1. 概要
梅謙次郎は明治時代の日本の著名な法学者であり教育者です。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、内閣法制局長官、文部省総務長官などを歴任し、法政大学の前身である和仏法律学校の設立に尽力し、初代総理(総長)を務めました。
彼は穂積陳重、富井政章と共に日本の民法典を、田部芳、岡野敬次郎と共に商法典を起草した中心人物の一人であり、「日本民法典の父」と称されています。特に民法典論争においては、法典の早期施行を強く主張し、その制定に多大な貢献をしました。また、韓国の法典編纂にも携わるなど、多方面で日本の近代法制度の確立と発展に寄与しました。
2. 生涯と教育
梅謙次郎の生涯は、幼少期から卓越した才能を発揮し、国内外での高等教育を通じて日本の近代法学の礎を築く上で重要な役割を果たしました。
2.1. 幼少期と家族背景
梅謙次郎は1860年7月24日、出雲国松江藩(現在の島根県松江市)で藩医の梅薫の次男として生まれました。幼少期からその非凡な才能を示し、わずか6歳で大学 (書物)や中庸を暗唱するほどの秀才ぶりでした。病弱な体質でありながらも、議論においては非常に強い意志を持ち、12歳で藩主の前で日本外史を講じて褒章を受けるなど、幼少の頃より周囲を驚かせました。
謙次郎の父である梅薫は藩医を務めた後、明治維新を経て1874年に一家で上京しました。しかし、呉服屋、薬屋、手拭屋など次々と商売に失敗し、露天商にまで身を落とすなど生活に困窮しました。1877年には妻も亡くし、さらに苦しい生活を送りましたが、子どもたちの成功により後半生は豊かな生活を送ることができました。
2.2. 日本での教育
1875年、梅謙次郎は東京外国語学校仏語科(現在の東京外国語大学)に入学し、首席で卒業しました。その後、司法省法学校に編入し、フランス法を学びました。彼は入学当初から首席の座を占め、卒業試験は未受験であったにもかかわらず、平素の成績だけで首席卒業という異例の評価を得ました。当時の指導教官はジョルジュ・アペールでした。なお、司法省法学校の2期生入学試験では当初不合格でしたが、次席合格者であった原敬(後の内閣総理大臣)が学校経営上の紛争(賄征伐)に巻き込まれて中退し欠員が生じたことで、転学の道が開けました。
2.3. 海外留学と学位取得
1886年、梅謙次郎は文部省の国費留学生としてフランスへの留学を命じられ、リヨン大学の博士課程に飛び級で進学しました。通常5年を要する博士課程を3年半で修了する資格を得るなど、その学業は目覚ましく、首席で法学博士の学位を取得しました。彼の博士論文である『De la transactionドゥ・ラ・トランザクションフランス語』(和解論)は現地で高く評価され、リヨン市からヴェルメイユ賞碑を受けて公費で出版されました。1891年にはドイツ・ベルリンの法律雑誌にも書評が掲載され、現在でもフランス民法の解釈論として通用していると言われています。リヨン大学での彼の優秀さは、他の日本人留学生が「日本人には富井、梅のような法律の神様のような人間がいる」と現地学生に畏れられるほどであったという逸話も残っています。
リヨンでの研究を終えた後、彼は1889年から1年間、ドイツのベルリン大学でも研究を続けました。1890年8月に帰国すると、その優れた才能と国際的な法学知識は伊藤博文に高く評価され、彼のブレーンとして重用されることとなります。
3. 法曹としての経歴と主要な活動
梅謙次郎は、大学教授としての教育活動、日本の民法典・商法典編纂への参画、そして政府の要職における貢献を通じて、日本の近代法制度の確立に多大な影響を与えました。
3.1. 大学教授としての活動
帰国後、梅謙次郎は帝国大学法科大学(現東京大学法学部)の教授に就任し、教鞭をとりました。彼は官立大学の教授職に専念するつもりで、私学での講義は行わない意向でしたが、レオン・デュリー門下であり、和仏法律学校(現法政大学)の創立者である薩埵正邦と縁の深い富井政章(薩埵の義兄)や、リヨン留学時代に世話になった本野一郎(当時和仏法律学校講師)が横浜港の船内まで出向いて熱心に懇請したため、和仏法律学校の学監兼務を承諾しました。以降、彼は法政大学の設立と発展に大きく貢献することになります。また、東京専門学校(現早稲田大学)でも教鞭をとっていました。
3.2. 民法典論争と制定への関与
梅謙次郎が帰国する以前から日本で勃発していた民法典論争において、彼は「断行派」の立場を取りました。これは、裁判実務の統一や不平等条約改正の便宜を重視し、旧民法典の即時施行を主張するものでした。しかし、彼は法典そのものに対してはむしろ批判的な姿勢を見せており、「民法の欠点を挙げれば日もまた足らざるべし」とまで酷評し、特に財産法の形式面に対して詳細な学理的批判を加えていました。その批判的な態度から、一時的には「法典延期論者」と評されることさえありました。
それでもなお、学者として公平誠実な態度を貫いたことが評価され、断行派の敗北にもかかわらず、1893年には法典調査会民法起草委員に選出されました。彼は穂積陳重、富井政章と共に日本の民法典の起草に携わり、この三人をして「日本民法典の父」と称されることになります。梅は頭の回転が速く、法文の起草を非常に迅速に行うことができ、穂積や富井の批評を虚心に受け入れて自説を改める柔軟性も持ち合わせていました。また、一旦起草委員会としての案が決定すると、法典調査会では雄弁な弁舌で反駁し、原案維持に努めました。穂積陳重は、梅謙次郎の対外的な雄弁さと富井政章の内向的な思慮深さを対比させ、「梅博士は、本当の弁慶」であったと回顧しています。
梅は法典の早期完成を何よりも優先する「拙速主義」を採っており、内容の不備は後の改正に委ねるべきという立場でした。彼は民法典の編別についても穂積や富井とは異なる意見を持っていましたが(現行法とは異なり、親族編を第二編に置くべきと主張)、自説に固執することはあまりありませんでした。このため、民法の構成に関しては穂積や富井の考えがより強く影響を与えたと推測されています。しかし、法典調査会での発言回数はトップであり、彼の貢献は内容面よりもむしろ民法典の早期完成に大きく寄与しました。
一方で、梅が原案起草を担当した抵当権、特に滌除の条文は、理屈倒れで機能しておらず、錯雑として分かりづらいと批判されることもありました。しかし、伊藤博文(内閣総理大臣兼法典調査会総裁)は穂積や富井を「君」と呼ぶ一方で、梅に対しては「梅先生」と呼び重用するなど、その才能と貢献を高く評価していました。梅は「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」とも称されています。
3.3. 商法典編纂への関与
梅謙次郎は民法典の編纂だけでなく、日本の商法典の編纂にも深く関与しました。彼は田部芳や岡野敬次郎と共に商法典の立案・起草作業を進め、日本の法体系における商法の位置づけと発展に貢献しました。
3.4. 韓国法典編纂への協力
1906年、梅謙次郎は当時の韓国統監であった伊藤博文に請われ、大韓帝国政府の法律最高顧問に就任しました。彼は韓国の法典編纂に携わり、日本の近代法学の知識と経験を活かして、韓国の法制度整備に貢献しました。この活動中に、彼は京城(現在のソウル)で腸チフスにより急逝しました。
3.5. 公職
梅謙次郎は学者としての活動に加え、多くの公職を兼任し、日本の法制度整備に貢献しました。彼は農商務省参事官、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官、内閣恩給局長、文部省総務長官、文官高等試験委員長などを歴任しました。これらの役職を通じて、彼は政府の法務行政や高等教育行政において重要な役割を果たし、日本の近代国家建設に貢献しました。
4. 法政大学の設立と発展
梅謙次郎は、自身の教育者としての情熱と指導力をもって、法政大学の前身である和仏法律学校の設立に深く関わり、その後の大学の発展に中心的な役割を果たしました。
4.1. 東京法学校の設立
1894年、梅謙次郎は富井政章、薩埵正邦、本野一郎らと共に東京法学校の設立に参画しました。この学校は現在の法政大学の前身にあたり、日本の近代法学教育の基盤を築く上で重要な機関となりました。梅は、東京帝国大学での教授職に専念する意向であったにもかかわらず、熱心な懇願を受けてこの私学の運営に加わることを決めました。
4.2. 大学行政と指導
梅謙次郎は、東京法学校において学監を兼務し、その後校長、そして1903年から1910年の死去に至るまで、法政大学の初代総理(総長)を務めました。「総理」という称号は彼のみに用いられ、彼以降は「学長」を経て「総長」へと変更されました。約20年間にわたり、彼は法政大学の設立、教育方針の確立、そして運営において中心的な指導力を発揮し、その発展に大きく貢献しました。彼のリーダーシップは、法政大学が日本の主要な私立大学の一つとして成長する上で不可欠なものでした。
5. 学説と思想
梅謙次郎の法学における学説と思想は、自然法論に根ざしながらも実践的な法解釈を重視し、数多くの著作を通じて日本の法学界に大きな影響を与えました。
5.1. 法哲学と法解釈
梅謙次郎は、アリストテレスやトマス・アクィナスの流れを汲む自然法論を支持し、フランス法学に親和的な立場をとっていました。彼が学んだフランス法の註釈学派は、自然法論を前提としつつも、革命の原理としての自然法を否定し、一般意志によって表明された制定法こそが自然法であり、法律の解釈は立法者の意思を探求し、それを体系化することにあると考えていました。
梅は、深遠な観念論を避け、制定法の枠内で実質的に妥当な解決を迅速に提示する実務型の学者でした。彼の自然法論について、穂積陳重は「現行法の規定中に自然法の根拠を求めて居るのであるから、本当の意味での自然法ではない」と評しました。これは、人為の成文法に根拠を求めるならば、それはもはや純粋な自然法とは言えないという見方です。梅自身も「自然法」という言葉を避け「理想法」という言葉を用いていましたが、これはローマ法に万古不変の法理を求めたドイツのサヴィニーと本質的には大差がないとも評されています。
しばしばフランス法系の学者の代表のように扱われる梅ですが、ドイツ留学の経験もあり、民法典起草に際してはフランス民法典ではなくドイツ民法典の草案を最も重要な範としたと明言しています。彼はまた、フランス法典が日本の民法典に与えた影響を認めつつも、当時の日本の私法解釈方法については、「大体に於てヴィントシャイト氏、デルンブルヒ氏等の意見と符節を合する」(ドイツの学説に合致する)と述べています。一方で、日本民法がもっぱらドイツ民法の模写であるという世評には反対し、フランス民法典にも好意的な立場を示し、例としてスペイン民法典を挙げるなど、特定の法体系への偏りを排した柔軟な視点を持っていました。
5.2. 主要著作と学術的貢献
梅謙次郎は多くの重要な著作を残し、日本の法学の発展に大きく貢献しました。その代表的な著作には以下のようなものがあります。
- 『De la transactionドゥ・ラ・トランザクションフランス語』:彼の博士論文であり、和解に関する包括的な研究です。
- 『日本売買法』:日本の売買に関する法理論を詳細に解説しました。
- 『民法債権担保論』:債権担保に関する民法理論を論じました。
- 『改正 商法講義:会社法 手形法 破産法』:商法の主要分野について解説しました。
- 『会社法綱要』:会社法の要点をまとめました。
- 『民法要義』:民法の基礎的な解説書として広く用いられました。
- 『民法講義』
- 『破産法案概説』:破産法案について概説しました。
- 『民法原理』
- 『最近判例批評』:当時の重要な判例を分析・批評しました。
また、本野一郎との共著『日本 商法義解』や、民法典論争に関する『法典実施意見』などもあります。さらに『法律辞書』の編纂も行いました。これらの著作は、日本の法学教育の基盤を築き、実務における法解釈の指針となるなど、日本の法学界に多大な影響を与えました。
6. 私生活
梅謙次郎の私生活は、彼の家族関係や個性的なエピソードに彩られており、その人となりを深く理解する上で欠かせない側面です。
6.1. 家族・親族
梅謙次郎の家族は、彼の生涯において重要な存在でした。彼の家族背景と親族関係は以下の通りです。
- 高祖父・曽祖父・祖父**:梅道竹と名乗る医師の家系であり、代々松江藩の藩医を務めました。初代道竹は長崎で外科を学び、松江で開業し藩医に取り立てられました。3代目梅栄は長崎、大阪、江戸で学び、藩医として昇進しました。
- 父**:梅薫は3代目の娘婿で藩医でしたが、維新後は呉服屋や薬屋など様々な商売に失敗し、一時は露天商として生活困窮に陥りました。しかし、子どもたちの成功により後半生は裕福に過ごしました。
- 兄**:梅錦之丞(1858年 - 1886年)は、ドイツ留学後に日本人として初めて眼科の講義と診療を行い、東京大学医学部の初代眼科教授となりました。森鷗外の『独逸日記』に登場する「梅某」は、この兄を指すと考えられています。錦之丞は28歳で病死しました。
- 妻**:兼子は松江藩士・松本理左衛門の三女で、小泉八雲の妻セツの縁戚にあたります。謙次郎と兼子は15年間の内縁関係を経て、1905年に入籍しました。1903年に東京大学が八雲を解雇した際(後任は夏目漱石)、梅は八雲の相談相手となり、翌1904年9月に八雲が死去した際には葬儀委員長も務めました。
- 長女**:梅枝(1892年生)は建築技師の板倉操一(板倉松太郎の長男)と結婚しました。
- 長男**:緑(1893年 - 1937年)は東京帝国大学文科大学英文科を中退しました。出生時は両親が未入籍であったため、母方の祖父の子として届けられ、後に謙次郎の籍に養子として入りました。謙次郎は緑の婚約者として板倉松太郎の三女・梅子を養女としましたが、緑が母方のいとこと結婚したため、縁組は解消されました。
- 二男**:震(1896年 - 1970年)は東京帝国大学法科大学を卒業後、満洲中央銀行員となり、日本銀行出身で、敗戦時には満洲中銀理事として戦後の処理にもあたりました。帰国後は秋田木材社長などを務めました。妻の文子は平岡浩太郎と西郷従道の孫にあたります。
- 三男**:徳(1897年 - 1958年)は二男の震と双子で、岩波書店校正課長を務めました。2度の交通事故により死去しました。
- 四男**:光(1897年生)は徳と双子で、京都帝国大学法経済学部を卒業後、兄の徳と出版社を経営しました。徳が就職した後、横浜の会社に就職しましたが、その後台湾や満州へ渡りました。
6.2. エピソード・人となり
梅謙次郎は、その卓越した記憶力で知られています。司法省法学校時代には、わずか一週間でフランス語の教科書300ページを完全に暗記し、答案に一字一句違わず再現したため、かえって減点されてしまったという逸話が残っています。また、民法典の全条文も完全に暗記していたと伝えられています。リヨン大学時代には、そのあまりに優秀さから、他の日本人留学生が「日本人には富井、梅のような法律の神様のような人間が居る」と現地の学生たちに畏れられ、警戒されたといいます。通常5年を要する卒業試験を3年半で受ける資格を得て、試験官の3ページにわたる論文をよどみないフランス語で暗唱し、教授たちを驚愕させました。
個人的な嗜好としては、ウナギが大好物でした。法政大学の理事会の食事は鰻定食が慣例となり、梅が渡韓した際には統監府の鰻代の出費が非常に増えたといわれています。これらのエピソードは、彼の天才的な頭脳と、それに相反するような人間味あふれる人となりを示しています。
7. 死去と歴史的意義
梅謙次郎の突然の死は、その短い生涯に幕を閉じましたが、彼が生涯を通じて日本の近代法制度の確立と発展に尽くした功績は、後世において高く評価され続けています。
7.1. 死去
梅謙次郎は、1910年8月25日、韓国法典編纂の職務中に京城(現在のソウル)で腸チフスにより急逝しました。享年50歳でした。その葬儀は東京の護国寺で、法政大学葬として盛大に執り行われました。
7.2. 栄典と後世の評価
梅謙次郎は、その功績に対し多くの栄典が授与されました。死去前日の8月25日には、勲一等瑞宝章を受章しています。その他にも、勲三等旭日中綬章(1898年)、金杯一組(1903年)、勲二等瑞宝章(1906年)、旭日重光章(1907年)など、多くの勲章や褒賞を受けました。外国からの栄典としては、フランス共和国のオフィシエー・ド・ランストリュクシヨン・ピュブリック記章(1896年)や、大韓帝国の皇帝陛下即位礼式紀念章(1908年)、勲一等八卦章(1908年)などがあります。
彼は日本の民法典の基礎を築いた功績から、「日本民法典の父」と称され、その歴史的意義は高く評価されています。日本の法学者の中で、唯一単独で文化人切手(1952年発行)になっていることからも、その功績が如何に高く評価されていたかが伺えます。穂積陳重や富井政章も民法起草者として切手になっていますが、単独ではありません。

なお、穂積や富井が男爵の位を得たのに対し、梅が男爵になれなかったのは、彼が若くして急逝したため、その功績が十分に世に認められる時間がなかったためであると言われています。しかし、彼の短い生涯における法制度整備と教育への多大な貢献は、日本の近代化において計り知れない価値を持つものでした。