1. 概要
田口 壮(たぐち そう)は、福岡県で生まれ、兵庫県西宮市で育った日本の元プロ野球選手(外野手、内野手)。日本プロ野球(NPB)のオリックス・ブルーウェーブ(後にオリックス・バファローズ)で10シーズンプレーした後、メジャーリーグ(MLB)のセントルイス・カージナルス、フィラデルフィア・フィリーズ、シカゴ・カブスで8年間プレー。その後、オリックスに復帰し、2シーズンプレーした後に現役を引退した。
田口は、1998年の伊良部秀輝、2005年の井口資仁に次いで、ワールドシリーズで優勝した3人目の日本生まれの選手である。また、2006年にカージナルスで、2008年にフィリーズで優勝しており、異なる2つの球団でワールドシリーズを制覇した初の日本人選手となった。
引退後は野球解説者やラジオパーソナリティとして活動し、2016年からは古巣オリックス・バファローズの2軍監督、2019年からは1軍野手総合兼打撃コーチ、2021年からは外野守備・走塁コーチを務めた。
2. 生い立ちと背景
2.1. 幼少期と学生時代
田口壮は1969年7月2日に福岡県で生まれた。実父の允之(よしゆき)はクラレに勤務し、かつて社会人野球のクラレ岡山硬式野球部で外野手として活躍していた。その影響を受け、2歳年上の兄(捕手)と共に3歳から野球を始めた。
家族の転勤に伴い、2歳から8歳までは千葉県、8歳から小学校5年生の夏までは岡山県岡山市で過ごした。岡山市立平福小学校では、当時住んでいたクラレ社宅内のソフトボールチームに所属し、遊撃手として数々の大会で優勝を経験した。西宮市立平木中学校、兵庫県立西宮北高等学校を経て、関西学院大学へ進学した。高校時代は、地元に近い甲子園の土を踏むことなく卒業した。
関西学院大学では硬式野球部に所属し、関西学生野球連盟の公式戦で通算101試合に出場、376打数123安打、打率.327、10本塁打、46打点という記録を残した。この間、首位打者1回、最優秀選手1回、ベストナイン4回を受賞。通算123安打は、2019年11月現在でも連盟史上最多安打記録である。守備位置は、9歳で岡山市の野球チームに入ってから、オリックス入団2年目まで一貫して遊撃手であった。
2.2. プロ入り前
1991年のドラフト会議において、オリックス・ブルーウェーブと北海道日本ハムファイターズから1位指名を受けた。抽選の結果、オリックスが交渉権を獲得し、契約金は推定1.00 億 JPY、年俸は推定1200.00 万 JPYで入団に合意した。
背番号については、同年オフに2軍監督を退任した福本豊が長年着用していた「7」を提示されたが、「あの福本さんの番号だから恐れ多い」と辞退し、アマチュア時代から着用し、熊野輝光の移籍で空き番となっていた「6」を選択した。ドラフトに際しては、平田勝男の後継遊撃手を求めていた阪神タイガースも指名・獲得を希望していたが、田口は記者会見で「阪神に行きたくない10カ条」なる文書を読み上げた(後に撤回)。これは関西学院大学野球部および学校当局と、オリックスの同校OBの担当スカウトが、田口を阪神に行かせたくないために仕組んだものとされているが、この行為に関与していなかった当時の野球部監督からは叱責を受けた。田口自身も「野球以外のことで怒られたのは初めてだった」と語っている。この発言に対し、阪神タイガースの岡田彰布は「待遇面では球界でも上位、本当の阪神を知らないのなら、軽率にものを言うべきではない」と苦言を呈した。2001年オフにも阪神はFAで田口の獲得を狙ったが、彼はセントルイス・カージナルスへ移籍したため、結局、田口が阪神のユニフォームを着ることはなかった。
3. 選手経歴
田口壮のプロ野球選手としてのキャリアは、日本プロ野球での最初のプレー、メジャーリーグ挑戦、そして古巣への復帰と引退という3つの主要な時期に分けられる。
3.1. 日本プロ野球(NPB)時代
最初の日本プロ野球時代は、オリックス・ブルーウェーブおよび球団名変更後のオリックス・バファローズでプレーした。遊撃手から外野手への転向を経て、チームの主力選手として活躍した。
3.1.1. オリックス・ブルーウェーブ
1992年の開幕戦、千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ戦で、前年のベストナイン遊撃手でオールスターゲームにも出場した小川博文を差し置いて、「9番・遊撃手」で新人ながら開幕スタメン出場を果たした。この試合の1回裏の守備機会で、ゴロを捌いた際に一塁手への高い送球となってしまう(記録は一塁手のケルビン・トーベがジャンプで好捕しアウトとなった)。
デビュー当初は監督の土井正三の厳しい指導もあり、イップスによるスローイング障害や、ストレスから突発性難聴に陥るなど、守備では失策を重ね、内野手としては大成しなかった。当時からイチローが絶賛する「強肩病」と称されるほどの強肩が武器であった。
1994年に開幕して間もなく遊撃手として出場し、2度の悪送球を犯した際、監督の仰木彬から「もう、ええやろ」と言われ、交代を命じられた。この瞬間からスタメンの機会を失い、福良淳一に相談したところ、「プロでやるなら外野に行くしかないやろ。来年、おれへんで」と助言され、田口自身も外野手転向を決意。当時の外野にはブレイクしていたイチロー、藤井康雄、高橋智、本西厚博がいたが、仰木に「このメンバーに勝てるのか?」と問われ、「勝てます」と答え、外野手に転向した。転向後は最多補殺、ゴールデングラブ賞の常連となるなど、好守備の外野手としてレギュラーに定着した。イチロー、本西厚博(後に谷佳知)との外野手トリオは、当時球界一の守備力と評された。
1995年・1996年シーズンのリーグ連覇に貢献。打順は主に1番打者や3番打者を務め、1996年には後半戦からイチローと入れ替わる形で1番に固定された。1997年には1番打者として135試合にフル出場を果たした。同年は主に左翼手を務めたにもかかわらず、刺殺302という中堅手以外では突出した数値を残し、他にも補殺17、失策1の守備率.997、RRF1.229という好成績を収めている。1998年、1999年は二塁手や遊撃手として起用されることも多かった。
1999年に前妻と離婚。2000年には松坂大輔・中村紀洋らと共に、シドニーオリンピック野球日本代表として出場した。チームは3位決定戦で韓国に敗れ、4位に終わった。オリンピックでは日本ハムの田中幸雄選手と背番号が重なったため、背番号6を譲る形となり背番号1を着用した。
2001年3月、元TBSアナウンサーの香川恵美子と再婚した。同年オフにアラン・ニーロを代理人とし、FA権を行使した。
3.2. メジャーリーグ(MLB)時代
メジャーリーグでは、セントルイス・カージナルスで主力として活躍し、2度のワールドシリーズ優勝を経験。その後、フィラデルフィア・フィリーズ、シカゴ・カブスと移籍を重ねた。
3.2.1. セントルイス・カージナルス
2002年1月9日にセントルイス・カージナルスと3年総額300.00 万 USDで契約を結んだ。

2002年は開幕ロースターからは外れたものの、6月10日のシアトル・マリナーズ戦でメジャーデビューを果たした。4試合の出場で無安打に終わり、マイナーリーグ(ニューヘイブン・レイブンズ、メンフィス・レッドバーズ)に降格したが、9月7日に再昇格。その日のシカゴ・カブス戦の2回にメジャー初安打を記録し、以降15試合に出場した。この年、メジャーでは19試合の出場で15打数6安打を記録した。田口はカージナルス史上初の日本生まれの選手となった。当初、背番号「6」を希望したが、これはスタン・ミュージアルの永久欠番であった。また、「6」を逆さにした「9」はイーノス・スローターの永久欠番であり、オリンピックで着用した「1」はオジー・スミスの永久欠番であったため、着用できなかった。さらに、「66」もリック・アンキールが着用していたため、最終的に「99」を選んだ。
2003年も開幕ロースターに残れず、傘下のAAA級メンフィスで開幕を迎えた。5月27日にメジャー昇格し、9試合の出場で4打数2安打2打点を記録したが、6月8日に降格。8月17日にメジャー再昇格を果たし、9月12日のヒューストン・アストロズ戦では二塁手として守備に就き、日本人としてメジャーで初となる内野守備を経験した(この時、ミゲル・カイロからグラブを借りた)。同じ試合でメジャー初本塁打も放った。9月28日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではデニス・レイエスから3点本塁打を打ち、チームの勝利に貢献。最終的に43試合の出場で打率.259に終わったが、得点圏では打率.357と結果を残した。この年に長男が誕生し、一児の父親となった。
2004年は初の開幕ロースターに残り、メジャー定着を果たした。同年シーズンは109試合に出場し、打率.291、得点圏打率.341を記録し、チームの新人王となった。カージナルスはワールドシリーズに進出を果たし、田口自身も第1戦で先発出場して安打を打ったが、ボストン・レッドソックスに4連敗を喫し、優勝は果たせなかった。しかし、このシーズンで評価が一気に高まり、監督のトニー・ラルーサは「私はソウを高く買っている!」と度々語ったほか、チーム公式サイトでの「チームが最も必要としている選手は誰か?」というアンケートでは1位にランクインした。オフには複数球団からのオファーがあったが、「ラルーサ監督の下でプレーして、野球をもっと勉強したい」と1年総額55.00 万 USDでカージナルスと再契約した。

2005年はチーム3位の143試合に出場。8月には12試合連続安打を記録するなど打率.361、OPS.912を残し、月間MVP候補に挙がる活躍を見せた。ラリー・ウォーカーやレジー・サンダースの故障に伴い先発出場も増え、アルバート・プホルスが休養で欠場した試合では3番打者も務めた。シーズンを通じて打率.288・8本塁打・53打点・11盗塁を残し、得点圏打率.407(91打数37安打)を記録した。カージナルスのラジオ実況アナウンサーであるマイク・シャノンは、田口を「ザ・ソーマン」と呼び、彼の勤勉さと極めて丁寧な人柄を称賛した。田口は習慣として、打席に立つたびに審判員に軽くお辞儀をしていた。当初は英語でのインタビューに苦戦することによるはにかんだ態度と、謙虚で明るい人柄が、セントルイスのファンに愛された。
2006年は出場機会がやや減少し、打席数は前年の396から316に減少した。しかし、田口は3年連続でカージナルスのプレーオフロースター入りを果たし、英雄的なポストシーズンでの瞬間を経験した。10月13日、ニューヨーク・メッツとのNLCS第2戦の9回表、ビリー・ワグナーから決勝点となる本塁打を放ち、カージナルスに7対6のリードをもたらした(試合は9対6で勝利)。田口は2006年のワールドシリーズの5試合中4試合に出場し、打率.182を記録。カージナルスがデトロイト・タイガースを4勝1敗で破り、ワールドシリーズリングを獲得した。この優勝が決まった瞬間、田口はフィールドに立っていた初の日本人選手となった。オフには年俸調停を申請していたが、1月16日に92.50 万 USDの1年契約を結んだ。
2007年もカージナルスで堅実なシーズンを送り、打率.290を記録し、パートタイムの選手として130試合に出場し307打席に立った。彼は監督トニー・ラルーサの最も貴重な代打の一人であり、2007年に1打席のみの出場が46試合あった中で、田口は15安打を放った。守備では617イニングに出場し、中堅手として41試合(その他22試合)に先発出場し(ジム・エドモンズが故障していたため)、左翼手として21試合(その他20試合)に先発出場した(カージナルスは2008年にスキップ・シューマッカーが定着するまで、このポジションに特定の選手を固定していなかった)。右翼手(2試合先発、その他6試合)や二塁手(1試合の一部)としても出場した。
2007年シーズン終了後、カージナルスは田口の2008年シーズンのオプションを行使しないことを発表し、田口の代理人からの要請を受け、2007年12月5日にノンテンダーFAとしてリリースした。
3.2.2. フィラデルフィア・フィリーズ

2007年12月23日、フィラデルフィア・フィリーズと2009年のオプション付きの1年契約、年俸100.00 万 USDで契約した。
2008年はNPB/MLB通算1500安打を達成したものの、代走や守備固めでの出場が多く、後半は同じく移籍してきたエリック・ブラントレットにそのポジションを奪われ、メジャーデビュー後自己最低の成績(打率.220、91打席)に終わった。しかし、彼はフィリーズのポストシーズンロースターに含まれ、フィリーズがワールドシリーズを制覇した際に、自身2度目となるチャンピオンリングを獲得した(ナショナルリーグチャンピオンシップシリーズでは代打として4打数0安打で、ワールドシリーズには出場しなかった)。
ワールドシリーズ優勝後すぐに、フィリーズは田口のオプションを行使せず、彼をフリーエージェントとした。
3.2.3. シカゴ・カブス

2009年1月15日、シカゴ・カブスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加した。この契約は、カブスの外野手であった福留孝介のために日本人チームメイトを提供することも目的の一つであった。田口はカブスの開幕ロースターには入れず、AAA級アイオワに降格した。シーズンのほとんどをマイナーで過ごし、85試合で打率.248、4本塁打、24打点を記録した後、9月16日に故障したサム・ファルドに代わってカブスに昇格した。メジャーでは12試合に出場し、11打数3安打を記録した。40歳2ヶ月での出場は、当時の日本人野手最年長記録であった。レギュラーシーズン終了後、カブスから自由契約選手として通告された。
3.3. オリックス復帰と現役引退
メジャーリーグでの生活を終えた後、田口は古巣であるオリックスに復帰。チームの精神的支柱として貢献したが、怪我に悩まされ、現役を引退することとなった。
3.3.1. オリックス・バファローズ復帰
2010年1月23日、オリックス・バファローズと1年総額8000.00 万 JPY(プラス出来高2000.00 万 JPY)で契約を結んだ。背番号は、カージナルス時代のチームメイトであったラリー・ウォーカーが付けていた番号にあやかった「33」を選択した(旧ブルーウェーブ時代に着用していた「6」は大村直之が着用しており、球団から「5」も提示されたが固辞した。なお、「33」は前身の阪急ブレーブス時代から2009年まで投手が着用する番号であったため、打者の着用は田口が初めてであった)。
主に代打や左投手が先発する試合でのスタメンとして起用された。5月30日に行われた「がんばろう神戸デー」では、1995年の優勝を経験した唯一の現役オリックス選手として、同日に復刻したブルーウェーブのユニフォームに袖を通した。9月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦(京セラドーム大阪)では代打で逆転2点本塁打を放ち、9年ぶりに古巣のお立ち台に上がった。しかし、4月21日に左太もも痛で登録抹消され、その後も不振や体調不良があり、7月17日に再び抹消されるなど、シーズンを通しての出場は53試合に留まった。それでも、実直な練習態度や周囲へのアドバイスなど、精神的支柱としての面が評価され、翌年の契約が決まった。
2011年は2月の春季キャンプで右肩を痛め、開幕に出遅れるも、5月10日に一軍に昇格した。5月18日の対阪神タイガース戦(京セラドーム大阪)では「3番・右翼手」として出場し、岩田稔から先制適時打を放ち、2度目のお立ち台に上がった。その後も低迷したチーム打率や後藤光尊が二軍落ちした状況の中で3番打者としてチームを牽引した。後藤の復帰後は主に2番打者として起用され、交流戦では弟分である坂口智隆に次いで全体2位の打率.363を記録した。しかし、その後は不調に陥り、8月29日に登録抹消された。その後は痛めた右肩の影響もあり一軍に昇格することはなく、結局、シーズンでは前年を上回る成績を残したものの、戦力外通告を受けて10月13日に退団が発表された。翌14日に右肩を手術した。12月2日には自由契約選手として公示された。
3.3.2. 現役引退
2012年は現役続行を目指しながらリハビリテーションに専念していたが、新規契約期限の7月31日までにどの球団からもオファーがなかったため、同日に自身の公式サイトで現役引退を発表した。妻の香川恵美子は、引退試合が無く終わってしまったことが心残りだったと語っている。
4. 選手としての特徴とプレースタイル
大学生時代は名遊撃手と目されていたが、オリックスでは送球イップスが原因で3年目に本格的に外野手に転向した。外野での守備はイチローを上回っているとの評価もあった。俊足であり、強肩も持ち味で、イニング間にはよく左翼守備位置の田口と右翼守備位置のイチローとでキャッチボールを行っていた。
土井正三監督時代だけでなく仰木彬監督時代も外野のみならず内野を守ることもあった。
カージナルス移籍後も、レギュラー選手の休みの穴を埋める「スーパー・サブ」や「10人目のスターター」といったユーティリティプレイヤーとして活躍し、ポストシーズンでトレバー・ホフマンやビリー・ワグナーから本塁打を放つなど、大一番での打撃も目立った。勝負強さが持ち味のクラッチヒッターでもあり、2005年には得点圏打率.407(OPS.936)を記録した。メジャー通算でも打率.279・OPS.717に対して、得点圏では打率.331・OPS.835という数字を残している。また、メジャー通算における満塁時の打率は.512(41打数21安打、出塁率.510・長打率.707・OPS1.217)である。
2009年に地元紙「セントルイス・ポスト・ディスパッチ」電子版が2000年代のカージナルスベストナインを読者投票で選出した際、田口は「ベストなベンチ要員」で断然トップに立った。同紙は「移籍してもスタンディングオベーションで迎えられるなど、今でもファンに愛されている」と田口の人柄も評価した。このようにファンからの支持が高い傾向にあり、マイナー時代には地元ファン向けに田口の個人グッズが販売されていたこともあった。
5. 現役引退後の活動
現役引退後、田口壮は野球解説者やラジオパーソナリティとしてメディアで活動する一方、オリックス・バファローズのコーチとして指導者としての道を歩んだ。
5.1. 野球解説者およびメディア活動
2012年9月6日、当時の所属事務所を通じて現役引退を正式に発表した。同時に、芸能事務所のホリプロとの間で新たにマネジメント契約を締結し、同社のスポーツ文化部に所属しながら野球解説者として活動することを明かした。
引退発表から約1か月後の2012年10月2日からは、『with...夜はラジオと決めてます』(MBSラジオが2012年度のナイターオフ期間に放送した4時間超の生ワイド番組)の火曜日で、レギュラーでは初めてのラジオパーソナリティを担当した。その関係で、2012年12月の「MBSラジオ スペシャルウィーク」では、同局のパーソナリティ代表として「スペシャルウィークPR大使」に起用された。また、2012年11月25日に開催された第2回神戸マラソンでは、朝日放送テレビによる番組企画の一環として人生初のフルマラソンに挑戦し、5時間51分20秒で完走を果たした。当時は、放送局やテレビ・ラジオを問わず(ニュース番組のスポーツコーナーを含む)多数のスポーツ中継・番組にゲストコメンテーターとして出演した。
2013年のプロ野球シーズンからは、NHKの野球解説者としても活動した。
現役引退後も執筆活動を続けており、『ほぼ日刊イトイ新聞』内で「野球の人・田口壮の新章 はじめての二軍監督」、『日本経済新聞』の電子版で「2軍監督 田口壮!」というコラムを定期的に執筆した。
5.2. 指導者経歴
2015年10月1日、2016年より、オリックス・バファローズの二軍監督として復帰することが発表された。また、田口のブルーウェーブ時代のチームメイトで、2015年シーズン途中から一軍監督代行を務めていた福良淳一が一軍監督へ就任することも正式に決まった。背番号は「81」となった。
二軍監督1年目の2016年は、一・二軍ともリーグの最下位に低迷した。田口自身も、シーズン中の7月に視覚障害や言語不良を起こし、一時的に休養して入院した(MRI検査の結果、異常はなかった)。自身の現役時代と意識が大きく異なる若手選手との接し方を「プロ野球の中間管理職」という立場で模索した。
2017年は、二軍監督と打撃コーチを兼任した。また、3月30日には前年の経験を綴った著書『プロ野球・二軍の謎』を、幻冬舎から刊行した。2018年は再び二軍監督に専任した。
2019年からは、一軍野手総合兼打撃コーチに就任した。2021年からは外野守備・走塁コーチに配置転換された。
2024年10月7日、オリックスを退団することが発表された。
6. 個人生活と人物像
田口壮は、野球選手としての実績だけでなく、その誠実な人柄や家族との関係、そして自身の哲学でも知られている。
6.1. 家族関係と私生活
妻は元TBSアナウンサーの香川恵美子であり、彼女は英語が堪能である。田口は妻から英語を学び、映画『ファインディング・ニモ』や『モンスターズ・インク』などを観て英語を練習した。夫妻には2003年12月24日生まれの息子、カンがいる。息子はアリゾナ州フェニックスにあるグランドキャニオン大学の野球チームに所属している。田口家は現在もセントルイスに家を所有している。
6.2. 人物像と野球哲学
田口壮は誠実かつ実直な性格で、オリックス時代から人望が厚く、選手会長を務めていたこともある。シドニーオリンピックでは、MLBがイチローの出場を強く希望していた際、田口は「オリンピックはアマチュア選手の晴れ舞台」というイチローの心境を慮り、イチローの選出回避を嘆願し、自身が代役としてオリンピックに出場した。後輩である坂口智隆とは田口のメジャー時代から続く師弟関係であり、オフには共に合同自主トレを行っていた。
現役選手時代には、自身の公式サイトで「何苦楚(なにくそ)日記」を執筆。その内容を編集した同名の書籍を2004年に主婦の友社から刊行したことを皮切りに、「プロの著述家に匹敵する」とされる構成力の高さで数冊の書籍を著したことから、「書けるプロ野球選手」という異名を持つようになった。カージナルスの傘下チームで活動していたころは「日記しか書けないマイナーリーガー」と言われていたが、後に「日記も書けるメジャーリーガー」と呼ばれるようになった。「何苦楚」はオリックス時代に指導を受けた中西太から授けられ座右の銘としている言葉であり、同じく中西の指導を受けた岩村明憲も座右の銘としている。
MLBに移籍した際には、母校の関西学院大学がキリスト教主義に沿った教育方針を採っていたことなどから、チームメイトと共に教会によく足を運んでいた。ただし、田口自身は現在でも洗礼は受けておらず、厳密にはクリスチャンではない。しかし、「自分の心に響きました。理解でき、実感することができました。これが本物だってわかったんです...妻との関係や、人生が困難に陥った時に助けてくれるのはイエス・キリストだと、今では思ってます」と語っている。カージナルスにはジョン・ロドリゲス、ブレイデン・ルーパー、アルバート・プホルスなど信仰心の厚さで知られる選手もおり、田口は「プホルスはとても優しくしてくれますね。彼は、言語を理解できないつらさをわかってくれるし、信仰の手本となるクリスチャンでもある。みんなとても親切にしてくれますね」とコメントしている。
7. 受賞と栄誉
田口壮は、日本プロ野球とメジャーリーグの両方で数々の個人タイトルと栄誉を獲得した。
7.1. 日本プロ野球(NPB)での受賞
- ベストナイン:1回(1996年)
- ゴールデングラブ賞:5回(1995年 - 1997年、2000年、2001年)
- 月間MVP:1回(1998年9月)
- JA全農Go・Go賞(強肩賞):1回(2000年9月)
- 出身地別東西対抗戦優秀選手:1回(2000年)
7.2. メジャーリーグ(MLB)での受賞
- ハート&ハッスル賞:1回(2007年)※チーム内での受賞
8. 主な記録
田口壮がプロ野球選手として残した打撃・守備記録、そして特筆すべき個人通算記録は以下の通りである。
8.1. 打撃・守備記録
年 度 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 | オリックス | 47 | 141 | 123 | 12 | 33 | 10 | 0 | 1 | 46 | 7 | 5 | 0 | 9 | 0 | 8 | 0 | 1 | 26 | 1 | .268 | .318 | .374 | .692 |
1993 | 31 | 90 | 83 | 12 | 23 | 7 | 1 | 0 | 32 | 5 | 3 | 2 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 12 | 2 | .277 | .302 | .386 | .688 | |
1994 | 108 | 364 | 329 | 55 | 101 | 17 | 1 | 6 | 138 | 43 | 10 | 3 | 5 | 4 | 23 | 1 | 3 | 62 | 6 | .307 | .354 | .419 | .773 | |
1995 | 130 | 574 | 495 | 76 | 122 | 24 | 2 | 9 | 177 | 61 | 14 | 7 | 25 | 7 | 43 | 0 | 4 | 80 | 7 | .246 | .308 | .358 | .665 | |
1996 | 128 | 569 | 509 | 74 | 142 | 24 | 1 | 7 | 189 | 44 | 10 | 4 | 23 | 4 | 29 | 4 | 4 | 61 | 15 | .279 | .321 | .371 | .692 | |
1997 | 135 | 643 | 572 | 92 | 168 | 32 | 4 | 10 | 238 | 56 | 7 | 1 | 16 | 3 | 49 | 1 | 3 | 74 | 4 | .294 | .351 | .416 | .767 | |
1998 | 132 | 573 | 497 | 85 | 135 | 26 | 2 | 9 | 192 | 41 | 8 | 8 | 23 | 2 | 48 | 2 | 3 | 68 | 13 | .272 | .338 | .386 | .724 | |
1999 | 133 | 569 | 524 | 77 | 141 | 21 | 1 | 9 | 191 | 56 | 11 | 6 | 14 | 1 | 29 | 0 | 1 | 91 | 9 | .269 | .308 | .365 | .673 | |
2000 | 129 | 578 | 509 | 77 | 142 | 26 | 3 | 8 | 198 | 49 | 9 | 2 | 11 | 0 | 55 | 1 | 3 | 80 | 12 | .279 | .353 | .389 | .742 | |
2001 | 134 | 524 | 453 | 70 | 127 | 21 | 6 | 8 | 184 | 42 | 6 | 6 | 26 | 1 | 43 | 2 | 1 | 88 | 7 | .280 | .343 | .406 | .750 | |
2002 | STL | 19 | 19 | 15 | 4 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | .400 | .471 | .400 | .871 |
2003 | 43 | 59 | 54 | 9 | 14 | 3 | 1 | 3 | 28 | 13 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 1 | 0 | 11 | 2 | .259 | .310 | .519 | .829 | |
2004 | 109 | 206 | 179 | 26 | 52 | 10 | 2 | 3 | 75 | 25 | 6 | 3 | 10 | 3 | 12 | 1 | 2 | 23 | 6 | .291 | .337 | .419 | .756 | |
2005 | 143 | 424 | 396 | 45 | 114 | 21 | 2 | 8 | 163 | 53 | 11 | 2 | 2 | 4 | 20 | 2 | 2 | 62 | 11 | .288 | .322 | .412 | .734 | |
2006 | 134 | 361 | 316 | 46 | 84 | 19 | 1 | 2 | 111 | 31 | 11 | 3 | 9 | 2 | 32 | 1 | 2 | 48 | 9 | .266 | .335 | .351 | .686 | |
2007 | 130 | 340 | 307 | 48 | 89 | 15 | 0 | 3 | 113 | 30 | 7 | 4 | 3 | 1 | 23 | 0 | 6 | 32 | 10 | .290 | .350 | .368 | .718 | |
2008 | PHI | 88 | 103 | 91 | 18 | 20 | 5 | 1 | 0 | 27 | 9 | 3 | 0 | 4 | 0 | 8 | 0 | 0 | 14 | 2 | .220 | .283 | .297 | .580 |
2009 | CHC | 6 | 12 | 11 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | .273 | .333 | .364 | .697 |
2010 | オリックス | 53 | 131 | 119 | 17 | 31 | 6 | 0 | 3 | 46 | 10 | 1 | 0 | 2 | 2 | 7 | 0 | 1 | 28 | 4 | .261 | .302 | .387 | .689 |
2011 | 62 | 239 | 198 | 27 | 54 | 10 | 0 | 0 | 64 | 15 | 3 | 1 | 23 | 0 | 15 | 1 | 3 | 36 | 5 | .273 | .333 | .323 | .657 | |
NPB:12年 | 1222 | 4995 | 4411 | 674 | 1219 | 224 | 21 | 70 | 1695 | 429 | 87 | 40 | 181 | 24 | 352 | 12 | 27 | 706 | 85 | .276 | .332 | .384 | .716 | |
MLB:8年 | 672 | 1524 | 1369 | 197 | 382 | 74 | 7 | 19 | 527 | 163 | 39 | 12 | 31 | 10 | 102 | 5 | 12 | 195 | 40 | .279 | .332 | .385 | .717 |
年 度 | 球 団 | 外野 | 中堅(CF) | 左翼(LF) | 右翼(RF) | 二塁(2B) | |||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2002 | STL | - | 6 | 8 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | 8 | 3 | 0 | 1 | 0 | .750 | - | - | |||||||||||||||
2003 | - | 16 | 19 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | 11 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 13 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | ||||||
2004 | - | 31 | 43 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 53 | 40 | 0 | 2 | 0 | .952 | 28 | 16 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||||||||
2005 | - | 50 | 58 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 52 | 50 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | 57 | 75 | 3 | 2 | 0 | .975 | - | |||||||||||
2006 | - | 59 | 90 | 2 | 5 | 0 | .948 | 70 | 87 | 1 | 1 | 0 | .989 | 7 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
2007 | - | 63 | 118 | 1 | 1 | 1 | .982 | 41 | 49 | 2 | 2 | 1 | .962 | 8 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | .250 | ||||||
2008 | PHI | - | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | 38 | 22 | 0 | 2 | 0 | .917 | 11 | 11 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||||||
2009 | CHC | - | - | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||||||||||||
2010 | オリックス | 30 | 32 | 0 | 1 | 0 | .970 | - | - | - | - | ||||||||||||||||||||
2011 | 46 | 74 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | - | - | - | - | |||||||||||||||||||||
MLB | - | 226 | 336 | 7 | 6 | 2 | .983 | 276 | 258 | 6 | 8 | 2 | .971 | 125 | 118 | 4 | 2 | 0 | .984 | 3 | 2 | 1 | 1 | 0 | .750 |
8.2. 個人通算記録
8.2.1. NPB
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1992年4月4日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(千葉マリンスタジアム)、「9番・遊撃手」で先発出場
- 初安打:1992年4月11日、対近鉄バファローズ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回裏に高柳出己から左翼線二塁打
- 初盗塁:1992年5月1日、対日本ハムファイターズ3回戦(グリーンスタジアム神戸)、8回裏に二盗(投手:金石昭人、捕手:田村藤夫)
- 初打点:1992年9月8日、対福岡ダイエーホークス23回戦(北九州市民球場)、8回表に池田親興から2点適時二塁打
- 初本塁打:1992年9月23日、対近鉄バファローズ25回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回裏に高柳出己から左越ソロ
- 節目の記録
- 1000安打:2000年10月6日、対西武ライオンズ26回戦(グリーンスタジアム神戸)、4回裏に西口文也から中前安打 ※史上203人目
- 1000試合出場:2001年4月28日、対日本ハムファイターズ7回戦(グリーンスタジアム神戸)、「6番・左翼手」で先発出場 ※史上367人目
- その他記録
- オールスターゲーム出場:4回(1995年、1996年、1997年、2001年)
8.2.2. MLB
- シーズン得点圏打率1位:.407(2005年)
9. 著書と出演
田口壮はプロ野球選手としての活動に加え、複数の著書を出版し、引退後もメディアで幅広く活動している。
9.1. 著書
- 『何苦楚日記』(2004年1月、主婦と生活社、ISBN 978-4391129076)
- 『タグバナ。』(2007年5月11日、世界文化社、ISBN 978-4418075096)
- 『脇役力<ワキヂカラ>』(2010年4月16日、PHP研究所、ISBN 978-4569778297)
- 『野球と余談とベースボール』(2013年2月26日、マイナビ、ISBN 978-4839946050)
- 『プロ野球・二軍の謎』(2017年3月20日、幻冬舎、ISBN 978-4344984523)
9.2. テレビ・ラジオ・その他出演
- テレビ(現役引退後のレギュラー番組のみ)
- 『メジャーリーグ』(NHK BS1 随時出演)
- 『ワールドスポーツMLB』(NHK BS1 大リーグコメンテーター)
- ラジオ(現役引退後のレギュラー番組のみ)
- 『with...夜はラジオと決めてます』火曜日パーソナリティ(MBSラジオ、2012年10月2日 - 2013年3月26日) - 自身初のレギュラー番組。放送上のタイトルは『with田口壮 夜はラジオと決めてます』。
- 『NHKプロ野球』(NHKラジオ、主に阪神・オリックスの主管試合を中心に随時出演)
- 映画
- 『走れ!イチロー』(2001年4月28日公開、東映、監督:大森一樹) - 本人 役
10. 背番号
田口壮がプロ野球選手およびコーチとして着用した背番号は以下の通りである。
- 6(1992年 - 2001年) - オリックス・ブルーウェーブ
- 99(2002年 - 2009年) - セントルイス・カージナルス、フィラデルフィア・フィリーズ、シカゴ・カブス
- 33(2010年 - 2011年) - オリックス・バファローズ
- 81(2016年 - 2024年) - オリックス・バファローズ(コーチ)