1. 概要
珣子内親王(珣子内親王しゅんしないしんのう/たまこないしんのう日本語、新室町院しんむろまちいん日本語)は、日本の後醍醐天皇の皇后(中宮)です。持明院統の後伏見天皇の第一皇女として生まれ、母は西園寺寧子(広義門院)です。彼女は持明院統の光厳天皇の同母妹にあたります。
当時の皇位継承は、持明院統と大覚寺統の間で交互に行われる「両統迭立」という複雑な状況にありました。元弘の乱を経て、大覚寺統の後醍醐天皇が政権を奪還し、建武の新政を開始した際、持明院統との融和を図るため、政敵であった光厳天皇の妹である珣子内親王を新たな皇后として迎えました。
この政略結婚は、後醍醐天皇が持明院統を懐柔し、新政権の安定を図るための重要な一手でした。特に、彼女の懐妊と、その結果生まれたのが皇女であったという事実は、その後の日本史に大きな影響を与えました。この個人的な出来事が、西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺未遂事件、中先代の乱、建武の乱、そして南北朝の内乱へと連鎖的に発展するきっかけとなり、建武政権崩壊の遠因の一つとなりました。
政略結婚でありながらも、後醍醐天皇は珣子内親王に深い愛情を注ぎ、彼女のために多くの和歌を詠んでいます。これらの和歌は、当時の政治的背景と個人の感情が交錯する貴重な史料となっています。珣子内親王は、直接的な政治的行動は少ないものの、その存在と出産が中世日本の歴史的転換点に間接的に与えた影響は大きく、特に女性が皇位継承に果たす役割という観点から、その歴史的意義が評価されています。
2. 出自と幼少期
珣子内親王は、鎌倉時代後期の延慶4年2月23日(1311年3月13日)に、持明院統の後伏見天皇と、その正室である広義門院(もと女御西園寺寧子)の間の第一子として誕生しました。彼女は光厳天皇や光明天皇の同母姉にあたります。出生地は京都の常盤井殿でした。
母である広義門院は、朝廷と鎌倉幕府の交渉役である関東申次として強大な権勢を誇った西園寺公衡の娘でした。公衡は、広義門院の出産に際して「広義門院御産愚記」という記録を残しており、これは西園寺家から久しぶりに国母(天皇の生母)が輩出されるかもしれないという期待のもと、将来生まれるであろう皇子誕生のための手引書として書かれたものだと考えられています。このように、珣子内親王の誕生は、後伏見上皇と西園寺公衡の両方から大きな期待を背負っていました。
結果として生まれたのは皇子ではなく皇女でしたが、後伏見上皇は正室との最初の子である珣子内親王を深く愛しました。公卿洞院公賢の日記『園太暦』によれば、皇女であるにもかかわらず、男子の誕生時に行われる御剣の儀式が行われるなど、異例の待遇で扱われたと記録されています。生まれた年である延慶4年6月15日には内親王宣下を受け、文保2年(1318年)2月21日には一品に叙されました。このことから、持明院統内では、同母弟で持明院統の嫡子である量仁親王(のちの光厳天皇)に次ぐ重要な存在と見なされていました。
3. 後醍醐天皇との結婚と政治的背景
持明院統と対立する大覚寺統の後醍醐天皇は、元弘の乱(1331年 - 1333年)で鎌倉幕府に勝利し、元弘3年(1333年)6月5日に建武の新政を開始しました。後醍醐天皇は、新政開始のわずか2日後の6月7日から、持明院統の所領安堵や花園天皇(珣子内親王の叔父)が崇敬する大徳寺への優遇政策などを通じて、長年の政敵であった持明院統との和解・融合を図りました。当時の建武政権の政策は、後世の軍記物語『太平記』で描かれるような悪政ではなく、実際には現実的で優秀なものであり、着実に機構を整えていました。
しかし、新政が始まった矢先の同年10月12日、20年以上連れ添った最愛の正妃である皇太后西園寺禧子が崩御し、後醍醐天皇は精神的に大きな痛手を受けました。この空いた中宮(正妃)の位に、同年12月7日(1334年1月13日)、珣子内親王が冊立されました。この時、後醍醐天皇は数え46歳、珣子内親王は数え23歳でした。
この結婚は、21世紀初頭まで日本史研究上ほとんど注目されてきませんでしたが、近年、研究者によって建武政権の存続にとって重大な意味を持つ、大掛かりな政略結婚であったと指摘されています。その理由として、以下の点が挙げられます。
1. **光厳上皇への尊号奉献**: 珣子内親王の立后のわずか3日後、後醍醐天皇は持明院統の光厳天皇(珣子内親王の同母弟)を「皇太子」と記し、さらに崇敬のために「太上天皇」の尊号を奉るとしました。これは元弘の乱で失われた光厳の地位を回復させることで、持明院統への配慮を示したものです。
2. **懽子内親王と光厳上皇の結婚**: 同月中に、後醍醐天皇と前の正妃である禧子との愛娘である懽子内親王が光厳上皇に密かに嫁ぎました。
これら三つの出来事は、政権を安定させるために、持明院統への懐柔政策を集中的に行ったものと見られています。また、珣子内親王の母方の実家は、かつて関東申次として強大な権勢を誇った有力公家西園寺家でした。鎌倉幕府の滅亡により権威が減じた西園寺家当主の西園寺公宗(珣子内親王の従兄)への配慮も、この結婚の背景にあったと考えられます。
後醍醐天皇のこの婚姻政策は、父である後宇多天皇が持明院統の皇女を皇后に迎えた先例を見習ったものとも指摘されています。後宇多天皇は在位中の弘安8年(1285年)に、持明院統の後深草天皇の皇女である姈子内親王(のちの遊義門院)を皇后としていましたが、これは持明院統への融和政策であった可能性が指摘されています。
珣子内親王の立后から1か月後の元弘4年(1334年)1月23日には、後醍醐天皇と側室阿野廉子との皇子である恒良親王が立太子されました。この恒良親王の立太子は、母の家格があまり高くないため中継ぎの皇太子であり、将来的に正妃である珣子内親王との間に生まれる皇子を正嫡の天皇とする予定であった可能性が指摘されています。これにより、持明院統の血を引く皇子が将来天皇になる可能性を示唆することで、持明院統の反感を和らげる狙いがあったと考えられます。
珣子内親王の中宮職では、従兄の西園寺公宗が中宮大夫に、親族の今出川実尹が中宮権大夫に就任しました。また、中宮に仕える高級女性使用人の要職である中宮御匣殿には、新室町院御匣という歌人が入っており、彼女の歌は『風雅和歌集』に2首入集しています。
4. 懐妊と出産
後醍醐天皇と珣子内親王の結婚の翌年には、早くも珣子内親王は懐妊しました。建武元年(1334年)10月16日には、妊娠5か月目に行われる着帯の儀が執り行われました。
天皇の皇妃に対する想いの深さを測る一つの尺度として、御産祈祷の回数が挙げられます。この時期の諸帝が行わせた御産祈祷の回数を比較すると、後醍醐天皇が珣子内親王のために僧侶たちに行わせた御産祈祷の回数は、歴代最高の66回に及びました。これは、後醍醐天皇がいかに珣子内親王を大切に想い、丁重に扱っていたかを如実に示しています。
和暦 | 西暦 | 対象 | 女院号 | 配偶者 | 回数 |
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弘長2年 | 1262年 | 西園寺公子 | 東二条院 | 後深草天皇 | 27 |
弘長2年 | 1262年 | 洞院佶子 | 京極院 | 亀山天皇 | 27 |
文永2年 | 1265年 | 洞院佶子 | 京極院 | 亀山 | 10 |
文永2年 | 1265年 | 西園寺公子 | 東二条院 | 後深草 | 26 |
文永4年 | 1267年 | 洞院佶子 | 京極院 | 亀山 | 15 |
文永7年 | 1270年 | 西園寺公子 | 東二条院 | 後深草 | 15 |
建治2年 | 1276年 | 近衛位子 | 新陽明門院 | 亀山 | 25 |
弘安2年 | 1279年 | 近衛位子 | 新陽明門院 | 亀山 | 9 |
乾元2年 | 1303年 | 西園寺瑛子 | 昭訓門院 | 亀山 | 36 |
延慶3年 | 1311年 | 西園寺寧子 | 広義門院 | 後伏見天皇 | 51 |
正和2年 | 1313年 | 西園寺寧子 | 広義門院 | 後伏見 | 34 |
正和3年 | 1314年 | 西園寺禧子 | 後京極院 | 後醍醐 | 35 |
正和4年 | 1315年 | 西園寺禧子 | 後京極院 | 後醍醐 | 22 |
正和4年 | 1315年 | 西園寺寧子 | 広義門院 | 後伏見 | 16 |
文保3年 | 1319年 | 西園寺寧子 | 広義門院 | 後伏見 | 10 |
元亨元年 | 1321年 | 西園寺寧子 | 広義門院 | 後伏見 | 10 |
嘉暦元年 | 1326年 | 西園寺禧子 | 後京極院 | 後醍醐 | 43 |
建武2年 | 1335年 | 珣子内親王 | 新室町院 | 後醍醐 | 66 |
建武4年 | 1337年 | 懽子内親王 | 宣政門院 | 光厳天皇 | 10 |
後醍醐天皇は、前の正妃である西園寺禧子ともおしどり夫婦として知られ、その夫婦円満さは『増鏡』などの歴史物語に描かれています。禧子への御産祈祷も1度あたり平均33.3回と、他の天皇を大きく上回るものでしたが、珣子内親王への祈祷はそのさらに2倍の値でした。後醍醐天皇は真言宗の阿闍梨の資格も持っていたため、自ら祈祷を行うこともありました。
祈祷は、着帯の儀の翌年である建武2年(1335年)2月5日から本格化し、出産日の3月中旬まで続けられました。これらの盛大な御産祈祷には、後醍醐天皇の親族や側近だけでなく、持明院統の皇族や西園寺家の大貴族も出資者として支援しました。例えば、珣子内親王の同母弟である光厳上皇と、後醍醐天皇の愛娘で光厳上皇妃となった懽子内親王夫妻も出資しています。後醍醐天皇の第四皇子である宗良親王(尊澄法親王)は、自身が天台宗延暦寺の長である天台座主であったため、出資者と祈祷実行者の両方を務めました。さらに、足利尊氏や新田義貞など、後醍醐天皇に抜擢された武士たちも出資者となりました。
珣子内親王の母方である西園寺家からの後援は特に手厚く、「中宮御産御祈日記」という記録からその詳細がわかります。これによると、御産祈祷の着座公卿には三条実忠、西園寺公宗、徳大寺公清、洞院実世、西園寺公重、今出川実尹の6人が名を連ねています。また、惣奉行(総奉行)は今出川兼季で、御産奉行は葉室長顕が務めました。洞院家と今出川家は西園寺家の分家であり、公宗と実尹は中宮庁の幹部でもありました。
出産は、珣子内親王自身が生まれた場所でもある常盤井殿で行われました。この邸宅は、西園寺実氏の別邸として建てられた後、大宮院(後嵯峨天皇中宮西園寺姞子)、亀山天皇、昭訓門院(亀山天皇側室西園寺瑛子)、恒明親王(後醍醐天皇叔父)へと受け継がれてきました。鎌倉時代最末期には、持明院統の伏見上皇や後伏見上皇が仙洞御所(上皇の邸宅)として使用するなど、大覚寺統、持明院統、西園寺家の結節点となる邸宅でした。
さらに、「中宮御産御祈日記」からは、後醍醐天皇が持明院統との融和路線を維持しようと腐心した様子がうかがえます。御産奉行に葉室長顕を起用したことがその一つです。葉室長顕は、光厳上皇の側近であり、このような持明院統寄りの人物に御産祈祷の監督という重要な役目を依頼したのは、後醍醐天皇から持明院統への配慮であったと考えられます。
5. 出産の結果と歴史への影響
建武2年(1335年)3月中旬、珣子内親王の出産は無事に終わりました。正確な出産日については諸説ありますが、3月14日(4月8日)または3月18日(4月12日)とされています。出産から数え7日目の24日には音楽家の綾小路敦有によって「七夜拍子」の儀が行われ、後醍醐天皇はその見事な技に感銘を受け、翌25日には賞賛の綸旨を贈ったと記されています。その後も、中御門家や綾小路家らによって五十日と御百日のお祝いの拍子が行われました。
しかし、珣子内親王と後醍醐天皇の間に生まれたのは、皇女でした。この結果は、その後の日本史に予期せぬ大きな影響を与えることになります。
出産からわずか3か月後の6月22日、珣子内親王の従兄である西園寺公宗は、後醍醐天皇の暗殺を計画したとして捕らえられました。公宗はかつて鎌倉幕府との交渉役である関東申次として強大な権勢を誇っていましたが、幕府が滅亡したことでその権勢は衰退の一途を辿っていました。西園寺家には家督争いなどもあったため、暗殺計画の原因は一概には断定できませんが、権勢の衰退に対する不満が原因であった可能性はしばしば指摘されます。しかし、もし従妹である珣子内親王に皇子が誕生していれば、いずれは西園寺家の血を引く天皇が即位する可能性があったため、公宗が暗殺計画を企てたかどうかは疑問が残ります。
公宗の後醍醐天皇暗殺未遂事件とほぼ同時期に、関東では北条得宗家の遺児である北条時行が中先代の乱を起こしました。この反乱を鎮圧するため、足利尊氏の弟である足利直義が派遣されましたが、時行に敗北しました。これを助けるために尊氏が東国へ向かい、ここから紆余曲折を経て後醍醐天皇と尊氏の戦いである建武の乱が発生し、最終的に建武政権は崩壊しました。西園寺公宗事件は、建武政権崩壊の幕開けとなったのです。
20世紀までの研究では、建武政権の制度や政策には欠陥があったため崩壊したという見解が主流でしたが、これは政権が短期間で崩壊したという結果から逆算されたものでした。しかし、2010年代以降の研究では、建武政権の政策そのものは中世の常識に沿った現実的なものであり、その崩壊は必然ではなかったという見方が強まっています。政権崩壊の大きな要因の一つとして、珣子内親王の出産の結果、すなわち生まれた子の性別が皇女であったことが挙げられます。これは誰にも責任を問えない不幸な事態であり、個人的な出来事が国家の運命に大きな影響を与えた事例として、その歴史的意義が再評価されています。
6. 晩年と最期
建武政権崩壊後、延元元年/建武3年12月21日(1337年1月23日)に南北朝の内乱が勃発しました。この混乱の中、珣子内親王が北朝の首都である京都に留まったのか、あるいは夫である後醍醐天皇に従って南朝の臨時首都である吉野行宮へ行ったのかは、はっきりしていません。しかし、北朝においても約1か月の間は正式な中宮として扱われていたため、京都に留まっていた可能性はあります。一方、彼女の皇女が幸子内親王であるという説(後述)を考慮すると、赤子を連れて夫に付き従った可能性も否定できません。
珣子内親王は延元2年/建武4年1月16日(1337年2月17日)に、北朝から「新室町院」の女院号を宣下されました。この時までは北朝の正式な中宮として扱われていましたが、女院となったことで、中宮大夫の堀川具親、中宮権大夫の今出川実尹、中宮亮の葉室長光らが辞任しました。
同年5月12日(1337年6月11日)、珣子内親王は崩御しました。享年数え27歳でした。彼女が崩御した時、皇女はまだ数え3歳でした。その2年後の延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)には、夫である後醍醐天皇もまた崩御しました。享年数え52歳でした。
珣子内親王と後醍醐天皇の間に生まれた皇女がどうなったのかは、正確には不明です。しかし、江戸時代の学者である津久井尚重は、『南朝皇胤紹運録』(天明5年(1785年))の中で、この皇女が南朝の歌人である幸子内親王であると記しています。21世紀の歴史研究者である三浦龍昭も、幸子説を支持しています。
幸子内親王は正平20年/貞治4年(1365年)の歌会に「新参」(いままゐり)の名で出詠しているため、その年まで生存していたことは確実です。もし珣子内親王の娘説が正しいとすれば、彼女は数え31歳以上は生きていたことになります。幸子内親王は歌人として成長し、『新葉和歌集』には6首の和歌が入集しており、歌史に名を残しています。特に、巻第八羇旅歌では、巻の末尾を締めくくる重要な歌である後醍醐天皇が武将名和長年を追憶する有名な歌の一つ前に幸子内親王の歌が置かれており、父帝の歌を導く重要な役割を担っています。
7. 後醍醐天皇の愛情と和歌
政略結婚であったにもかかわらず、後醍醐天皇は珣子内親王に深い愛情を注ぎました。たとえば、中宮が定まった際に有力歌人が歌を色紙に書いて屏風に貼る行事である立后屏風では、二条派の大歌人であった後醍醐天皇自身も和歌を詠んでいます。そのうち2首は、いずれも北朝の勅撰和歌集である『新拾遺和歌集』や『新千載和歌集』、および南朝の准勅撰和歌集である『新葉和歌集』の両方に重複入集するほどの秀歌として評価されています。
一つ目の歌は、立后屏風で五節舞を題材に詠まれたものです。
- 元弘三年立后屏風に五節をよませたもうける
袖かへす 天つ乙女も 思ひ出よ 吉野の宮の むかし語りを
(大意:袖を翻して舞う五節舞の天女に等しいあなたも、どうか思い出して欲しい。吉野の宮の昔語りを。時の帝である天武天皇が、吉野に舞い降りたあなたの優雅さに呆然として、「天つ乙女が 天女らしく舞うことよ 唐玉を 袂に巻いて 天女らしく舞うことよ」と高らかに歌った、あの日のことを。)
この歌は、珣子内親王を本物の天つ乙女(天女)に喩えると共に、天つ乙女に模した「五節舞姫」に選ばれた女性が、平安時代には天皇の最愛の妻になることもあったという含意も持ち合わせています。この歌の『新葉和歌集』の版である「袖かへす 天津乙女も 思ひ出ずや 吉野の宮の 昔語りを」が刻まれた歌碑が、2012年時点で奈良県吉野郡吉野町の吉野朝皇居跡に立てられており、夫妻の絆を現代に伝えています。

二つ目の歌は、春日祭を題材に詠まれたものです。
- 元弘三年立后屏風に、春日祭
立ちよらば つかさづかさも 心せよ 藤の鳥居の 花の下陰
(大意:来年二月の春日祭に勅使として春日大社に立ち寄る者は、心を留めるように。春日大社の「藤の鳥居」は藤原氏の者のみがくぐることを許されるというが、その傍らで咲く梅の花の木陰で。そして、その春日祭の儀のように荘厳なこの婚儀に立ち寄るならば、すべての群卿百寮は刮目せよ。梅の花ではなく、その木陰を。なぜなら、藤原氏西園寺家の血を引き、梅の花ですらただの引き立て役になってしまうほどに麗しい人が、今ここに我が后として門出をするのだから。)
春日祭とは、大和国春日大社で旧暦2月および11月の上申日(その月初めの申の日)に行われる祭儀です。京都から斎女や朝廷の祭使が派遣され、藤原氏や東宮(皇太子)・中宮も使いを出して幣を奉献しました。春日祭当日、藤原氏の者は、春日大社の「藤の鳥居」をくぐって本殿に進みました。この歌の「花」は、春日祭の季節的に、藤の花ではなく、おそらく梅の花と考えられています。
8. 歴史的評価
珣子内親王の生涯は、直接的な政治的行動によって歴史に名を残したというよりは、その存在自体が歴史的出来事の触媒となった点で特筆されます。彼女の後醍醐天皇との結婚は、建武の新政における持明院統と大覚寺統の融和政策の一環として行われた政略結婚であり、その政治的意味合いは非常に大きいものでした。
特に、彼女の懐妊と、その結果生まれたのが皇女であったという事実は、その後の政治情勢に決定的な影響を与えました。この個人的な出来事が、西園寺公宗による暗殺未遂事件、中先代の乱、そして南北朝の内乱へと連鎖的に発展する遠因となったのです。当時の研究では、建武政権の崩壊は政策の欠陥によるものとされていましたが、近年の研究では、珣子内親王の出産という偶発的な出来事が、政権崩壊の大きな要因の一つであったと再評価されています。これは、個人の運命が国家の命運を左右する、という中世日本の政治社会の特質を示す事例と言えるでしょう。
また、彼女の出産に際して行われた異例の66回に及ぶ大規模な御産祈祷は、当時の天皇が皇位継承、特に正妃から生まれる皇子にどれほどの期待と重要性を置いていたかを示しています。これは、中世日本における女性、特に皇室の女性が、直接的な政治権力を持たずとも、その血筋と生殖能力を通じて、国家の安定と皇統の維持に不可欠な役割を担っていたことを示唆しています。珣子内親王は、こうした中世日本のジェンダーロールの中で、その存在が歴史の大きな転換点に間接的に関与したという点で、重要な歴史的意義を持つ人物であると評価されます。