1. 生涯と教育
石川隆彦の生い立ちから学生時代、そして柔道家としての初期の修業について詳述する。
1.1. 出生と家族背景
石川隆彦は1917年5月15日、香川県三豊郡神田村(現在の三豊市)に生まれた。父は石川文八といい、柔術無双流の免許皆伝者であり、当時講道館柔道3段(後に6段まで昇段)の柔道家でもあった。父が飛島組の土木技師であったため、一家は後に長野県へと転居した。
1.2. 学業と初期の修業
長野県への転居後、石川は長野県飯山中学に入学し、在学中に柔道3段を取得した。その後、日本大学や国士舘専門学校で柔道の修業を続け、国士舘では柔道部の主将を務めるなど、その才能を早くから開花させた。身長は175 cm、体重は82 kgという体格であった。
2. 日本での柔道経歴
石川隆彦の日本国内における柔道家としての活動と、主要な大会での実績、そして職業活動について解説する。
2.1. 戦前・戦後の活動
5段位で国士舘専門学校を卒業すると、石川はすぐに同校の助教授に就任した。1940年に開催された紀元二千六百年奉祝天覧武道大会では、事実上の日本一決定戦とされた指定選士の部に出場し、木村政彦と決勝を争った。しかし、この試合では緊張から動きが固くなり、木村に一方的に攻められて完敗を喫した。この敗戦を機に、石川は打倒・木村を掲げて修行に励むこととなる。大外刈や一本背負投、内股といった立ち技に一層磨きをかけたほか、世に"常胤流"として知られた小田常胤9段に寝技を学んだ。日中戦争の終戦に伴い満州から引き揚げた後は、警視庁の柔道師範を務めた。
2.2. 主要大会での実績
1949年の全日本柔道選手権大会では、1回戦で二瓶英雄5段、2回戦で山本博6段、3回戦で醍醐敏郎5段を破り、決勝戦で宿敵・木村政彦との再戦が実現した。激闘の末、決着がつかず、両者同時優勝という結果になった。この時、優勝旗は木村の計らいにより石川が持ち帰ったという逸話が残っている。同年、石川は7段に昇段した。

翌1950年の大会にも出場したが、この時すでにプロ柔道に転向していた木村は出場しなかったため、石川は「借りを返せなくなった」と失望したという。しかし、大会では1回戦で戸高清光6段、2回戦で阿部謙四郎7段、3回戦で松本安市6段、準決勝戦で醍醐敏郎6段を破り、決勝戦では広瀬巌7段を判定で下し、連覇を達成した。その後も、1951年に3位、1952年に準優勝、1953年に3位と好成績を収め、当時の柔道界において確固たる地位を築き上げた。
2.3. 日本国内での職業活動
国士舘専門学校の助教授として柔道指導にあたった後、警視庁の柔道師範として、日本の柔道界の発展に貢献した。
3. 米国での柔道普及活動
日本での柔道家としてのキャリアを終えた後、石川隆彦は米国へと渡り、柔道の普及に尽力した。
3.1. 米国移住と道場設立
1954年に警視庁を退職した石川は、米国に移住し、南北アメリカ大陸を縦断して柔道の普及活動を行うことを計画した。しかし、道中にキューバ革命が発生したため米国に戻り、フィラデルフィアやバージニアビーチに「石川道場(Ishikawa Judo School英語)」を設立した。
3.2. 普及活動と影響力
石川は米国で「Sensei Ishikawa英語」として広く知られるようになり、多くの門人に囲まれて柔道の指導を行った。長年にわたり、彼は米国における最高位の黒帯保持者の一人であり、その影響力は米国柔道界に深く根付いた。彼の指導はキューバの柔道をエリートレベルに引き上げるのにも貢献した。
4. 段位昇級
石川隆彦の柔道における段位昇級の記録は以下の通りである。
- 1949年:7段に昇段。
- 1963年:8段に昇段。
- 1984年:講道館創立100周年記念に際し、9段に昇段。この時、石川のほか、牛島辰熊、新原勇、姿節雄、西田亀、山本秀雄、山本博ら41名が9段に同時昇段するという異例の多人数昇段が行われた。石川は生前、9段にまで昇り詰めた。
5. 著書と出版物
石川隆彦は、柔道に関する著作も残している。
- 『Judo Training Methods: A SOURCEBOOK英語』:この書籍は、彼の柔道指導法や哲学をまとめたものであり、柔道愛好家や指導者にとって貴重な資料となっている。
6. 私生活と晩年
9段昇段に際し、石川は「日本を出て30年が経ち色々と苦労もあったが、日本・外地の人々と昇段の喜びを共にしたい」と述べていた。その後、健康上の理由から親戚の住む横浜市へと移り、柔道とは無縁の生活を送った。趣味は囲碁であり、6段の腕前を持っていた。米国時代の弟子たちがYouTubeに投稿した映像では、碁盤の前で柔道衣のまま笑みを浮かべる石川の写真が紹介されている。
7. 柔道規則・哲学への見解
1984年の9段昇段時に、石川は当時の国際試合規定について批判的な見解を示している。彼は、国際試合の規定が「本来の柔道を損なう」ものであり、「要改正」であると警鐘を鳴らした。これは、柔道が競技化される中で、その本質が失われることへの懸念を示したものと言える。
8. 逝去
石川隆彦は2008年6月9日に逝去した。
9. 遺産
石川隆彦は、その生涯を通じて日本の柔道界に大きな足跡を残しただけでなく、特に米国における柔道普及に多大な貢献を果たした。「Sensei Ishikawa英語」として多くの門弟を育成し、柔道の精神と技術を異国の地で広めた功績は、今日の米国柔道界の礎の一つとなっている。彼の業績は、柔道が世界的な武道として発展していく上で不可欠なものであったと評価されている。