少年野球チームの指導をしていた。
7.2. 個人的背景と信条
母方の祖父が早稲田大学の出身だったことから、子どものころ祖母がよく早稲田大学校歌『都の西北』を唄ってくれており、中学生の時点で早稲田で勉強をしたいという夢を持ったという。
中学時代も高校時代も3年間恋人がいた。交際相手がいたことで「彼女のためにもエースになって甲子園で優勝したい」という思いがあったほか、彼女の表情を見ることで対戦する打者を観察する力が付いたといい、野球のためにも恋愛は必要であると考えている。
ハウス食品の「フルーチェ」が好物である。PL学園時代は桑田のためにフルーチェを毎日作る担当の後輩がいた。
非喫煙者かつ嫌煙家である。巨人在籍時には、自身も含めた非喫煙者が受動喫煙させられることに立腹し、球団スタッフに働きかけて「移動用バスは禁煙車と喫煙車に分乗」、「ロッカールームは禁煙、食堂は喫煙」とチームの分煙化を達成し、春先のキャンプでは禁煙ルームを設置できないので全面禁煙化を達成させた。
2016年2月2日、清原和博が自宅で覚せい剤所持取締法違反の疑いで逮捕されたことを受け、桑田は「ただただ驚いている。ウソであってほしいし、夢であってほしいというのが今の正直な気持ち。もし報道通りなら、人として、野球人として、一緒に戦ってきた仲間として、非常に残念でならない」とショックを隠しきれなかった。なお桑田は、清原が逮捕される約3年程前から全く連絡を取らなくなっており、それまで「スポーツマンである以上、暴力や薬からは一番遠い存在でいるべき」などと清原に忠告し続けていたものの、ある日「もう一切関わらないでくれ」と清原の方から突き放されたことを機に、2人して「決別宣言」をしたと語っている。
8. 関連項目
- PL学園中学校・高等学校
- 清原和博
- KKコンビ
- KKドラフト事件
- 読売ジャイアンツ
- ピッツバーグ・パイレーツ
- 早稲田大学
- 東京大学
- 体罰
- 沢村栄治賞
- ゴールデングラブ賞
- トミー・ジョン手術
- 王貞治
- 藤田元司
- 斎藤雅樹
- 槙原寛己
- 長嶋茂雄
- 原辰徳
- Matt
- 桑田泉
- 桑田真樹