1. 生涯と学問活動
1.1. 生い立ちと家庭環境
方孝孺は元の至正17年(1357年)、浙江省寧海県で方克勤(ほうこくきん)の息子として生まれた。父の方克勤は洪武帝の時代に循吏(清廉な官僚)として知られていた。方孝孺は幼い頃から非常に聡明で、その両目は炯々として輝き、一日に寸刻も読書を怠らなかったという。郷里の人々は彼を「小韓子」(小さな韓愈)と称賛した。
1.2. 学問的成長と師
方孝孺は成長して、当時「四大先生」の一人と称された宋濂(そうれん)に師事した。宋濂の門下生の中でも随一と評され、先輩の胡翰(こかん)や蘇伯衡(そはくこう)も自らを及ばないと認めるほどであった。彼は宋濂から儒学、歴史、文学を深く学んだ。方孝孺は宋濂の門下で頭角を現したが、師の宋濂が1381年に洪武帝による大規模な功臣粛清に巻き込まれ、流刑地で死去したため、その教えは途絶えることとなった。方孝孺は文学的な技巧よりも、王道を明らかにし、天下を太平に導くことを自らの使命としていた。
1.3. 初期キャリア
方孝孺は知識人たちから推挙され、洪武25年(1392年)に漢中府教授(漢中府の学官)の職に就いた。しかし、彼は粛清された旧功臣の弟子であったため、洪武帝に重用されることはなかった。洪武帝は法治を重視する傾向があり、方孝孺の儒学的な思想とは合致しなかったため、官位は教授職に留まった。この頃、蜀献王(しょくけんおう)朱椿(しゅちん)に招かれ、その世子である朱悦熑(しゅえつれん)の師傅(教育係)を務めた。朱椿は方孝孺のために読書室を建て、それを「正学」と名付けたことから、方孝孺は「正学先生」という別称を得た。この時期に、『周礼辨正』(しゅらいべんせい)や『遜志斎集』(そんしさいしゅう)など、多くの著作を著し、皇族の子弟教育にも尽力するなど、精力的に活動した。
2. 建文帝時代の活動
2.1. 皇太子師傅および参謀

洪武25年(1392年)4月、病弱であった皇太子朱標が死去すると、その庶長子であるわずか15歳の朱允炆(しゅいんぶん)が皇太孫に冊封された。皇太孫朱允炆の教育係としては、若き儒学者として名声が高かった方孝孺の他、劉三吾、黄子澄、斉泰らが選ばれた。方孝孺は皇太孫の師傅としてだけでなく、政治的参謀としての役割も兼ね、朱允炆が次期皇帝として確固たる地位を築けるよう補佐した。その結果、方孝孺は朱允炆から厚い信頼を得るに至った。しかし、皇太孫朱允炆がまだ成年になる前に洪武帝が病に倒れ、朱允炆の最大の支えが失われると、その立場は揺らぎ始めた。
2.2. 建文帝の改革と政策
洪武31年(1398年)、洪武帝が崩御すると、皇太孫朱允炆は建文帝として第2代皇帝に即位した。建文帝の即位に伴い、彼から厚い信任を受けていた方孝孺も重用され、翰林院侍講学士(かんりんいんじこうがくし)に昇進した。建文帝の顧問となった方孝孺は、徳治による政治体制を目標に掲げ、国政改革を推進した。方孝孺は王道を明らかにし、天下を太平に導くことが自身の任務であると考えていた。彼は洪武帝の厳格な政治を緩和し、柔和な政治へと転換を図り、これにより儒学者たちの支持を得た。また、皇帝の独裁体制を部分的に緩和することも試みた。建文帝は読書を好み、疑問が生じるたびに方孝孺を呼び出して解説を求め、さらには国家の重要事についてもことごとく彼に諮問した。また、朝廷の全ての重要事項は、方孝孺に直接会って可否を決定するよう定められた。
当時、方孝孺と建文帝が直面していた最も喫緊の課題は、新皇帝がまだ若く、権力基盤が脆弱であるという点であった。このことを憂慮した方孝孺は、この頃建文帝に助言する意味で「深慮論」(しんりょろん)を献上した。この文章の中で彼は、「災禍は常に軽視されたことから生じ、乱は常にほとんど疑うに足らないことから起こる」と主張し、油断することの危険性を説いた。
洪武帝は生前、幼い皇太孫が老練な功臣たちに振り回されることを懸念し、数多くの功臣を虐殺した。しかし、結果的に建文帝の周囲には優れた大臣がほとんど残らず、その支持基盤は大きく損なわれた。一方で、燕王朱棣をはじめ、各地に配属されていた皇帝の叔父たちは野心を募らせており、強大な軍事力を誇っていた。南京の朝廷は苦慮の末、彼らを一人ずつ皇宮に呼び出して排除する策を立てた。しかし、性格が優柔不断であった建文帝は、叔父たちを迫害したと非難されることを恐れ、積極的に賛同しなかった。だが、方孝孺をはじめとする近臣たちが強く進言した結果、地方の藩王たちの領地には密偵や刺客が派遣され、彼らの言動が秘密裏に監視されることとなった。
3. 靖難の役と抵抗
3.1. 靖難の役の背景
皇帝と叔父たちとの間で対立が激化し、各地の藩王が爵位を剥奪される事態も発生した。ついに北平を治めていた洪武帝の四男であり、当時洪武帝の息子たちの中で最年長であった燕王朱棣は、「皇帝を囲む奸臣を処断し、国を正す」という名目で靖難の役を起こした。
皇帝の軍は数的には優勢であったが、洪武帝の粛清により多くの将軍が排除されていたため、優れた将軍は少なかった。一方、朱棣の軍は北方で長年北元のモンゴル族と戦闘を繰り広げ、実戦経験が豊富でよく訓練されており、士気も高かった。
3.2. 永楽帝即位詔書拒否
朱棣の策士である姚広孝(ようこうこう、道衍)は、朱棣に対し「城が陥落しても方孝孺は決して降伏しないだろう。しかし、彼を殺してはなりません。彼を殺せば天下の学問が途絶えかねません」と懇願していた。
4年にわたる激しい戦争の結果、ついに朱棣の精鋭部隊が皇帝の軍を撃破した。戦況が不利になると、将軍不足のため、戦争とは無関係であった方孝孺までもが官軍の総司令官に任命されたが、戦況を逆転させることは困難であった。建文4年(1402年)、ついに首都南京が陥落すると、建文帝は皇宮に火を放った。皇后の孝愍譲皇后は焼死体で発見されたが、建文帝の遺体は発見されなかった。
南京陥落後、方孝孺は捕らえられた。永楽帝は姚広孝の助言を受けて、方孝孺に自身の即位の詔書を書かせようとした。しかし、方孝孺は出された紙に数文字を書き、そのようなものを書くくらいなら死んだ方がましだと泣きながら断固として拒否した。永楽帝が紙を取り上げて見てみると、そこには「燕賊簒位」(燕の賊が皇帝位を簒った)と書かれていた。
4. 処刑と十族の滅族
4.1. 永楽帝との対面
南京を陥落させた朱棣は、3日間かけて宮殿内を徹底的に捜索し、建文帝に忠誠を誓っていた臣下をほとんど処刑した。しかし、建文帝の師であり、燕王排除論の主役であった方孝孺に対しては、その学問的な名声と権威を意識して生かしておいた。宮門前で建文帝を悼んだという理由で獄に繋がれた後も、丁重に扱った。朱棣は、当代の大学者である彼を懐柔することで、靖難の役による甥の帝位簒奪の正当性をある程度回復し、儒学者たちの支持を得ようとした。朱棣は方孝孺を懐柔するため、彼の門下生であった廖鏞(りょうよう)や廖銘(りょうめい)を獄に送った。しかし方孝孺は彼らに「お前たちは私に何年も学んだのに、まだ善悪と大義を理解していないのか」と問いかけ、屈服を拒んだ。
しかし、当時の方孝孺は、すでに景清(けいせい)と共に建文帝への忠誠を貫くことを決意していた。景清は単身で刀を隠し宮殿に入ったが、朱棣がこれを疑って身体を捜索し、刀を発見した。燕王がこれを詰問すると、景清は旧主のために復讐を企てただけだと答えた。激怒した燕王は直ちに景清とその一族を処刑したが、方孝孺に対しては丁重な態度を続けた。
朱棣は方孝孺を自身の前に連れてきたが、方孝孺は建文帝に礼を尽くす意味で喪服を着用していた。朱棣は終始、穏やかな言葉遣いと態度で、自身が反乱を起こすに至った動機を方孝孺に説得しようとした。しかし、朱棣を不信し、建文帝に忠誠を尽くそうとする方孝孺の態度は一貫していた。この時、朱棣と方孝孺が交わした問答は以下の通りである。
- 朱棣:「予は周公が成王を補佐したのに倣ったに過ぎない。」
- 方孝孺:「今、成王(建文帝)はどこにおられますか?」
- 朱棣:「彼は自ら身に火を放ち、死んだ。」
- 方孝孺:「なぜ成王の息子を皇帝に立てないのですか?」
- 朱棣:「国は年長者を君主とすることを望んでいる。」
- 方孝孺:「なぜ成王の弟を皇帝に立てないのですか?」
- 朱棣:「これは私の家事である。先生は心配する必要はない。」
ついに朱棣が自身の即位詔書の草案を作成してほしいと懇願し、筆墨を与えると、方孝孺は「燕賊簒位」(燕の賊が帝位を簒った)という文字だけを書き出した。これに激怒した朱棣が方孝孺に「九族を滅ぼす」と脅迫したが、方孝孺は「九族どころか『十族』を滅ぼすとしても、逆賊と手を組むことはできない」と反論した。
4.2. 「十族の滅族」刑罰
この言葉を聞いて極度に憤怒した朱棣は、方孝孺の口を両耳の付け根まで引き裂かせ、両耳を切り落とさせた。しかし、方孝孺は目を剥いて朱棣を睨みつけ、苦痛に耐えるばかりであった。続いて朱棣は方孝孺の一族親族をことごとく捕らえさせた。方孝孺の血縁者は皆、刑場に引き出され、方孝孺が見ている前で一人ずつ斬殺された。彼の一族は、通常の九族(父族4代、母族3代、妻族2代)に加えて、友人や門生までが「十族目」として処刑された。この「十族の滅族」により、方孝孺と連座して斬首された者は合計873名に達し、流刑に処された者は数えきれないほどであった。これを「誅連十族」(ちゅうれんじゅうぞく)という。方孝孺はこれら全ての出来事を強制的に一つ一つ見届けさせられた後、最後に処刑された。
4.3. 絶命詩と最期
斬首される直前、南京城外の聚宝門(じゅほうもん)へと引き出された彼は、以下の「絶命詩」(ぜつめいし)を残した。
原文 | 書き下し |
---|---|
天降乱離兮、孰知其由 | 天乱離を降す、孰れか其の由を知らん |
三綱易位兮、四維不修 | 三綱位を易え、四維修まらず |
骨肉相残兮、至親為仇 | 骨肉相い残し、至親仇と為る |
奸臣得計兮、謀国用猷 | 奸臣計を得て、国を謀り猷(はかりごと)を用う |
忠臣発憤兮、血涙交流 | 忠臣憤りを発し、血涙交(こもご)も流る |
以此殉君兮、抑有何求 | 此れを以って君に殉ず、そもそも又何をか求めん |
嗚呼哀哉兮、庶不我尤 | 嗚呼悲しい哉、庶(ねがわ)くば吾が尤(とが)めざざるにちかし |
方孝孺は46歳で処刑された。
5. 著作と学問的業績
5.1. 儒教思想と学風
方孝孺は正統的な儒教の官僚であり、儒教を深く信仰していた。彼の学問は朱熹の思想を継承し、特に金華学派の流れを汲んでいた。彼は文学的技巧よりも、王道を明らかにすること、すなわち儒教的な理想に基づいた政治を実現し、天下を太平に導くことを自らの使命としていた。彼の学風は、実践的な政治への関与と、儒教の倫理を国家統治に適用することに重きを置いていた。
5.2. 主要著作とその焼却
方孝孺の主要な著作には、『周礼辨正』(しゅらいべんせい)、『遜志斎集』(そんしさいしゅう、全24巻)、『周礼考次』(しゅらいこうじ)、『大易枝辞』(たいいしじ)、『武王戒書註』(ぶおうかいしょちゅう)、『宋史要言』(そうしようげん)、『帝王基命録』(ていおうきめいろく)、『文統』(ぶんとう)などがある。
しかし、彼の著作のほとんどは、永楽帝の命令により焼却された。現在に伝わるのは、『遜志斎集』と文集である『方正学文集』(ほうせいかくぶんしゅう)の一部のみである。
6. 評価と遺産
6.1. 忠臣としての名声
方孝孺は、死に直面しても屈することなく、建文帝への揺るぎない忠節と気節を貫いた人物として、後世に永続的な名声を得た。特に、儒教の影響が強かった朝鮮や日本では、彼を万古の忠臣として高く評価する見方が支配的であった。明朝後期においても、方孝孺は崇高な忠臣と見なされるようになり、南明の弘光帝は彼に「文正」(ぶんせい)という諡号を贈った。朝鮮の正祖もまた、『正祖実録』において、方孝孺と練子寧(れんしねい)の崇高な節義を世に知らしめるために祭壇を築いたと記されている。
6.2. 批判的視点
一方で、方孝孺のあまりにも剛直な性格が、彼自身だけでなく、約1000人に及ぶ多数の親族や関係者の残酷な死を招いたとして、一部から批判的な見解も示されている。現代においては、ロシア系の韓国人学者である朴露子(パク・ノジャ)教授は、朝鮮の儒学者たちが節義の模範とした方孝孺が、性理学の最大の弊害を露呈させたと批判している。彼は方孝孺の道徳論は絶対的な真理ではなく、支配階級が掲げた一つの名分論に過ぎないと主張し、農民の立場からすれば、誰が税を徴収するかはさほど重要ではないのではないかと疑問を呈している。
6.3. 後世の尊敬と影響
方孝孺は、朝鮮の世祖が幼い甥である端宗の王位を簒奪したことを批判して処刑された死六臣(しろくしん)と比較されることがある。粛宗は死六臣の墓に祭祀を執り行った際、「死六臣は明の方孝孺と何が異なるというのか」と述べ、彼らの忠誠心を高く評価した。
また、福建省(閩南人)では、方孝孺は鉄鉉(てつげん)や景清(けいせい)と共に「三府千歳」(さんぷせんさい)または「三王」(さんおう)と呼ばれる神として崇められている。これは、彼らが王爺信仰(おうやしんこう)の神々として祀られていることを示す。
7. 家族関係
7.1. 家族の運命
方孝孺には兄の方孝聞(ほうこうぶん)と弟の方孝友(ほうこうゆう)、そして二人の息子と二人の娘がいた。しかし、永楽帝による「十族の滅族」(誅連十族)によって、彼の家族は悲劇的な運命を辿り、公式には彼の家系は断絶した。
弟の方孝友は、兄が獄に繋がれた際に面会し、次のような即興詩を詠んだと伝えられている。
- 阿兄何必淚潸潸 (兄上、どうして涙を流されるのですか)
- 取義成仁在此間 (義を取り仁を成すは、まさにこの場にあり)
- 華表柱頭千載後 (華表の柱頭は千年の後も変わらず)
- 旅魂依舊到家山 (旅の魂は故郷の山に帰り着くでしょう)
妻の鄭氏(ていし)は、夫の処刑を予見して毒を飲んで自害し、難を逃れたという説もあるが、実際には夫の悲惨な姿を見て涙を流しながら、夫と同様に真っ直ぐな節義を貫き、斬首されたと伝えられている。
方孝孺の二人の娘は、誅連十族の際に未成年であったが、淮水(わいすい)を渡る途中で捕らえられそうになると、互いに手を取り合って水に飛び込み、自ら命を絶ったという。
8. 関連項目
8.1. 関連人物と事件
- 建文帝
- 靖難の役
- 永楽帝
- 宋濂
- 黄子澄
- 斉泰
- 姚広孝
- 朱元璋