1. 生涯
平川唯一は、幼少期に農作業に従事した後、若くしてアメリカに渡り、独学で英語を習得し高等教育を受けた。帰国後はNHKのアナウンサーとして活躍し、戦後の混乱期に国民的番組となった「カムカム英語」を通じて、日本の英語教育に革新をもたらした。
1.1. 出生と幼少期
平川唯一は1902年に、岡山県上房郡津川村(現在の高梁市)の農家の次男として生まれた。1916年に津川尋常高等小学校高等科2年を修了した後、しばらくの間、家業である農作業の手伝いに従事していた。幼少期は農家の苦労を経験し、この時期の体験が後の彼の人生観に影響を与えたとされる。
1.2. アメリカでの教育
1919年、17歳になった平川は、数年前からアメリカに出稼ぎに行っていた父を追って、兄と共に渡米した。当初は英語のABCも知らない状態であったが、ポートランドで半年ほど線路工夫として働き、その後シアトルに移り、古屋政次郎が経営する日本の商店で半年間店員を務めた。
同年、英語を学ぶため高級住宅街のアメリカ人家庭に書生として住み込み、スーウェド小学校に入学した。彼は飛び級で進級し、3年で小学校を卒業。その後、ブロードウェイ・ハイスクール(現在のシアトル・セントラル・カレッジ)を4年で修了し、ワシントン大学に進学した。大学では当初物理学を専攻していたが、後に演劇に転科し、1931年に演劇科を首席で卒業して文学士号を取得した。約12年間にわたるアメリカでの勉学生活について、平川は「子供時代に農家で苦労した身には、昼間は学校に行かせてもらい、帰ってから部屋の掃除をし、夜は夕食の片付けを済ませたら自由に勉強ができる生活は、苦学というより楽学でした」と語っている。
1.3. アメリカでの初期キャリア
ワシントン大学を卒業後、平川はロサンゼルスのセントメリーズ・エピスコパル教会(米国聖公会)で副牧師として活動し、日米文化の交流に尽力した。この教会で出会った東京都神田出身の滝田よねと1935年に結婚した。この期間中、彼はJoe Hirakawa(Joe Hirakawaジョー・ヒラカワ英語)という芸名で俳優としても活動し、『マダム・バタフライ』(Madame Butterfly英語)や『ダイヤモンド島の謎』(Rip Roaring Riley英語)などのハリウッド映画に出演したほか、パサディナ劇場の舞台にも立った。
2. 経歴と功績
平川唯一は、日本帰国後にNHKのアナウンサーとして活躍し、戦後の日本において国民的な英語教育番組である「カムカム英語」の講師を務め、その独自の教育哲学と方法論で日本の英語教育に多大な影響を与えた。
2.1. 日本でのキャリア
1936年に日本へ帰国した平川は、日本放送協会(NHK)の英語放送アナウンサーに応募し、採用された。彼は国際放送のチーフアナウンサーとして、1945年9月末に退職するまで8年間勤務した。太平洋戦争時には、米州部放送班長として、アメリカ兵に対する厭戦工作のための宣伝放送に携わった。
終戦時には、昭和天皇の玉音放送(終戦の詔勅)を自ら英訳し、国際放送を通じて世界に向けて朗読するという重要な役割を果たした。彼の英訳は、詔勅の「戦局必ずしも好転せず世界の大勢亦我に利あらず」という文言を「The war situation has developed not necessarily to Japan's advantage.」と表現し、『オックスフォード引用句辞典』にも引用されるほどであった。
2.2. 「カムカム英語」番組と教育活動
1946年2月1日から1951年2月9日までの5年間、平川はNHKラジオ第一放送で毎週月曜日から土曜日の午後6時から15分間放送された『英語会話』を担当した。この番組は『カムカム英語』という通称で知られ、国民的番組としての人気を博した。平川は童謡「証城寺の狸囃子」の曲に載せて番組のテーマ曲「カムカムエヴリバディ」(Come, Come, Everybody英語)を作詞し、この曲は愛唱歌となった。
平川は、平均的な日本人家族の日常会話を題材に、連日深夜まで準備した寸劇を盛り込み、当時の日本人の心情を伝える「家族の情景」を英語で描いた。これを彼は「英語遊び」と称して教えた。通常、語学講座は大学教員が兼務で担当することが多かったが、平川にとってはこの放送が本業であり、その情熱と専門性が高い評価を得た。彼のもとには総計50万通に及ぶファンレターが届けられ、戦後の日本における一大英語ブームの火付け役となった。
2.3. 英語教育の哲学と方法論
平川の英語会話教育は、その革新的な哲学と具体的な教授法によって特徴づけられる。第一の特長は、日本人家族の日常会話を教材として重視した「赤ちゃん口まね方式」である。平川は、人間がまず家族の言葉を聴いて話せるようになるのと同様に、英語も単語の発音やスペリング、文法から入る学校英語や受験英語とは異なる「家族英語」を話せるようになるべきだと考えた。彼の口癖は、「英文を楽しく口まねすればだれでも英語が話せるようになるんですよ」であった。これは「まずは話せるようになろう」という音声方式であり、なおかつ母語を習得するような自然な方式である。
第二の特長は、英語の発音指導において日本語のふりがなを積極的に活用した点である。平川は生きた英語会話の読みを日本語のカタカナで表す独自の音標文字を考案し、ラジオテキストには当初から読みガナが付されていた。さらに、1981年に出版した著書では「会話発音用の音標文字を新たに考案」するなど、この方式を一層工夫し続けた。
2.4. その他の活動
NHKの『英語会話』講師を退任した後も、平川は多岐にわたる活動を継続した。俳優として日米合作映画『運命』(1951年東宝配給)にも出演したほか、1951年12月25日から1955年7月までラジオ東京や文化放送で『カムカム英語』のタイトルで英語会話講座を続けた。その後は世田谷区の自宅で「カムカムクラブ」を開設し、「おしゃべり英語」の普及に努めた。
1957年末には太平洋テレビに迎えられ、翻訳部長を経て副社長に就任した。1976年には春の叙勲で勲五等双光旭日章を受章した。1992年には大学英語教育学会(JACET)から特別功労賞を贈られるなど、晩年までその功績が称えられた。
3. 私生活
平川唯一は、1935年に教会で出会った東京神田出身の滝田よねと結婚した。夫婦の間には2男2女が生まれた。長男は1936年にロサンゼルスで生まれた壽美雄(壽美雄すみお日本語、1936年-2018年)で、ワシントン州のエベレット高等学校、ワシントン大学、ニューヨーク大学ロースクールを卒業し、後に三菱銀行シアトル支店長を務めた。次男の冽(冽きよし日本語、1941年-)は東京都世田谷区生まれで、ウクレレ奏者として著名であり、父親の伝記も執筆している。末娘のメアリー・マリコ・オオノ(Mary Mariko Ohnoメアリー・マリコ・オオノ英語)は、長唄三味線と舞踊の教師で、東京の杵家(杵家きねいえ日本語)流のアメリカ支部である「カブキ・アカデミー」(Kabuki Academy英語)を運営している。彼女は日本の伝統芸術における才能と専門知識で知られ、その舞踊と三味線の演奏は高く評価されており、世界中に生徒を持つ。
平川は港区麻布の東京ローンテニスクラブの会員であり、1952年に購入した英国製小型車モーリス・マイナー(Morris Minor英語)を運転してテニスに行くのが趣味であった。彼はシートの張り替えから塗装まで自ら手がけ、85歳になるまで35年間この車を愛用した。この車両は平川の没後、河口湖自動車博物館の収蔵品となっている。
4. 死去
平川唯一は1993年8月25日に肺炎のため、91歳で死去した。
5. 評価
平川唯一は、専門的な英語教育の経験がないにもかかわらず、その独自の教育法と情熱によって日本の英語教育界に大きな足跡を残した。彼の功績は、戦後の日本における英語学習の基盤を築き、多くの人々に英語の楽しさと可能性を伝えた点で高く評価されている。
5.1. 肯定的な評価
平川は英語教育の専門家ではなかったが、音声学と演劇の訓練、そしてアナウンサーとしての経験を活かし、英語の普及に抜群の功績を上げた。彼の考案した「赤ちゃん口まね方式」は、従来の文法中心の学校英語とは一線を画し、「まずは話せるようになろう」という実践的な学習法を提唱した。この教授法は、その後の日本の英語教育に大きな影響を与え、例えば「NHKラジオ英会話 英文法パーフェクト講義」「一億人の英文法」「真・英文法大全」といった現代の英語学習書にもその思想が受け継がれている。
熊本大学教授の福田昇八は、平川の英語を「家族英語」と位置づけ高く評価し、「日本の英語教育を改善するには、学校英語を口まね方式に転換する必要がある」と述べている。また、平川の訃報に接したソニー会長の盛田昭夫は、遺族に対し「今や世界の経済大国となった日本の浮上の原動力となったのがカムカム英語だと信じています」という言葉を寄せ、彼の国民的貢献を称賛した。
6. 影響力
平川唯一の活動は、彼の生きた時代だけでなく、その後の日本の英語教育や社会全体に多大な影響を与え、多くの分野で彼の功績が認識されている。
6.1. 後世への影響
平川唯一の独自の英語教育哲学と「カムカム英語」番組の成功は、後の世代の英語教育に大きな影響を与えた。彼の提唱した「赤ちゃん口まね方式」や、英語を「楽しく口まねする」ことで習得するという考え方は、単語や文法を先行させる従来の学習法とは異なり、英語を「話す」ことに重点を置く現代の英語教育の基礎を築いた。
例えば、ソニーの創業者である盛田昭夫が「今や世界の経済大国となった日本の浮上の原動力となったのがカムカム英語だと信じています」と述べているように、平川の活動は戦後の日本の復興と国際化において、国民の英語力向上に寄与したと評価されている。
6.2. 特定分野への貢献
平川唯一は、特に英語教育分野において社会全体の発展に大きく貢献した。彼の「カムカム英語」は、それまで一部の人々にしか縁のなかった英語学習を、ラジオを通じて全国の家庭に広め、誰もが気軽に英語に触れる機会を提供した。これにより、多くの日本人が英語への関心を持つきっかけとなり、戦後のグローバル化への適応を促す土壌を培った。彼の教育法が後の英語教育の基礎となったことは、日本の国際社会における地位向上にも間接的に寄与したと言える。
7. 著作と記念
平川唯一は、彼の英語教育の哲学をまとめた数々の著書を出版し、その功績は死後も多くの形で記念されている。

- 翻訳
- バートン・クレーン 『この地獄も愛すればこそ』メトロ出版社、1948年。
- 著書
- 『生きた英会話 第1巻』カムカムセンター、1958年3月25日。ラジオ『英語会話』テキストから40週分を厳選した私家本である。
- 『みんなのカムカム英語』毎日新聞社、1981年4月。ラジオ『英語会話』テキストから20週分を再録し、福田昇八による「応用篇」と「カムカム英語の特色」を付加したものである。平川自身の声が収録されたカセットテープ2巻が付属した。出版記念会には、歌手の小鳩くるみ、ペギー葉山、アナウンサーの酒井広など多数の著名人が出席し、武田守正、東後勝明、田崎清忠、J.B.ハリス、国弘正雄らが祝辞を述べた。
- 『カムカム英語』名著普及会、1986年2月。平川唯一講師によるNHKラジオテキスト『英語会話』の復刻版で、別冊1冊、複製テキスト2冊、カセットテープ1巻が付属する。別冊には平川の略歴、自叙伝、「楽しい英語はだれでも話せる」、「生きたお話英語の発音」などが収録され、福田昇八による「カムカム放送の意義」も掲載された。付属のカセットテープには、NHKに保存されていた放送分と新たに録音された本文5週分が収められている。
8. ポピュラー文化における描写
平川唯一の生涯と業績は、近年、テレビドラマなどのポピュラー文化作品で広く描かれている。
2021年度後期に放送されたNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』では、平川唯一の半生が物語の重要な要素として取り上げられた。このドラマでは、さだまさしが平川唯一の役を演じ、彼が講師を務めたラジオ英語講座「カムカム英語」が戦後の日本において人々にもたらした希望と、英語教育への貢献が描かれた。
9. 外部リンク
- [https://www.nhk.or.jp/comecome/ NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』公式サイト]
- [http://stmarys-la.org/ セントメリーズ・エピスコパル教会]
- [https://www.pasadenaplayhouse.org/ パサデナ・プレイハウス]
- [https://kabukiacademy.org/ Kabuki Academy (メアリー・マリコ・オオノ主宰)]
- [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009072656_00000 NHK人物録 平川唯一]