1. 概要
山田 直輝(山田 直輝やまだ なおき日本語、1990年7月4日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身のプロサッカー選手。JリーグのFC岐阜にMFおよびFWとして所属する。元日本代表。
彼は、小学生時代にJFA 全日本U-12サッカー選手権大会で優勝し、浦和レッズのジュニアユースおよびユースチームでも高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-15)大会や高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会で優勝を経験するなど、若くしてその才能を示した。特に2008年には高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会で得点王に輝いている。
2008年に浦和レッドダイヤモンズでプロデビューを果たし、2009年には18歳で日本代表に初選出された。しかし、キャリアを通じて度重なる負傷に悩まされ、特に2010年の右腓骨骨折や2012年の左膝前十字靭帯断裂は彼の選手生活に大きな影響を与えた。浦和レッズと湘南ベルマーレでのプレーを経て、2025年からはFC岐阜に完全移籍する。
2. 生い立ちと経歴
山田直輝のサッカーキャリアは幼少期に始まり、ユース年代で数々のタイトルを獲得し、将来を嘱望される選手として成長した。
2.1. 出生と家族
山田直輝は1990年7月4日に広島県で生まれ、埼玉県で育った。彼の父親である山田隆は元サッカー選手であり、マツダSC(現サンフレッチェ広島)でサイドバックやミッドフィールダーとして活躍し、JSL1部でのプレー経験を持つほか、アジアユース(U-20)代表にも選出された経歴がある。直輝は、父親がマツダ本社に勤務していた時期に誕生した。
2012年12月には、高校時代から交際していたさいたま市在住の一般女性と入籍している。
2.2. ユース経歴
小学生の頃は北浦和サッカースポーツ少年団に在籍し、小学校6年時には選抜チームであるFC浦和の一員として全日本少年サッカー大会で優勝を経験した。
中高生年代では、浦和レッズの浦和レッズジュニアユース(さいたま市立本太中学校)および浦和レッズユース(埼玉県立大宮南高等学校→ウィザス高校)に所属し、アカデミーで育成された。ジュニアユース時代の2005年には、高円宮杯U-15と日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会で優勝を果たした。
2006年からは浦和レッズのサテライトリーグにボランチとして出場する機会を得て、2007年には6試合に出場し1得点を記録、2008年には5試合に出場した。また、2007年8月に行われたU-17ワールドカップでは、U-17日本代表に選出され、背番号10を背負って全3試合にフル出場した。当時の監督である城福浩は、特別な番号として扱われがちな10番を与えることで、選手や親が勘違いしてしまうことを防ぐため、山田に10番を与えたとコメントしている。ユースチームでは、2008年10月13日の高円宮杯第19回全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会決勝の対名古屋グランパスU-18戦でハットトリックを達成し、9-1での優勝に貢献。自身も同大会で8得点を挙げ、得点王に輝いた。
3. プロキャリア
山田直輝は、2008年に浦和レッズでプロとしてのキャリアをスタートさせ、その後湘南ベルマーレへの期限付き移籍と完全移籍を経験し、2025年からはFC岐阜で新たな挑戦を始める。
3.1. 浦和レッドダイヤモンズ
3.1.1. 2008-2014年
2008年4月、浦和レッズユースに所属しながら2種登録選手としてトップチームに登録された。同年4月26日のJ1リーグ第8節京都サンガF.C.戦で後半35分から途中出場し、17歳9ヶ月22日でJリーグデビューを果たした。この年の公式戦出場は、6月8日のナビスコカップ対名古屋グランパスエイト戦と合わせて2試合であった。
2009年には、高橋峻希、濱田水輝、永田拓也と共にトップチームへ正式に昇格した。3月14日のJ1第2節FC東京戦で後半33分から途中出場し、ポンテの得点をアシストし、プロ入り初アシストを記録した(ただし、Jリーグ公式記録での「アシスト」は集計されていない)。4月29日の対清水エスパルス戦では後半29分にプロ初得点を挙げた。同年4月には原口元気と共にU-20代表候補に選ばれたが、右太腿裏の負傷により合宿参加を辞退した。
2009年5月21日、トップ昇格1年目にして日本代表に初選出された。5月27日のキリンカップ対チリ戦で後半39分から途中出場し、後半47分には本田圭佑のA代表初得点となる4点目をアシストした。しかし、その後右臀部を痛めて代表から離脱し、FIFAワールドカップ最終予選には帯同できなかった。さらに中学時代からの腰椎分離症の影響で戦線離脱を余儀なくされ、JOMO CUPのJリーグ選抜にも選出されたが辞退した。以降、度重なる負傷に悩まされ、復帰と再発を繰り返すこととなる。彼の欠場はチームの中盤の要としての役割に大きな影響を与え、チームの成績にも影響を及ぼした。12月19日に行われたU-20代表の国際親善試合、対韓国戦では、途中出場ながら2得点を挙げ、チームを逆転勝利に導き、AFC U-19選手権2008準々決勝で韓国に敗れた雪辱を果たした。
2010年には若手選手を中心に構成された日本代表に選出され、1月6日に行われたアジアカップ最終予選・イエメン戦に先発出場したが、前半17分に相手選手の悪質なタックルを受けて負傷退場した。帰国後の精密検査で右腓骨骨折と診断され、全治3ヶ月の重傷を負った。長期のリハビリを経て6月上旬に全体練習に合流し、6月9日のナビスコカップ予選リーグ第7節横浜F・マリノス戦で約5ヶ月ぶりの公式戦出場を果たした。ワールドカップ中断後にはリーグ戦に3試合出場したが、8月6日のトレーニング中に右すねを強打。当初は強度の打撲と診断されたものの、再検査の結果、再び右腓骨を骨折していることが判明し、全治3ヶ月と診断された。このためシーズン中の復帰は困難と見られたが、再度の長いリハビリを経て12月初旬にトレーニングに完全復帰した。12月25日の天皇杯準々決勝ガンバ大阪戦で約5ヶ月ぶりに公式戦ベンチ入りを果たしたが、出場機会はなく、浦和も敗退しシーズンを終えた。
2011年、阿部勇樹の移籍によって空き番号となった背番号22に変更した。シーズン当初は前年の負傷の影響もあり、開幕からベンチ入りすらままならない状態が続いた。6月5日のナビスコカップ1回戦第1節モンテディオ山形戦でようやくシーズン初の公式戦出場を果たした。その後もゼリコ・ペトロビッチ監督の下では不慣れな右サイドでのプレーを命じられたり、戦術上の問題で得意とするピッチを縦横無尽に動く働きを封じられ、本領を発揮できないでいた。しかし、監督が堀孝史に交代後は柏木陽介と共にダブルトップ下のレギュラーに固定され、チームのJ1残留に貢献した。浦和は2011年と2013年のJリーグカップで準優勝、2014年のJ1リーグで2位となっている。
2012年、阿部の復帰に伴い、再び背番号を34番に変更した。3月20日のナビスコカップ対ベガルタ仙台戦において試合中に接触し、左膝前十字靭帯を損傷した。このプレーに対し、主審の岡部拓人はファールを取らなかったが、当時の審判委員長である松崎康弘はこの判断を「正解」としつつ、山田が無理やり突っ込む危険なプレーで自らを危険にさらしていると危惧を述べている。全治約6ヶ月と診断された。この負傷により、ロンドンオリンピックの日本代表入りを逃すこととなった。
3.1.2. 復帰 (2018-2019年)
2017年12月7日、湘南ベルマーレへの期限付き移籍期間満了に伴い、4年ぶりに浦和レッズへ復帰することが発表された。
2018年4月28日、J1第11節の湘南ベルマーレ戦で、復帰後初のJ1リーグ先発出場を果たした。この年、浦和レッズは天皇杯で優勝を果たした。
2019年7月24日、再び湘南ベルマーレへ期限付き移籍することが発表された。
3.2. 湘南ベルマーレ
3.2.1. 期限付き移籍 (2015-2017, 2019年)
2015年、湘南ベルマーレへ1年間の期限付き移籍が発表された。5月20日、ナビスコカップ第5節の松本山雅FC戦で移籍後初得点を記録した。2016年9月22日の天皇杯3回戦では、プロキャリア初となる1試合2得点を挙げ、負傷からの復活をアピールした。同年11月3日、2ndステージ第17節の名古屋グランパスエイト戦では先発出場し、2得点を挙げる活躍を見せた。シーズン終了後、期限付き移籍契約を1年延長した。
2017年8月5日、J2リーグ第26節の松本山雅FC戦では逆転ゴールを決めてチームの勝利に貢献した。8月26日、第30節のザスパクサツ群馬戦では全得点に絡む活躍で勝利に貢献した。9月30日、第35節のツエーゲン金沢戦では試合開始11秒で得点を決め、勝利に貢献した。この年、湘南ベルマーレはJ2リーグで優勝を果たした。
2019年7月24日、浦和レッズから2年ぶりに湘南ベルマーレへ期限付き移籍することが発表された。
3.2.2. 完全移籍 (2020-2024年)
2019年12月31日、2020年シーズンより湘南ベルマーレへ完全移籍することが発表された。その後も湘南ベルマーレでプレーを続け、2024シーズン終了後、契約満了により退団した。
3.3. FC岐阜 (2025年-)
2025シーズンより、FC岐阜への完全移籍が決定した。
4. 代表経歴
山田直輝は、年代別代表からトップチームまで、日本の各世代の代表チームでプレーした。
4.1. 年代別代表
山田は、U-15、U-16、U-17、U-20、U-22、U-23といった各年代の日本代表に選出され、国際大会に出場した。
- U-15日本代表**:
- AFC U-17選手権2006 (予選)に出場し、2試合0得点の記録を残した。
- U-16日本代表**:
- AFC U-17選手権2006に出場し、6試合1得点を記録。日本はこの大会で優勝を果たした。
- U-17日本代表**:
- 2007 FIFA U-17ワールドカップに背番号10を背負って出場し、全3試合に先発フル出場した。
- U-20日本代表**:
- 2009年の国際親善試合、対U-20韓国代表戦に出場し、2得点を挙げた。
- U-22日本代表**:
- U-23日本代表**:
- ロンドンオリンピックアジア最終予選(2012年)のメンバーに選出されたが、負傷により出場は叶わなかった。
4.2. トップチーム
山田直輝は2009年から2010年にかけて日本代表(A代表)に選出され、国際Aマッチ2試合に出場した。
- 国際Aマッチ出場記録**
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦国 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 2009年5月27日 | 大阪 | 長居陸上競技場 | チリ | ○4-0 | 岡田武史 | キリンチャレンジカップ2009 |
2. | 2010年1月5日 | サナア | アル・サウラ・スポーツ・シティ・スタジアム | イエメン | ○3-2 | AFCアジアカップ2011予選 |
5. ポジションとプレースタイル
山田直輝は主にミッドフィールダーとしてプレーし、フォワードのポジションもこなすことができる。ユース時代にはボランチとしてプレーしていたが、プロ入り後は攻撃的なポジションでその才能を発揮した。
特に浦和レッズの堀孝史監督時代には、柏木陽介と共に「ダブルトップ下」のレギュラーに固定され、チームの攻撃を牽引した。彼のプレースタイルは、ピッチを縦横無尽に動き回り、精力的にボールに絡む献身的な働きが特徴である。
6. 怪我の経歴
山田直輝のプロキャリアは、度重なる重傷との闘いの歴史でもあった。以下に主な怪我とその影響を記述する。
- 腰椎分離症(2009年)**:中学時代からの持病であり、2009年の日本代表離脱の一因となった。この負傷により、JOMO CUPへの出場も辞退している。
- 右腓骨骨折(2010年1月)**:2010年1月6日のアジアカップ最終予選・対イエメン戦において、相手選手からの悪質なタックルを受け負傷退場。帰国後の精密検査で右腓骨骨折と診断され、全治3ヶ月の重傷を負った。この怪我により、長期のリハビリを余儀なくされた。
- 右腓骨再骨折(2010年8月)**:2010年8月6日のトレーニング中に右すねを強打。当初は強度の打撲と診断されたが、再検査の結果、再び右腓骨を骨折していることが判明し、全治3ヶ月と診断された。これにより、2010年シーズン中の復帰は絶望的と見られたが、懸命なリハビリにより12月初旬にトレーニングに完全復帰した。
- 左膝前十字靭帯断裂(2012年3月)**:2012年3月20日のナビスコカップ・対ベガルタ仙台戦において試合中に接触し、左膝前十字靭帯を損傷。全治約6ヶ月と診断される重傷であった。この怪我により、ロンドンオリンピックの日本代表入りを逃すこととなった。
これらの頻繁な負傷は、山田のキャリアにおいて多くの試合を欠場させる原因となり、彼の出場機会やパフォーマンスに大きな影響を与えた。復帰しては再発するというサイクルを繰り返し、チームにとっても彼の欠場は大きな痛手となった。
7. 個人成績
2025年1月5日現在
クラブ | シーズン | 背番号 | リーグ | カップ戦 | 天皇杯 | ACL | その他国際公式戦 | 合計 | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||||||||
浦和 | 2008 | 34 | J1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | ||||||
浦和 | 2009 | J1 | 20 | 1 | 5 | 2 | 1 | 0 | - | - | 26 | 3 | ||||||||
2010 | J1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | - | 4 | 0 | |||||||||
2011 | 22 | J1 | 18 | 1 | 6 | 0 | 4 | 0 | - | - | 28 | 1 | ||||||||
2012 | 34 | J1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||||||||
2013 | J1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 5 | 0 | ||||||||
2014 | 6 | J1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | - | - | 5 | 0 | ||||||||
湘南 | 2015 | 8 | J1 | 17 | 1 | 4 | 1 | 2 | 1 | - | - | 23 | 3 | |||||||
湘南 | 2016 | J1 | 11 | 2 | 2 | 0 | 3 | 2 | - | - | 16 | 4 | ||||||||
2017 | J2 | 39 | 5 | - | 1 | 0 | - | - | 40 | 5 | ||||||||||
浦和 | 2018 | 18 | J1 | 3 | 0 | 4 | 0 | 1 | 1 | - | - | 8 | 1 | |||||||
浦和 | 2019 | 18 | J1 | 1 | 0 | - | - | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | |||||||
湘南 | 10 | J1 | 9 | 1 | - | - | - | - | 9 | 1 | ||||||||||
湘南 | 2020 | 10 | J1 | 16 | 1 | 2 | 1 | - | - | - | 18 | 2 | ||||||||
2021 | 10 | J1 | 37 | 5 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | - | 39 | 5 | ||||||||
2022 | 10 | J1 | 21 | 0 | 5 | 2 | 1 | 0 | - | - | 27 | 2 | ||||||||
2023 | 10 | J1 | 21 | 1 | 5 | 3 | 1 | 0 | - | - | 27 | 4 | ||||||||
2024 | 10 | J1 | 10 | 0 | 1 | 0 | 2 | 1 | - | - | 13 | 1 | ||||||||
岐阜 | 2025 | 15 | J3 | |||||||||||||||||
J1通算 | 196 | 13 | 40 | 9 | 19 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 256 | 27 | ||||||||
J2通算 | 39 | 5 | - | 1 | 0 | - | - | 40 | 5 | |||||||||||
総通算 | 235 | 18 | 39 | 9 | 18 | 4 | 0 | 0 | 1 | 0 | 293 | 31 |
;その他の国際公式戦
- 2019年 Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦 1試合0得点
;出場歴
- Jリーグ初出場:2008年4月26日 J1第8節 vs京都サンガF.C.戦 (西京極)
- Jリーグ初得点:2009年4月29日 J1第8節 vs清水エスパルス戦 (エコパ)
8. タイトル
山田直輝が選手キャリア中に獲得したタイトルは以下の通りである。
8.1. クラブ
- FC浦和**
- 全日本少年サッカー大会:1回(2002年)
- 浦和レッズジュニアユース**
- 高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会:1回(2005年)
- 日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会:1回(2005年)
- 浦和レッズユース**
- 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会:1回(2008年)
- 湘南ベルマーレ**
- J2リーグ:1回(2017年)
- 浦和レッズ**
- 天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会:1回(2018年)
8.2. 代表
- 日本U-16代表**
- AFC U-17選手権:1回(2006年)
- 日本代表**
- キリンカップ:1回(2009年)
8.3. 個人
- 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会 得点王:1回(2008年)
9. 人物・エピソード
- 山田直輝は、浦和レッズの「浦和ユース黄金世代」の中心選手の一人として知られている。
- 父親の山田隆は元サッカー選手で、マツダSC(現サンフレッチェ広島)で活躍し、アジアユース(U-20)代表の経験もある。直輝は父親がマツダ本社に勤務していた時に誕生した。
- 2009年6月、イギリスのスカイスポーツが世界の有望な若手選手を紹介する番組で山田直輝を取り上げた。80点満点の採点では3位タイの64点を与えられ、そのプレースタイルはポール・スコールズに似ていると評された。