1. 初期生と教育
徳川家治は、元文2年5月22日(1737年6月20日)、第9代将軍徳川家重の長男として江戸城西の丸で誕生しました。母は梅渓通条の娘である幸子(至心院)です。幼名は竹千代でした。
家治は幼少の頃から聡明で、第8代将軍であった祖父の徳川吉宗から並々ならぬ期待と寵愛を受けて育ちました。吉宗は、言語不明瞭であった父・家重に伝えきれなかった帝王学や武術などを家治に直接教え込み、その教育に深く関与しました。また、家治に付けられた小姓たちにも自ら養育を施し、将来の将軍を支える体制を整えました。家治が文武両道に秀でていたのは、吉宗の影響が非常に大きいとされています。
寛保元年(1741年)8月、家治は元服して権大納言に叙任されました。その後、宝暦4年(1754年)12月には、閑院宮直仁親王の娘である五十宮倫子女王(いそのみや ともこじょおう)と結婚しました。
2. 家族
徳川家治の家族構成は以下の通りです。
- 父**: 徳川家重(第9代将軍)
- 母**: お幸の方(至心院、梅渓幸子)
- 正室(御台所)**: 五十宮倫子女王(心観院) - 閑院宮直仁親王の王女
- 長女: 千代姫(1756年 - 1757年) - 華光院
- 次女: 万寿姫(1761年 - 1773年) - 徳川治休の婚約者でしたが、夭折しました。乗台院
- 側室**:
- お美代の方
- お知保の方(1737年 - 1791年) - 後に蓮光院。津田信成の娘
- 長男: 徳川家基(1762年 - 1779年)
- お品の方(1778年没) - 後に養蓮院。藤井兼矩の娘
- 次男: 徳川貞次郎(1762年 - 1763年)
- 養子**:
- 徳川家斉 - 第11代将軍。徳川治済の長男
- 種姫(1765年 - 1794年) - 徳川宗武の娘。徳川治宝の正室。貞恭院
3. 将軍就任
徳川家治は、宝暦10年(1760年)5月3日、父である第9代将軍徳川家重の隠居に伴い、徳川宗家の家督を相続しました。家重の隠居は、自身の健康問題に加え、言語不明瞭な家重の「口」代わりを務めていた大岡忠光の死去により、これ以上の政務継続が困難と判断されたためとされています。忠光の死去直後に家重は隠居しました。
家督相続後、同年9月2日には正式に将軍宣下を受け、第10代将軍職を継承しました。この際、家治は右近衛大将を兼帯し、正二位・内大臣に昇叙し、併せて征夷大将軍・源氏長者宣下を受けました。
また、安永9年(1780年)9月4日には、右大臣に昇進し、右近衛大将を元の如く兼帯しています。
4. 治世と政治
徳川家治の将軍在任期間は、1760年から1786年までの26年間です。家治の治世は、父・家重の遺言に従い、田沼意次を重用したことで特徴づけられます。意次は当初側用人として仕え、後に老中に任命され、幕政の中心を担いました。
田沼意次は、老中松平武元らと共に政治に尽力しましたが、武元の死去後は、意次が老中に任じられ、幕政の全権を委ねられるようになりました。この時期、家治自身は将棋などの趣味に没頭することが多くなったと伝えられています。
田沼意次が推進した政策は、大胆な重商主義的改革が特徴でした。具体的には、印旛沼や手賀沼の干拓事業を推進し、新たな農地の開発を試みました。また、蝦夷地(現在の北海道)の開発や、ロシアとの貿易を計画するなど、積極的な経済政策を展開しました。これらの政策は、幕府の財政再建と経済発展を目指すものでしたが、同時に賄賂や不正が横行したとされ、田沼意次自身は後世に「悪徳な官僚」という批判を受けることもありました。
しかし、田沼意次の政策は、家治の強力な後援があって初めて推進し得たものであり、家治の死後、田沼が失脚したことで、その改革は頓挫しました。家治に対する「暗君」という評価は、田沼意次に対する悪評と一体化して語られることが多く、田沼の評価が近年見直されつつある中でも、家治自身の評価は依然として「暗君説」を引き継いでいるのが現状です。
家治の治世は、田沼意次の経済改革によって一部の商人が富を築いた一方で、天明の大飢饉などの災害によって多くの民衆が苦しむという、経済的格差が拡大した時代でもありました。
5. 治世中の主な出来事・災害
徳川家治の治世中には、以下のような重要な出来事や大規模な自然災害が発生し、社会に大きな影響を与えました。
- 明和の大火**(1772年): 江戸で発生した大規模な火災で、甚大な被害をもたらしました。
- 朝鮮通信使の接見**(1764年): 家治は江戸で朝鮮通信使を接見しました。これは、江戸時代において将軍が朝鮮通信使を江戸で迎えた最後の機会となりました。
- 天明の大飢饉の始まり**(1782年): 日本全土を襲った大規模な飢饉が始まりました。この飢饉は数年間にわたり続き、多くの餓死者を出しました。
- 浅間山の噴火**(1783年): 信濃国(現在の群馬県と長野県の県境)の浅間山が大規模に噴火しました(天明大噴火)。この噴火による火山灰や泥流は、周辺地域に壊滅的な被害をもたらし、既に始まっていた天明の大飢饉をさらに悪化させました。オランダ商館長イサーク・ティツィングは、この噴火に関する詳細な記録を西洋に初めて紹介しました。
- 空海950年忌の全国的な祝賀**(1784年): 真言宗の開祖である空海(弘法大師)の950回忌を記念して、全国規模で盛大な祝賀行事が行われました。
- 田沼意知暗殺事件**(1784年): 将軍の側用人兼老中であった田沼意次の長男で、若年寄であった田沼意知が江戸城内で暗殺されました。これは、意次と意知が国政会議から退出する際に、佐野政言によって殺害されたものです。幕府内の高官の関与も疑われましたが、政言のみが処罰されました。この事件は、田沼が推進していた自由主義的な改革や鎖国政策の緩和を阻害する結果となりました。
- 朽木昌綱による貨幣研究書の刊行**(1782年、1787年): 丹波国や福知山に所領を持つ朽木昌綱(1750年 - 1802年)は、天明2年(1782年)に中国と日本の銀貨に関する分析書『新撰泉譜』を、天明7年(1787年)にはヨーロッパや植民地の貨幣図版を掲載した『西洋銭譜』を刊行し、天皇に献上しました。この時代には、蘭学(西洋の学問)が日本で盛んに研究されていました。
- 天明元号の制定と家治の右大臣任命**(1781年): 天明元年(1781年)には、光格天皇の即位を記念して「天明」(「夜明け」を意味する)という新しい元号が制定されました。この際、家治は天皇の公卿における右大臣に任命され、これは異例の厚遇とされました。
6. 後継者問題
徳川家治の治世において、後継者問題は大きな政治的課題となりました。
安永8年(1779年)2月、家治の唯一の男子であった世子・徳川家基が18歳で急死しました。家治には他に男子がおらず、家治の弟である清水家の徳川重好にも子がなかったため、将軍継嗣の選定が喫緊の課題となりました。
家治は、家基の3回忌法要を済ませた後の安永10年(1781年)4月、将軍継嗣となるべき養子の人選を、老中田沼意次、若年寄酒井忠休、留守居依田政次の3名に命じました。この人選の結果、閏5月18日に御三卿の一つである一橋徳川家当主徳川治済の嫡子である豊千代(後の徳川家斉)が選ばれました。同年11月2日には豊千代は家斉と改名し、天明2年(1782年)4月2日に従二位権大納言に叙任されました。
この将軍継嗣決定において、田沼意次は中心的な役割を果たしたとされています。天明元年(1781年)7月15日には、将軍養子人選の功労を家治に賞され、意次は1万石の加増を受けています。歴史家の北島正元は、この継嗣決定には何らかの裏があったと推測しています。意次の弟である田沼意誠やその子田沼意致らが、一橋徳川家と家老として通じていたことから、意次と治済が将軍継嗣を出す素地を意図的に作り出していた可能性を指摘しています。
7. 人物・逸話・趣味
徳川家治は、幕政を家臣に任せ、将棋などの趣味に没頭する傾向があったとされますが、その趣味の分野では高い能力を示しました。


- 吉宗からの寵愛と教育**: 祖父である徳川吉宗から特に寵愛された孫であり、吉宗は家治に期待を寄せ、自ら帝王学や武術などを教え込みました。さらに家治に付けた小姓たちにも直接養育を施し、後継者体制を万全にしたと伝えられています。
- 学芸の才能**: 学芸の才能に恵まれ、特に書画を得意としました。
- 将棋愛好家**: 将棋を深く愛好し、七段の免状を許されるほどの腕前でした。
- 残された棋譜からは、対局相手が将軍に配慮して若干手加減している様子も感じられるものの、非常に筋の良い軽い棋風で、現在のアマチュア高段者レベルの実力は十分にあったと評価されています。
- 新しい将棋用語を考案し、例えば右上から「いろはにほへとちりぬるを」などと呼ぶ独自の呼び方を用いていました。
- 詰将棋の作成にも優れた才能を発揮し、図式集『御撰象棊攷格』百番を著しています。詰将棋作家としても名高いプロ棋士の二上達也は、家治の指将棋については「所詮は旦那芸」と評しながらも、詰将棋については「他の追随を許さぬ名作・好作を残している」と絶賛しています。
- 七国象棋も好んでいました。
- 一方で、対局中に難局に陥ると「待った」をして駒を元に戻すなど、素行の悪さも伝えられています。
- 質素倹約と生活習慣**: 将軍の起床時間は午前6時と定められていましたが、50歳近くになった家治は早く目を覚ますことが多くなりました。そのような時でも、座敷の中で音を立てないよう抜き足差し足で歩き、午前6時になるのをひたすら待っていたといいます。厠に行く際も、当番の御納戸役を起こさないよう、抜き足差し足で廊下を歩いたと伝えられています。
- 祖父・吉宗のように名君であろうと常に意識しており、食べ物で変わったものが出ると「これは先々代様(吉宗)も食べられたものか?」と確認するほどでした。
- 将軍としての私生活においては、吉宗以上の質素倹約に努め、大奥の経費を吉宗の頃からさらに3割削減しました。
- 祖父・吉宗と同じく、よく鷹狩りに出かけました。
- 近習への配慮**: ある激しい雨の日、家治は一人の近習が空を見上げため息をついているのを目にしました。別の者にその理由を尋ねると、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りしており、今頃親が苦心していることを思っているのでしょう」と答えました。家治はさらに、いくらあれば直せるのかと問うと、「100両もあれば直せると思います」と答えが返ってきました。家治は密かにため息をついていた近習を呼び、「孝を尽くせ」と100両を渡したという逸話が残っています。
- 愛妻家**: 徳川将軍家では例外的に愛妻家であったとされます。正室の五十宮との間に2女をもうけましたが(これ自体が異例)、男子を得ることができませんでした。近臣が側室を迎えるよう勧めてもなかなか応じず、ついに田沼意次の勧めで側室を選ぶ代わりに、田沼も側室を持つことを条件にしたほどでした。長男徳川家基の出生後は、家基を五十宮のもとで養育させました。また、2人の側室がそれぞれ男児を産んだ後は、役御免かのように通わなくなったと伝えられています。
- イサーク・ティツィングとの謁見**: 東インド会社オランダ商館長(カピタン)のイサーク・ティツィングは家治に謁見しました。
- 身長**: 大樹寺に納められている歴代将軍の位牌は、将軍の身長とほぼ同じ高さであるとする説があり、これによると家治の身長は153 cmと推測されます。しかし、父・家重の位牌が151 cmで実際の身長が156 cmであることから、家治の身長はそれよりも高い158 cmとする説もあります。
8. 死去
徳川家治は天明6年8月25日(1786年9月17日)に江戸城で死去しました。享年50(満49歳没)でした。
死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されています。晩年は足のむくみに悩まされていたと伝えられています。
徳川家の公式記録である『徳川実紀』では、歴代将軍の死去について忌日や経緯を詳しく記していますが、家治についてはその記述が曖昧な点が多く、死を巡る論争が存在します。
- 公式記録と疑問**: 『徳川実紀』では家治の忌日を9月8日巳下刻(午前10時頃)としていますが、高貴な人物の死は1ヶ月ほど秘されるのが通例であり、実際に発葬されたのは9月8日(新暦9月29日)でした。歴史家の北島正元は、田沼意次が病気を理由に屋敷に籠もったのが8月22日、老中辞任を願い出たのが8月26日、そして老中を罷免され雁間詰となったのが8月27日であることから、家治はこの時点で既に死去していたのではないかと推測しています。家治が存命であれば、自身が信任する田沼の辞任を認めるはずがないという理由からです。
- 死の事前告知**: 『徳川実紀』には、忌日の前日である9月7日に、「公方様御勝遊されず候につき、御機嫌伺いのため、明八日四ツ時(午前10時頃)惣出仕の事(家治様の具合が良くないので、御機嫌伺いのため、翌8日午前10時頃に全員登城しなさい)」という触れが大名や旗本に対して出されています。そして9月8日の惣出仕の際に家治の死去が公式発表されたことから、これは家治の死をあらかじめ広めるために出された命令であり、実際の死去は9月8日より以前だったと考えられます。
- 他の忌日説**:
- 8月20日説**: 『翁草』巻109を根拠とするもので、同書には「実は(家治は)八月二十日夜斃御なり」とあります。しかし、著者の神沢杜口が当時京都にいたことから、この重大な事実をどう知り得たのか疑問視されています。また、神沢は意次が推薦した医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れたことや、8月20日にその医師の調薬が退けられた日と書かれていることから、自身の予想で書いた忌日ではないかと疑われています。
- 8月25日説**: 『天明巷説』という史料を根拠とするもので、当時の新番士であった仙谷次兵衛組大木市左衛門の直話として、「八月二十四日の当番の日、江戸城中に詰めていたところ、二十五日の暁に急に城中が騒がしくなり、御医師衆が残らず登城し、世嗣の家斉も西の丸から急ぎ駆け付けた」という記事があり、大木は「家治は8月25日暁に死去した」と述べています。この説は、『徳川実紀』の不自然な記述によって補強されています。『実紀』には8月25日の記事が全くなく、8月26日条に「この暁よりまた重くなやませ給ふよし聞えて、内班の群臣みな上直して家に帰らず」とあるのは、なぜ8月25日に大騒ぎになった記録がなく、8月26日に大騒ぎになったと補うように書かれているのか疑問が残ります。
- 死因と毒殺説**: 『徳川実紀』では死因を水腫と感冒としていますが、その死は突然だったようです。北島は、心臓あるいは腎臓が衰弱し、それが風邪によりこじれて死に至ったのではないかと推定しています。記録によると家治は8月1日の朝会には出座しており、病に倒れたとすればそれ以降です。8月15日の朝会では、家治は風邪を理由に殿中での謁見を行わず、世嗣の家斉が代わってこれを受けました。この日、江戸城が激しく動揺したとされ、「これまでは、さばかりの御患とも人々思ひ奉らざりしが、此日外殿に出まさぬと聞えければ、さてこそとて、をしなべおどろきけり、御位につかれしより二十六年の間、朝会の日は、いかなり盛暑・酷寒といへども怠り給はず、外殿に出て群臣の謁見をうけ給ひしが、はじめてかかる御事なりしかば、かろき御ことにもあるまじと、人々申侍りしとぞ(これまで家治様は大した病気ではないとみんな思っていた。しかしこの日、城中に出られないと聞いたので、みんなが驚いた。家治様は将軍になってから26年間、朝会の日は暑くても寒くても出座を怠ることはなく、常に城中で家臣団の謁見を受けていた。こんなことは初めてのことで、家治様の御病状は軽いことではないと、みんなが噂した)」と記されています。
家治の死の直前には、田沼意次による毒殺説がかなり広まりました。当初、家治を診察していた医師は河野仙寿院でしたが、病状は回復しませんでした。このため8月15日に奥医師の大八木伝庵に代わりました。しかし、8月16日に田沼が町医者の若林敬順と日向陶庵を推薦し、家治がこの2人の治療を受けることになりました。この2人は8月19日に奥医師に昇格し、それぞれ蔵米200俵を下賜されました。しかし同日、若林の調薬を受けた家治は急に病状が悪化したため、8月20日に大八木が再度薬を調合するようになりました。そして8月25日に家治は死去したとされています。
家治の死去は尋常なものではなかったようで、『天明巷説』では忌日の翌日である8月26日に「家治の死体がしきりに震えだし、吐血が夥しく、異常な死にざまだった」と記されています。『翁草』では「大奥の女中、口々に田沼主殿頭(意次)御上へ毒薬を差し上げたりと、数千の女中罵る事夥し」と記録しています。これらの記述から、家治の死には政治的な思惑が重なり、毒殺された可能性も排除できないと考えられています。
家治は天明6年9月22日(1786年10月13日)に贈正一位・太政大臣を追贈されました。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺にあります。
9. 評価と遺産
徳川家治の治世と業績に対する歴史的評価は、多岐にわたります。彼は幕政を家臣に任せ、将棋などの趣味に没頭する傾向があったため、将軍として主体的に権力を行使しなかったことについて、単にやる気がなかっただけとする見方もあります。
一方で、家治の治世を高く評価する意見も存在します。もともと田沼意次を重用したのは家治の父・家重であり、家重は家治に「田沼はまっとうの者だから、行々心をそえて召使うるように」と遺言していました。しかし、田沼を側用人兼老中という前例のない大抜擢をしたのは家治自身であり、田沼が大胆な重商主義政策を推進し得たのも、家治の後援あってのことでした。実際に、家治の死によって田沼は失脚しています。特に、田沼意次を重用したこと自体が「英断」であったとされています。
「暗君」という家治への評価は、田沼意次に対する悪評価と密接に結びついています。しかし、近年、田沼意次の経済政策やその時代背景に対する歴史的評価が大幅に見直されつつあります。田沼は、幕府財政の立て直しや経済の活性化を目指した先駆的な改革者として再評価される傾向にあります。このような田沼への評価の変遷があるにもかかわらず、家治に対する評価は依然として過去の「暗君説」を引き継いでいるのが現状です。
家治の治世は、天明の大飢饉や浅間山の噴火といった大規模な自然災害に見舞われ、社会に大きな混乱をもたらしました。これらの災害は、田沼意次の経済政策と相まって、民衆の生活に深刻な影響を与えました。後世への影響としては、田沼時代に試みられた経済改革が、その後の幕政に一定の教訓を与えたと言えるでしょう。
10. 系譜
徳川家治の系譜は以下の通りです。
- 曾祖父**: 徳川光貞(紀州藩第2代藩主)
- 曾祖母**: 浄円院(巨勢紋子)
- 曾祖父**: 大久保忠直
- 曾祖母**: 内藤守政娘
- 曾祖父**: 梅渓英通
- 曾祖母**: 甘露寺嗣長娘
- 祖父**: 徳川吉宗(第8代将軍)
- 祖母**: 深徳院(大久保須磨子)
- 父**: 徳川家重(第9代将軍)
- 母**: お幸の方(至心院、梅渓幸子)
- 本人**: 徳川家治(第10代将軍)
- 正室: 五十宮倫子女王
- 側室: 蓮光院
- 側室: 養蓮院
- 長男: 徳川家基
- 養子: 徳川家斉(第11代将軍)
11. 治世中の元号
徳川家治の将軍在任期間(1760年 - 1786年)中に使用された日本の元号(年号)は以下の通りです。
- 宝暦(1751年 - 1764年)
- 明和(1764年 - 1772年)
- 安永(1772年 - 1781年)
- 天明(1781年 - 1789年)
12. 偏諱を受けた人物
徳川家治から偏諱(名前の一字)を受けた人物は以下の通りです。
- 二条治孝(公家)
- 徳川治休(尾張藩第9代藩主徳川宗睦の長男、家治の次女・万寿姫の婚約者、早世)
- 徳川治興(徳川宗睦の次男で治休の弟、早世)
- 徳川治行(徳川宗睦の養子、早世)
- 徳川治貞(紀伊徳川家、家治の義従兄弟(祖父・吉宗から紀伊藩主を継いだ徳川宗直の次男))
- 徳川治宝(徳川治寶、治貞の又甥・養嗣子、正室は家治の養女(徳川宗武の娘))
- 徳川治保(水戸徳川家、二条治孝とは義兄弟)
- 徳川治紀(水戸徳川家、治保の子)
- 徳川治察(田安治察、家治の従兄弟/徳川宗武の子で松平定信の兄/治宝とは義兄弟)
- 徳川治済(一橋治済、家治の従兄弟で第11代将軍徳川家斉の実父)
- 徳川治国(治済の次男で家斉の弟、正室は二条治孝の娘・隆子(乗蓮院))
- 松平治好(福井松平家、治済の実兄・松平重富の子)
- 松平治郷(不昧、松江藩主)
- 上杉治憲(上杉鷹山)
- 上杉治広(鷹山の養子、鷹山の養父・上杉重定の子)
- 前田治脩
- 池田治恕
- 池田治道(治恕の弟、鳥取藩主)
- 池田治政(岡山藩主)
- 毛利治親(初め治元)
- 蜂須賀治昭
- 黒田治之(一橋治済の実弟で家治の従兄弟、福岡藩黒田氏に養子入り)
- 黒田治高(治之の養嗣子)
- 鍋島治茂
- 細川治年