1. 生涯
西澤廣義は、その幼少期から海軍入隊、そしてパイロットとしての訓練を通じて、類稀な才能と強い意志を育んでいった。
1.1. 幼少期と背景
西澤廣義は1920年1月27日、長野県上水内郡南小川村(現在の小川村)で、退役軍人であった父の西澤幹治と母ミヨシの五男(四男一女の三男)として生まれた。実家は農業と養蚕業を営む傍ら、酒造業も手掛けていた。1934年3月に南小川小学校高等科を卒業後、同年4月には父の勧めで岡谷市の製糸工場に就職し、社会人としての経験を積んだ。
1.2. 海軍パイロット訓練
1936年6月、西澤は予科練(予科練飛行予備練習生訓練課程日本語)の募集広告に目を留め、これに応募し合格した。同年6月1日、横須賀航空隊の乙種飛行予科練習生第7期生(204名)として拝命し、海軍四等航空兵に任官した。1938年8月15日には霞ヶ浦航空隊に配属され、1939年3月、飛行練習生陸上機班を71名中16位の成績で卒業した。戦闘機専修者20名の一人として、同年3月からは大分海軍航空隊で専門教育を受けた。大分航空隊での教員は、支那事変の撃墜王であった武藤金義一等空曹であり、西澤は九五式艦上戦闘機や九六式艦上戦闘機の操縦を学んだ。1940年12月には鈴鹿海軍航空隊(偵察専修者練習航空隊)に配属されたが、ここでは操縦教員として偵察練習生を乗せた九〇式機上作業練習機を飛ばす「車引き教員」としての任務に従事した。
1.3. 初期服務と配備
1941年10月1日、西澤は千歳海軍航空隊に配属され、日米開戦に備えた訓練を受けた。部隊はサイパン、ルオットと移動し、1942年2月にはトラック島からラバウルに進出した。同年2月3日夜、視界の悪い新月の中、九六式艦上戦闘機で双発飛行艇を迎撃し、初の撃墜を報告した。しかし、オーストラリア空軍の記録によると、このPBY カタリナ飛行艇は被弾しながらも基地に帰投しており、撃墜は確認されていない。同年2月10日、西澤の部隊は新編された第四航空隊に配属され、戦闘を重ねて単独撃墜7機、協同撃墜5機を報告した。
2. 第二次世界大戦中の活躍
第二次世界大戦中、西澤廣義は日本海軍のエースパイロットとして数々の激戦に参加し、その卓越した操縦技術と戦果で名を馳せた。
2.1. ニューギニア戦線

太平洋戦争勃発後、西澤の所属する千歳海軍航空隊の飛行隊(chutai英語、中隊)は、旧式の九六式艦上戦闘機から、新たに占領したニューブリテン島のブナカナウに移動した。同週中に最初の零式艦上戦闘機(A6M2、21型)が配備された。
1942年4月1日、西澤の飛行隊はニューギニアのラエに転属し、台南海軍航空隊に配属された。そこで彼は坂井三郎、太田敏夫と共に笹井醇一中尉が率いる中隊で飛行した。坂井は西澤を身長約173 cm、体重約63 kg、顔色は青白く痩せ型で、常にマラリアや熱帯性皮膚病に苦しんでいたと描写している。彼は柔道の達人でもあり、同僚からは「悪魔」のあだ名で呼ばれ、控えめで無口な一匹狼と見なされていた。空での彼の技量について、日本を代表するエースの一人である坂井は、「西澤が零戦でやるようなことをする男を、私は見たことがない。彼の曲技飛行は、息をのむほど素晴らしく、完全に予測不能で、不可能であり、見る者の心を揺さぶるものだった」と記している。
彼らはポートモレスビーから作戦を展開するアメリカ陸軍航空軍やオーストラリア空軍の戦闘機と頻繁に交戦した。西澤の最初の単独での確認された撃墜は、4月11日のアメリカ陸軍航空軍のP-39 エアラコブラであった。5月1日から3日の72時間でさらに6機を撃墜し、彼は確認されたエースパイロットとなった。
西澤は坂井三郎、太田敏夫と共に有名な「掃除屋トリオ」の一員であった。1942年5月16日の夜、西澤、坂井、太田はラウンジでオーストラリアのラジオ番組を聴いていた際、西澤がフランスの作曲家カミーユ・サン=サーンスの不気味な『死の舞踏』を聴き取った。この神秘的な骸骨の踊りについて考えた西澤は、突然奇妙なアイデアを思いついた。「明日のポートモレスビーでの任務だが、我々自身の『死の舞踏』、ちょっとしたショーを演じないか?敵の飛行場上空でデモンストレーションの宙返りをいくつかやれば、地上にいる奴らは気が狂うだろう。」
1942年5月17日、中島正中佐が台南航空隊を率いてポートモレスビーへの任務に出撃し、坂井と西澤がその僚機を務めた。日本軍の編隊が帰投のために再編する際、坂井は中島に敵機を追うことを伝え、編隊から離脱した。数分後、坂井はポートモレスビー上空に再び現れ、西澤と太田との待ち合わせを果たした。この3人は、密集編隊で3回のタイトな宙返りを行う曲技飛行を披露した。その後、意気揚々とした西澤は、この演技を繰り返したいと合図した。1829 m (6000 ft)まで降下し、3機の零戦はさらに3回の宙返りを繰り返したが、地上からの対空砲火は一切なかった。彼らはその後ラエへ帰投し、航空隊の残りの機体より20分遅れて到着した。
午後9時頃、笹井醇一中尉は彼らをすぐに自室に呼び出した。彼らが到着すると、笹井は一通の手紙を掲げた。「この手紙をどこで手に入れたか知っているか?」と彼は叫んだ。「知らない?教えてやろう、愚か者たちめ。数分前、敵の侵入機によってこの基地に投下されたのだ!」英語で書かれた手紙にはこうあった。
ラエ司令官殿:「本日我々の飛行場を訪れた3人のパイロットには大変感銘を受けました。彼らが我々の飛行場上空で披露した宙返りも皆が気に入りました。あれは素晴らしい展示でした。もし可能であれば、同じパイロットたちがそれぞれ緑色のマフラーを首に巻いて、もう一度ここを訪れていただければ幸いです。前回の訪問では十分な歓迎ができなかったことを申し訳なく思いますが、次回は我々が全力で歓迎することをお約束いたします。」
西澤、坂井、太田は直立不動の姿勢で、笑いをこらえようとした。笹井中尉は彼らの「馬鹿げた行動」について叱責し、敵飛行場上空でのこれ以上の曲技飛行を禁止した。台南航空隊の3人のエースは、密かにこの空中でのパフォーマンスはそれだけの価値があったと同意した。
しかし、戦後の坂井三郎の著作で紹介されたこの「ポートモレスビー上空での編隊宙返り」の逸話については、戦闘行動調書などの公式記録と照合すると、坂井が主張する日付(5月27日や6月25日)には合致しない点や、太田が出撃していない日があるなど、事実関係に多くの矛盾が指摘されている。日本軍および連合軍の記録にも、この別行動を裏付けるものは見当たらない。
2.2. ガダルカナル戦線
1942年8月初旬、台南航空隊はラバウルに移動し、直ちにガダルカナル島の米軍に対する作戦を開始した。8月7日の最初の衝突で、西澤はF4F ワイルドキャット6機を撃墜したと報告したが、歴史家によって確認されたのは2機である。
1942年8月8日、西澤の最も親しい友人であった坂井三郎が、米海軍の空母艦載爆撃機との戦闘で重傷を負った。西澤は坂井が行方不明になったことに気づき、激怒した。彼は坂井の痕跡と戦うべきアメリカ軍機を探して周辺を捜索した。最終的に彼は冷静になり、ラバウルのラクナイ基地に戻った。その後、誰もが驚いたことに、重傷を負った坂井が到着した。頭部に銃弾を受け、血まみれで片目を失明しながらも、彼は損傷した零戦で560 nmiを4時間47分かけて飛行し、基地に帰還したのである。西澤、笹井中尉、太田敏夫は、頑固だが意識が朦朧とした坂井を病院へ運び込んだ。西澤は、焦りながらも心配し、待機していた運転手を物理的にどかし、自ら坂井をできるだけ早く、しかし優しく外科医の元へ運んだ。坂井は8月12日に日本へ後送された。
ガダルカナル上空での長期にわたる戦闘は、アメリカ軍機の性能向上と戦術の改善により、西澤の航空隊(11月に第251航空隊と改称)にとって大きな犠牲を伴った。笹井醇一中尉(27機撃墜)は1942年8月26日にマリオン・E・カール大尉によって撃墜され戦死し、太田敏夫(34機撃墜)も1942年10月21日に戦死した。
2.3. 「ラバウルの悪魔」と操縦技術
西澤はその卓越した操縦技術と、戦闘中の息をのむような、華麗で予測不能な曲技飛行、そして機体の見事な制御能力から、同僚たちからは「悪魔」と称された。戦後の戦記では「ラバウルの魔王」とも評された。
彼の操縦技術について、坂井三郎は「西澤が零戦でやるようなことをする男を、私は見たことがない。彼の曲技飛行は、息をのむほど素晴らしく、完全に予測不能で、不可能であり、見る者の心を揺さぶるものだった」と証言している。
一方で、予科練時代には、やや痩せ型で常に青白い顔をしていたことから、同期生からは「青びょうたん」というあだ名が付けられていた。
2.4. 主要部隊での活動
西澤は、その軍歴において複数の主要な航空隊に所属し、それぞれの部隊で重要な役割を果たした。
- 千歳海軍航空隊**:1941年10月1日に配属され、日米開戦に備えた訓練に従事。
- 第四海軍航空隊**:1942年2月10日に配属。初の撃墜報告を記録し、戦闘経験を積んだ。
- 台南海軍航空隊**:1942年4月1日に配属。坂井三郎、太田敏夫と共に「掃除屋トリオ」として知られ、ニューギニア戦線やガダルカナル戦線で活躍した。
- 第251海軍航空隊**:1942年11月1日に台南航空隊が改称された部隊。ガダルカナル戦線での激しい消耗の後、再建のために日本本土へ帰還。
- 第253海軍航空隊**:1943年9月1日に転属。
- 第203海軍航空隊**:1944年3月1日に配属され、千島列島方面の防衛任務にあたった。
これらの部隊で、彼は坂井三郎や太田敏夫といったエースパイロットたちと深く関わり、また笹井醇一中尉の指揮下で数々の戦闘を経験した。
2.5. 教官任務と転属


1942年11月中旬、第251航空隊は大きな損耗のため、日本本土の豊橋航空基地に呼び戻され、残存する10数名の搭乗者は西澤を含め全員が教官となった。この時までに、西澤は約40機(一部の情報源では54機)の単独または共同撃墜を達成していたと考えられている。
日本滞在中、西澤は横須賀の病院で療養中の坂井三郎を見舞った。西澤は坂井に新しい教官任務への不満を漏らした。「三郎、俺がガタガタの複葉機に乗って、馬鹿な若造に旋回や転回、そしてズボンを濡らさない方法を教えて回っている姿を想像できるか?」西澤はまた、多くの戦友を失った原因を、連合軍のますます増大する物量優位と、改良されたアメリカ軍機および戦術にあると語った。「お前が覚えてるような状況じゃないんだ、三郎。俺にはどうすることもできなかった。敵機が多すぎたんだ、ただ多すぎたんだ。」それでも西澤は戦闘に戻ることを待ち望んでいた。「もう一度戦闘機を自分の手で操りたい。どうしても実戦に戻らなければ。日本にいるのは俺を殺すようなものだ。」
西澤は日本での数ヶ月間の不活動に公然と不満を表明した。1943年5月、彼は第251航空隊と共にラバウルに再進出した。同年6月、西澤の功績は第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将からの贈り物によって称えられた。西澤は「武功抜群」と刻まれた白鞘の軍刀を授与された。同年9月にはニューブリテン島の第253航空隊に転属した。11月には准士官に昇進し、大分航空隊で再び日本での訓練任務に再配置された。
1944年2月、彼は第203航空隊に加わり、激戦地から離れた千島列島方面で活動した。同年7月10日には戦闘第303飛行隊に所属し、北千島方面の防衛にあたった。ベテランが次々と戦死していく状況を憂慮し、経験の浅い者の指揮を心配し、軍紀のあり方についての論文を提出している。
1944年9月下旬、千葉県茂原基地の角田和男飛曹長の部屋に、南東方面の激戦を経験した西澤、岩本徹三、長田延義、尾関行治、斎藤三朗といったエースパイロットたちが集まる機会があった。この際、西澤は自身の撃墜数を120機以上と語ったという。
2.6. フィリピン戦線と最後の任務


1944年10月、第203航空隊は捷号作戦参加のためルソン島へ転進。西澤と他の4名はセブ島の小規模な飛行場に分遣された。
1944年10月25日、西澤は関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め、レイテ沖海戦におけるクリフトン・スプレイグ少将率いる「タフィー3」任務部隊(レイテ湾上陸作戦を援護)を標的とした、戦争初の主要な神風特別攻撃の護衛任務を、自身のA6M5零戦を含む4機の零戦(西澤、菅波三郎、本田慎吾、馬場良治が搭乗)を率いて遂行し、戦果を確認した。この護衛飛行中、西澤は少なくとも86機目と87機目の撃墜(いずれもF6F ヘルキャット)を記録し、これが彼のキャリアにおける最後の空中戦果となった。
西澤はこの飛行中に自身の死を予感する予知夢を見たという。基地に戻った後、彼は中島正司令に作戦の成功を報告した。その後、彼は翌日の特攻隊任務への参加を志願したが、その要請は却下された。
代わりに、西澤のA6M5零戦は250 kg爆弾を搭載し、海軍航空兵一等兵曹の勝俣富作によって操縦された。経験の浅いパイロットであった勝俣は、スリガオ海峡沖の護衛空母スワニーに突入した。勝俣はスワニーの飛行甲板に激突し、ちょうど着艦したばかりの雷撃機に激突した。この2機は接触と同時に爆発し、飛行甲板にいた他の9機も炎上した。艦は沈没しなかったものの、数時間にわたって炎上し、乗員85名が死亡、58名が行方不明、102名が負傷した。


2.7. 死没の経緯

翌日、自身の零戦が特攻任務で失われたため、西澤は第201航空隊の他のパイロットたちと共に、午前中に一〇〇式輸送機「呑龍」(「ヘレン」)に搭乗し、ルソン島から補充の零戦をセブ島の飛行場へ空輸するため、パンパンガのマバラカット基地へ向かった。
ミンドロ島のカラパン上空に達したところで、輸送機は空母ワスプ所属のVF-14飛行隊の2機のF6Fヘルキャットの攻撃を受け、炎上しながら撃墜された。西澤は乗客として死亡した。この撃墜は、おそらくハロルド・P・ニュウェル中尉によるもので、彼はその朝ミンドロ島北東で「ヘレン」を撃墜したと報告している。
ただし、ニュウェル中尉は撃墜した機体を百式重爆撃機(陸軍機)だったとしているが、第1021航空隊の河野光揚によれば、一式陸上攻撃機だったのではないかという説もある。また、零式輸送機だったとする説も存在する。
2.8. 死後叙勲と顕彰
西澤の死を知った連合艦隊司令長官豊田副武大将は、全軍布告で西澤を称え、死後海軍中尉に二階級特進させた。また、西澤には「武の海において、全ての傑出したパイロットを映し出す、尊敬される仏教徒」と訳される禅宗の言葉、「武海院功範義廣居士」(Bukai-in Kohan Giko Kyoshi英語)という戒名が贈られた。太平洋戦争末期の混乱のため、この布告の公表は遅れ、葬儀は1947年12月2日まで行われなかった。西澤の遺体は回収されていない。
終戦時の1945年8月15日、連合艦隊告示第172号において、「戦闘機隊の中堅幹部として終始勇戦敢闘し敵機に対する協同戦果429機撃墜49機撃破内単独36機撃墜2機撃破の稀に見る赫々たる武勲を奉し」と全軍布告された。
戦後、西澤は太平洋戦争における日米両軍を通じたトップエースの一人として知られ、アメリカ合衆国国防総省とスミソニアン博物館には、杉田庄一と並んで彼の肖像が飾られている。
3. 戦果記録と評価
西澤廣義の空中撃墜数については、彼自身の申告、公式記録、戦後の分析によって様々な数字が提示されており、その正確な戦果を特定することは困難である。
- 西澤自身の申告**:
- ラバウル離任時、岡本晴年に「86機撃墜」と語ったとされる。
- 1944年春の家族宛ての私信では、自身の撃墜数を147機としていた。
- 1944年9月下旬、戦友たちに撃墜数を120機以上と語ったとされる。
- 最後の司令官には86機または87機の空中戦果を達成したと報告したとされる。
- 当時の報道・記録**:
- 戦死時の新聞報道では「150機以上」と報じられた。
- 1942年10月21日には、西澤の撃墜30機が全軍布告された。
- 1945年8月15日の終戦時、連合艦隊告示第172号では、「戦闘機隊の中堅幹部として終始勇戦敢闘し敵機に対する協同戦果429機撃墜49機撃破内単独36機撃墜2機撃破の稀に見る赫々たる武勲を奉し」と全軍布告された。
- 戦後の分析**:
- マーティン・ケイディンの著書では102機を撃墜したことになっている。
- 戦後、147機または103機という数字が彼と関連付けられたが、これらの数字はどちらも不正確であると見なされている。
- 韓国の資料では、最終記録は「120機前後」であり、これは日本海軍が認めた公式記録であるとされている。
これらの記録の差異は、当時の戦果確認の困難さや、共同撃墜と単独撃墜の区別、あるいはプロパガンダ的な要素など、様々な要因に起因すると考えられる。しかし、いずれの数字を見ても、西澤が極めて高い戦闘能力を持つエースパイロットであったことは疑いない。
4. 人となりと特徴
西澤廣義は、その卓越した操縦技術とは対照的に、控えめで内向的な性格であったと伝えられている。
坂井三郎は、西澤を身長約173 cm、体重約63 kg、顔色は青白く痩せ型で、常にマラリアや熱帯性皮膚病に苦しんでいたと描写している。また、同期生の伊沢泰助によれば、身長は5尺9寸ほど(約178.8 cm)あったという説もあり、美男子であったと評されている。やや痩せ型で常に青白い顔をしていたので予科練時代は"青びょうたん"のあだ名が付けられた。
彼は柔道の達人でもあり、同僚からは「悪魔」のあだ名で呼ばれ、控えめで無口な一匹狼と見なされていた。教官任務に就いた際には、教え子には厳しかったものの、自身の武功を自慢することはなかったという。
5. 歴史的評価と批判
西澤廣義は、第二次世界大戦における日本海軍の傑出したエースパイロットとして、その卓越した操縦技術と数々の戦果によって歴史に名を刻んでいる。彼の功績は、特に消耗戦となった太平洋戦争後期において、日本軍の士気を支える象徴的な存在として評価されることがある。
しかし、彼の功績は、大日本帝国が遂行した戦争という文脈の中で評価される必要がある。西澤のような熟練パイロットの活躍は、戦局が不利になる中でますます貴重な存在となったが、それは同時に、日本軍が直面していた物資や人材の圧倒的な劣勢を浮き彫りにするものでもあった。彼の最後の任務が神風特別攻撃隊の護衛であったことは、戦争末期の日本軍が取らざるを得なかった絶望的な戦術を象徴している。
戦後、西澤はアメリカの国防総省やスミソニアン博物館に肖像が飾られるなど、敵国であったアメリカにおいてもその戦闘能力が認められている。これは、彼の個人的な技量が国境を越えて評価されている証左と言える。しかし、彼の英雄的側面を強調する際には、彼が所属した軍隊の行動や、戦争がもたらした多大な犠牲と破壊という歴史的背景を忘れてはならない。彼の生涯と戦果は、戦争の悲劇性と、その中で個人の能力がいかに発揮され、そして消費されていったかを物語る一例として、多角的に検討されるべきである。