1. 概要
趙丹(チャオ・タン、赵丹Zhào Dān中国語)は、1915年6月27日に中国の江蘇省南通市で生まれ、1980年10月10日に北京市で膵臓癌により死去した、中国の著名な映画俳優である。本名は趙鳳翺(赵凤翺Zhào Fèng'áo中国語)。1930年代に明星影片公司で俳優としてのキャリアを開始し、特に袁牧之監督の『馬路天使』(1937年)や沈西苓監督の『十字街頭』(1937年)での演技で広く名声を得た。彼は芸術的な魅力を持つ人物像を演じることに長け、豊かな感情と人物の心理を表現する演技で知られている。
第二次日中戦争中には抗日救国演劇活動に積極的に参加し、1939年には新疆省で軍閥の盛世才によって逮捕され、5年間投獄されるという苦難を経験した。中華人民共和国建国後も中国本土に留まり、映画活動を継続。1957年には中国共産党に加入した。しかし、文化大革命期には不当な迫害を受け、再び5年間投獄されるという悲劇に見舞われた。彼の出演作には『武訓伝』、『李時珍』、『林則徐』、『聶耳』など、中国映画史に名を残す多くの作品があり、中国映画の発展に多大な貢献をした。
2. 生い立ちと背景
趙丹の幼少期は演劇と映画に囲まれた環境で育ち、早くから芸術への関心と才能を示した。
2.1. 出生と少年時代
趙丹は1915年6月27日、中国の江蘇省南通市で生まれた。彼の原籍は山東省肥城市にあり、揚州市で生まれた後、南通市に住んだ。幼い頃から、父親が経営する影劇院(映画館兼劇場)で映画や演劇に触れる機会が多く、この経験が彼の芸術への深い興味を育んだ。少年時代には演劇に強くのめり込み、同級生たちと共に「小小劇社」という団体を組織し、自ら演劇活動を行っていた。
2.2. 学生時代と初期の芸術活動
少年時代には、田漢の提唱した「南国社」や「モダン社」といった新劇運動の影響を強く受けた。1931年には上海美術専門学校に入学。在学中、彼は「拓声劇団」や「美専劇団」などの演劇団体に参加し、その才能をさらに磨いていった。同時に、当時の左翼戯劇家聯盟にも参加し、工場や学校を訪れて、日中戦争期の抗日救国をテーマとした演劇活動を積極的に行った。この時期に彼が演じた作品には『乱鐘』、『決心』、『S.O.S.』、『月亮上昇』などがある。これらの活動を通じて、趙丹は自身の芸術的基盤を築き、社会的なメッセージを発信する俳優としての道を歩み始めた。
3. 初期キャリアと抗日活動(1930年代-1940年代)
趙丹は1930年代に映画界で頭角を現し、当時の社会的動乱の中で抗日運動に深く関わっていった。
3.1. 映画界でのデビューと初期の評価
1932年、趙丹は明星影片公司に入社し、映画俳優としてのキャリアをスタートさせた。1933年の『琵琶春怨』で映画デビューを果たして以来、『時代的児女』、『到西北去』、『上海二十四小時』、『郷愁』、『女児経』、『熱血忠魂』、『清明時節』、『小玲子』、『十字街頭』、『中華児女』(1939年)など、30本近い映画に出演した。特に、沈西苓監督の『十字街頭』(1937年)で演じた失業大学生役や、袁牧之監督の『馬路天使』(1937年)での吹鼓手(管楽器奏者)役は、その見事な演技で彼の名声を確立した。これら二つの作品は、1930年代の中国映画を代表する傑作として現在も高く評価されている。『馬路天使』は87分尺の作品で、フランク・ボーゼイギ監督の『第七天国』(1927年)の影響が垣間見え、賈樟柯からは「演出と編集の極み」と評された。
3.2. 左翼活動と投獄
映画俳優としての活動と並行して、趙丹は積極的に左翼活動に身を投じた。この頃、彼は新地劇社や上海業余劇人協会に参加し、労働者や学生に向けて抗日救国を訴える演劇を多数演じた。また、『娜拉(ノラ)』、『大雷雨』、『羅密欧与朱麗葉(ロミオとジュリエット)』といった著名な作品にも出演した。
1937年の盧溝橋事件が発生すると、趙丹は直ちに抗日戦争の名作『保衛盧溝橋』の公演に参加し、その後「抗日救国演劇三隊」に身を投じた。抗日戦争初期の武漢では、当時国民政府軍事委員会政治部副主任であった周恩来が抗日救国演劇隊10隊全てのメンバーを動員しており、趙丹は周恩来と知り合い、初対面で意気投合した。趙丹は周恩来が手配した任務を受け入れ、慈善献金活動の公演に全力を注いだ。この出会いを通じて、周恩来はしばしば「私と丹君は友人だ!」と人々に語り、趙丹もまた「一生尊敬する人は誰でもない、周恩来です!」と語るほど、二人の間には強い信頼関係が築かれた。
1939年6月、趙丹は戯劇運動を推進する中で、新疆省において軍閥の盛世才による迫害に遭い、徐韜、王為一らとともに逮捕された。彼はこの地で5年間投獄されるという過酷な経験を強いられた。投獄中、趙丹は殺害されたという誤報が流れ、これを聞いた当時の妻である葉露茜(ローズ・イエ)は劇作家の杜宣と再婚してしまうという悲劇も経験した。抗日救国演劇隊は、周恩来や陽翰笙の指導の下、転々として重慶に辿り着き、趙丹も重慶で『全民総動員』、『上海屋檐下』、『阿Q正伝』などの新劇を公演し、周恩来は常に趙丹の公演を鑑賞しに来た。
3.3. 戦後の活動再開
1945年に投獄から解放された趙丹は、上海市に戻り、映画界に復帰した。彼は崑崙影業公司に入り、『遥遠的愛』、『幸福狂想曲』、『関不住的春光』、『麗人行』などの作品に出演した。崑崙影業公司は民営の映画会社であったが、1946年5月に中国共産党の地下組織の指導のもとに結成され、1930年代および抗日戦争期に中国共産党の指導のもとで制作された革命的映画の伝統を継承し、発展させる役割を担っていた。
また、1948年には女優の黄宗英と再婚した。日中戦争後、趙丹は中国国民党に対する批判的なドラマコメディ作品である『烏鴉与麻雀』(1949年)などで、鄭君里監督との間に創造的な関係を築いた。
4. 中華人民共和国建国後の活動(1949年-1960年代)
中華人民共和国建国後も、趙丹は中国映画界の中心人物として活動を続け、政治的な面でも重要な歩みを進めた。
4.1. 継続的な映画活動と中国共産党への加入
趙丹は1949年の中国共産党による勝利後も中国本土に留まり、映画活動を継続した。彼は1950年代から1960年代にかけて数多くの主要な作品に出演し、特に歴史上の人物を演じる伝記映画でその真価を発揮した。彼の代表的な出演作には、孫瑜監督の『武訓伝』(1950年)や、沈浮監督の『李時珍』(1956年)、鄭君里監督の『林則徐』(1959年)、そして同じく鄭君里監督の『聶耳』(1959年)などがある。これらの作品は、中国映画史における重要な位置を占めている。
1957年には中国共産党に正式に加入した。同年、中国文化部から1949年から1955年度の優秀影片評賞で最優秀賞を授与されるなど、彼の芸術的貢献は高く評価された。この時期のその他の作品には、『青山恋』(1964年)、『在烈火中永生』(1965年)などがある。
4.2. 主要作品と芸術的特徴
趙丹は数多くの映画で主演を務めるだけでなく、自身も監督として作品を手がけた。彼の出演作品は多岐にわたり、社会的なメッセージ性の強い作品から、歴史上の偉人を描いた作品まで、幅広いジャンルでその卓越した演技力を発揮した。
- 俳優としての主要作品:**
年 | 英語タイトル | 中国語タイトル | 監督 | 役柄 |
---|---|---|---|---|
1933 | Twenty-Four Hours in Shanghai | 上海二十四小时中国語 | Shen Xiling | |
1937 | Street Angel | 马路天使中国語 | 袁牧之 | Xiao Chen |
1937 | Crossroads | 十字街头中国語 | Shen Xiling | Zhao |
1947 | Far Away Love | 遙遠的愛中国語 | Chen Liting | Xiao Yuanxi |
1947 | Rhapsody of Happiness | 幸福狂想曲中国語 | Chen Liting | |
1949 | Crows and Sparrows | 烏鴉与麻雀中国語 | Zheng Junli | Little Broadcast |
1949 | Women Side by Side | 丽人行中国語 | Chen Liting | Zhang Yuliang |
1950 | The Life of Wu Xun | 武训传中国語 | Sun Yu | Wu Xun |
1951 | The Married Couple | 我们夫妇之间中国語 | Zheng Junli | |
1956 | Li Shizhen | 李时珍中国語 | Shen Fu | Li Shizhen |
1958 | Lin Zexu | 林则徐中国語 | Zheng Junli | Lin Zexu |
1959 | Nie Er | 聂耳中国語 | Zheng Junli | Nie Er |
- 監督作品:**
年 | 英語タイトル | 中国語タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
1947 | The Dress Returns to Glory | 衣锦栄帰中国語 | |
1953 | Bless the Children | 为孩子们祝福中国語 | |
1964 | An Evergreen Tree | 青山恋中国語 | Precious Green Mountainsとしても知られる |
趙丹は、芸術の魅力を持つ人物の形象を演じることに優れ、特に李時珍、林則徐、聶耳、そして『在烈火中永生』の主人公である許雲峰といった歴史上・文学上の人物を、豊かな感情と深い心理描写をもって演じきり、国内外の観衆から絶賛された。彼の演技は、単なる役柄の再現に留まらず、登場人物の内面的な葛藤や成長を繊細に描き出すことで、観る者に強い印象を与えた。
5. 文化大革命と迫害
文化大革命(1966年-1976年)の際、趙丹は深刻な政治的迫害を受け、再び投獄されるという悲劇に見舞われた。
彼は江青の俳優時代を知る数少ない人物の一人であったため、その事実が理由とされ、不当に逮捕・投獄された。この投獄は5年間に及び、彼はその期間中、肉体的にも精神的にも大きな苦痛を強いられた。文化大革命の混乱と極端な政治的圧力の中、多くの芸術家や知識人が批判や迫害の対象となったが、趙丹もその一人であった。
日本を代表する女優である高峰秀子は、趙丹の身を案じ、ことあるごとに知己を通じて「趙丹は元気にしているか」と継続的に呼びかけ続けたという。この外部からの働きかけが、趙丹が最悪の事態(処刑など)に至ることを阻む一因となったと考えられている。このエピソードは、政治的迫害に直面した芸術家への国際的な連帯を示すものとして知られている。
6. 私生活
趙丹の私生活は、彼の俳優としてのキャリアと同様に波乱に富んでいた。彼は生涯で二度の結婚を経験している。
最初の結婚は1936年で、相手は葉露茜(ローズ・イエ)であった。しかし、1939年に趙丹が新疆省で軍閥の盛世才によって逮捕され投獄された際、彼が殺害されたという誤った情報が広まった。この誤報を信じた葉露茜は、後に劇作家の杜宣と再婚してしまうという悲劇的な出来事があった。
第二次日中戦争終結後、趙丹が投獄から解放され上海に戻った後、彼は1948年に女優の黄宗英と再婚した。黄宗英はその後も彼の妻として、公私にわたる彼の活動を支え続けた。彼には2人の子供がいた。
7. 死去
趙丹は1980年10月10日、中華人民共和国の首都北京市で膵臓癌のため死去した。享年65歳であった。彼の死は、中国映画界にとって大きな損失となった。
8. 遺産と評価
趙丹の生涯と作品は、中国映画史において重要な遺産として高く評価されており、その芸術的貢献は多方面から肯定的に語られている一方で、特定の政治的事件を巡る批判や、文化大革命期における不当な迫害に対する歴史的再評価も行われている。
8.1. 芸術的貢献と肯定的評価
趙丹は、中国映画の発展に多大な貢献をした俳優として、その卓越した演技力と多様な人物像を演じ分ける才能が高く評価されている。彼は、単なる役柄の再現に留まらず、登場人物の内面的な感情や心理を深く掘り下げて表現することで、観客に強い感動を与えた。
彼の代表作として挙げられるのは、医薬学者を演じた『李時珍』、清末の政治家を演じた『林則徐』、作曲家を演じた『聶耳』など、実在の歴史的人物を描いた伝記映画での演技である。これらの作品において、彼はそれぞれの人物の精神性や時代背景を深く理解し、観客が共感できる人間味あふれるキャラクターを創造した。特に、『在烈火中永生』で演じた許雲峰の芸術的な人物像は、国内外の観衆から絶賛された。彼の演技は、登場人物に生命を吹き込み、その作品を不朽のものとする上で不可欠な要素であったと広く認識されている。
8.2. 批判と歴史的再評価
趙丹のキャリアの中で、最も大きな論争を巻き起こした作品の一つが1950年に公開された『武訓伝』である。この映画は、貧しい身から教育のために尽力した実在の人物、武訓の生涯を描いたものであったが、毛沢東が主導する厳しい批判運動の対象となった。毛沢東は、武訓の「乞食をしながら学校を建てる」行為を、封建社会を改良しようとするものであり、革命的ではないと断じた。この批判は社会全体に大きな議論を巻き起こし、結果的に『武訓伝』は中華人民共和国において最初の上演禁止映画となるという異例の事態に至った。この論争は、当時の中国における芸術と政治の関係性を象徴する出来事として記憶されている。
しかし、文化大革命終結後、胡喬木らを中心として『武訓伝』の評価の見直しが進められ、1985年9月6日の『人民日報』紙上で再評価がなされた。これは、過去の政治的判断が誤っていたことを認める画期的な出来事であった。
また、趙丹自身が文化大革命期に江青による不当な迫害を受け、5年間も投獄されたという事実は、彼の人生における最も悲劇的な側面として記憶されている。この期間の苦難は、当時の政治的混迷と、芸術家に対する不当な圧力を示すものであり、後世において彼の名誉回復と再評価が行われる重要な根拠となっている。趙丹の生涯は、中国の近現代史における政治と芸術の複雑な関係、そして不屈の精神を持って困難に立ち向かった一人の芸術家の姿を象徴している。