1. 概要
松井章奎(まつい しょうけい、旧名: 松井章圭、韓国名: 문장규ムン・ジャンギュ韓国語)は、日本の空手家であり、国際空手道連盟極真会館の館長を務めている。彼は在日韓国人2世として日本に生まれ、若くして極真空手の厳しい修行に励んだ。特に、当時極真史上最年少の黒帯を取得し、17歳で全日本空手道選手権大会4位に入賞するなど、選手時代からその才能を発揮した。1986年には極真空手の象徴である百人組手を達成し、翌1987年には第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会で優勝し、史上最年少の王者となった。

松井は、故大山倍達総裁が築き上げた極真会館の後継者として指名されたが、その過程で遺族との法的な争いや組織の分裂を経験した。館長就任後は、組織運営や対外活動に尽力し、K-1への選手派遣や全日本空手道連盟との協力関係構築、フルコンタクト空手のオリンピック正式種目化に向けた活動などを推進している。一方で、団体名の商標権を巡る訴訟や、グッドウィル・グループ関連の追徴課税問題、雇用調整助成金の不正受給問題など、財政および法的問題も経験している。彼の人生は、武道家としての偉業と、組織運営における挑戦と論争が複雑に交錯している。
2. 来歴
松井章奎は、武道家としての人生を歩む中で、数々の困難を乗り越え、極真会館の最高指導者としてその地位を確立した。
2.1. 選手時代
松井章奎の選手時代は、幼少期の武道への入門から始まり、数々の大会での輝かしい成績、そして在日韓国人としてのアイデンティティとの葛藤を経て、世界的王者へと駆け上がった。
2.1.1. 出生と初期の人生
松井章奎は1963年(昭和38年)1月15日、東京都文京区にある東京大学医学部附属病院にて、在日韓国人2世として生まれた。彼の族譜は南平文氏の38代目にあたる。その後、父親の転居に伴い、千葉県柏市へと移り住んだ。
2.1.2. 学業と武道への入門
1975年(昭和50年)6月に柏市立柏中学校に入学すると、当時『少年マガジン』に連載されていた『空手バカ一代』を読み、大山倍達に強い憧れを抱く。それまで習っていた少林寺拳法を辞め、流山市に所在する極真会館千葉北支部(手塚道場)に入門した。この道場では加藤重夫がインストラクターを務めていた。松井はわずか1年余りで初段の黒帯を取得し、14歳で当時極真史上最年少の黒帯取得者となった。
本部道場にも頻繁に出稽古へ赴き、そこで山崎照朝の目に留まり、個人的な指導を受ける機会を得た。山崎の指示により、全盛期の中村誠と組手稽古を積んだ。その後、京北高等学校を経て、中央大学商学部経営学科に指定校推薦で入学し、後に卒業した。
中央大学への入学と同時に極真会館の内弟子となり、若獅子寮に入寮する。しかし、古参の門下生からの理不尽な鉄拳制裁から逃れるため、川畑幸一の紹介で永田一彦のジムに住み込み、居候となる。この時期、渡邊茂と共に寝食を共にした。さらに、週に1回は盧山初雄が主催する極真会館盧山道場に出入りし、空手道拳道会の中村日出夫が考案した独自の稽古を訓練した。1981年(昭和56年)11月には、永田の紹介で元プロボクサーの吉留一夫からフットワークやパンチの技術を学び、自身の弱点であった突きの改善に本格的に取り組み始めた。
2.1.3. 初期の大会成績
松井章奎は選手として初期の大会から頭角を現した。
1980年(昭和55年)11月、第12回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場し、4位という好成績を収めた。
翌1981年(昭和56年)11月の第13回全日本空手道選手権大会では3位に入賞。
1982年(昭和57年)11月の第14回全日本空手道選手権大会でも3位となり、大会後に総本部の指導員に昇格した。同年3月には、大山倍達のシンガポール軍特殊部隊への指導に同行している。
1983年(昭和58年)11月、第15回全日本空手道選手権大会では8位の成績を収め、この大会の光川勝戦で肋骨を2本折る重傷を負った。
1984年(昭和59年)には、第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に出場し、3位となった。
1985年(昭和60年)11月、第17回全日本空手道選手権大会で黒澤浩樹を破り、見事優勝を果たした。
2.1.4. 世界大会優勝と百人組手
松井章奎は、極真空手の象徴的な試練である百人組手を1986年(昭和61年)5月に達成した。同年11月には、第18回全日本空手道選手権大会で増田章を破って優勝し、2連覇を達成した。これにより、次なる第4回世界空手道選手権大会に向けて選出された15名の日本選手団の主将を務めることとなった。
さらに、大山茂が主催するUSA大山カラテに出稽古のため渡米した。帰国後は、宮畑豊の紹介で相撲部屋の高砂部屋と九重部屋に出稽古を行い、四股・てっぽう・摺り足・ぶつかり稽古などの相撲の基本稽古を学ぶなど、異種格闘技の技術も積極的に取り入れた。
そして1987年(昭和62年)11月6日から8日にかけて開催された第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の決勝で、スイスのアンディ・フグを破り、優勝を成し遂げた。この勝利により、松井は史上最年少の全世界大会王者となった。
2.1.5. 在日韓国人としてのアイデンティティと葛藤
松井章奎は在日韓国人2世として、選手活動やメディア露出において自身の国籍とアイデンティティに関する葛藤を抱えていた。1984年(昭和59年)頃には、在日韓国学生同盟(韓学同)に加盟し、あえて日本国籍取得の道を選ばなかった。
1987年(昭和62年)の第4回全世界空手道選手権大会で優勝した際、彼は外国人初の王者となった。しかし、極真会館(松井派)は、1999年(平成11年)の第7回オープントーナメント全世界空手道選手権大会で優勝したフランシスコ・フィリォを「外国人初の王座」としている。この背景には、当時の松井が日本代表選手団の主将を務めていたことや、総裁である大山の出自についてメディアが触れないという暗黙の了解があったため、松井についても在日韓国人として取り上げられなかったという事情がある。
松井は自著『一撃の拳』の中で、当時の心境として「オープントーナメント全世界空手道選手権大会には大韓民国の代表として出場したかったが、大山総裁は認めてくれなかった」と語っている。一方で、メディアに対しては「南や北という政治を持ち込みたくなかった。私の立場としては日本道場代表だ」と述べており、自身のアイデンティティと武道家としての立場の間で複雑な思いを抱いていたことが窺える。
2.2. 極真会館館長としての活動
選手引退後、松井章奎は極真会館の館長として、組織の分裂や財政問題に直面しながらも、その運営と発展に尽力した。
2.2.1. 大山総裁の後継と組織の分裂
現役選手を引退後、松井は盧山初雄の紹介で拳道会総帥・中村日出夫の知己を得た。また、極真会館関西本部会長でコスモ・タイガー・コーポレーション中庸会(CTC)会長を務める許永中の紹介により、画商で自由民主党のフィクサーであった福本邦雄の門人となった。福本のもとで研究書の執筆助手を務め、国会図書館や書店を巡り、福本の事務所に出入りする代議士や官僚、経営者をもてなした。
1991年(平成3年)、松井は極真会館に復帰し、浅草に本部直轄の浅草道場を開設した。この道場では神尾伸幸と村越一由が指導員を務めた。1993年(平成5年)には、極真会館第二次新会館建設委員会の委員長に就任した。
1994年(平成6年)4月26日、大山倍達総裁が肺癌で死去した。大山の死後、梅田嘉明、黒澤明、大西靖人、米津等史、米津稜威雄の5名が聖路加国際病院で作成した大山の『"危急時遺言"』により、松井が後継者に指名されたとされた。しかし、大山の遺族はこの遺言に疑義を抱き、遺言状の有効性について訴訟を起こし、東京地方裁判所で「遺言状は無効」との判決を得た。この騒動をきっかけに極真会館は分裂を始め、「極真カラテ」を標榜する団体が乱立する事態となった。主な分裂団体として、松井派、緑健児が率いる新極真会、そして松島良一が率いる団体などが挙げられる。
松井は「国際空手道連盟極真会館」の名称を、財団法人として設置するのではなく、自身の韓国名である文章圭の個人名義で商標登録し、株式会社国際空手道連盟極真会館を設立した。しかし、この商標登録は分裂した他の極真諸派と裁判で争われた結果、2009年から2010年にかけて大山家の商標登録となった。
1995年(平成7年)4月5日には、三瓶啓二を筆頭とする支部長協議会派が全国支部長会議にて松井館長の解任動議を出し、極真会館のさらなる分裂へと繋がった。松井派では新しい運営体制として統括本部を設け、山田雅稔が本部長に、浜井識安が副本部長に就任した。最高顧問には郷田勇三が就任し、盧山初雄が補佐を務めた。
2.2.2. 組織運営と主要な対外活動
館長就任後の松井は、組織運営と主要な対外活動に注力した。
1996年(平成8年)には、フジテレビの出馬迪男、正道会館の石井和義とK-1について協議し、極真会館からフランシスコ・フィリォを参戦させることに合意した。
1998年(平成10年)、木村達雄の著書をきっかけに、大東流合気柔術に正式入門した。2004年(平成16年)には、大東流合気柔術二段を教授されている。
2005年(平成17年)10月、恵比寿に「Ichigeki PLAZA〈一撃プラザ〉」を開設した。この施設は約10年間営業を続けた後、2015年(平成27年)8月には代官山に「フラックス コンディショニングス」としてリニューアルオープンしている。
2.2.3. 他団体との交流と協力
松井は極真会館の館長として、他団体との交流と協力にも積極的に取り組んだ。
2015年(平成27年)4月16日、日本経済新聞が「人材派遣大手の旧グッドウィル・グループ(GWG)による会社買収に絡み、空手団体の「国際空手道連盟極真会館」(東京)の松井章圭館長が東京国税局から買収の成功報酬の申告区分の誤りを指摘され、過少申告加算税を含め約30.00 億 JPYを追徴課税されていたことが、分かった」と報道した。
同年4月16日、東京・江東区の日本空手道会館において、(公財)全日本空手道連盟と(一財)国際空手道連盟極真会館の間で、2020年東京オリンピックにおける空手道種目の正式採用に向けて覚書を締結し、友好団体関係を構築した。
同年9月25日には、極真会館がフルコンタクト空手6団体と友好関係を結び、全日本空手道連盟が進める空手の東京オリンピックでの公式競技化活動を支持することを表明した。
2.2.4. 改名
2016年(平成28年)1月15日、自身の誕生日にあたり、活動名として使用していた漢字名「松井 章圭」を「松井 章奎」に変更した。これは、名前の一文字「圭」の上に大山総裁の「大」の文字をいただいたもので、総裁への敬意と自身の新たな決意を示す意味が込められている。
2.2.5. 財政および法的問題
松井章奎は、極真会館の運営に携わる中で、いくつかの財政および法的問題に直面している。
2011年(平成23年)11月10日、日本経済新聞は、人材派遣大手の旧グッドウィル・グループ(GWG)による会社買収に絡み、松井が運営する「国際空手道連盟極真会館」が東京国税局から約30.00 億 JPYの追徴課税を受けていたと報じた。これは、買収成功報酬の申告区分に誤りがあったと指摘されたもので、過少申告加算税が含まれていた。
2023年(令和5年)5月には、松井が経営するジムにおいて、雇用調整助成金および緊急雇用安定助成金を不正に受給していたことが公表された。東京労働局職業安定部職業対策課によると、コロナウイルス感染症の影響により「休業していないにもかかわらず、休業させたとして、虚偽の申請書類を作成し、当該助成金を不正に受給した」とされている。不正受給額は雇用調整助成金が3145.80 万 JPY、緊急雇用安定助成金が27.80 万 JPYに上るが、すでに全額が返還されている。
3. 思想と哲学
松井章奎の武道哲学は、極真空手の修行を通じて培われた厳しさの中に、人間的な成長を重んじる側面が見られる。彼は、単なる技術の習得に留まらず、精神の鍛錬と人格の向上を重視している。特に、大山倍達総裁の教えを忠実に受け継ぎ、武道が社会において果たす役割を重視している。
大東流合気柔術への入門は、彼の武道観の深化を示している。これは、極真空手の剛の側面だけでなく、柔の側面にも目を向け、より普遍的な武道原理を追求しようとする姿勢を反映している。また、組織運営や教育活動において、彼は礼儀と親孝行の大切さを強調しており、これは現代社会において失われがちな倫理観を武道を通じて伝承しようとする彼の信念に基づいている。
4. 人物評
松井章奎は、その武道家としての功績と極真会館の館長としての活動を通じて、多様な評価を受けている。彼の貢献を高く評価する声がある一方で、組織運営や個人的な問題に対する批判も存在している。
4.1. 肯定的な評価
松井章奎の武道家としての卓越した能力と、その後の貢献は多くの人々から高く評価されている。
張本勲は、「現役時代を通して、堂々と民族を明らかにして活躍し、また現在は極真会館の館長として日本人が失いつつある礼儀と親孝行の大切さを教えている社会的意義は大きい」と述べている。これは、彼の在日韓国人としてのアイデンティティを公にしながら活躍したこと、そして日本の武道文化において失われつつある伝統的価値観を次世代に伝えている点が高く評価されていることを示唆している。
現役選手時代には、大山倍達総裁をして「30年、50年、半世紀に一人現れるか現れないかの人物」と言わしめたほどの逸材であった。彼の得意技は合わせ技・上段廻し蹴り・後ろ回し蹴りなどであり、その技の冴えは多くの武道家を魅了した。
4.2. 批判と論争
松井章奎の行動、決定、あるいは思想に対しては、いくつかの批判的な視点や論争が提起されている。
最も大きな論争の一つは、大山倍達総裁の死後の極真会館の分裂騒動である。松井が大山総裁の後継者に指名された経緯については、遺族から遺言の有効性を巡る訴訟が提起され、「遺言状は無効」との判決が出された。これにより、極真会館は複数の団体に分裂し、組織としての統一性が失われる結果となった。
さらに、松井が「国際空手道連盟極真会館」の名称を、財団法人ではなく自身の個人名義で商標登録し、株式会社国際空手道連盟極真会館を設立したことも、他の極真諸派との間で法的紛争に発展した。この商標権争いは、2009年から2010年にかけて大山家の商標登録となる形で決着がついた。この一連の動きは、武道の精神性よりも組織の独占的支配を優先したと批判されることもある。
また、彼の財政面に関する問題も批判の対象となっている。グッドウィル・グループ関連の追徴課税問題や、経営するジムにおける雇用調整助成金の不正受給事件は、組織の透明性と倫理観に対する疑問を投げかけるものとして報道された。これらの問題は、最高責任者としての彼のガバナンス能力や社会に対する責任のあり方について、厳しい目が向けられる要因となっている。
5. 主な戦績
松井章奎の選手としての主な戦績は以下の通りである。通算成績は56試合50勝6敗。
年 | 大会名 | 成績 | 備考 |
---|---|---|---|
1980年 | 第12回オープントーナメント全日本空手道選手権大会 | 4位 | 初出場 |
1981年 | 第13回全日本空手道選手権大会 | 3位 | |
1982年 | 第14回全日本空手道選手権大会 | 3位 | |
1983年 | 第15回全日本空手道選手権大会 | 8位 | 光川勝戦で肋骨2本骨折 |
1984年 | 第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会 | 3位 | |
1985年 | 第17回全日本空手道選手権大会 | 優勝 | 決勝の相手は黒澤浩樹 |
1986年 | 第18回全日本空手道選手権大会 | 優勝 | 2連覇、決勝の相手は増田章。同年5月に百人組手達成。 |
1987年 | 第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会 | 優勝 | アンディ・フグを破り史上最年少で優勝 |
6. 著書
松井章奎が著した主な書籍および関連書籍を以下に示す。
- 『極真カラテ 我が燃焼の瞬間(とき)』 (池田書店、1991年12月)
- 『動体姿勢』 (山根悟と共著、ベースボールマガジン社、1997年4月)
- 『極真新たなる歩み』 (ぴいぷる社、1998年12月)
- 『一撃の拳 松井章圭』 (北之口太著、講談社、2005年4月1日)