1. 初期生い立ちと背景
栗原健太は、幼少期から卓越した身体能力と野球への情熱を示し、プロ野球選手としての基礎を築いた。
1.1. 出生地と家族
栗原は山形県天童市に生まれた。実家は同市内で焼肉店を経営している。
1.2. 幼少期と野球への入門
小学3年生の時に野球を始め、すぐにリトルリーグチームの4番打者兼エースピッチャーとして活躍した。中学時代も投手としてプレーを続け、その身体能力は野球以外でも際立っていた。市内の陸上競技大会では、走り高跳び、100m走、砲丸投げの3種競技で優勝を果たすなど、多才なアスリートとしての片鱗を見せていた。
1.3. 高校時代のキャリア
日本大学山形高校に進学した栗原は、当時の野球部監督であった渋谷良弥から中学時代からスカウトされており、投手としての起用を構想されていた。しかし、入学後に打撃練習をさせると、そのバットコントロールとスイングスピードが群を抜いており、軽々とフェンス越えの打球を連発したため、内野手への転向が決まった。高校1年の夏にはチームの5番打者となり、秋には早くも4番打者を任されるようになった。高校2年の春には東北大会で打率7割、2本塁打を記録し、同年夏には第80回全国高等学校野球選手権大会に出場した。しかし、1回戦で石川県代表の星稜高校に10-1で敗退し、栗原自身も4打数1安打1打点に終わった。この甲子園出場が、彼の高校時代唯一の全国舞台でのプレーとなった。
1.4. 身体能力とスカウト評価
高校3年時には、栗原はパワーとスピードを兼ね備えた非常に評価の高い野手として、11のNPB球団からスカウトされていた。高校通算で39本塁打を記録し、その並外れた筋力はプロ入り前から注目を集めていた。高校3年時のデータでは、背筋力280kg、スクワットは330 kg、ベンチプレスは120 kgを挙げることができた。また、50m走を6.0秒、100m走を11.7秒で走るなど、パワーだけでなく高い走力も兼ね備えていた。入団時には、当時の広島東洋カープの主力打者であった金本知憲や浅井樹に匹敵する数値で周囲を驚かせ、「江藤2世」と呼ばれ、右の長距離打者として大きな期待が寄せられた。
2. プロ野球選手としてのキャリア
栗原健太は広島東洋カープで長年にわたり主軸打者として活躍し、その後東北楽天ゴールデンイーグルスで現役生活を終えた。
2.1. ドラフトとプロ入り
1999年度のプロ野球ドラフト会議において、栗原は広島東洋カープから3位指名を受けた。契約金は推定4500.00 万 JPY、年俸は推定500.00 万 JPYで入団した。会議前には東京ヤクルトスワローズも上位指名での獲得を検討していたという噂があった。入団時の背番号は50。この入団により、彼は山形県出身の現役NPB選手としては唯一の存在となり、2002年シーズン終了までその状態が続いた。
2.2. 広島東洋カープ時代
2.2.1. 初期とマイナーリーグ時代
プロ入り後の2000年と2001年の2シーズンは、度重なる怪我の影響もあり、広島東洋カープの二軍(二軍ファームチーム日本語)で過ごした。しかし、2001年にはウエスタン・リーグ公式戦で規定打席には到達しなかったものの、打率.306を記録した。
2002年シーズンには、開幕から二軍の4番打者を務め、同年夏にはフレッシュオールスターゲームに出場した。この試合では阪神タイガース二軍監督の岡田彰布が栗原を「目玉選手」として挙げ、先発4番に据えるなど、彼への期待の高さがうかがえた。しかし、試合では4打数無安打2三振と結果を残すことはできなかった。
2.2.2. プロデビューと成長
2002年8月30日、栗原は初めて一軍(一軍メジャーリーグ日本語)に昇格した。8月31日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で玉木重雄の代打としてプロ初出場を果たしたが、山井大介の前に遊撃ゴロに倒れた。9月4日の阪神タイガース戦(広島市民球場)では7番三塁手としてプロ初先発出場。そして翌9月5日の阪神戦では、2回裏に藤川球児からプロ入り初安打となる中越えソロ本塁打を放ち、プロ初打点も記録した。
この年のウエスタン・リーグでの成績は、打率.305、6本塁打、50打点、6盗塁で、打点王を獲得し、打率もリーグ3位と好成績を残した。レギュラーシーズン終了後には、釜山で開催された第14回アジア競技大会野球日本代表に、各NPB球団から1名ずつ派遣された社会人野球やマイナーリーグの選手の一員として選出された。
2003年シーズンは、広島東洋カープ球団からの高い期待にもかかわらず、一軍のロースターに定着するのに苦労し、一軍と二軍を行き来するシーズンとなった。ウエスタン・リーグでは打率.315、13本塁打、53打点と、本塁打と打点の2冠に輝き、打率もリーグ2位を記録した。また、長打率を.446から.586に向上させ、三振数もわずか24と、3年連続で打率3割を超えた。しかし、一軍では26試合の出場にとどまり、打率.276(出塁率.286)、3本塁打、6打点という成績だった。この年、4月16日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では、プロ初盗塁を記録した。
2.2.3. レギュラー定着と最初の全盛期
2004年シーズン、栗原はオープン戦で打率.250、3本塁打ながらチーム最多の16打点を記録し、好調な滑り出しを見せた。この年、彼は広島カープの6番一塁手として自身初の開幕戦先発出場を果たした。シーズン序盤は打撃不振に陥ったものの、読売ジャイアンツ戦で本塁打を連発するなどして調子を上げ、レギュラーの座に近づいた。最終的には90試合に出場し、11本塁打、32打点を記録。当時、同じ内野で右の大砲候補であった新井貴浩よりも先発出場することが多かった。しかし、10月2日の阪神タイガース戦では、同点の9回裏二死二・三塁の場面で空振り三振に倒れた際、捕手が投球を後逸したにもかかわらず、栗原が一塁へ走らなかったためアウトとなり、三塁走者の嶋重宣が本塁へ生還したにもかかわらず、チームはサヨナラ勝ちの機会を逃し、試合は引き分けに終わった。この走塁ミスは当時の監督であった山本浩二の怒りを買い、栗原は残りの8試合で一軍登録を抹消され、若手選手が起用される中でも出場機会を与えられなかった。同年、栗原は広島カープの本拠地である広島市民球場で働いていたホームランガールと結婚した。
2005年シーズンは、レギュラー定着への期待が高まる中で、怪我により開幕に間に合わず出遅れた。6月21日の東京ヤクルトスワローズ戦で一軍に復帰し、6月28日の阪神タイガース戦で初先発出場を果たした。二軍でのリハビリ期間中には20試合に出場し、打率.275、5本塁打、18打点、長打率.551を記録。当時の二軍監督であった木下富雄は、これが栗原にとって二軍本拠地である由宇練習場での最後のプレーになるだろうと語った。一軍昇格後は、野村謙二郎が2000安打を達成した後に一塁手として彼の後を継ぎ、77試合に出場、うち66試合に先発した。打率.323、15本塁打、43打点と好成績を残し、特に8月には打率.352、10本塁打、21打点と大活躍した。この年の打率、出塁率.366、長打率.563はすべてキャリアハイであり、三冠部門の数字も自己最高を記録した。オフシーズンには、背番号を50から5に変更した。同年7月には長女が誕生し、12月には披露宴を行った。
2006年1月、栗原は来るシーズンに備え、単身でアメリカ合衆国アリゾナ州に渡り、メジャーリーガーと共にトレーニングを行った。この年から毎年キャンプ前にはアリゾナで自主トレーニングを行うようになった。体脂肪率を10%から9%に減らし、体重を100 kgまで増量した。シーズン中には5月24日のオリックス・バファローズとの交流戦で自身初の4番打者を数試合務めた(この試合では3打数無安打2三振1四球)。5月には打率.379、5本塁打、23打点と好調を維持し、7月には打率.305、7本塁打、19打点を記録し、自身初のセントラル・リーグ月間MVPを受賞した。しかし、8月に腰痛を訴え、検査の結果椎間板ヘルニアと診断されたため、8月23日に手術を受け、残りのシーズンを棒に振った。途中離脱はあったものの、この年、栗原は109試合に出場し、打率.295、20本塁打、69打点を記録した。彼の勝利打点はチームで嶋重宣に次ぐ数であり、2ラン以上の本塁打の割合もリーグ1位と、勝負強い打撃でチームに貢献した。この怪我による離脱を除けば、彼はほぼ不動のレギュラーの座を確立していた。
2.2.4. WBC出場、怪我、そして絶頂期
2007年シーズンに向け、栗原は前年に続きアメリカ合衆国アリゾナ州で自主トレーニングを開始し、嶋重宣や吉田圭らチームメイトと共に汗を流した。怪我で体重が増加し13%まで上がっていた体脂肪率を9%に戻し、1日6食療法で体重を92 kgまで減量した。シーズン中には肘の骨棘による痛みに苦しみながらも、自身初の全試合出場を果たし、打率.310(リーグ5位)、25本塁打、92打点という好成績を残した。この年、長打率.500を超え、かつ三振が2桁台であった右打者はセントラル・リーグでは栗原のみであった。また、勝利打点11は前田智徳や新井貴浩の8を上回りチーム1位であり、勝利への貢献度が高かった。さらに、左投手相手に打率.307、10本塁打、長打率.564、右投手相手に打率.311、15本塁打、長打率.490と、左右どちらの投手に対しても高い打率を記録した。特に9月13日の阪神タイガース戦では、当時のクローザーであった藤川球児から2ラン本塁打を放ち、これは藤川がそのシーズンに許した初の被本塁打であった。オフには、将来的なメジャー挑戦への意欲を表明し、「FAとかポスティングとかは分からないが、メジャーに行きたいという願望はある」と語った。
2008年シーズンは、新井貴浩のFA移籍に伴い、開幕から正式にチームの4番打者を任された。シーズン序盤は打率.290、2本塁打、6打点と苦しんだが、交流戦前後から調子を上げ、7月には月間打率.408を記録した。勝負強い打撃でチームのクライマックスシリーズ進出争いに貢献し、最終的には23本塁打、103打点と自身初の100打点超えを果たした。打率.332(リーグ3位)、安打数185(リーグ2位)、打点103(リーグ4位)はすべて自己最高を更新し、チームを代表する打者となった。特に安打数は内川聖一と僅差でタイトル獲得を逃した。故障や不調があったものの、この年も全144試合で4番打者を務め、2年連続のフル出場を達成。打席数616はリーグ3位を記録した。また、三振数も68と、規定打席に到達したシーズンの中では最も少なく、20本塁打以上を記録した選手の中ではリーグで2番目に少ない三振数であった(阿部慎之助が24本塁打で66三振)。レギュラーシーズン終了後、栗原は新井貴浩(当時阪神タイガース)と共に、自身初となるゴールデングラブ賞(一塁手部門)を受賞した。同一ポジションで2人の選手が受賞するのは、1993年の投手部門で今中慎二と桑田真澄が受賞して以来15年ぶりのことであった。オフには4年契約を結んだ他、前年からの懸念であった肘のクリーニング手術を受け、最大1.5 cmの遊離軟骨を4つ除去した。
2009年シーズン開幕前の3月、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表最終候補に選出され、宮崎県宮崎でのトレーニングキャンプに参加した。しかし、手術明けの肘の状態を考慮され、当初は予備登録選手として扱われ、最終的な28人枠からは外れた。だが、3月19日(日本時間)の韓国との順位決定戦で、日本代表の4番打者であった村田修一が二塁を回った際にハムストリングを負傷し途中離脱したため、村田の代替選手として急遽代表に招集された。日本代表監督の原辰徳は、宮崎キャンプでの栗原の献身的な姿勢と練習への取り組みに感銘を受けていたため、村田の負傷を知ると5分以内に栗原に連絡し、代表への合流を要請した。他の落選選手がすぐにキャンプを離れる中、栗原は最後まで残って特打を行っていたことが、原監督の決断を後押しした。栗原は3月21日にサンディエゴに到着したが、時差ぼけと長距離移動による疲労に苦しみ、翌日のアメリカとの準決勝では3打数無安打2三振1併殺打と結果を残せなかった。しかし、日本はアメリカに9-4で勝利し、さらに3月23日の韓国との決勝でも5-3で勝利し、2大会連続の優勝を飾った。栗原も優勝メンバーの一員となった。
WBC優勝の勢いを買い、シーズンでは東京ドームで行われた開幕戦で2本塁打を放つなど活躍した。しかし、その後は腰痛に苦しみ、3年ぶりに先発を外れることも経験した。最終的に本塁打以外の全ての数字を前年より下げ、特に打率は.257と大きく落とした。また、このシーズンは打撃妨害を4回記録し、これは歴代3位タイの記録であった。オフには、新しく監督に就任した野村謙二郎の意向により、秋季キャンプ初日から三塁手の守備練習を開始し、再び三塁手へコンバートされることとなった。
2010年シーズンは、開幕からしばらく三塁手として先発出場していたが、栗原のコンバートによって空いた一塁に座った新加入のジャスティン・ヒューバーの働きが低調であったため、4月半ばから再び一塁手として先発出場する機会が増えた。しかし、6月10日の千葉ロッテマリーンズ戦で大嶺祐太から右手首に死球を受け骨折し、約2か月間戦線を離脱した。このため、ファン投票で選出されていたオールスターゲームも辞退した。復帰後は、若手の岩本貴裕が好調であったことから、再び三塁手として先発出場する機会が増えたが、結果として三塁での出場は46試合にとどまり、10失策、守備率.906と低調な成績に終わった。打撃面では打率や出塁率は前年より改善されたものの、本塁打は15本と5年ぶりに20本に届かなかった。
2011年シーズンは、この年から導入された統一球の影響などで、シーズン序盤に打撃が低迷した。しかし、オールスター明けから調子を上げ、後半戦は打率.309、15本塁打、50打点を記録。8月と9月度の月間MVPを連続受賞し、これは広島カープの野手としては初の快挙であった。最終的に打率.293、17本塁打、83打点、OPS.793の成績を残し、一塁手としてゴールデングラブ賞と自身初のベストナインに選出された。この年、栗原は国内FA権を取得したが、行使せずに1年契約を結び残留した。年俸は自身にとって生涯最高の1.60 億 JPYとなった。翌年以降に取得する見込みであった海外FA権を行使してのメジャーリーグ移籍については、「行きたいなというのは今でもあるが、行って出られるのか。家族もいるので、自分の夢だけではどうなのか」と語り、慎重な姿勢を示した。
2012年3月10日に行われた東日本大震災復興支援ベースボールマッチに日本代表として「5番・一塁手」で先発出場し、2打席目に本塁打を放ち、日本代表の勝利に貢献した。しかし、この年はシーズン序盤に、かねてから故障が相次いでいた右肘に痛みを再発したため、4月26日に一軍登録を抹消された。その後、「変形性肘関節症」と診断され、5月上旬に手術を行ったため、残りのシーズンを棒に振ることとなった。オフには故障者特例措置制度により海外FA権を取得したが、行使せず、2000.00 万 JPY減の年俸1.40 億 JPYで1年契約を結び残留した。
2013年シーズンは、前年の右肘手術からの完全復活を目標に臨んだ。しかし、2月の春季キャンプ中に腰の張りを訴えて途中で離脱。3月にも鼻骨骨折や右大腿部の故障でオープン戦を一時離脱するなど、怪我に悩まされた。開幕は一軍で迎え、開幕戦で今村猛の代打として出場し、安打を放った。しかし、その後は岩本貴裕や松山竜平などの若手選手の台頭もあり、5月6日に出場選手登録を抹消され、そのまま二軍でシーズンを終えた。シーズン終了後の契約交渉では、NPBの野球協約における減額制限(40%)の適用を球団から提示された末に、年俸8400.00 万 JPYで契約を更改した。
2014年シーズンは、慢性的な右肘痛の影響で年間を通じて調子が上向かず、2001年以来となる一軍出場なしに終わった。11月14日には肘の不安解消へ向けて自身3度目となる右肘の手術を受けた。
2015年シーズンも、前述の右肘手術や、若手選手の育成に主眼を置くチーム方針などの影響で二軍生活に終始した。ウエスタン・リーグの公式戦では、30試合の出場で打率.132、1本塁打、2打点という成績にとどまった。シーズン終盤の9月27日には、「栗原が球団の翌年の戦力構想から外れている」との一部報道を、自身の公式ブログを通じて否定した。しかし、球団はその後、栗原との交渉で、翌年の契約条件として前述の減額制限を超える比率の減俸を提示した。この提示に同意しなかった栗原が、他球団での現役続行を視野に自由契約を申し出たため、球団は10月9日に栗原の退団を発表した。
2.3. 東北楽天ゴールデンイーグルス時代

2.3.1. 選手としての活動と引退
2015年11月12日から、栗原は入団テストを兼ねて、地元球団である東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季キャンプに参加した。このキャンプには川本良平(元千葉ロッテマリーンズ)、山内壮馬(元中日ドラゴンズ)、金無英(元福岡ソフトバンクホークス)も参加していた。翌11月13日、視察に訪れた球団副会長の星野仙一は、「(栗原は)想像以上に良かった。(入団テストは)合格だよ」と明言した。11月15日の紅白戦終了後、一軍監督の梨田昌孝が、約4200人の観衆の前で栗原を含む4人全員の合格を発表した。楽天での背番号は0となった。ちなみに楽天では、星野が一軍監督を務めていた2011年のシーズン終了後にも、国内FA権を取得したばかりの栗原の獲得を検討していたという経緯があった。
2016年シーズンは、イースタン・リーグ公式戦47試合に出場した。地元である天童市スポーツセンター野球場での公式戦出場も果たしたが、通算成績は打率.188、4本塁打、15打点にとどまり、一軍公式戦への出場機会はなかった。若手野手の台頭などで翌年の戦力構想に入らなかったことや、「楽天では1年勝負」と決めていながら思い通りの打撃を披露できなかったことから、9月下旬に同年限りでの現役引退を決意した。一軍のレギュラーシーズン中であった9月29日に、球団を通じて引退を表明した。10月1日に一軍本拠地である楽天koboスタジアム宮城で臨んだ引退記者会見では、「楽天では一軍に上がれなかったけれど、皆さんのおかげで良い経験を積めた」と述べつつも、「プロ野球生活で唯一悔いが残るのは、リーグ優勝を経験できず、(このシーズンで25年ぶりに実現した)広島のセントラル・リーグ優勝の中にもいられなかったこと。広島の優勝は、ファンが待ち望んでいたことなので、自分にとっても嬉しかった」という真情も吐露した。
3. 国際大会でのキャリア
栗原健太は、プロ野球選手として2つの主要な国際大会に日本代表として出場した。
3.1. 2002年アジア競技大会
栗原は2002年に自身初の国際舞台を経験した。釜山で開催された第14回アジア競技大会に、社会人野球やマイナーリーグの選手で構成された日本代表の一員として出場した。10月5日の中国との予選リーグでは、先発一塁手および6番打者として出場し、本塁打を放つなど活躍した。彼は日本の銅メダル獲得に貢献した。この大会には、後にチームメイトとなる喜田剛も派遣されていた。
3.2. 2009年ワールド・ベースボール・クラシック
栗原は第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表の暫定ロースターに選出され、2月中旬に宮崎県宮崎で行われたトレーニングキャンプに参加した。しかし、オフシーズンに手術を受けた肘の状態を考慮され、最終的な28人枠からは外れた。それでも、彼はチームの主要なバックアップ選手の一人として待機していた。
彼の出場機会が訪れたのは、3月19日にサンディエゴで行われた韓国との順位決定戦であった。日本代表の4番打者であった横浜ベイスターズのスラッガー、村田修一が二塁を回った際にハムストリングを負傷し、途中離脱したため、栗原が村田の代替選手として急遽代表に招集された。日本代表監督の原辰徳は、宮崎キャンプでの栗原の献身的な姿勢と練習への取り組みに感銘を受けていたため、村田の負傷を知ると5分以内に栗原に連絡し、代表への合流を要請した。
栗原は3月21日、アメリカとの準決勝の前日にサンディエゴに到着した。長距離移動による時差ぼけと疲労に苦しみ、試合では3打数無安打2三振1併殺打と結果を残すことはできなかった。しかし、日本は準決勝でアメリカに9-4で勝利し、さらに3月23日の韓国との決勝でも5-3で勝利し、2大会連続の優勝を飾った。栗原もこの優勝メンバーの一員として名を連ねた。
4. 選手としての特徴
栗原健太は、その打撃力と守備位置の変遷、そしてプロ野球選手としての強い信念で知られている。
4.1. 打撃
身長183 cm、体重97 kgの恵まれた体格を持つ栗原は、右のプルヒッターであった。2006年から2011年までのレギュラーとして活躍した6シーズン中、打率.290以上を5回、20本塁打以上を4回記録しており、全盛期は打率を残せる右の長距離打者として活躍した。彼は選球眼が特別優れているわけではなかったが(2009年5月16日時点でのキャリア出塁率は.352)、他のパワーヒッターに比べて三振が少ない傾向にあった。
特に変化球を打つのが得意であったが、年々速球への対応力も向上させていった。また、逆方向への打球も苦にせず、日本のプロ野球界でも数少ない全方向に長打を打てる選手の一人であった。自身の打撃フォームは、ロッテオリオンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズでプレーし、1982年、1985年、1986年に三冠王を獲得した落合博満を参考にしていたと語っている。
栗原は死球が多い打者でもあり、2008年にはリーグ最多の12死球を受けている。
4.2. 守備
栗原はプロ入り時には三塁手として入団したが、二軍時代に一塁手へ転向し、2006年以降はほぼ一塁手としてプレーした。彼は守備面で特に高い評価を受けていたわけではなく、2008年に一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した際も、多くの人々からは打撃成績による受賞だと批判された。キャリア初期には肩関節の慢性的な緩みに悩まされ、二軍コーチから肩の脱臼を避けるためにダイビングを禁止されたこともあった。
4.3. 選手としての信念と人柄
度重なる故障に苦しみ、特に右肘は2008年、2012年、2014年と3回もの手術を余儀なくされ、これが彼の選手生命を縮める大きな要因となった。しかし、彼は「プロ野球選手たるもの、全試合出場を果たすことが最大の使命」という信念を持っていた。その理由として、「自分が試合に出なかったときに、代わりの誰かが活躍したら、自分の居場所がなくなるから」と語っていた。自身のキャリアを通して、2007年、2008年、2011年の3シーズンで全試合出場を達成したことを最大の自負としていた。この経験から、彼は指導者としての基本方針として、「1年間を通して試合に出続けられる体力をつけること。そのために充分な練習量を積むこと」「1シーズンのみの活躍だけにとどまらず、少なくとも3シーズン続けて全試合出場できてこそ、一人前の野球選手である」という考えを掲げている。
栗原は「努力の人」として知られており、東北楽天ゴールデンイーグルス時代の春季キャンプでは、チームで最も早く球場入りし、最後に球場を後にするというエピソードがある。当時のチームメイトであった岡島豪郎は、「誰に対しても温かくて親身なんです。野球人として、人として、本当に素晴らしい人なんです」と栗原の人柄を評している。「常に『感謝の気持ち』『向上心』を持ち続けること」が、野球人として長くプレーできる原動力であったと語っている。
野人のようなワイルドな風貌と名前をもじり、スポーツ新聞では以前「クリ原人」と書かれていたが、2006年にニックネームを募集し、「コング(栗原)」に決まった。2005年に本塁打王争いをした新井貴浩と合わせて「キングコング砲」と呼ばれていた。また、阪神タイガースから移籍した喜田剛とは顔が似ており、ファーム時代も重なるため、野球ファンから栗原本人、もしくは兄弟かと間違えられると喜田が語っていた。
栗原は、2008年に旧本拠地である旧広島市民球場で最後の本塁打を放ち、2009年には新本拠地であるマツダスタジアムでチーム初本塁打を記録した。さらに、この年新設された広島県三次市のみよし運動公園野球場と、新潟県新潟市のHARD OFF ECOスタジアム新潟でそれぞれ球場プロ第1号本塁打を打つなど、印象的な記録を残している。
5. 指導者としてのキャリア
栗原健太は、現役引退後、東北楽天ゴールデンイーグルスでコーチとしてのキャリアをスタートさせ、その後、中日ドラゴンズ、千葉ロッテマリーンズで打撃コーチを務めている。
5.1. 東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ
2016年の現役引退後、栗原は東北楽天ゴールデンイーグルス球団からの要請を受け、2017年から二軍打撃コーチに就任した。同年11月25日から台湾で開催された2017アジアウインターベースボールリーグでは、NPBイースタン選抜の打撃コーチを務めた。
2018年も引き続き二軍打撃コーチを務めていたが、一軍のチーム打率が12球団最下位の.216と低迷していたため、4月30日の試合終了後から高須洋介と入れ替わる形で一軍打撃コーチに配置転換された。2019年シーズン限りで楽天を退団した。
5.2. 中日ドラゴンズ コーチ
2020年からは、中日ドラゴンズの一軍打撃コーチに就任することが発表された。背番号は73。しかし、2021年10月29日に同年限りでの退団が発表された。
5.3. 千葉ロッテマリーンズ コーチ
2022年は、東北楽天ゴールデンイーグルスのスカウト部プロスカウトグループに勤務していたが、同年12月10日に退団した。翌12月11日、2023年シーズンから千葉ロッテマリーンズの二軍打撃コーチを務めることが発表された。背番号は77。2025年からは一軍打撃コーチに配置転換された。
6. 私生活
6.1. 結婚と家族
栗原は2004年12月に、当時広島東洋カープのホームランガールを務めていた女性と結婚した。2005年7月には長女が誕生し、同年12月には長女を伴って結婚披露宴を挙げた。彼の妻はネイルサロンを経営しており、一般人でありながらも公式ブログを持ち、カープ専門のラジオ番組に出演することもある。
7. 受賞歴と栄誉
7.1. 主な受賞歴
- ベストナイン:1回(一塁手部門:2011年)
- ゴールデングラブ賞:3回(一塁手部門:2008年、2009年、2011年)
- 月間MVP:3回(2006年7月、2011年8月、9月)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(2007年)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2009年)
7.2. 記録と表彰
; 初記録
- 初出場:2002年8月31日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤドーム)、9回表に玉木重雄の代打で出場
- 初打席:同上、9回表に山井大介から遊撃ゴロ
- 初先発出場:2002年9月4日、対阪神タイガース23回戦(広島市民球場)、7番・三塁手として先発出場
- 初安打・初本塁打・初打点:2002年9月5日、対阪神タイガース24回戦(広島市民球場)、2回裏に藤川球児から中越ソロ
- 初盗塁:2003年4月16日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助)
; 節目の記録
- 100本塁打:2009年4月7日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、5回表に久保康友から左越2ラン ※史上253人目
- 1000安打:2011年8月26日、対読売ジャイアンツ16回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、1回裏に澤村拓一から左前適時打 ※史上266人目
- 150本塁打:2011年9月10日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム)、3回表に藤井秀悟から左越2ラン ※史上156人目
- 1000試合出場:2012年4月21日、対中日ドラゴンズ5回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、4番・一塁手として先発出場 ※史上449人目
; その他の記録
- 通算被打撃妨害:8回(歴代10位タイ)
- シーズン被打撃妨害:4回(2009年、歴代3位タイ)
- 1試合で2度の被打撃妨害:2009年8月28日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、5回表・7回表に記録(捕手:武山真吾)
- オールスターゲーム出場:3回(2007年、2009年、2011年)※2010年は出場辞退
; 背番号
- 50(2000年 - 2005年)
- 5(2006年 - 2015年)
- 0(2016年)
- 85(2017年 - 2019年)
- 73(2020年 - 2021年)
- 77(2023年 - )
; 代表歴
- 2002年アジア競技大会野球日本代表
- 2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表
8. 記録・成績
8.1. 年度別打撃成績
年度 | 所属 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | 広島 | 10 | 23 | 22 | 2 | 4 | 2 | 0 | 1 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 7 | 0 | .182 | .217 | .409 | .626 |
2003 | 26 | 77 | 76 | 7 | 21 | 1 | 0 | 3 | 31 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 15 | 1 | .276 | .286 | .408 | .694 | |
2004 | 90 | 282 | 270 | 26 | 72 | 7 | 1 | 11 | 114 | 32 | 2 | 1 | 1 | 1 | 8 | 0 | 2 | 60 | 5 | .267 | .292 | .422 | .714 | |
2005 | 77 | 274 | 254 | 31 | 82 | 16 | 0 | 15 | 143 | 43 | 0 | 1 | 1 | 1 | 17 | 0 | 1 | 63 | 12 | .323 | .366 | .563 | .929 | |
2006 | 101 | 397 | 373 | 44 | 110 | 19 | 0 | 20 | 189 | 69 | 2 | 1 | 0 | 3 | 21 | 1 | 0 | 90 | 7 | .295 | .330 | .507 | .837 | |
2007 | 144 | 622 | 565 | 77 | 175 | 37 | 1 | 25 | 289 | 92 | 3 | 4 | 0 | 6 | 46 | 2 | 3 | 94 | 13 | .310 | .361 | .512 | .873 | |
2008 | 144 | 616 | 557 | 69 | 185 | 31 | 1 | 23 | 287 | 103 | 5 | 4 | 0 | 4 | 42 | 2 | 12 | 68 | 18 | .332 | .389 | .515 | .904 | |
2009 | 140 | 582 | 521 | 68 | 134 | 21 | 0 | 23 | 224 | 79 | 1 | 6 | 0 | 2 | 48 | 1 | 7 | 82 | 11 | .257 | .327 | .430 | .757 | |
2010 | 105 | 450 | 386 | 62 | 114 | 22 | 0 | 15 | 181 | 65 | 3 | 3 | 0 | 6 | 51 | 2 | 7 | 70 | 10 | .295 | .382 | .469 | .851 | |
2011 | 144 | 596 | 536 | 56 | 157 | 29 | 0 | 17 | 237 | 87 | 0 | 1 | 0 | 7 | 40 | 3 | 12 | 84 | 11 | .293 | .351 | .442 | .793 | |
2012 | 21 | 84 | 76 | 5 | 16 | 0 | 0 | 0 | 16 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 0 | 0 | 15 | 1 | .211 | .262 | .211 | .472 | |
2013 | 24 | 69 | 59 | 3 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 12 | 3 | .203 | .319 | .220 | .539 | |
通算:12年 | 1026 | 4072 | 3695 | 450 | 1082 | 186 | 3 | 153 | 1733 | 586 | 17 | 21 | 2 | 32 | 290 | 11 | 45 | 660 | 92 | .293 | .349 | .469 | .818 |
- 各年度の太字はリーグ最高
8.2. 年度別守備成績
年度 | 球団 | 一塁 | 三塁 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
2002 | 広島 | - | 8 | 3 | 6 | 2 | 0 | .818 | |||||
2003 | 1 | 6 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | 20 | 15 | 35 | 3 | 1 | .943 | |
2004 | 40 | 284 | 23 | 1 | 24 | .997 | 50 | 18 | 61 | 6 | 5 | .929 | |
2005 | 56 | 452 | 39 | 3 | 39 | .994 | 15 | 9 | 20 | 2 | 1 | .951 | |
2006 | 96 | 937 | 47 | 9 | 75 | .991 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
2007 | 144 | 1348 | 85 | 8 | 119 | .994 | - | ||||||
2008 | 144 | 1357 | 78 | 7 | 111 | .995 | - | ||||||
2009 | 138 | 1230 | 92 | 13 | 87 | .990 | - | ||||||
2010 | 71 | 565 | 31 | 3 | 50 | .995 | 46 | 32 | 64 | 10 | 5 | .906 | |
2011 | 144 | 1238 | 100 | 6 | 79 | .996 | - | ||||||
2012 | 21 | 207 | 16 | 0 | 16 | 1.000 | - | ||||||
2013 | 15 | 144 | 8 | 1 | 12 | .993 | - | ||||||
通算 | 870 | 7768 | 520 | 51 | 613 | .994 | 140 | 77 | 187 | 23 | 12 | .920 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞
8.3. WBCでの打撃成績
年度 | 代表 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2009 | 日本 | 2 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .000 | .000 | .000 |