1. 概要
朴承振(박승진パク・スンジン韓国語、Pak Seung-zinパク・スンジン英語、1941年1月11日 - 2011年8月5日)は、朝鮮民主主義人民共和国出身の著名なサッカー選手であり、ミッドフィールダーとして活躍しました。彼は特に、北朝鮮サッカー史における画期的な出来事であった1966 FIFAワールドカップで、同国代表チームのキャプテンを務め、重要な役割を果たしました。この大会で彼は2ゴールを記録し、これはアジアの選手として初めてFIFAワールドカップでゴールを挙げた歴史的な瞬間となりました。
しかし、彼の人生は、ワールドカップでの輝かしい活躍後に耀徳強制収容所に収監されたという疑惑に包まれており、これは北朝鮮の人権状況に関する国際的な議論と深く関連しています。本稿では、彼のサッカー選手としての功績を詳述するとともに、その後の人生を取り巻く論争、特に強制収容所への収監疑惑とそれに対する反論を深く掘り下げ、北朝鮮体制下における個人の運命と人権侵害の可能性について、批判的な視点から考察します。
2. 経歴
2.1. 生い立ち
朴承振は1941年1月11日に朝鮮民主主義人民共和国元山市で生まれました。彼の幼少期や初期の生活に関する詳細は限られていますが、後にサッカー選手としての才能を開花させ、国際舞台で活躍するに至ります。
2.2. 身体的特徴
朴承振の身体的特徴は以下の通りです。
- 身長: 168 cm
- 体重: 68 kg
- 主なポジション: MF
3. サッカー経歴
3.1. クラブ経歴
朴承振は、朝鮮民主主義人民共和国のクラブチームである牡丹峰体育団に所属していました。彼は1965年から1974年までの間、このクラブでプレーしたとされています。クラブでの具体的な出場記録や得点数については、詳細な情報は公開されていません。
3.2. 代表チームでの活動
朴承振は1965年から1973年まで、北朝鮮代表チームの一員として活躍しました。この期間に彼は国際試合に12回出場し、6ゴールを記録しています。特に、彼は1966 FIFAワールドカップにおいてチームのキャプテンを務め、チームを牽引しました。
3.3. 1966 FIFAワールドカップ
朴承振は、北朝鮮サッカーにとって歴史的な出来事であった1966 FIFAワールドカップで中心的な役割を果たしました。
3.3.1. 出場と主要な試合
朴承振は、1966 FIFAワールドカップで北朝鮮代表として4試合に出場しました。初戦のソビエト連邦戦では得点はありませんでしたが、第2戦の1962 FIFAワールドカップで3位だったチリ戦では試合終了間際の88分に同点ゴールを決め、チームに貴重な勝ち点をもたらしました。このゴールは、北朝鮮代表にとってワールドカップ史上初の得点であると同時に、アジアのチームとしてもワールドカップで初めて記録されたゴールであり、ワールドカップ通算700ゴール目という記念すべきものでした。この得点によって北朝鮮代表は決勝トーナメント進出の可能性をつなぎ、最終的にアジア勢として初の決勝トーナメント進出を果たすことになります。準々決勝のエウゼビオが活躍するポルトガル戦にも出場し、この試合でも1ゴールを挙げています。
3.3.2. ゴール
朴承振が北朝鮮代表として記録した6ゴールは以下の通りです。
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1965年11月21日 | カンボジア、プノンペン | オーストラリア | 6-1 | 1966 FIFAワールドカップ・アフリカ・アジア・オセアニア予選 |
2 | 1965年11月21日 | カンボジア、プノンペン | オーストラリア | 6-1 | 1966 FIFAワールドカップ・アフリカ・アジア・オセアニア予選 |
3 | 1965年11月24日 | カンボジア、プノンペン | オーストラリア | 3-1 | 1966 FIFAワールドカップ・アフリカ・アジア・オセアニア予選 |
4 | 1966年7月15日 | イングランド、ミドルスブラ | チリ | 1-1 | 1966 FIFAワールドカップ |
5 | 1966年7月23日 | イングランド、リヴァプール | ポルトガル | 3-5 | 1966 FIFAワールドカップ |
6 | 1973年5月11日 | イラン、テヘラン | イラン | 1-2 | 1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選 |
3.4. トレーニング方法
朴承振の卓越した体力とパフォーマンスは、彼のユニークで献身的なトレーニング方法に起因するとされています。チームメイトであった韓奉鎮の証言によると、朴承振は足首にゴムバンドを結びつけ、それを手で持って、左右の足でそれぞれ1000回ずつボールを蹴る練習を繰り返すことで、下半身を徹底的に鍛え上げていたといいます。このような独自の訓練が、彼の試合での粘り強さと得点力に貢献したと考えられています。
4. 大会での実績
朴承振がキャプテンを務めた北朝鮮代表チームは、1966 FIFAワールドカップで目覚ましい成果を上げました。彼らはグループステージを突破し、アジア勢として史上初めて大会の準々決勝に進出するという歴史的な快挙を達成しました。この成果は、北朝鮮サッカーの国際的な地位を高めるだけでなく、アジアサッカー全体の発展にも大きな影響を与えました。
5. 論争と疑惑
1966 FIFAワールドカップでの輝かしい活躍とは裏腹に、朴承振のその後の人生は、北朝鮮体制下での厳しい運命を巡る論争と疑惑に包まれています。特に、彼が強制収容所に収監されたとされる主張は、国際社会で大きな注目を集めています。
5.1. 耀徳強制収容所収監疑惑
北朝鮮の脱北者である姜哲煥は、自身の著書『平壌の水槽』の中で、自身が収容されていた耀徳強制収容所で朴承振と出会ったと主張しています。姜哲煥によると、朴承振を含む1966年ワールドカップ代表チームの選手たちは、イタリア代表に勝利した後にバーで祝杯を挙げたことが、北朝鮮当局によって「ブルジョワ的退廃の兆候」と見なされ、そのために投獄されたとされています。姜哲煥の証言では、朴承振は20年以上にわたって収容所にいたとされています。また、別の情報源では、ワールドカップ後に「スパイ容疑」で12年間耀徳強制収容所に送られたとされており、これは当時甲山派の朴金喆の粛清の影響があったためとも指摘されています。
5.2. 反論と否定
これらの収監疑惑に対しては、異なる証言や反論も存在します。2002年に制作されたドキュメンタリー映画『奇蹟のイレブン [1966年W杯 北朝鮮VSイタリア戦の真実]』(原題: The Game of Their Lives)では、朴承振を含む当時の代表選手たちがインタビューに応じ、彼らはワールドカップ後に何らかの報復を受けたことを否定しています。この映画に出演した際、朴承振は朝鮮労働党政権に対する批判的な発言を一切口にしませんでした。また、韓国の報道では、朴承振が映画に出演した際には高位の地位にあり、多くの勲章を身につけていたことから、彼が本当に収容所にいた人物であるとは考えにくいという見方も示されています。
5.3. 証言の矛盾点の分析
朴承振の収監を巡る証言は、脱北者の主張と、映画に出演した選手たちの証言との間で大きな矛盾を抱えています。脱北者の証言は、北朝鮮体制下での政治犯収容所の存在とその実態を告発する重要な情報源である一方で、北朝鮮当局やその影響下にある人物による公式な否定は、情報の検証を困難にしています。このような矛盾は、北朝鮮に関連する歴史的事実や個人の運命を外部から正確に把握することの難しさを示しています。情報の統制が厳しく、独立した検証がほぼ不可能な環境において、真実の解明は極めて困難な課題となっています。
5.4. 人権問題への示唆
朴承振の収監疑惑は、北朝鮮における人権侵害の広範な問題と密接に結びついています。彼の事例は、個人の自由や表現の権利が国家によって厳しく制限され、些細な行為が政治的な罪と見なされる可能性を示唆しています。ワールドカップでの成功が、かえって体制からの疑念を招き、個人の運命を大きく左右する要因となり得たという疑惑は、北朝鮮体制の全体主義的性格と、その下で暮らす人々の脆弱な立場を浮き彫りにしています。この論争は、国際社会が北朝鮮の人権状況に対して継続的に関心を持ち、批判的な視点からその実態を検証する必要があることを改めて示しています。
6. 影響と遺産
朴承振の功績と人生は、北朝鮮サッカー、ひいてはアジアサッカーの歴史全体に大きな影響を与えました。彼はFIFAワールドカップでアジア人初のゴールを記録し、北朝鮮代表を準々決勝に導いたことで、アジアのサッカー界に新たな可能性を示しました。彼の活躍は、北朝鮮国内におけるサッカーの人気を高め、多くの若手選手に夢を与えただけでなく、国際舞台におけるアジアサッカーの潜在能力を世界に知らしめるきっかけとなりました。しかし、その後の人生を巡る論争は、彼の遺産に複雑な影を落としており、彼の物語は北朝鮮の政治体制と個人の運命の間の緊張関係を象徴するものとして記憶されています。
7. 死去
朴承振は2011年8月5日に死去しました。彼の死亡時の状況や場所に関する詳細な情報は、公開されていません。