1. 生い立ちと教育
玉井操は1903年12月16日に兵庫県で生まれた。彼の父は玉井商船の創業者である玉井周吉である。操は明治学院中等部在学中の1919年から1921年にかけてサッカーを始めた。その後、1922年に第一早稲田高等学院に入学し、早稲田大学ア式蹴球部に入部した。1923年にはビルマ人留学生のChow Dinチョウ・ディンビルマ語から直接サッカーの指導を受ける機会を得た。1924年に早稲田大学政治経済学部へ進学した後もサッカー部に在籍し、その才能を磨き続けた。
2. サッカー選手としての経歴
玉井操は、早稲田大学での輝かしい活躍を経て、日本代表としても国際舞台で名を馳せた。
2.1. クラブでの活動
玉井は自身の母校である早稲田大学の選手と卒業生で構成された早稲田WMWでプレーした。彼はチームの中心選手として関東大学リーグ優勝に貢献した。早稲田WMWでは、鈴木重義、有馬暎夫、朝倉保、高橋茂、杉村正三郎、本田長康、高師康、瀧通世といった多くのサッカー日本代表選手と共にプレーした。
2.2. 日本代表としての活動
1927年8月、玉井はまだ早稲田大学の学生であったが、上海で開催された第8回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出された。この大会において、1927年8月27日の中華民国代表戦で日本代表としてデビューを果たし、この試合で1得点を挙げた。続く8月29日のフィリピン代表戦にも出場し、この試合で日本は勝利を収めた。この勝利は、日本代表にとって初の国際Aマッチでの勝利となった。彼は1927年に日本代表として2試合に出場し、1得点を記録した。
2.3. 出場記録と統計
玉井操の日本代表における国際Aマッチ出場記録は以下の通りである。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1927 | 2 | 1 |
合計 | 2 | 1 |
また、具体的な出場試合および得点記録は以下の通りである。
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 大会 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1927年08月27日 | 上海 | 中華民国 | ●1-5 | 極東選手権 | ||
2. | 1927年08月29日 | 上海 | フィリピン | ○2-1 | 極東選手権 |
得点記録:
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 大会 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1927年08月27日 | 上海 | 中華民国 | ●1-5 | 極東選手権 |
3. 実業家としての経歴
玉井操はサッカー選手としての道を歩む一方で、実業家としてもその手腕を発揮し、海運業界を中心に数々の要職を歴任した。
3.1. 初期の実業活動
大学卒業後の1928年、玉井は神戸海上火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、会社員としてのキャリアをスタートさせた。しかし、1935年4月に父・周吉が死去したことに伴い、同月に神戸海上火災保険を退職した。
3.2. 経営者およびリーダーシップ
神戸海上火災保険を退職した1935年5月、玉井は自身の父が創業した玉井商船に入社すると同時に、同社の第2代社長に就任した。1947年10月には一度玉井商船の社長を退任したが、1951年1月に再度同社の社長に就任している。1955年11月には大同汽船の社長に就任し、1978年6月からは同社の会長を務めた。
また、海運業界の発展にも尽力し、1958年11月には日本船主協会(JSA)の阪神地区船主会議長に就任した。同年12月からはJSAの副会長兼常任理事を務め、海運業界の健全な発展と国際競争力の強化に貢献した(これらの役職は1970年5月に退任)。1959年2月には海運造船合理化審議委員にも就任し、海運・造船産業の効率化と近代化を推進した(この役職も1970年5月に退任)。
4. 公職および行政的役割
玉井操はサッカー界のみならず、多岐にわたる公職や行政的な役割を通じて、地域社会および国の発展に貢献した。
4.1. 一般公務
1964年11月には神戸商工会議所副会頭に就任し、神戸市の経済振興に寄与した。1966年12月から1972年12月にかけては兵庫県公安委員会委員を務め、県内の治安維持と公共の安全に貢献した。さらに、1971年5月からは神戸国際会館の社長を務め、文化施設の運営と国際交流の促進にも尽力した。
4.2. サッカー行政における貢献
玉井は日本のサッカー発展に多大な貢献を果たした。1931年より関西蹴球協会兵庫支部長を務め、1939年からは兵庫県蹴球協会会長に就任し、地域サッカーの振興に尽力した。1957年には関西サッカー協会会長に就任するとともに、日本サッカー協会(JFA)の副会長を1976年まで務め、日本サッカー界の指導的立場を担った。
特に重要な貢献として、1970年に設立された日本初の法人格を持つサッカー団体である社団法人神戸フットボールクラブの初代会長に就任したことが挙げられる。これは、日本におけるサッカーの組織化とプロ化の基盤を築く上で先駆的な役割を果たした。
5. 栄誉と受賞
玉井操の多大な功績は、生前および没後に数々の栄誉と受賞によって称えられた。
- 1966年:藍綬褒章を受章。
- 1974年:勲三等旭日中綬章を受章。
- 1979年:没後、正四位を追叙。
- 2006年:日本サッカー殿堂に掲額された。
6. 死去
玉井操は1978年12月23日に急性心不全のため、神戸市生田区(現在の中央区)にあった神戸掖済会病院で死去した。享年75歳であった。
7. 遺産と評価
玉井操は、サッカー選手として日本代表の歴史的な一歩に立ち会うとともに、引退後はサッカー行政の要職を歴任し、特に神戸フットボールクラブの設立を通じて日本サッカーの組織的な基盤作りに貢献した。また、実業家としては玉井商船や大同汽船の経営者として、海運業界の発展に多大な影響を与えた。日本船主協会でのリーダーシップや、神戸商工会議所、兵庫県公安委員会、神戸国際会館といった多岐にわたる公職での活動は、地域社会の振興と公共の福祉増進に貢献した彼の社会貢献を明確に示している。彼の功績は、サッカー界のみならず、経済界、そして公共分野においても長く記憶されるべき遺産として評価されている。