1. 生涯
桂鎔黙は、複雑な家族背景のもとで幼少期を過ごし、学業には困難を伴ったものの、文学への情熱を燃やし続けた。日本統治下での創作活動と投獄を経験し、解放後は文学界で活躍。晩年は病と闘いながらも執筆を続けた、激動の時代を生きた作家である。
1.1. 出生と幼少期
桂鎔黙は、1904年9月8日、平安北道宣川郡南面三省洞群賢里706番地で、父の桂恒教(계항교ケ・ハンギョ韓国語)と、父の独身時代の恋人であった晋州河氏(진주 하씨チンジュ・ハシ韓国語)の女性との間に、本名である河泰鏞(하태용ハ・テヨン韓国語)として生まれた。彼は桂恒教の1男3女の長男であった。幼少期には、京畿道開城市にある母方の外家や平安南道平壌市にある母方の本家で過ごし、外祖父の河載玔(하재천ハ・ジェチョン韓国語、1905年12月没)と二番目の母方叔父である河洹(하원ハ・ウォン韓国語、1906年6月没)の戸籍に入っていた。
外祖父と母方叔父が亡くなり、さらに生母である晋州河氏の女性が京畿道開城の旅館で副店主として働いていたところ、1908年1月16日に病死すると、紆余曲折の末、生父の桂恒教の故郷である平安北道宣川の生家家人に平壌で引き取られた。1908年2月に宣川の故郷へ帰郷した際、生父の桂恒教はすでに1906年3月に竹山朴氏(죽산 박씨チュクサン・パクシ韓国語)夫人と正式に結婚しており、生後6か月の異母妹もいた。1908年2月29日を境に、5歳であった河泰鏞は河泰鏞ではなく桂鎔黙と再び呼ばれるようになり、平安北道宣川の本家で育った。その後、父の桂恒教は継母である竹山朴氏夫人との間にさらに2女をもうけ、桂鎔黙には合計3人の異母妹がいた。
彼の祖父である桂昌琠(계창전ケ・チャンジョン韓国語)は、朝鮮王朝末期に参奉(従九品の官職)を務め、詩文にも優れた人物であった。桂鎔黙の教育は祖父によって行われ、幼い頃から漢文を学んだ。
1.2. 学歴と初期の活動
1911年、桂鎔黙は平安北道宣川の三峰普通学校に入学し、1917年3月に卒業した。この頃、5歳年上の順興安氏の安靜鈺(안정옥アン・ジョンオク韓国語)と結婚した。
祖父の厳しい古い教育やしきたりに反発するように、桂鎔黙は1921年に祖父に無断で京城(現ソウル)へ上京し、中東学校に入学したが、再び祖父に連れ戻された。1922年には再び上京し、徽文高等普通学校に入学するも、またも家へ連れ戻された。しかし、徽文高等普通学校は1923年3月に卒業している。京城で新学問を学ぶ道を断たれた桂鎔黙は、故郷で海外文学を読みながら文学修練を続けた。
20代の青春期には貧困と病に苦しむも、純粋文学への情熱を燃やし続けた。1920年には少年雑誌『新声(새소리セソリ韓国語)』に習作小説「文字の部屋が壊れて(글방이 깨어져クルバンイ・ケオジョ韓国語)」を発表し、小説家としてデビューした。1925年には雑誌『生長(생장センジャン韓国語)』に詩「仏様、神様、春が来た(부처님 검님 봄이 왔네プチョニム・コムニム・ポミ・ワンネ韓国語)」を発表し、詩人としてデビュー。1927年、「相換(상환サンファン韓国語)」を『朝鮮文壇』に発表し、本格的な小説家として名を上げた。同年、短編小説「崔書房(최서방チェソバン韓国語)」が『朝鮮文壇』の懸賞に当選し、桂鎔黙の名が世に知られることとなった。
1928年3月には妻の安靜鈺と長男の桂明源(계명원ケ・ミョンウォン韓国語)を伴って日本へ渡り、東洋大学東洋学科に入学した。夜は正則英語学校にも通った。1929年には東京で長女の桂正源(계정원ケ・ジョンウォン韓国語)が生まれた。しかし、1931年に実家が破産したため、桂鎔黙は学業を中断して帰国せざるを得なかった。
1.3. 日本統治時代の文学活動と投獄
帰国後、桂鎔黙は現実的で傾向の強い作品である「崔書房」や「地主様」などを発表した。その後、約10年近く執筆活動を中断していた期間を経て、1935年には、人間の愛欲と物欲を描いた代表作「白痴アダダ」が『朝鮮文壇』に掲載され、これを機に純粋文学へと方向転換を図った。この作品は、当時の社会の風潮と物質主義的な追求を批判的に描いているが、経済的な問題は階級闘争の観点ではなく、人間の根源的な貪欲さとして描かれている。
1935年頃、彼はチョン・ビソク、石仁海(석인해ソク・インヘ韓国語)、蔡廷根(채정근チェ・ジョンクン韓国語)、許允硯(허윤연ホ・ユンヨン韓国語)、金友哲(김우철キム・ウチョル韓国語)、田蒙秀(전몽수ジョン・モンス韓国語)らと集い、同人誌『海潮(해조ヘジョ韓国語)』を発行しようと試みたが、資金不足のために実現できなかった。その後、1942年頃まで旺盛な創作活動に没頭し、「屏風の中に描かれた鶏(병풍 속에 그린 닭ピョンブン・ソゲ・クリン・ダク韓国語)」や「象牙塔(상아탑サンアタップ韓国語)」といった作品を発表した。これらの後期の作品では、物欲が多くの悪の根源であると嘆きつつも、登場人物たちは生計を維持するためにその欲望に抗えない状況が描かれ、より曖昧なトーンを帯びている。それらは初期の作品が持っていた歴史意識を欠き、一般の人々を単なる思索の対象として描いている点で異なるが、桂鎔黙の芸術的技法がより洗練されていく過程を示している。
1938年5月には『朝鮮日報』出版部に勤務し、京城府西大門区冷泉洞、その後北阿峴洞へと転居した。しかし、1943年8月、桂鎔黙は「天皇不敬罪」の嫌疑で3か月間拘留されるという事件に見舞われた。これは、誰かがイ・グァンスに創氏改名の不当性を訴える匿名の文章を送った際、その消印が西大門区であったため、同区に居住していた文士たちが皆警察に連行されたという経緯であった。この抑圧的な出来事もあってか、1944年12月には故郷へ戻り、引きこもる生活を送った。
1.4. 光復後の活動
1945年8月の光復(解放)を迎え、桂鎔黙は同年9月に再び京城へ上京した。解放後の朝鮮文学界はイデオロギー対立が激化する中で、彼は非党派的な立場を維持しようと奮闘した。
彼は鄭飛石と共に『大潮(대조テジョ韓国語)』を創刊し、1948年には金億(김억キム・オク韓国語)と出版社「首善社(수선사スソンサ韓国語)」を設立した。また、1952年には雑誌『新文化(신문화シンムナ韓国語)』を創刊するなど、社会および文学分野で積極的な歩みを見せた。光復後の作品としては、「星を数える(별을 헤다ピョルル・ヘダ韓国語)」、「風はただ吹く(바람은 그저 불고パラムン・クジョ・プルゴ韓国語)」、「水カメムシ(물매미ムルマエミ韓国語)」などがあり、これらの作品においても彼の芸術的技法の洗練は続いた。
1.5. 晩年と死去
1959年、桂鎔黙は腸癌を患ったが、家族の勧めにもかかわらず手術を頑なに拒み、漢方薬を服用しながら原稿を書き続けた。
1961年8月9日午前9時、連載中の長編小説『雪愁集(설수집ソルスジプ韓国語)』を執筆している最中、ソウル特別市城北区貞陵貞陵再建住宅85号の自宅で胃癌により死去した。彼の遺骸は同年10月10日、忘憂里共同墓地に葬られた。1962年、彼の1周忌には、現代文学社と文学仲間たちによって墓碑が建立された。なお、『雪愁集』は彼が生涯で唯一執筆した長編小説であったが、原稿を紛失したため発表されなかった。
2. 文学世界と作品
桂鎔黙の文学は、初期の社会主義的な傾向から純粋文学へと転換しつつも、常に人間の内面と社会の現実を鋭く見つめ、その矛盾を批判的に描いた。精巧な描写と深遠なテーマは、韓国短編小説に新たな境地を開いた。
2.1. 文学的特徴と思想
桂鎔黙の初期の小説作品は、社会主義思想の影響を強く受けていた。「地主様」などの作品は、地主による悪質な搾取に苦しむ小作農の窮状を描いている。しかし、一時的な中断を経て文壇に戻った桂鎔黙は、もはや左翼的な視点から主題にアプローチすることはなかった。
1935年に発表された「白痴アダダ」は、この転換点を明確に示している。知的障害を持つ女性を主人公とするこの物語は、当時の社会道徳と、すべてを飲み込むような物質的利益の追求に対する批判を提示する。ただし、経済的な問題は階級闘争としてではなく、人間の根源的な貪欲さのレベルに還元されて分析されている。その後の作品では、桂鎔黙は執筆の芸術性そのものに焦点を当てるようになり、神秘主義や複雑な象徴性を多用した。「屏風の中に描かれた鶏」や「金順と鶏(금순이와 닭クムスニワ・ダク韓国語)」、「馬夫(마부マブ韓国語)」といった作品では、物質的富への欲望が多くの悪の根源であると非難され続けたが、これらの作品の登場人物たちは、生計を維持するためにこの欲望に従わざるを得ないという選択を迫られる。曖昧なトーンで描かれたこれらの作品は、歴史的意識を欠き、一般の人々を単なる考察の対象として描いている点で初期の物語とは異なる。それにもかかわらず、これらの作品は桂鎔黙の芸術的技術の洗練度が高まっていることを示しており、この傾向は光復後の作品にも続いている。
桂鎔黙は、政治やイデオロギー、あるいは啓蒙主義的な側面を抑制し、純粋な文学を追求した作家として評価されている。彼の作品は、精緻な描写と圧縮された表現の美しさによって、短編小説における技巧的な完成度を示している。
2.2. 主要作品とその内容
桂鎔黙は多くの短編小説を執筆した。彼の作品は、人間心理の深淵や社会の矛盾を鋭く捉えている。
主な作品は以下の通りである。
- 「文字の部屋が壊れて」(1920年)
- 「仏様、神様、春が来た」(1925年)
- 「相換」(1927年)
- 「崔書房」(1927年)
- 「地主様」
- 「白痴アダダ」(1935年)
- 彼の代表作であり、知的障害を持つ女性アダダが、その純粋さゆえに物質主義的な社会の中で苦しむ姿を描いている。夫の裏切りや、継母、弟らによる財産の略奪など、人間の醜い欲望が浮き彫りにされる。
- 「屏風の中に描かれた鶏」
- 「金順と鶏」
- 「馬夫」
- 「星を数える」
- 「風はただ吹く」
- 「水カメムシ」
特に「白痴アダダ」は、ONE KOREA翻訳委員会編『そばの花の咲く頃 日帝時代民族文学対訳選』(新幹社、1995年)に収録されており、日本語で読むことができる。彼の唯一の長編小説『雪愁集』は、死の直前まで連載されていたが、原稿が紛失したため未発表に終わった。
3. 評価と影響
桂鎔黙は、その精緻な描写と、人間の本質に迫るテーマ設定により、韓国文学史に確固たる足跡を残した。彼の作品は後世の文学界だけでなく、映画界にも影響を与えている。
3.1. 文学史的評価
桂鎔黙は、主に1930年代に、韓国の現代短編小説の文体的、技術的、形式的な洗練に貢献した作家として記憶されている。彼の作品は、表現の技巧と題材の選択において高い完成度を示し、短編小説の芸術性を高める上で重要な役割を果たした。特に「白痴アダダ」に見られるような、人間心理の奥深さと社会の現実を凝縮して表現する技法は、多くの後続の作家たちに影響を与えた。彼は、政治的・イデオロギー的な色彩を排し、純粋に文学的な価値を追求した点で、韓国文学史における特異な位置を占めている。
3.2. 後世への影響
桂鎔黙の作品は、後世の作家たちだけでなく、韓国の文化芸術界全般に影響を与えた。特に「白痴アダダ」は、その普遍的なテーマ性から、1970年代の韓国映画の巨匠であるイム・グォンテク監督によって映画化された。映画「白痴アダダ」は、1950年代の同名作品に続くもので、桂鎔黙の文学が持つ力が、時代を超えて様々なメディアで再解釈され、新たな形で読者や観客に届けられていることを示している。彼の作品が描く人間の欲望と社会の矛盾は、現代においてもその普遍的な意味合いを失っておらず、多くの人々に示唆を与え続けている。