1. 幼少期と学生時代
若林修の幼少期と学生時代は、アイスホッケーと野球という二つのスポーツに打ち込み、輝かしい成績を収めた時期である。彼の多文化的な背景は、その後のキャリアにも影響を与えた。
1.1. 幼少期と初期のスポーツ活動
若林修は1944年12月23日、カナダのオンタリオ州ネイズ(サンダーベイ近郊の村)で日系カナダ人の家庭に生まれた。彼の家族は、太平洋戦争中に数千人もの他の日系カナダ人と同様に、ブリティッシュコロンビア州からオンタリオ州へと移住させられた背景を持つ。幼少期をチャタム、オンタリオ州で過ごし、この地でアイスホッケーと野球に没頭した。これらのスポーツは、彼の人生において中心的な役割を果たすことになる。
1.2. 大学時代
1964年にアメリカのボストン大学に入学し、大学アイスホッケーチームでプレーを開始した。大学1年次には規定により試合に出場できなかったものの、2年次にはカンファレンス最多となる51アシストを記録し、ビーンポットトーナメントではMVPに選出された。この頃、彼は「ハービー・ワカバヤシ」Herbie Wakabayashi英語の愛称で広く知られるようになった。
続く3年次には、オールアメリカ、オールイースト、オールニューイングランドのファーストチームに選ばれるなど、その活躍は目覚ましかった。さらに、チームの最優秀選手(MVP)と大学全体のアスリートオブザイヤーも受賞した。4年次でも再びオールアメリカとオールニューイングランドの栄誉に輝き、ボストン大学でのキャリアを輝かしいものとした。彼は大学史上最多の90アシスト、歴代2位の145ポイントという記録を残し、その功績が認められ1978年にはボストン大学の殿堂入りを果たした。アイスホッケーでの活躍に加え、野球でも優れた才能を発揮し、打率.367を記録してチームをECACプレーオフの地域決勝に導いた。
2. 選手キャリア
若林修の選手キャリアは、大学での成功を経て、日本の実業団リーグと日本代表チームでの国際舞台で大きな足跡を残した。
2.1. 日本でのクラブキャリア
大学卒業後、兄である若林仁の誘いを受けて1969年に来日し、当時日本のトップチームであった西武鉄道アイスホッケー部に入団した。彼は西武鉄道(後に国土計画)の主力選手として、翌年からの日本アイスホッケーリーグ3連覇に大きく貢献し、「西武黄金時代」と呼ばれるチームの隆盛を支えた。
選手としての16年間で、通算206ゴール、164アシストを記録。個人タイトルとしても、リーグMVPを3度、ベスト6を7度受賞するなど、その卓越したスキルと得点能力でリーグを牽引した。
2.2. 日本代表としての国際キャリア
日本の永住を決意した若林は、1971年9月に日本国籍を取得した。これにより、彼は日本アイスホッケー国家代表チームの一員として国際舞台で活躍する道が開かれた。
彼は3度の冬季オリンピックに日本代表として出場した。
- 1972年札幌オリンピック: 日本代表として初めてオリンピックの舞台を踏む。
- 1976年インスブルックオリンピック
- 1980年レークプラシッドオリンピック: 開会式では日本選手団の旗手を務め、その存在感を示した。
オリンピック出場に加え、彼は世界アイスホッケー選手権大会にも複数回出場している。1974年世界アイスホッケー選手権大会Bプールから始まり、1975年世界アイスホッケー選手権大会、1976年世界アイスホッケー選手権大会、1977年世界アイスホッケー選手権大会、1978年世界アイスホッケー選手権大会、1979年世界アイスホッケー選手権大会(この大会ではプレイングコーチを兼任)に出場した。また、1982年世界アイスホッケー選手権大会では選手兼任監督として、1983年世界アイスホッケー選手権大会でも選手として出場するなど、選手としてのキャリアの晩年まで多岐にわたる役割を担い続けた。
3. 指導者キャリア
若林修は選手引退後も、その豊富な経験と知識を活かし、日本のクラブチームおよび日本代表チームで指導者として活躍し、日本のホッケー界の発展に尽力した。
3.1. クラブチームおよび代表チームの指導
若林は、1977年から所属していた西武鉄道で選手兼任監督に就任し、指導者としてのキャリアを開始した。1985年に選手としての活動を引退した後は、専任監督としてチームを率い、1989年に退団するまでその手腕を発揮した。選手兼任時代を含め、監督として日本アイスホッケーリーグで7度の優勝にチームを導き、西武の黄金時代を確固たるものにした。
クラブチームでの成功に加えて、若林は日本アイスホッケー国家代表チームの指導にも携わった。1992年世界アイスホッケー選手権大会では、日本代表の監督を務め、国際舞台でのチームの強化に貢献した。
3.2. 後期の指導者活動
西武を退団した後も、若林は日本のホッケー界における指導者としての役割を続けた。
2001年には、当時古河電気工業アイスホッケー部が休部となり、その流れを汲んで発足したH.C.栃木日光アイスバックスの初代監督に就任した。これにより、彼はプロ化を目指す新たなチームの礎を築く重要な役割を担った。
2002年10月には、雪印乳業アイスホッケー部を母体とする札幌ホッケークラブ(当時の名称は札幌イーガー・ビーバーズ)の監督兼社長に就任。チームの運営と強化の両面で手腕を振るった。しかし、2004年に全日本アイスホッケー選手権大会でチームを率いた後、クラブ内部との意見の対立により同年中に辞任することとなった。この出来事は、プロスポーツにおける運営の難しさを示す一例ともなったが、若林のチームに対する献身的な姿勢を示すものでもあった。
4. 受賞歴と栄誉
若林修は、選手および指導者としてのキャリアを通じて、数々の賞と栄誉を獲得し、その功績は高く評価されている。
受賞 / 栄誉 | 期間 / 年 |
---|---|
ECACホッケー オールトーナメントセカンドチーム | 1967年、1968年、1969年 |
オールECACホッケーセカンドチーム | 1967年-1968年シーズン |
アメリカンホッケーコーチ協会(AHCA) イーストオールアメリカン | 1967年-1968年シーズン、1968年-1969年シーズン |
オールECACホッケーファーストチーム | 1968年-1969年シーズン |
ビーンポットトーナメント MVP | |
ボストン大学アスリートオブザイヤー | |
ボストン大学 殿堂入り | 1978年 |
日本アイスホッケーリーグ MVP | 3回 |
日本アイスホッケーリーグ ベスト6 | 7回 |
ECACホッケー新人王 | 1966年-1967年シーズン |
NCAAアイスホッケー得点王 | 1966年-1967年シーズン(ジェリー・ヨークと共同) |
5. 死去
若林修は2015年6月2日に死去した。70歳であった。彼の死去は、長年活動の拠点としていた北海道札幌市で確認された。
6. 功績と評価
若林修が日本のアイスホッケー界およびスポーツ界全体に与えた影響は計り知れない。彼は、単なる優れた選手や指導者にとどまらず、日本のホッケーが国際的な水準に到達するための道を切り開いた先駆者として評価されている。
選手としては、卓越した技術とリーダーシップで西武(後の国土計画)の「黄金時代」を築き、日本アイスホッケーリーグの競技水準の向上に大きく貢献した。彼の日本人離れしたプレーは、当時の日本の選手たちに大きな刺激を与え、技術向上への意欲を掻き立てた。また、日本国籍を取得し、3度の冬季オリンピックに日本アイスホッケー国家代表チームの一員として出場したことは、日本のホッケーが国際舞台で戦う上での象徴的な出来事であった。特に1980年レークプラシッドオリンピックで日本選手団の旗手を務めたことは、彼が日本スポーツ界全体から高い信頼を得ていた証である。
指導者としても、西武の監督として7度のリーグ優勝に導き、チーム強化の手腕を遺憾なく発揮した。また、日本アイスホッケー国家代表チームの監督も務め、国際競争力の向上に努めた。彼の指導は、若手選手の育成にも力を入れ、次世代のホッケー選手たちに大きな影響を与えた。H.C.栃木日光アイスバックスや札幌ホッケークラブでの活動は、日本のプロアイスホッケーの黎明期を支え、リーグの発展に尽力した彼の姿勢を示している。
若林の功績は、彼の多文化的な背景と深く結びついている。カナダ生まれの日系カナダ人でありながら、日本の国籍を取得し、そのスポーツ文化の発展に全身全霊を捧げた彼の生き様は、異文化間の架け橋となり、日本のスポーツ界における国際化の先駆者の一人として高く評価されるべきである。彼の遺産は、日本のホッケー界に深く刻まれ、後進の選手や指導者にとっての模範であり続けている。